日々楼(にちにちろう)

古今東西・森羅万象の幾何(いくばく)かを、苫屋の住人が勝手御免で綴ろうとする思考の粉骨砕身記です。

中学生、高校生のための自由主義講座 10 -日本の天皇制-

2016年12月17日 | 日記

日本の天皇制

 

A.日本の天皇制

 

1.日本の天皇制について、君達は、学校の社会や歴史の時間で様々なことを学んでいると思います。どのような授業が今は行われているのでしょうか?昔のことを、記憶をたどって思い出そうとし

ても、中学時代は、第二次世界大戦後の民主々義教育の時代でもあり、教員が語ってくれた戦争(戦場)体験には強烈なものがあり、また、人間宣言された天皇陛下という話は授業でも語られたと思

うのですが、思い出せるものがなく、昭和天皇のことは、家庭でも、恐れ多くて語られていなかったように思います。しかし、いつ吸収したのか定かではありませんが、母親が邇邇芸命(ににぎのみ

こと)の御名前や弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)の御名前を口にしておりましたので、多分、母親からだろうと思います、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)の話であるとか、大国主

(おおくにぬしのみこと)の話であるとか、ヤマタノオロチの話であるとか、大和武尊命(やまとたけるのみこと)の話は良く覚えています。高校では、私が世界史を選択したこともありましょう

が、日本史についての記憶は、古墳時代であるとか、飛鳥時代であるとか、奈良時代であるとか、平安時代であるとかの時代区分の中で、その時代の特徴的なことが語られていたように思います。そ

して、その時代時代の天皇陛下の存在は、時代や制度と共に記憶する授業であったように思います。つまり、このようにしか受け留めていない私は、凡庸な生徒だったということです。しかし、ここ

に、「時代時代の天皇陛下」と書きましたように、日本史の場合、天皇と時代は不可分のものとなっています。このことを私達はあまり意識しません。そして、このことが、日本の天皇制の優れたと

ころであろうと私は考えています。今は、平成天皇が日本国の象徴としての地位(役割)を自覚されその任を果たされています。そしてその御姿を私達は直接に、或いは、テレビで目の当たりに拝

することができています。

 

2.天皇制は、日本の歴史において、過去2度、救国の機能を果たしています。一度目が大化の改新です。二度目が明治維新です。大化の改新前の日本の社会は、有力氏族がその支配地域の人々を土

地と共に私有する私有民の社会でした。これに対し、人々の公の戸籍を作り、「律令」を以って日本の国の形を整えようとしたものが、大化の改新とそれ以降に整えられた律令制です。

この大化の改新が、その後の日本の社会において人々の意識の在り方に果たした枠割は大きいものがあると私は考えています。現在、私達は、「自分は一人の人間として不可侵の人格持つ」と、当た

り前に考えています。この意識形成に寄与したものをさかのぼって考えれば、その一つに大化の改新の「民の私有を廃止する」という精神があると私は考えています。また、この精神が、日本を農奴

制の国にしなかったと私は考えています。明治維新の諸改革は、日本を植民地にしませんでした。今週の12月13日のテレビ朝日の番組で、歴史学者の磯田道史先生が、明治の華族制が、「日本を

戦争国家(領土拡張→華族になれる機会が増える)へと向かわせた」と仰っていました。磯田先生は碩学(せきがく)の人で傾聴に値します。そして、尚、加えるに国民に機会の均等を、多分の制約

はあったものの、開いたのは明治になってからです。江戸時代は、藩によって異なってはいるのでしょうが、士分のものは領民を「土民」と呼び、福沢諭吉は「(封建の)門閥制度は親の仇で御座

る」(『福翁自伝』)と表現しました。その福澤の慶應義塾でもその初期に入塾できたのは士分の者だけだったのです。海の外に出て領地を得るという勇ましい話も、その文献は備後福山藩のもので

したが、江戸期の田舎の譜代の藩にあっても、武士たちは語っていたのです。

 

B.日本人の倫理観

 

