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裁判の逸失利益は妥当か?

2007年07月16日 17時00分26秒 | 法関係
民法規定を見直すかどうか検討する、という報道がありました。

現行5%の法定利率、引き下げへ…逸失利益算出などに影響 政治 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

まあ確かに5%という金利水準がどうなのか、というのは色々な論点があるでしょうから、詳しく検討した方がいいと思いますね。過去の出来事については、確定した国債指標金利とか判っているものですし。変動制にして、例えば「国債指標金利+1%以内」みたいに定めたとしても、大きな問題はないとは思いますけど。

この記事で気になったのは、逸失利益の計算についてです。

『死亡交通事故の被害者が生涯で得られたはずの逸失利益を算出する際に、決定額は法定利率で運用されたと仮定し、その利息分を支払い時に差し引いている。例えば、未成年の死亡交通事故の被害者が18歳から49年間働き約1億3800万円を稼ぐと仮定した場合、年5%の利息分を差し引いて3310万円のみを支払うとの判決が出ている。適用利率が低ければ、遺族が受け取る賠償金は多くなるため、識者や遺族の間には「低金利時代なのに年5%もの高利運用の見通しは立たず、被害者に厳しすぎる。現状との乖離を見直すため、法定利率の見直しが必要だ」の声がある。』

ここで、「運用利率」とか「49年間働き1億3800万円稼ぐ」とか出ていましたので、んん??よく判らんな、と思ったのです。で、ちょっと調べてみました。

現在価値(逸失利益)の計算式

結構詳しく計算しているんだな、とちょっと思いました。が、どうなんでしょうか、とも思いました(笑)。
裁判所はライプニッツ係数を用いて判決を出していることが多いでしょう。

例えば、コレとか>平成18(ワ)178 交通事故による損害賠償請求事件


どういうイキサツというか、採用経緯だったのかは判りませんが、単なる予想では米国とかの保険会社が払う保険金額なんかの算出に用いられたのを見て、それを真似して使うことにしたのではないかな、と思ったりしますが、どうなのでしょう。もしそうなら、マムシのような米国保険会社の都合のいいように、あくどい顧問弁護士なんかが「いかに少なく払うか」というような奸智の限りを尽くしているのではないか(→陰謀論、笑)と思ったりしますが、どうなんでしょうか。勿論、冗談なんですけれども。

判決文などを見て思ったのは、そもそも仮定が間違っているのではないでしょうか、という素朴な疑問ですね。
逸失利益の基本的原則は、「毎年同じ収入を得る」ということになっているのです!例えば、昨年の年収が100万円ならば、これが将来のどの時点でも100万円だろう、という仮定に基づいているものと思われます。なので、未来時点の収入を「(基準年時点での)年収×年数」ということにしてあるのです。これが根本的に間違いなのではなかろうか、と思ったりします。

裁判所の考える将来というのは、「物価上昇ゼロ」「賃金上昇率ゼロ」という恐るべき世界なのです。日銀が聞いたら、泣いて喜ぶでありましょう。涙を流して、「有難う」と両手を握り締めてくれることでありましょう(笑)。「物価の安定とは、理論的には物価上昇がゼロの世界のことである」という日銀のセントラルドグマに合致するものでありましょう。これは単なるイヤミに過ぎませんので、どうでもいいのですが、過去数十年間の推移を見てきますと、恐怖のデフレ期間に賃金上昇率がマイナスになったりしましたが、概ねプラスで推移してきたのが現実です。物価上昇率も長期変動で見れば(デフレ期間は例外的な出来事であった)プラスなのです。従って、賃金自体は大体増えていくということが多いのですね。それは最低賃金の水準が上がってきたのも同じ意味合いです。ですので、将来に渡って賃金上昇率がゼロで、昨年100万円だった賃金が、数年か数十年後かであっても100万円だ、ということを想定する方がはるかに困難なのではないかと思うのです。

ライプニッツ法とかを用いるのは、割引現在価値を求める為です。裁判所は10年後でも100万円の収入、と思っているわけですから、この「10年後の100万円」を現在もらうとしたらいくらになるか、ということを計算して求めているわけです。

割引現在価値 - Wikipedia

この割引率に民法規定の5%を用いる為に、大幅な割引となってしまい、現在価値が小さくなってしまう、ということが問題になっているのであろう、と思われます。読売の記事にあったように、49年間も働いているのに1億3800万円の収入にしかならず(これでも十分少な目だろう)、これが5%複利の割引率で大幅に減価されてしまう、ということです。

