日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

カントの思考

2011年06月26日 | 日記

カントに『実践理性批判』という本があります。

この本に、カントがヒュームの批判に対して弁明した箇所があります。

弁明は彼の思考方法と心情を吐露して余りあります。



とともに、ここに何らかの一個の言明があるとき、その言明に向けられたヒュームの批判は、

過去、日本の社会で行われてきた様々な言明に対して、検証と再考を促しているように思えます。

換言すれば、3月11日に起こった東日本大震災によって、私達は故郷の町々を失い、

福島第一原子力発電所では、1号機から3号機の原子炉のメルトダウンが発生し、3号機建屋においては核爆発にまで至ったという事態は、

日本人がこれから祖国を復興にするにあたって、従来の思考方法の検証と再考を行い、今後の日本人の考え方の多様化と、

それを評価する方法が議論され、システム化されることを、促しているように思えます。

但し、こう言ったからとて、私は、日本人がエンドレスの懐疑を繰り返すことを望んでいるわけではありません。



ヒュームの批判とカントの弁明を要約します。



ヒューム: 或るものAと他の或るものBの結合は、知覚、論理的正しさ、経験によって与えられる。

       この認識プロセスを経ないAとBの結合が、例えばAはBであるという言明において、

       原因或いは主語Aと、言明の内容或いは述語Bを、媒介するものがないにもかかわらず、

       A・Bの必然的結合や、Aのア・プリオリ(先験的)な認識が語られるとき、

       このAの概念そのものは、偽りであり、ごまかしであり、錯覚である。



カント  : ヒュームが経験の対象を物自体とみなしたのであれば、彼は正しい。

       しかし、私は原因の概念Aの可能性を、経験的源泉にたよることなく、純粋悟性にもとづいて証明した。(神の存在証明)

       なるほどこの概念は、理論的認識を持つために或る一定の対象(ノウーメノン=悟性的存在者)を表象するという規定をもつことはできない。

       しかし、なんらか他の(恐らく実践的な)目的のためには適用されるという規定をもつことができる。

       何故なら、原因性の概念が不合理なものであったら、実践は非合理なものとなり、その合目的性は生じないからである。



       悟性は対象と欲求能力(意志)に関係する。

       純粋悟性=理性は、法則の単なる表象によって実践的である限りにおいて、純粋意志と呼ばれる。

       純粋意志の、結局、同じことになるが、純粋実践理性の客観的実在性は、道徳的法則においてア・プリオリに、いわば事実によって与えられている。



       ところで純粋意志(自由な意志)を具えているような存在者の概念といえば、それはノウーメノン的原因の概念にほかならない。

       そのうえ原因の概念は、その起源にかんがみて、一切の感性的条件にかかわりがない。

       従って、フェノメノン(現象的存在)だけに制限されることなく(この概念を、一定の理論的使用だけに限ろうとするのでなければ)、

       確かに純粋な悟性的存在者としいての物(自体)にも適用される得るであろう。



       しかしこのような適用は、常に感性的でしかあり得ないような直観によっては裏付けされ得ないから、ノウーメノン的原因は、

       たとえ理性の理論的使用に関しては可能な、また考えられ得る概念であるにせよ、空虚(無内容)な概念にすぎない。



       ところで私は、或る理性的存在者が純粋意志をもつ限り、それ以上のこと―換言すれば、この存在者がどのようなものであるかを、

       そのうえ理論的に知ることを要求しているのではない。私としては、この概念によってかかる存在者をただこのようなものとして表示し、

       従ってまた、原因性の概念を、自由の概念に(そしてまた自由の概念から切り離され得ないところのもの、すなわち原因性の規定根拠としての

       道徳的法則に)結びつけるだけで十分なのである。



       そしてそのような結合をあえてする権能は、原因の概念が経験的起源ではなくて、純粋な起源を純粋悟性のなかにもつということによって、

       確かに私に与えられているのである。要するに私は、この概念の実在性を規定する道徳的法則に関係するのでなければ、

       私にこの概念を使用する権能があるとは思わない。換言すれば、私はこの概念を実践的に使用するだけの権能しかもたない。

       

       カント 『実践理性批判』 岩波文庫 1979 p112~123



カントの場合、少し長くなりましたが敢えて引用しました。二人の争点と姿勢は十分理解していただけることと思います。

ここで最初の問題提起に話を戻します。

それは、日本人の言明の問題であります。

日本では3月11日まで、「原子力発電所は安全である」と言明され、私もそれを信じて来ました。

しかし、それはもろくも崩れ去り、社会に多大の犠牲を強いることとなりました。

日本人の思考能力は浅いのでしょうか?

そうとは思いません。

しかし今後、多様に考えることを評価する教育と社会システムが必要なことは確かです。



昨日(6月25日)、TBSテレビが夕方の報道番組で、浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の非常時を想定した施設を放映していました。

予想されるマックスの災害に対して、電力会社は随分と低い安全率しか見ていないようです。

取水口は遠浅のため600m先にあります。東海クラスの地震が起きると配管は破断して埋まり、採水口も壊れて詰まってしまう可能性が高いものだと見てとれました。

企業担当者のリスク評価は低く、それに相応してコストが低く抑えられているように思いました。

企業のCSR (Corporate Social Responsibility)は浸透しているにもかかわらず、電力会社は寡占のためリスクマネジメントが低くなるのでしょうか?

今、電力会社の送電網を別会社とする議論がなされていますが、本体については、分割や新規参入を考えるより、国民が参加して電力会社のリスクマネジメントを考え、

実施していく方法を採る方が賢明のように思えます。



言明をめぐっては、カール・ポパーの考察があります。

ポパーについては私自身、整理しなければなりません。

できたら書きます。





追記:

6月21日にアップロードした記事、『事実はどんなパロディも拒む』で、菅直人氏を4項目にわたって告発しています。

その第3項の文を、下記に訂正致しました。

訂正前:「次世代にわたる国民への犠牲を強いました。」

訂正後:「国民に多大の犠牲を強いました。」

理由は、(1)今後の放射能の放出期間と規模がどのようなものとなるのか予想を立てにくいこと、

      (2)遺伝子への影響がどのようなものであるか実証的データーを欠く事によります。

 

 

 

 

 

 


                             



                                         桑の実 1



                             



                                        桑の実 2

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