社会契約 3
A.社会契約 3
1.奴隷解放を行ったのはアメリカが初めてではありません。イギリスは1833年に奴隷制廃止法(The Slavery Abolition Act.)を制定しています。フランスは、1848年の共和国憲法第6条で
廃止しました。
2.中世ヨーロッパ史において、「都市は自由にする」という言葉があります。自治権を獲得した都市に、農奴身分の農民が逃げ込めば自由身分となることができたことを言います。自治都市に流入
した農奴たちは、新たな住人としてその都市の生産と消費を担いました。現代のEUにおける域内の移動の自由、或いは、域内への移民の流入も、中世の都市に生じた現象と同じ経済要因を持ってい
ます。自由は経済を発展させ都市を発展させるのです。
3.奴隷の自由人への開放は、都市の工業化によって生じました。工業化はそれを担(にな)うたくさんの働き手を必要とします。工業生産は、誰かに所有されている奴隷労働によって行うより、同
じ奴隷である身分の人が自由人となって、――そして同時に、人権が確保されて――行う方が、はるかに効率が良く、人間の尊厳が保障されたものとなります。
4.アメリカの場合、上記の3.で述べたことに加え、南部諸州を連邦に繋ぎ留め、国家の統一を維持するという強い意志と、これを成し遂げようとする緊張が北部の人々に働きました。リンカーン
第16代合衆国大統領の演説、”The Gettysburg Address“ にはその緊張と意志がにじみ出ています。この意志故にこそ、この演説を人類が引き継いでゆくべき社会契約とする
所以(ゆえん)です。アメリカ人でなくとも、人類が、語り継ぎ、引き継いでゆくべき演説です。
B.日本の工業化
1.東アジアで国家として最初に近代化を成し遂げたのは日本です。日本は、この時、工業化も行いました。しかし、日本には奴隷は存在しませんでした。工業化を担った働き手は、農家の二男、三
男、四男と言った男子と長女を含む女性たちでした。日本では、明治維新以前の社会を江戸幕藩制と言います。幕府と諸藩は、それぞれ独自に自分たちの財政を豊かにしようとして殖産振興策(しょ
くさんしんこうさく)を行い、強兵と国防策(この場合の国防とは、日本全体の海岸線を防備する方法)を考えていました。このため、日本には、各藩毎にプロト工業とでも呼ぶべき手工業技術の蓄
積がありました。また、年貢米や物産の流通は藩単位で確立しており、余剰の米や物産を集積地である大阪や江戸に運んで換金する、いわゆる商いや信用取引の方法も確立していました。その物流の
規模は、幕末の江戸と大阪の人口を概略100万人、30万人と推定しても、両都市の消費人口を養(やしな)えるものでした。また、江戸には木製の水道が施設されていたことを、先日、東京大学
の著名な歴史学者である本郷和人教授が、テレビの番組の中で述べられています。
2.このような時代背景の中で、明治新政府は、日本の近代化と工業化を始めました。
明治維新と呼ばれる、革命に等しい大改革でした。それはすべてのものを、制度、習慣、風習、身分、教育、兵制、税制(年貢<米>を地租<貨幣>に変換)、社会と、人々を古い制約から解き放
ち、新しい社会を作ろうとするものでした。これを日本人は成し遂げました。この革命を、分かりやすく理解するために比喩的に述べれば、それは、フランス革命のように急進的であり、ナポレオン
のように敗れたということです。ナポレオンはフランス民法典を残しました。日本人は何を残したのでしょうか?むろん、明治維新とフランス革命とでは、形態も主体も異なります。むしろ、内戦の
形態はアメリカの南北戦争の方が似ているとも言えます。では何故、日本は世界戦争まで行って、かくも無残に敗れたのでしょうか?
