いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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日本の進む道

2005年02月22日 17時05分03秒 | 俺のそれ
前の記事で『ケインと「あびる」』と書いて、ふと思い出したことがある。数年前に買った本物の『ケインとアベル』のことである。純粋なビジネス小説とは言えないかもしれないが、銀行家と企業家としてのホテル経営者が主人公の小説で、とても面白かった。イギリス貴族院議員の、ジェフリー・アーチャーの作品である。私は、日本で発売されたこの作家の文庫本は全て買った。この作家との最初の出会いは、何とラジオであった。おそらく、中学1~2年の頃だったと思う。

当時、ラジオドラマが放送されており、これがとても楽しみであった(確かNHKだった)。色々な作品を「声のドラマ」として放送していて、単発ものもあったし、連続ものもあった。テレビのような映像が無い分だけ、想像される映像が勝手に頭に浮かんで、非常にわくわくするのであった。なので、好んで聴いていた。このラジオドラマで出会った作品には、アシモフの中で最も好きな作品である、『黒後家蜘蛛の会』がある。これも後に文庫本を全て買って、今でも何度か読んでいる(現在はウチの子に貸しています)。それ以前に『鋼鉄都市』を読んでいてアシモフは知っていた。しかし、小学生の私にはあまり好きな作家とはならなかったのであるが、ラジオドラマのお陰で、復活できたのである(笑)。

アーチャーの作品は、『大統領に知らせますか?』が放送されていたように記憶しています。その何年か後に、『百万ドルを取り返せ』を初めて買い、その後はチビチビと文庫本が出る毎に読んでいきました。破産した人が、このような議員さんになれるんだな、と感心したものです。『ケインとアベル』は、その人間ドラマと、銀行家としてのケインの「哲学」に感嘆しましたね。物語が、ちょっと出来すぎというのも、シェークスピアをかなり意識しているのも、まあ小説ですから、と思えば楽しく読めます。今話題の「株買占め」「企業乗っ取り」も、偶然ですが丁度時流に合っていますね。


私は「銀行家」としてのケインが印象深く、確かにバブル期に見られたような「銀行家」とは呼べない「金貸屋」に成り下がってしまっては、やはりダメなんだろうな、と素人ながら考えたものです。よい会社を見出して、世に送り出す、そうすることで社会に貢献出来る、そういう志が銀行家には必要なんだろうな、とも思いました。企業を育てるのは、一般に取引先であったり消費者であったりするのですが、「資金」という水を丁寧にかけて企業という植物をすくすくと育てるのは、はやり銀行なのですね。そういう銀行家がきっと求められているのかな、と思うのです。

ですから、私は「銀行家」という言葉が好きです。「銀行マン」や「銀行員」ではなく、「銀行家」。よく考えると専門家は、「家」がつくのが多いですね。書家、陶芸家、建築家、演出家、脚本家、企業家、機関投資家、法律家、政治家等々、たくさんあるのです。これらに共通するのは、「その道の専門家」ですね。高度で特別な或いは特殊な、知識・技能・能力を持つ人々です。こういう人々は、「その道」を誤ることなく進まねばなりません。道(みち)は、人として踏み行うべきみち、道理などを含むものですから、根本にはこうした志が必要だと思います。専門家としての能力の発揮も重要なのですが、それ以前に人としての道を大切にして欲しいと思うのです。


昨夜のテレビ東京系のWBSでは、中小金融機関の取り組みが紹介されていました。旅館や中小企業に研修に出て経営実態を学び、同業態への融資の判断力を養うとか、コンサルティング業務の一部を含むような融資に取り組むとか、企業育成・支援の流れが戻りつつあるようです。「銀行家」としての心を失うことがなければ、きっと企業からも地域社会からも感謝される金融機関となっていくでしょう。

一方、「政治家」はどうでしょうか。果たして、人の道・道理を正しく進んでいるでしょうか。専門家としての能力は発揮されているでしょうか。道に外れた人や、高度で特別な知識や能力のない人は、「政治家」ではないのですね。単なる政治屋に過ぎないのでしょう。今の日本に、どれ程の「政治家」が存在するでしょうか。


アーチャーが議員となった、議会政治の本家イギリスでは、一足はやく改革が進められましたが、日本はその道を進むでしょうか。

日米安保とミサイル防衛

2005年02月22日 13時27分08秒 | 防衛問題
2プラス2協議が終了して、共同声明が発表された。日本の安全保障の根幹をなす外交と防衛が協同作業を達成できたことは、戦後の防衛政策上最も評価できる前進であろう。このような、「表裏一体」の考えをもって臨むならば、誤った方向へ進むことはかなり防げるだろう。防衛政策についてのシビリアンコントロールの重要性は、今さら述べる必要はないであろうが、単に自衛隊運用のレベルに留まらず、外交政策の延長線上に真の運用があるということがそのコントロールを確たるものにすると考える。そして、国際関係上の対応の誤りが日本の安全保障を揺るがす事態を招くことは当然予想されるし、その失敗を防ぐのは正しい戦略的外交を政府が実行できるかどうかにかかっていると思う。良き外交官は優れた軍事評論家でなければならないし、良き防衛担当官は外交に明るくなければならないのである。


