NHK番組改変問題に端を発して、問題はあらぬ方向へと進み、現在のようなNHKvs朝日のような構図が出来上がってしまっている。それに続いて、ライブドアのニッポン放送株大量取得劇から、ライブドアvsフジテレビ(フジサンケイグループ)の様相となっている。これらのマスメディアの混乱(というべきか迷うところだが他に思いつかない)で、思うところがあったので書いてみたい。
元来マスメディアは、「公器」としての役割があって、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌等のそれぞれの分野で、何らかの役割を果たしてきた。それが正当か否かについてはこの際論じないが、一般大衆や社会に向かって何らかの影響力をそれなりに持っていたことは確かである。その特別な存在は、大衆から極端な排除を受けることが少なく、特に影響力が大きな2大メディア、テレビと新聞は大衆支持を背景に気ままにやってきたように思う。
しかしながら、ネット社会の浸透と情報に対する個人の感度が大きく変わり、各メディアに求める情報が変わってきたと感じる。未だに、新聞やテレビの情報にほとんど依存し、それについては信頼を寄せている人々がたくさん存在すると考えられるが、その割合は今後どんどん減少していくと思われる。昔には、センスのよい雑誌のような媒体でしか扱われないような情報が、今はネット上でいくらでも取得可能となっているばかりか、単なる個人レベルの情報発信でさえ多くの支持者を集めるほどの影響力を持つものも登場してきている。また、深夜放送のラジオから発信していた、番組を聴取している特定層(例えば若者ですね)へ向けた情報の影響力も、昔とは比べものにならないだろう。その傾向の裏付けなのか、ラジオはネットに宣伝広告費を追い抜かれてしまった。存在価値の比重でいうと、低下の一途と言えるであろう。
雑誌業界は、そうした流れの影響を最も早くから受けたと思われる。発行部数は経年的に低下し、市場規模は縮小、廃刊なども相次いだ。元々選択性の高い媒体であったし、影響力の大きさの点でも比重が小さかった。それ故に、まず淘汰の波がやってきたのであろうと思う。読者から選ばれ、支持されないものは、退場を余儀なくされるということだ。書き手や製作者がどれ程その雑誌を愛し、内容の正当性やすばらしさを主張しても、ほとんど意味がなく、決定するのは「受け手」側なのである。
このような流れは、今後新聞業界にも訪れる可能性がある。世界各国で、大手新聞社の発行部数が減少し、かわりに「フリーペーパー」と呼ばれる無料紙が台頭しつつある(日刊全国紙は減少する?)。この現象は、何を意味するのか。従来の「新聞」に対する読者の選択は、「支持」が減少して、「不支持」もしくは「対価としての存在価値を認めない」というものであろう。新聞の内容がどれ程優れており、論説の価値や正当性を記者や発行者が力説しても、「選択」され「購入」されなければ、存続できないか、業態転換や大改革しか道は残っていないのである。それとも、発行者側は新聞が大赤字を垂れ流しても支え続け、記者たちも異常に安い給料で、自分達が街頭で手売りをしてでも、自分達の新聞を存在させようとするであろうか?そういう覚悟を持っているかどうかは、伺い知ることは出来ない。
少なくとも、ライブドアの堀江氏としてはこういうメディアの衰退傾向の先を見据えて、手売りしなくとも済むようなビジネスを考え出そうとしているのかもしれない。これも推論だからよく判らないのであるが。
朝日新聞とNHKの問題については、双方とも当事者意識が丸出しで、放送や新聞記事を自己主張の場としているのは、本当に「公器」たるメディアの役割を果たしているのか疑問に感じている。これは、ライブドアとフジの関係でも同じようであり、産経新聞はライブドア関連のキャンペーンをはっているかのようである。このような報道姿勢はいずれのメディアにも見られているので、テレビと新聞の違いは関係がないようである。フジテレビの日枝氏は「ジャーナリズムはそんな簡単なものではない」という趣旨のコメントを述べていたが、ジャーナリズムの「魂」とか「志」とか「理念」とかは、社主や社長やスポンサーや株主が変わる事で、何か変化が起きるとでも言うのであろうか。もっともらしい「ジャーナリズム論」を建前にもってくるあたりが、真剣に「メディア」について考えていなかったことを露呈してしまっている。むしろ利害得失にしがみつき、迎合しているのは、今の自分達だろう。
政治家たちの中にも、排他的なメディア業界の寄合体質が当然と思っている人が存在するようである。元産経新聞記者であったらしい森議員(前首相)は、ライブドアの件について疑問を感じるとした上で、(堀江氏の)考え方は日本の教育の(間違った)成果なのか、というとんでもない飛躍まで披露している。じゃあ、現在の日本の状況や酷い政治を生み出してきたクソじじい達は、よっぽど狂った教育を受けてきたんだろう。自分の理解できない事象について、理解しようと努める前に拒否することから始めるのが、同じ寄合体質を持つ人間ということなのだろう。
先日のライブドアに対する2月18日付産経朝刊 「主張」にとても興味を抱いた。