裁判では将来時点の賃金上昇率を決められないということから、毎年同じ収入であるという前提で計算しているものと思いますが、これをまず改めるべきではないでしょうか。今年100万円の給料でも、来年には101万円、次の年は102万円というように賃金が上昇していくことの方が多かったわけですから、それに準じて計算するべきということです。上の交通事故の判決文では、想定される年収が賃金センサスから「3490300円」という風に推定され、これが毎年続くという仮定となっていましたので、この現在価値を計算したものと思われますが、そうではなくて、過去の分については実際の賃金上昇率を用いて計算するとか、長期平均の賃金上昇率が起こったものと仮定してみるとか、そういうことです。

例で考えてみましょう。
5年間分の逸失利益を計算するものとします。年収は100万円で、裁判所の考えるように毎年100万円を得るとして、現在価値を計算してみます。

1年 952381円
2年 907029円
3年 863837円
4年 822702円
5年 783526円

合計では4329475円となって、500万円だったのが大きく減少しています。

しかし、賃金は大抵上昇するものと仮定し、平均賃金上昇率と国債金利(の移動平均?のようなもの)とがほぼ同じと考えられるなら、将来時点でもらう賃金から中間利息を差引くと、現在価値では100万円ということになります。

賃金上昇率が毎年1%であるとしましょう。すると、今年100万円の給料であったなら、来年には101万円になる、ということです。「来年貰える101万円」とは、1%運用できる現在の100万円と同じです。ですから、現在価値はライプニッツ法で割り引くのではなく、100万円と考える方が好ましいのではないかと思われます。賃金は次のような推移となると考える、ということです。

1年 1010000円
2年 1020100円
3年 1030301円
4年 1040604円
5年 1051010円

この割引現在価値は全て100万円となる、ということです。この方法であれば、「基準となる収入×年数」という単純な計算で現在価値を求めることができると思います。基準の収入は、「高卒女子の全年齢の賃金センサス」とかを用いるのではなく、被害者の年齢(又は年齢階級)別全業種平均賃金などを用いるのがいいのではないかと思います(そんな統計数値があるのか知らないのですが)。
最終的には、500万円の収入を得るとしても、最低限生きていく為の経費はかかるのですから、その分を減額することが必要になるでしょう。それが r という(1-生活費率)とか、労働能力喪失率といった係数で調整されるものと思います。


賠償額の決定方法を具体例で考えてみます。

8歳男児が交通事故で死亡したとします。10年後の18歳から働き始め60歳で定年後、別な仕事で67歳まで働くものとします。60歳以降の給与は退職直前の4割程度であると仮定しましょう。

①18歳時の給与の推定

現在高卒新卒者の平均賃金が300万円、年平均賃金上昇率が1.5%であるとします。すると、もし男児が生きていれば10年後に給料を得るので、その時点の賃金を推定する、ということになります。
300万円×1.015^10=3481622円


②18~60歳の収入総額の現在価値

3481622円の賃金でスタートし、その後賃金上昇率と資産運用利率が同等であるならば、60歳までの42年間今の賃金が継続するのと同じくなります。18歳時点での価値は
3481622円×42年間=1億4622万8124円
となります(これは10年後時点の値です)。
この割引現在価値(=1億4622万8124円/1.015^10)は300万円×42年=1億2600万円となる、ということろがミソですね。ですので、最初から300万円を基準として計算すればよいということになります。

この他退職金の推定額を加える必要がありますが、これは退職時点給与から推計するか、現在の平均額を適用するかでしょうか。とりあえず今の平均が1000万円としておきます。すると、賃金収入の現在価値同様に、52年後に貰うであろう「?円」の退職金の現在価値は今の平均と同じです。よって、合計すると1億2600万円+1000万円=1億3600万円、ということになります。


③60~67歳の収入の現在価値

60歳の定年退職直前の給与は推定で6506620円となります。転職によって、賃金はこの4割に減額されますから、2602648円となります。これが7年間分ですので、合計は2602648円×7年=18218536円となります。この現在価値は、というと、18218536円/1.015^52=840万円です。すなわち、300万円×4割×7年と同じくなりますね。先の給与推計の時と同様に、今の水準での計算と同じになるので、計算が楽です。