外交政策において、優れたバランス感覚と有利なポジションを占めることが求められる。常任理事国入りを果たす事もその一つであろう。また、不正や醜聞が明らかになりつつある国連の改革にも、積極的に取り組まねばならないであろう。未だ先進国とその他の多くの国にはあらゆる面で開きがあり、「先を歩く者」として当然正しい方向へと導かねばなるまい。


話は変わるが、ミサイル防衛の考え方について、法制面で論議があるようであるが、無意味な傘とならないように考えるべきである。ミサイルが発射されてから日本に着弾するまでの僅かな時間の中で、複雑化した連絡手順や仲介人員が増えれば増えるほどエラーが出る確率が高くなるし、対応の遅れは手段が限定され避難指示も遅れるのである。貴重な時間を失う事が、どれほど危機的状況を招くのか、常識的に考えてみるべきである。「探知」から「発射」段階までの、手順と物理的可能な時間を考慮し、ミサイル撃破の可能性を吟味するならば、判断を迷っている時間などないであろう。


心肺停止状態の人が倒れていたら、一刻も早く救急蘇生術を必要とすることは誰しも理解できるであろう。人工呼吸や心臓マッサージは、一秒でも早く行うことが救命率を大きく向上させるのである。また、重篤な後遺障害(低酸素脳症などによる機能喪失ですね)を防ぐことにも繋がるのだ。これは一般常識的な考え方である。「心肺停止で人が倒れています。どうしましょうか?」と警察や消防に電話して尋ねている間に、どんどん状態は悪化していく。自分1人しかいなければ、自分が救急蘇生を行う以外に方法がない。これは誰に尋ねようとも返ってくる「答え」が同じなのである。消防の人もきっと言うであろう。「心臓マッサージと人工呼吸はできますか?できるならば、救急隊が到着するまでやってみて下さい」と。


つまり、危険が明らかに判っている時、答えが一つしかないものについて「どうしましょうか?」と何人もに尋ねるのは、愚の骨頂なのだ。非効率的であるし、エラー確率が高まる。撃墜確率が落ちる。全ての対応が遅れる。そういう性格の決定事項なのである。
”伝言ゲーム”がなぜ存在するか(そんなに大仰ではないんですが、多くの人は経験があるのでは)というと、情報の仲介人員が増えればそれだけ誤りの発生が多くなる事を、経験的に知っているからである。これと同じである。「ミサイル発射を探知しました。どうしましょうか?」と、次々に連絡して、最終決定者に連絡が到着したところで、「撃墜せよ」と言うしかないのだから。


元来、防衛用のミサイルは報復攻撃用の核ミサイルのようなものと、全く性質が異なると考えるべきである。地上破壊のような攻撃性を有していないのであるから、発射許可を毎回文民に求めるのはあまり意味がない。もちろん誤発射の可能性がないわけではないが、空中で自爆させてもよいであろうし、公海上に落下するくらいであれば甚大な被害が出るものでもないであろう。探知段階の過誤を防ぐシステム、例えば複数衛星の情報確認、探知システムの複合化、指令・情報伝達の複系統化(1回路ではないという意味)等で、かなりの過誤を防止できるであろう。発射事実は事後の国会報告や承認があれば、「暴走」を止めることにはなるだろう。むしろ、長距離攻撃用のミサイル保持構想の方が、相当慎重な議論が必要なのである。


ミサイルが本当に飛んできて着弾し、自分の家族や身近な周りに被害を受けた時にも、「きちんと発射許可をとりましたか?」という人がいたら会ってみたいものだ。逆に「何故もっと早く発射しなかったのか?もし、あと1分早ければ撃墜できたかもしれないのに」と考える人の方が圧倒的に多いと思う。そういう常識で本来考えるべきことなのではないか。


余談として、北朝鮮はブラフで様子見をしていたようであるが、六カ国協議への復帰を示唆したようである。国内向けの戦意高揚のような宣伝だったのか?これから何かおねだり?向こうの条件が何なのか知りたいところだな。日本の軟化姿勢を引き出す作戦?中国は米国の働きかけで結果を出したようだ。やはり中国ルートが北朝鮮の命綱なのか。