『堀江氏発言 産経を支配するって? 少し考えて言ったらどうか』と題されたインパクトのある(或いは挑発的な)見出しが、書き手のおかしなジャーナリズム観を如実に物語っていた。産経新聞としての考え方を長々と書いているのであるが、このような記事が「公器」として存在する新聞の論説なのかと思うと、非常に奇妙に思えた。しかも、堀江氏の発言を引いているのは、何とAERA誌だそうだ。ヨソさまの取材や媒体を引用する産経新聞の意識も相当おかしいが、その記事の一部の発言を殊更に取り上げて、堀江氏の考えの全てであるかのように扱い、「もう少し考えて言え」というやり方は、ネット上の下らんコメントと同じやり方だ。書いた記者の気が知れない。
これも反堀江のキャンペーンの一環であろうが、いち弱小民間企業の経営者についてここまで言及するというのは、「マスメディア」の持つ特性を、ほぼ「私的意図」をもって利用しているばかりか、個人の資質に言及し個人攻撃とも思える論説を展開しているのも、到底「公器」の果たすべき役割とは思えない。こういうのを、本当の「偏向」と呼ぶのでしょう。NHKも朝日もやっていることは産経新聞と本質的に同じだが、こちらはメディア対メディアであって、馬鹿らしい泥仕合ではあるが媒体利用の仕方は公平であろう。ところが、メディア対個人若しくは一企業となると話は別だ。堀江氏の手法や考え方について、社会的に警鐘を鳴らす意義を真に求めるというならば、自ら堀江氏に取材してきちんと談話を取るなり経営方針を問うなりしなければおかしいし、他人のメディアの記事を利用するだけで堀江氏個人の考え全てを代表させるという報道姿勢が、そもそも「ジャーナリズムの精神からは大きくかけ離れている」と言えるであろう。そんなことにも考えが及ばず、ましてや公職にない一般個人の資質について「公器」たる新聞紙上で批判するなど、もってのほかである。
下らない批判をしている政治家も産経新聞も、客観的によく見つめてみることだ。法令、制度やシステムの問題であって、実行した個人の問題ではない。また、発言に気に入らないところが多々あり、受容できないからと言って、フジテレビ社長が言及するならまだ理解できるが、産経新聞の現場記者たちが「私心」を持って反堀江キャンペーンを繰り広げるのは、全くの「お門違い」だ。もしも、経営的な反論があるのであれば、「産経新聞トップの談話・コメント」くらいの記事を堀江氏の談話と併記するくらいであろう。産経新聞の記者諸氏は、「ジャーナリズム」の本質について、大きな誤認があるか、元々考えていないか、のどちらかではないのか。何が「正論」なのか、頭を冷やして、よく考えてみるべきでしょう。
産経新聞が「正論路線」を祭り上げる割には、路線が大きくずれてると思うのは私だけでしょうか。
元来マスメディアは、「公器」としての役割があって、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌等のそれぞれの分野で、何らかの役割を果たしてきた。それが正当か否かについてはこの際論じないが、一般大衆や社会に向かって何らかの影響力をそれなりに持っていたことは確かである。その特別な存在は、大衆から極端な排除を受けることが少なく、特に影響力が大きな2大メディア、テレビと新聞は大衆支持を背景に気ままにやってきたように思う。
しかしながら、ネット社会の浸透と情報に対する個人の感度が大きく変わり、各メディアに求める情報が変わってきたと感じる。未だに、新聞やテレビの情報にほとんど依存し、それについては信頼を寄せている人々がたくさん存在すると考えられるが、その割合は今後どんどん減少していくと思われる。昔には、センスのよい雑誌のような媒体でしか扱われないような情報が、今はネット上でいくらでも取得可能となっているばかりか、単なる個人レベルの情報発信でさえ多くの支持者を集めるほどの影響力を持つものも登場してきている。また、深夜放送のラジオから発信していた、番組を聴取している特定層(例えば若者ですね)へ向けた情報の影響力も、昔とは比べものにならないだろう。その傾向の裏付けなのか、ラジオはネットに宣伝広告費を追い抜かれてしまった。存在価値の比重でいうと、低下の一途と言えるであろう。
雑誌業界は、そうした流れの影響を最も早くから受けたと思われる。発行部数は経年的に低下し、市場規模は縮小、廃刊なども相次いだ。元々選択性の高い媒体であったし、影響力の大きさの点でも比重が小さかった。それ故に、まず淘汰の波がやってきたのであろうと思う。読者から選ばれ、支持されないものは、退場を余儀なくされるということだ。書き手や製作者がどれ程その雑誌を愛し、内容の正当性やすばらしさを主張しても、ほとんど意味がなく、決定するのは「受け手」側なのである。