④最終的な支払額はいくらになるか

生活費率は裁判所でどのように定めているのか判りませんでしたが、例えば半分に減額されるということであれば、逸失利益額に50%をかけた分が、賠償するべき額となります。上記例での①~③からすると、逸失利益の現在価値は1億4440万円となりますので、この半分が生活費率となれば、賠償額は7220万円ということになります。

生活費率という大雑把な係数ではなくて、もう少し工夫が必要なのであれば、年齢階層に応じて減額率を変えていいかもしれません。個々の事例に応じて裁量権を発揮したいのであれば、この係数の幅を持たせておくとか、慰謝料の上乗せで対応するとか、何か考えられるでありましょう。少なくとも言えることは、裁判所の仮定している、一定の賃金が将来の遠い年月に渡って続いていくということが、あまりに現実離れしている、ということです。


⑤感想というか、まとめ?

いつもながら、本当にいい加減な例を書いてしまいましたが、それでも、「高卒18歳で年収300万円」~「定年退職時点では約650万円の年収」という賃金増加の方が現実に近いのではないかと思えます。「350万円が49年間続く」みたいな仮定の方がおかしい気がする、ということです。そこから更にライプニッツ法で計算した結果を、「割引現在価値とする」みたいに言うのも、経済学というか数学的知恵を用いているように見えて、イマイチな感じです。諸外国とかでも、これが普通だ、とか言われてしまうのかもしれませんが。でも、結果的には「割引率が大きい」だけの、問題のある賠償判決となってしまっているように思えます。

これまで日本の経済学者たちは、文句を言ったり、間違っている、とか誰も何も教えてあげなかったのでしょうか?消費者金融の上限金利にはあれほど文句を言う経済学者さんたちが多かったのに、どうしてこのようなごく普通の民法規定の利率5%については「長年放置」してきたのか不思議ですね。だって、100年以上前から決まっていたことらしいですから。その間、誰も疑問に感じたりしなかった、ということなんでしょうかね。法学分野の関係者たちに、「改善するように」とか「経済学を無視するな」とか「経済学的に間違っている」とか、散々文句を言っても良さそうなんですけどね(笑)。つまりは、経済学の理屈を利用するのは、何かのイデオロギーとか利権とかのような闘争か、単なる優越感ゲームのような時だけなのかもしれません。

もしも民法規定を変えるのであれば、「別に定めがある場合を除いて~」というような感じにしておけば、いいような…とか私ごときが思ってもしょうがないのですけど。別な定めはそれこそ、別な法律で定めておいて、分野ごとで表現方法を変える必要があるかもしれません。基準金利(+上乗せ)に連動した変動制とか、裁判の遅延損害金の金利幅だけ他と変えるとか、色々個別の事情があるかもしれませんので、専門の方々によく検討して頂ければ、と思います。



医療費のコスト~命の値段を付けられるか?(ちょっと追加)

2007年07月16日 00時37分28秒 | 社会保障問題
医療費の問題について、とてもよく判る記事がありましたので、書いておきたいと思います。

原田氏は、高齢化要因ということで医療費が増大するわけでもない、ということを述べておられる。GDP成長率よりも低い程度でしか増大しない、という推計を出しておられた(是非元の記事をお読み下さい)。

BizPlus:コラム:原田 泰氏「経済学で考える」第61回「『高齢化で医療費増』は本当か」

(一部引用)

医療費の増加が医療の進歩によるのであれば、国民の負担は増えていない。それで難病が治り、健康寿命が延びるのなら、実質的に国民は豊かになっているのだから負担にはなっていない。大きなテレビが買えるようになったから、負担が増えたと考える人はいないだろう。白内障が治ったら、それは生活水準が格段に向上しているのであって、負担が増えている訳ではない。これを企業の立場から見れば、売り上げの増大は高齢化によってではなく、医療技術の進歩によってもたらされることを意味する。

 ただし、医療の進歩には疑問を呈したい点がある。どんな産業の進歩でも、生活を快適にする進歩とそれを安価にする進歩の2つがある。薄型テレビは、大画面、高画質、高音質になりながら安価になった。ところが、医療においては、治癒向上の進歩はあっても、コスト低下の進歩が起きることがまれであるように思える。医療においても薄型テレビのような進歩を起こし、健康寿命を伸ばしながら医療費を安くすることが求められている。質とコスト両面からの技術進歩が進めば、懸念れているような医療費の膨張は、名実ともに回避できるのではないか。




