日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

2015年の終りを迎えるにあたって

2015年12月30日 | 日記

2015年の終りを迎えるにあたっ

 

A.2015年の終りを迎えるにあたって 

 

1.今年は、さまざまな課題を得ることができたという意味で、収穫の多い年でし

た。

先ず、農薬訴訟の第一審判決は、私を茫然とさせました。私も近代思想の申し子で

す。近代啓蒙思想の潮流と、イギリス「権利の章典」(1689年)、アメリ「独立宣

言」(1776年)、フランス「人権宣言」(1789年)の3宣言は、新しい世界を切り開

き、この延長に現代社会がある。日本では、このように大概の人が学校で教えられ、

大概の人がそのように思っています。日本でそれが結実したものは、日本国憲法前文

と言って良いでしょう。美しい条文だと思います。こうした近・現代人権主義を引き

継いでいる日本の裁判所では「正義が行われる」と、私は思っていました。しかし、

違っていました。例えて言えば、彼らのペーパーワールドは、よく異国において、彼

らが自国の立場を主張するとき彼らの都合の良い論理を強弁しますが、そのような悪

い意味での現代ソフィスト的な論理と強弁の世界でした。但し、これは私の見方で

す。しかし、これは本当にショックでした。私は、一時(いっとき)、現在、成立し

ている日本国への信認さえ失いかけました。私の発言は、古代から続いて来た日本人

の歴史と、その歴史を持つ人々が現代を構成する社会に対する信頼という黙契があっ

て為(な)されているものです。それが揺らいだのです。福沢諭吉(敬称を略しま

す)の「立国は私なり、公に非(あら)ざるなり」(痩我慢の説)という言葉も、し

きりに考えました。何せ、裁判所は日本の三権の一つです。しかし持ち直しました。

誤りは正せばよいのです。

同時にまた、裁判所と言うより、裁判官の世界は、本当に閉じた世界であることも実

感しました。判決を巡(めぐ)り、彼らと論争(対話)しようとしても、判決は、一

方通行の世界です、できないのです。しかし、私は幸運だったと言えます。このような世界が

まだ日本にあることを、皆さんにお伝えすることができます。そして、この裁判官の

世界を開かなければなりません。

 

2.日本国憲法を開いてみました。司法権は最高裁判所と下級裁判所に属し、その独

立と身分は手厚く保障されています。国民のチェック機能が入るのは、最高裁判所長

官と判事の場合、10年に1度の国民審査があります。下級裁判所(高等裁判所以下

の裁判所)の裁判官には、衆参両議院の国会議員を訴追委員、裁判員とする弾劾裁判

があります。ありますと言っても、日本の裁判官の場合、特に高裁以下の場合、国民

がチェック機能を働かせる機会は、無きに等しいと言って良いと思います。この世界

をもっと我々国民の目に入るよう開いて行く必要があります。また、誤審がなかった

か内部チェックの制度も必要でしょう。現在、民間人が裁判に加わり判決まで審理す

る裁判員制度の運用が進んでいます。裁判に加わった民間の人との裁判の在り方に対

する対話を通して、自身の裁判の在り方に対する研鑽と自問を、裁判官は常に行って

いるという姿勢を、国民にもっと伝えられるようにしなければならないでしょう。第

次大戦後の食糧難の頃、法を守るあまりに餓死された裁判官の話しとか、ソクラテ

スは「法は法だ(悪法も法だ)」と言って毒杯を従容と呷(あお)ったというよう

な、神話の上にあぐらをかいてはいけません。人の死生観まで踏み込めませんが、悪

法は拒絶し、善き法へと変えなければならないのです。現代日本の場合、制度とし

て、弁護士、判事、検事を5年から8年毎の輪番で交代するとか、5年から8年間、

裁判官に任官したら、3年から5年間大学とか大学院、法科大学院で教鞭を取り、開

かれた世界で更に世界を牽引しようとする若い人たちに自らの法思想を語ることで、

再び、生きた新しい現実の法思想を獲得して裁判官に再任官する新しい開かれた裁判

官制度を作る必要があります。そうすれば古い法思想を批判して、新しい法思想と領

域を作る人物も出てくることでしょう。日本の場合、三権分立と言っても裁判所はあ

まりにも閉じた世界であるように思います。また、最高裁判事の国民審査も、10年

に1度から、衆・参議院議員の任期と同じ、4年から6年に1度に短縮する必要があ

るでしょう。10年ひと昔と言いますが、今は社会の移り変わりは早く、10年

と言えばふた昔に相当します。

 

B 汝の敵を愛せ

 

1.この言葉はイエスの教えの核心部分を構成する教義です。この言葉は、昨年のN

HKの大河ドラマ「八重の桜」が、八重さんに「ワタッスは、敵なんぞ愛せネ!」

(台詞は少し違っているかも知れません)と言わせていました。私も、この言葉につ

いてよく考えます。そして、八重さんに同感です。私は戦うことを選択して来まし

た。

 

2.宗教の核心とは何でしょう? 私は、他者を生かすことだと考えています。イエ

スは自分の死で他者に生を与えられた。念仏も同じだと思います。翻って世を見渡せ

ば、皆、他者を生かすことを自分の行動の原点において身過ぎ世過ぎを行っていま

す。スポーツ選手然り。歌手然り。経営者然り。遍(あまね)く、人々然り。スポー

ツ選手は、自己の鍛練によって、その鍛練された技を観る人々に、ひたむきさとか、

精進する姿とかの「気」を与え、自分も頑張うと思わせます。歌手も一緒です。

人々の心を和ませ、人々に希望や生きる意欲を与えます。経営者は、文字通り経営す

る事業に携わる人々を生かしていす。経営者の事業に携わる人々は、自分の生み出

す製品やサービスが他者を生かします。こうして見ると不思議なもので、私達は決し

て宗教者ではないのすが、古の宗教者が願ったことを体現して生きているように思

えます。では、この社会を壊そうとする者どもが現われたらどうしましょう? 私達

は強い志を持って戦います。

 

C.皆さん、善いお年をお迎えください

 

1.2015年の年の瀬となりました。

皆様が迎えられる年に、御活躍され、幸多き年とされますよう、心よりお祈り申し上

げております。

 

2.愚者が、「汝の敵を愛せ」と問うても、方便は語れますが、それ以上の領域には

達し難い境界があるのを覚えます。また、機会があれば、取り上げたいと思います。

 

 

                 

                   初冬の夕日に輝く家並み

 

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