このような流れは、今後新聞業界にも訪れる可能性がある。世界各国で、大手新聞社の発行部数が減少し、かわりに「フリーペーパー」と呼ばれる無料紙が台頭しつつある(日刊全国紙は減少する?)。この現象は、何を意味するのか。従来の「新聞」に対する読者の選択は、「支持」が減少して、「不支持」もしくは「対価としての存在価値を認めない」というものであろう。新聞の内容がどれ程優れており、論説の価値や正当性を記者や発行者が力説しても、「選択」され「購入」されなければ、存続できないか、業態転換や大改革しか道は残っていないのである。それとも、発行者側は新聞が大赤字を垂れ流しても支え続け、記者たちも異常に安い給料で、自分達が街頭で手売りをしてでも、自分達の新聞を存在させようとするであろうか?そういう覚悟を持っているかどうかは、伺い知ることは出来ない。
少なくとも、ライブドアの堀江氏としてはこういうメディアの衰退傾向の先を見据えて、手売りしなくとも済むようなビジネスを考え出そうとしているのかもしれない。これも推論だからよく判らないのであるが。
朝日新聞とNHKの問題については、双方とも当事者意識が丸出しで、放送や新聞記事を自己主張の場としているのは、本当に「公器」たるメディアの役割を果たしているのか疑問に感じている。これは、ライブドアとフジの関係でも同じようであり、産経新聞はライブドア関連のキャンペーンをはっているかのようである。このような報道姿勢はいずれのメディアにも見られているので、テレビと新聞の違いは関係がないようである。フジテレビの日枝氏は「ジャーナリズムはそんな簡単なものではない」という趣旨のコメントを述べていたが、ジャーナリズムの「魂」とか「志」とか「理念」とかは、社主や社長やスポンサーや株主が変わる事で、何か変化が起きるとでも言うのであろうか。もっともらしい「ジャーナリズム論」を建前にもってくるあたりが、真剣に「メディア」について考えていなかったことを露呈してしまっている。むしろ利害得失にしがみつき、迎合しているのは、今の自分達だろう。
政治家たちの中にも、排他的なメディア業界の寄合体質が当然と思っている人が存在するようである。元産経新聞記者であったらしい森議員(前首相)は、ライブドアの件について疑問を感じるとした上で、(堀江氏の)考え方は日本の教育の(間違った)成果なのか、というとんでもない飛躍まで披露している。じゃあ、現在の日本の状況や酷い政治を生み出してきたクソじじい達は、よっぽど狂った教育を受けてきたんだろう。自分の理解できない事象について、理解しようと努める前に拒否することから始めるのが、同じ寄合体質を持つ人間ということなのだろう。
先日のライブドアに対する2月18日付産経朝刊 「主張」にとても興味を抱いた。
『堀江氏発言 産経を支配するって? 少し考えて言ったらどうか』と題されたインパクトのある(或いは挑発的な)見出しが、書き手のおかしなジャーナリズム観を如実に物語っていた。産経新聞としての考え方を長々と書いているのであるが、このような記事が「公器」として存在する新聞の論説なのかと思うと、非常に奇妙に思えた。しかも、堀江氏の発言を引いているのは、何とAERA誌だそうだ。ヨソさまの取材や媒体を引用する産経新聞の意識も相当おかしいが、その記事の一部の発言を殊更に取り上げて、堀江氏の考えの全てであるかのように扱い、「もう少し考えて言え」というやり方は、ネット上の下らんコメントと同じやり方だ。書いた記者の気が知れない。
これも反堀江のキャンペーンの一環であろうが、いち弱小民間企業の経営者についてここまで言及するというのは、「マスメディア」の持つ特性を、ほぼ「私的意図」をもって利用しているばかりか、個人の資質に言及し個人攻撃とも思える論説を展開しているのも、到底「公器」の果たすべき役割とは思えない。こういうのを、本当の「偏向」と呼ぶのでしょう。NHKも朝日もやっていることは産経新聞と本質的に同じだが、こちらはメディア対メディアであって、馬鹿らしい泥仕合ではあるが媒体利用の仕方は公平であろう。ところが、メディア対個人若しくは一企業となると話は別だ。堀江氏の手法や考え方について、社会的に警鐘を鳴らす意義を真に求めるというならば、自ら堀江氏に取材してきちんと談話を取るなり経営方針を問うなりしなければおかしいし、他人のメディアの記事を利用するだけで堀江氏個人の考え全てを代表させるという報道姿勢が、そもそも「ジャーナリズムの精神からは大きくかけ離れている」と言えるであろう。そんなことにも考えが及ばず、ましてや公職にない一般個人の資質について「公器」たる新聞紙上で批判するなど、もってのほかである。
下らない批判をしている政治家も産経新聞も、客観的によく見つめてみることだ。法令、制度やシステムの問題であって、実行した個人の問題ではない。また、発言に気に入らないところが多々あり、受容できないからと言って、フジテレビ社長が言及するならまだ理解できるが、産経新聞の現場記者たちが「私心」を持って反堀江キャンペーンを繰り広げるのは、全くの「お門違い」だ。もしも、経営的な反論があるのであれば、「産経新聞トップの談話・コメント」くらいの記事を堀江氏の談話と併記するくらいであろう。産経新聞の記者諸氏は、「ジャーナリズム」の本質について、大きな誤認があるか、元々考えていないか、のどちらかではないのか。何が「正論」なのか、頭を冷やして、よく考えてみるべきでしょう。
産経新聞が「正論路線」を祭り上げる割には、路線が大きくずれてると思うのは私だけでしょうか。