3.明治維新の理念を、明治天皇が、1868年3月14日に、「五箇条の御誓文」で述べられています。それをここに記します。
一.広く会議を興し、万機公論に決すべし
一.上下心を一にして、盛に経綸を行ふべし
一.官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦(うましめ)ざらしめんことを要す
一.旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基くべし
一.智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし
訳:御誓文で言われているところのもの
一.何事を決するにも、独断専行するのではなく、広く人々の意見を求め、会議を行い、議論を尽くし、すべての事案は、人々がそれは正しいと思う規範に則(のっと)って決めなければならない。
一.身分の高い者も、低い者も、心を一つにして、国を盛運に向かわしめる気構えをもって毎日の政務を行わなければならない。
一.文官、武官、そして庶民に至る迄、一つのことに打ち込んで各人の志を遂げ、社会 は、人の心が志を遂げられず、行き詰まりやどうしようもない閉塞感を覚えるようなものであってはならない。
一.古い時代から続いている悪い習慣や不平等は必ず意志をもって改め、社会は、天の道理、地の道理が行われる、公明正大なものでなければならない。
一.進歩する知識を世界に求め、皇基となる公と人々の道を問い、この国を奮い起こさなければならない。
C.“The Gettysburg Address” と「五箇条の御誓文」の比較
1.本講座では、“The Gettysburg Address” と「五箇条の御誓文」の比較を行います。このブログの作者は、作者がこう述べることによって起こるであろうあらゆる非難から身をかわし、これを行う
ことは、「五箇条の御誓文」の御心に適うものだと言うことができます。なぜなら、御誓文には、「智識を世界に求め、大に皇基を振起すべし」と書かれています。
2.先ず、諸君自ら、“The Gettysburg Address”が行われた1863年と「五箇条の御誓文」が発せられた1868年から、1945年8月15日(終戦詔書の発表)までの差がなぜ生じたか、考え
てください。
3.日本は、ヨーロッパやアメリカから遠く離れた極東に位置し、その文化や考え方は、西欧のそれから大きく遅れていたというのは、一つの解ではありますが、歴史を前に進める答えとはなりませ
ん。日本の徳川時代は豊かな文化を持っていました。
4、このブログの作者が考えるところは、第一に、社会の規範が、“The Gettysburg Address” では「自由」であり、「五箇条の御誓文」では「天地の公道」です。第二に、相手に「すべし」と求める
当為が、“The Gettysburg Address” では、「人々の、人々による、人々のための政治」であり、「五箇条の御誓文」では「皇基の振起」です。
5.この二つは、その後のアメリカと日本の社会の性格を決定づけているように思います。これからの世界を担おうとする中学生と高校生の諸君は、ここのところをよくよく考えてください。アメリ
カは、自由が人々のための政治へと広がって行く社会を作りました。日本は天地の公道が皇基へと収斂(しゅうれん)して行く社会となりました。
6.「自由」というものの考え方ですが、江戸初期には、禅や剣の修行者の間では、自由は心の自由、身体の自由として捉えられており、自由の概念(考え)は社会にありました。直訴や一揆、打ち
こわしを、農民や庶民の為政者や社会の制約や束縛に対する抵抗と捉えれば、「御誓文」では陋習(ろうしゅう)を破れと述べられています。
7.しかし、このブログの筆者が知る限りでは、日本では、イギリスのジョン・ロック(『市民政府論』)のように、人間の自由とその人間が社会と政府を作るとき、その政府に対して持つ抵抗権や
革命権の意識は未発達でした。これが、日本が第二次世界大戦に至る過程で海外に進出した時、現地での軍政がアジアの人々に負の要因を及ぼす原因となりました。現地の人も同じように自由であ
り、抵抗権と革命権を持つという意識の欠如です。「八紘一宇(はっこういちう)」も「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」も「皇基」へと収斂する世界観でした。
8.責任をともない、抵抗権と革命権を持つ「自由」という言葉は、シンプルで美しく、私達の行動の指針となります。「人々(人民)の、人々(人民)による、人々(人民)のための政治」という
言葉は、私たちの民主主義社会のあるべき理念です。私達は、どのような社会に行ってもその社会の人たちの自由と人権を守るために行動し、社会の発展のために行動しなければなりません。
美しく朱に染まる夕空