愛を考える 2
「愛は普遍に及ぶか」を問う
*東日本大震災から10年が経ちました。
御魂となられた方々には安らかな御冥福をお祈り申し上げます。
幸いにも生を得られた方々には生き抜かれて来られたことへの御苦難を思い、衷心よりその思いを申し
上げます。
1.愛は社会であり、社会は愛であること、地球は愛であることを、前回は、お話し申し上げました。
これは、自分の大切な人や、社会の人々、そして自分まで含めて、幸せを社会のファクター(因子)と
して、考えることによって得ることができます。式にすれば次のようになります。
S(h)=f(l)・f(t) ・f(g) S:社会 h:幸せ l:愛 t:感謝 g:善
E=L E:地球 L:愛
2.今回は、「愛は普遍に及ぶか」を問います。そのため、今回は「天」と言う考え方を取り入れます。
地球は、私たちが必要とするものの全てを私たちに与えます。そして、地球は天体の力の作用によって誕
生し、太陽系の一惑星として存在しています。
3.昔の人は、「天知る、地知る、我知る」と、嘘をついてはいけないことを教え、福沢諭吉は、「天は
人の上に人を造らず、人の下に人を作らずと云えり」と、『学問のすゝめ』で書き、中国の易姓革命も、
天の命によって王朝が変わるという考え方をします。ここに言う「天」とは、人間が、空を見上げて、人
知を超えた所で地球の自然や人間の運命を任意にあるべき姿にする力の源泉だと思う、「力」です。
4.太陽と太陽の一惑星である地球が存在する宇宙には、無数の銀河団があります。そして宇宙は、ビッ
クバン(=膨張する宇宙)とか、ブラックホールとか、ダークマターとか、ダークエネルギーとか、天文
学者や天文物理学者でない限り、人知の及ばぬ現象を続ける物体です。しかし、心配をしてはいけません。
先人たちは、この宇宙の現象を理解しようと、摂理という言葉を使いました。このブログは生きるための
記録です。先人たちの知恵を借り、ここでは宇宙を包摂し、宇宙をその姿のままに在らしめる力を、
「天」と呼ぶこととします。同時に、地球を愛であると考えたように、地球と現在の地球の豊かな生命の
源泉である太陽を生んだ「天」も愛であると考えます。天は愛なのです。そしてこの辺りの思考は、思考
と言うより祈りの領域である「思い」となります。
5.では、天の愛は普遍に及ぶでしょうか? ここにA~Zまでの人がいます。この人数は一国の人口単位
でも構いません。AさんはBさんに危害を加えていて、Bさんはこのままでは死んでしまうと思われます。
AさんにもBさんにも愛は同じように及ぶのでしょうか? 及びません。これが考えて本項の思い至るぎり
ぎりの思いです。Bさんは危害から身を防護する手立てを取らなければなりません。
6.では、愛があまねく普遍に及ぶところは何処(どこ)かと問います。考えます。そしてそれは、人の
行いに感謝と善ある所だという思いに至ります。愛と感謝と善は一体のものだと思うのです。もし上記の
Aさんが自分の行為は善に根ざすものだと思うなら、その善は天の愛への感謝を欠いた独善のもので愛の
対象とはならないのです。
7.更に問いましょう。大体、このブログを書いている筆者である私に愛が及ぶのかと思います。私は、
真(まこと)に小さく、歩んだ道は悔い多く、愛の対象から外れると思うのです。しかし、余命において、
愛と感謝と善と人の幸せを願う思いを心に刻み、自分の為さなければならないと思うことを果たして行け
ばよいのではないかと考え、それが私の余命において為すべきことだと思います。
8.尚、問います。善が愛に不可欠のものであるなら、善は、A国とB国では善とする価値意識を異にし、
その結果、善も相対的なものとなり、愛も相対的なものとなるのではないか? いいえ、善は相対的なもの
ではありません。地球上の人間の社会において善きこととされる振る舞いは、同じような規範上にありま
す。今、ミャンマーで軍によるクーデターが起こり、これに抗議する人々に銃による発砲が起こっていま
す。この命令は独善によるもので、善ではありません。国際社会がミャンマー国民を救済することが善と
なります。
9.御批判をお待ち申し上げます。
2月の富士山(中央やや右に写ります)と空