1.マックス・ウェーバーと言うドイツの学者の著書に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と言う本があります。資本主義の社会を発展させたものは、「勤勉」の意識と「天職」意識

と、それが生活の中に馴染んだ生活様式だというものです。私の記憶では、アメリカ社会を観察していた彼の弟子がアメリカにはどうもそういうものがあると気づき、ウェーバーが論文にしたもので

す。

では、日本では何だろうと私は考えていました。「勤勉」と言う意識を日本人は持っています。これはキリスト教から来たものではありません。「勤勉」を更に昇華させた言葉が「精進」です。「精

進」とは勤勉に勤勉を重ねその道を極めるという言葉です。これを、先日、2020年東京オリンピックに向けたIOCとの4者協議の場で、東京組織委員会の森会長が口にされていました。何代目

かの相撲の横綱が横綱昇進の口上で述べられていました。日本では一つのこと(道)に励む人がそれを尚極めようとする時、「尚、精進する」と言います。そしてこの精進する一つのものを「道(み

ち、どう)」と言います。そしてこれは、あらゆる分野の人が自分の覚悟を示そうとする時、使います。

 

2.仏教から来たのだろうかと考えました。いいえ、日本の仏教は日本で独自に進化を遂げたものです。渡来前のベースになるものがなければ日本独自の仏教とはなりません。また、私は自分の思考

の核を探(さが)していました。そして旧約聖書を読むことにしました。旧約聖書には古(いにしえ)の儀式に「全焼の供犠(ぜんしょうのきょうぎ)」と言う言葉が随所に出てきます。また、私は

本人のルーツも探していました。

民間伝承に、これは昔読み漁(あさ)った文献の一つでその本のタイトルを忘れてしまいましたが、出雲地方の神社の神紋に大根(だいこん)(=家紋・神紋では丁子〈ちょうじ〉に分類します)を

使用している神社があります。

そこの宮司さんが、「神紋の大根のもともとの形は剣(つるぎ)だった。自分たちは寒いところから来たと伝えられている」という話がありました。日本の神々に「オオナムチノミコト」の名を持つ

神様がいらっしゃいます。別名を大国主命(おおくにぬしのみこと)と言います。「オオナムチ」の「オオ」は「大きい」です。「ナ」は美称、若しくは「あなた」です。「ムチ」は、土地や国を意

味します。

そのまま大国主命となります。以前、WEBに、自民党の石破茂氏にそっくりの人がトルキスタン(?)の大統領と一緒に写っていた人にありました。中国の新疆ウイグル自治区にウルムチという町

があります。

ウルムチは烏魯木齊と書きます。「ムチ」は先ほど書きました土地や国です。「ウ」=「烏」は、日本の神武天皇が東征された際、天皇を導かれた「八咫(やた)烏(からす)」の「烏」です。

これで日本とウルムチが繋がります。しかし、まだ十分ではありません。この中間です。昔の中国に『翰苑(かんえん)』という古文書がありました。今、その写本が九州の太宰府天満宮にありま

す。

菅原道真公の何代かの孫が中国に渡って書き写したものです。一部分しか残っていません。そこに烏桓(うがん)という国が出てきます。その習俗に言います。

 

ア.「穹盧(きゅうろ)に寝息し、日を拝するに資(よ)りて、以って恭(きょう)を訓(おし)う」。

イ.「邑落(ゆうらく)徴科(ちょうか)するに、刻木(こくぼく)に因りて信を昭(あら)わす」。

ウ.「鬼人を敬し、天地・日月・星辰(せいしん)・山川及び大人の健名有る者を祀(まつ)る。祀るに牛羊を用い、畢(おわ)りて皆これを焼く」。

 

ウの「鬼人を敬し」とは中国から見て「鬼人」です。「天地・日月・星辰(せいしん)・山川及び大人の健名有る者を祀(まつ)る」とは、今の日本と同じです。「祀るに牛羊を用い、畢(おわ)り