医療費については実額が増大したとしても、「対GDP比は減少する」という推計を出しておられます。そうであるなら、厳しい医療費抑制策というのは、理に適っていないのではないかと思えます。政治家たちや厚生労働省は何とか考えて、過度な抑制路線を変更してくれ、と思ったりします。


これとは少し離れますが、引用部分のご指摘について検討をしてみたいと思います。
質の向上と、コストを低コスト化していく面と、両方が望ましいというご意見ですが、これはそうだろうなと思います。医療以外の多くの分野でそういうことが達成されてきましたから。では、医療においてはどうなんだろうか、ということを考えてみたいと思います。

例えばガン治療というのは、昔は大変難しかった。ほんのひと昔まえのドラマとかだと、「ガンだということは本人に言わないでおきましょう」みたいに、ひた隠しにしていたでしょう。要するに「死の病」というイメージだった。だから、「あなたはガンです」と言われりゃ、まさしく「ガーン」って(笑、オヤジギャグでごめんね)なっていたのです。告知するべきか、しないべきか、みたいな「社会派テーマ」で大問題となっていたわけです。それこそ数限りなく論争みたいなものがあったり、文化人とか識者たちがあれこれと「言うべきだ」「いや、本人の云々」「家族が~」「支える人が~」「生きるって~」「人生って~」となっていたわけです。でも、イマドキ、そんなテーマで大論争みたいなものとか、あんまりないと思うのですよ。それはどうしてそうなったかというと、方向性が定まったからだ、という部分はあると思いますけれども、それ以上に、「死の病」ではなくなってきた、ということの影響が大きいのではないのかな、と思うのです。

それは民間会社の医療保険の傾向などにも現れていて、3大疾病だの、ガン保険だのと色々と出ているわけです。住宅ローンにさえ、特約がついている時代です。それらは主に「死を前提」として商品価値のある保険ではないでしょう。治療して、その後の生活があるので、それらをカバーするべく保険制度となっていると思うのです。治療する、生きる、そういう為にある商品でありましょう。死を前提とするのであれば、「死亡保障」だけあればいいわけで、それなら普通の生命保険と同じ意味合いでしかありません。ですので、ガンという病は、ある程度克服可能な疾病であるということになってきたのです。

ここからは、あまりに酷い喩えといいますか、非人間的な仮定をしていくことになりますので、反感を憶える方々もおられると思いますので、予めお断りしておきます。私個人としては、「人間の命の値段なんて付けられないんだ!」という意見とか考え方には、共感できるのですが、それでも社会的には「意図的に考えねばならない時もある」ということをご理解下さい。交通事故で死亡したら、逸失利益として金額で出されてしまいます。それはやむを得ないのです。私自身、自分の家族とかに値段なんて付けられません。金じゃないんだ、命は地球より重いんだ、というのはそうだろうと思いますけれども、説明には金額が必要ですので、ご容赦下さい。


毎年人口も死亡者数も変わらず、一定の年齢で死亡していくものと仮定します。で、ガンで毎年20万人が死亡するとします。これは常に一定です。この疾病の発生確率は変わらないものとして考える、ということです。「昔」という時点と、「現代」という時点とを比較検討することとします。

昔:
・年間100人が治療により助かる
・治療費は一人当たり100万円
・治療後全員3年間生存し、その後再発で死亡する
・全員の生み出す平均利益は一人当たり300万円
こういう条件であるとします。すると、ガンにならなければ得られていたであろう利益というのは、死亡した20万人分があったはずです。毎年、300万円×20万人分あったことになります。けれども、ガンという疾病によってそれらは失われてしまう、ということです。

一人当たりの利益は300万円で3年間生存しますから合計900万円ですが、治療費を100万円投入しているので、差額の800万円が回復された利益ということになるかと思います。これが100人分ならば8億円です。収支は、治療費1億円で9億円を回収したことになります。

次に、時代を変えて見てみます。
今:
・年間10万人が治療により助かる
・治療費は一人当たり150万円
・治療後全員5年間生存し、その後再発で死亡する
・全員の生み出す平均利益は一人当たり450万円
条件が変わりました。
医療費も利益も1.5倍としています。
更に、生存率が向上して5年になっているとします。

