3月16日 土曜日 晴
土曜の朝は、ウグイスがくぐもって鳴いていました。
寒いからか、若いからかの理由は分かりませんが、ホーホキェキョと長くは鳴けず、キェキョの部分の前にイントネーションを置き、なかなかそれがウグイスだとは気付きません。
しかし、東京の靖国神社では、桜が咲き、東京の開花が発表されました。
前回、新しい社会像についてイメージを持ち、それを考察することの意志があることを書きました。
人は心に思っていることを言葉や文章に表現すべきで、私もイメージの内容が少し進みました。
社会の核は道徳にあります。
ここでは断定的に書いていますが、さらにその道徳の核はどこにあるのかということも考えなければなりません。
先ずは、集団=社会を維持するための掟(おきて)=ルールが定まって行き、次にその集団=社会が発展行くための新しい掟=ルールが付加されて行くというふうに考えることができると思います。
つまり、掟=ルールは固定されたものではなく、集団=社会が発展を遂げて行くための新しいルールをその集団=社会は取り入れて行く(取り入れて来た)のだろうと思います。
また、これを行わない集団=社会は、衰退滅亡するか、他集団社会へと吸収されてしまいます。
掟が明文化されたものを私達は、「ハムラビ法典」として知っています。
モーセの律法も掟です。
モーセからはイエスが出られます。
モーセの教えは律法宗教としてユダヤ教に、イエスの教えは救済宗教としてキリスト教に発展します。
つまり、道徳とは宗教から発生したものではなく、人間の集団=社会と人間の在り方に対する、一人の苦悩する人間が得る道徳的な啓示から宗教は生まれるということです。
日本の救済宗教者は、作家の吉川英治氏が描かれた親鸞上人が有名であります。
親鸞上人が『歎異抄』で説かれた「善人なおもて往生を遂(と)ぐ、いわんや悪人においてをや」という言葉は、すでに師である法然上人が教えられていたという説もありますが、何れにせよ、日本は多くの救済宗教者を生んでいます。これには、日本人が自然と向き合って自己を形成して来た「道を究めるという精神」、「求道の精神」と、宗教者の衆生救済の願い(精神)が、法然上人や親鸞上人の精神の中で融合し昇華した結果の悟りだと思うのですが、浅学の身ゆえ、まだ、「思う」としか書けません。
道徳も、日本人は、「徳ノ道」と書き、求道の対象とします。
英語では、モラリティ(morality)、エチカ(ethics)=倫理、バーチャスネス(virtuousness)=有徳、マナー(manner)=作法・態度とも表現するようです。
話が次第に日本人の精神論に傾きそうなので戻します。
新しい社会像は、いくつかの古い社会の、人間が生きるうえで不可欠の徳、或いは、善とする、共通の道徳、或いは、規範(ここでは共通善と呼ぶことにします)を核にして、古い社会の衣を脱ぎ捨て、人間の幸福を考えることにあります。それが新しい公共社会となると思います。
投稿: 3月17日 日曜
梅の花