て皆これを焼く」が、「全焼の供犠」です。

イの「邑落(ゆうらく)徴科(ちょうか)するに、刻木(こくぼく)に因りて信を昭(あら)わす」とは、「村々から税を徴収し、命令を科すには、刻木(木を刻んだもの)を通信の手段としてい

る」です。「刻木(木を刻んだもの)」とは古代シュメール、メソポタミア文明の楔形文字の流れを引くものとみてよいと思います。私は、これが日本のカタカナ、韓国のハングル文字に引き継がれ

ていると思っています。

アの「日を拝するに資(よ)りて、以って恭(きょう)を訓(おし)う」とは、「太陽を拝し、恭(うや)まうことを訓える」です。これが日本の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や天照大

御神(あまてらすおおみかみ)として引き継がれました。これで旧約聖書の世界と日本が繋がりました。簡単すぎますか?しかし、これらの北回りで日本にやって来た人々は私達の祖先です。そして

この人々が日本の皇統を形成しました。神武天皇はこの系譜に属されます。南回りでやって来た私達の祖先もいます。その代表が長髄彦(ながすねひこ)です。その他のルートでやって来た私達の祖

先もあります。

 

3.日本人の規律と規範は、この北回りを数世紀かけて長征して来た人々がその過程で培(つちか)ったものです。北回りの大地は厳しく、集団を維持する規律と規範がなければ、生き延びること

不可能だったと思うのです。日本人の自己意識の形成に寄与したものの一つとして、先に大化の改新の「民の私有を廃止する」という精神を挙げました。そしてこの「民の私有を廃止する」という意

識を生んだものが、教科書では唐の律令制を取り入れたものと教えますが、数世紀をかけた長征が培った規律と規範を持った集団の人々のその集団に属する人々への同一の帰属意識(アイデンティテ

ィ)であったろうと、私は思うのです。平たく言えば、同じアイデンティティを持つ人を私有にはできないのです。そして、天皇がこの集団の長(おさ)と成られました。ですから天皇制と国旗の日

の丸は、私達の祖先の数世紀にわたる長征と日本の歴史の記憶を、今に留(とど)め、現(あらわ)しているものなのです。これを理解した時、私は私の探していた思考の核を日本人が歴史の中で培

った規律と規範に置いたのです。

 

4.『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に、倭の女王日御子(ひみこ)が狗奴(くぬ→くも、くま)国の男王日見日子(ひみひこ)と戦争状態に入った年を247年(正始8年)と記録しています。

既に数次の東征は行われていますが、史書に残るものは、この年あたりから日御子の国から狗奴(くぬ→くも、くま)国への東征が始まりました。間もなく日御子は亡くなります(247年から24

8年の間:『魏志倭人伝』岩波文庫参照)。そして、国は乱れました。神武天皇の即位は、ここから推定でニニギノミコト、ホオリノミコト、ウガヤフキアエズノミコトの九州3代の50年を加算

し、西暦300年頃です。(このブログの2014年3月20日の記事で九州3代の御代を50年から60年を見ていますので、やはり即位は西暦300年頃となります。)神武天皇と崇神天皇は同

一人物です。東征の事績を神武天皇、即位後の事績を崇神天皇として『記紀』は描きました。『宋書』に倭王讃(わおうさん)が出てくるのは、421年です。履中天皇を讃に比定すると崇神天皇か

ら仁徳天皇まで7代あります。一代の天皇の御代を15年から20年として、年代は大体合います。

 

5.今日は、天皇制と私達がどのようにして私達の規範を作ったかについて書きました。天皇制と自由主義は相反するものではありません。日本という国と社会を、自由主の国と社会にするのは、

私達と共にいらっしゃる天皇陛下と私達なのです。諸君はこのことをよくよく考えて、自己を律する人になってください。

(続く)

 

お願い

このブログをよく読んで、「参考になった」と思ってくれる中学・高校生は、友人や知人にこの記事を読んでもらってください。そして考えてください。

 

 

                                               

                                                         初冬の青空

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