一人当たり450万円×5年分=2250万円ですが、治療費150万円が投入されているので差額は2100万円となります。10万人が助かるので、全部で2兆1千億円となります。投入された治療費は全部で1500億円です。昔に比べて1500倍の治療費となっていますが、得られる利益は約2333倍です。命を買う、人生という時間を買う、ということは、本来的には「プライスレス」だと思うのですが、助けられる人の数が増やせるというのは、多くの場合に大きな経済学的利益を生み出すはずです。

医療において「低コストになっていく」ということはどういうことかと言えば、相対的に投資効率が良くなることで、以前には100人にしか提供できなかった医療技術や水準というものが、今では1000倍の10万人に提供できる、というようなことです。一人当たりの単価自体は若干上がってしまうとしても、得られる成果は大きくなるので、相対的にコストは下がっていると考えられるでありましょう。それは、言い方を変えれば、かつては「死」をもってそのコストを支払っていたことになるからだと思うのです。

近年、薬剤耐性の結核が問題になってきていますが、それでも昔のような「サナトリウムの美少年」みたいに、若くして死亡みたいなことが減って、結核で死亡する人たちは減少したでありましょう(最近は逆にやや増加基調だったかもしれません…ちょっと調べてないので判りません)。そうした時代の人々は結核自体の医療費は今よりも少なかったかもしれませんが、命でコストを払っていたからです。自分の人生という時間を削って、コストを払うことになっていたからです。ですので、低コスト化ということを達成するのは、目で見て数字で表すというのは難しい面があるかもしれませんが、「あなたの命、人生の時間で払ってもらえればいいですよ」と言われた時、お金ではなくそれらで払える人たちはどれほど存在しているでしょうか、ということです。死亡率の低くなった疾病の多くは、知識とか治療技術などが確立されていく過程で、「命で払う」「自分の時間の削って払う」ということがなくなり、「お金で払う」ということに変わっていったのだろう、と思います。昔の一人と、今の一人の命も時間も全く同じ価値であるなら、昔の多く死んでいっていた時代というのは、病気のコストが「凄く高かった」としか思えないのです。


変な例かもしれませんが、ここであるゲームというか遊びを考えてみます。
チェスの対戦をします。相手は史上最強の人工知能を持つ「ディープ・レッド」であるとします。AI に勝利すれば、あなたには「名声」「喜び」が手に入るとします。あなたが直接対戦することも可能ですし、代理人を立てることも可能であるとしましょう。勝利の確率を次のように仮定します。

対戦するのが
①自分の時:勝利確率は「0.1%」
②A級代理人の時:同 「1%」
③B級代理人の時:同 「50%」
とします。
負けた場合には、あなたの命を頂くことになっています。
この時、代理人AやBのコストはどのくらいになるでしょうか?

うまく考えることができないのですが、これって自分の命に値段を付けねばならない、ということなのではないでしょうか。
勝利しない場合には命を取られるので、代理人Aと代理人Bの値段を決めるとなれば、Bの方が相当高額になって当然なのではないでしょうか。でも、公定価格によって決まっていて、あまり上がってこなかったであろうと思います。それと、かつてはA級しかいなかったのですが、B級代理人の数が圧倒的に多くなれば、1回の対戦当たりでの勝利のコストは「下がった」ということになるのではないでしょうか。

病気の時(=対戦する時)は避けられないのですし、代理人(=医療従事者)は法外な報酬を請求してきたりはしないのです。公的に決まっているからです。勝利コストを確実に下げてきたとしても、多くの人々にはそれがあまりに当たり前過ぎて判らないのであろうと思うのです。もしも判っているのであれば、例えば、周産期死亡がこれほど減ってきたことの意味が理解できていたはずで、医療ミスを責め立てるようなことにもならなかったでありましょう。


結局のところ、自分自身(それとも家族とか?)の命の値段、自分の人生の時間の価値、それらが安価であるなら低コスト化ということには繋がらないでしょう。逆に、価値が高ければ高いほど、低コスト化が達成されているということになるのではないでしょうか。生命、健康、時間、それらをベットして、勝利を手に入れるゲームに参加しているのですから。代理人の報酬と成果は、もたらされた利益―すなわちベットされたものの価値―の大きさとの比較に過ぎないのです。



ちょっと追加ですが、以前にも似たようなことを書きましたので、参考まで。

医療費の分析~その1(追記あり)

医療費の分析~その2

介護問題を考える~「時は金なり」