いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

ブログ復帰とか新設のお話

2005年05月25日 01時23分20秒 | 経済関連
良い話題。左下の方のブックマーク欄にある、昨年末でしばらくお休みされていた「プチ総研」さんが今月から復帰されておりました。今まで入れ替えたりするべきか、迷ったこともあったのですが、待つことも大切であると思いました。このように復活されたので、今後もお邪魔したいと思っております。

それから、先月末で「IT top front」を終了された小倉弁護士は、今月から別なブログ(Annex of BENLI)で頑張っておられます。以前のテーマよりも更にパワーアップしているようでもあります。憲法改正論議とか匿名問題などについて書いておられます。以前からの熱烈読者の方々の一部も一緒に移動されたようで、記事もさることながらコメント欄も以前と同じように活発です(前から見ておりましたが、なかなかです)。木村剛氏も小倉先生のカムバックを求める記事を書いておられましたから、きっと安心されることと思います(笑)。

そして、Hot wired japan の小倉先生の後には、bewaad さんがご推薦の田中秀臣先生の新企画が始まっております(参考記事。記事では盟友としてbewaad さんの名前を挙げておられましたね。「盟友と言えばヤマタク」なイメージですので、何となく微妙な感じもありますが・・・悪い意味ではありません)。こちらは経済学関係ということで、専門家同士の激突が見られるかもしれませんね。というか、ご本人も「ノーガード戦法」と仰っているくらいですから、既に他の専門家の挑戦を受付中という趣でございます。今後が楽しみです。


以上、新たな動きの簡単なご報告ということで。



ネット言論の試練3

2005年05月24日 18時18分16秒 | 俺のそれ
―私的ブログ考、マスメディアとブログの政治的影響力

「極東ブログ」さんの記事に反応して書いてみたいと思った。その記事に紹介されていた「fujisankei business-i」の記事(そう言えば、時々木村剛氏も書いているんですよね?)を乱暴にまとめるとすれば、「ブログは影響力を持つが、(質的に)マスメディアと違う」ということのようです(元の記事は「極東ブログ」さんのリンクから読んで下さいね)。


調査結果を見れば、今さら、と言う感じがしなくもないですが、いつも言うように私の記事は単なる感覚に過ぎないので、こういうきちんとした調査をすることで確度の高い信頼性の置ける情報があることが大切ですね。少なくとも私の記事に書いてあるよりもはるかに説得力がありますね。このことで、自らの主張が強化された事を殊更に強調する訳ではありませんが(本当は強調したいんです!笑)、自分の感性を多少なりとも確認できますね。

過去の参考記事:

マスコミの存在意義
ネット言論の試練1
ネット言論の試練2


感覚記事は、多くが不明(不確か)のまま書いてしまうことが大きな問題なのでありますが、その検証ができることはとても重要なのです。でも、信頼性の高い記事が登場する前に、自分の思いを書いておかねば、私が真似したんだろうと思われるでしょ?感性のみで対抗!これしかないんだもん。でもね、今度は少し私への信頼性がちょっぴり高くなったような気がしませんか~?(笑)


マスメディアの存在と個人ブログの存在は機能的代替の必要性がないし、それを目指すよりも促進的共存を目指すことの方が効率的で、双方にとってメリットがあると思っています。今後は「サイバー・デモクラシー」について書いてみようと思っています。


余談:
今日、遂に「finalventの日記」のコメントに書いてしまいました。やっと、finalventianの仲間入り(?、になれるでしょうか)かな・・・


唐突な帰国の意味するもの

2005年05月24日 13時57分52秒 | 外交問題
中国の呉副首相が帰国は、報道にある通りである。これについて、小泉さんはまたしても頑固さを発揮して、「そんなことはやっても無駄なのに。審議拒否がうつったみたいだな」などと暢気なことを言っていた。もう少し、事の重要性について思い巡らせるべきだろう。鈍感幹事長の「干渉発言」が決定的なパンチとなった。小泉・武部の日中関係悪化のダブルパンチ。何をやってんだか、もうー!重要な舞台で、武部幹事長の外交センスではダメに決まっているでしょ。外務省の方々は「台本」をきちんと書いて渡さなかったの?それとも、付いて行ってなかったの?それとも「台詞」書いて渡したのに、勝手に変なアドリブ発言したのか、台詞をきちんと覚えられなかったのか、よく分らんけど。本当に、センス悪すぎですから!

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 中国副首相、異例の会談中止 「外交ルール無視」 対中姿勢強める構え


中国で武部君が「靖国問題について(要求・発言すること)は、内政干渉である(との見方も出ている)」(言外には、「なので、あまり発言しないで欲しい」)というようなことを言ったらしく、これに中国側は激怒。「度重なるシグナルを送っていたのに、無視かよ」的な反応であった。そりゃさ、間違いなく怒るだろうね。どのように靖国問題に言及しなくて済むのか提案したのに、それを中国で蒸し返されて、武部君のバカ外交で「内政干渉だ」という発言をぶつけられては、本国からすぐさま副首相に連絡が行ったことだろう。
「会談中止だ!」
所謂意趣返しみたいなものだろうな。


その結果、小泉さんは「おあずけ」を食らった形で、サッサと踵を返され帰国されてしまったということだ。小泉さんの「参拝”時期”については、適切に判断します」という不快感露わの答弁も、武部君の「内政干渉」発言も、いずれも中国側の感情を逆なでしたのである。だから言ったでしょう?福田節が何の意味もなくなっちゃったじゃないか。

王毅大使の紳士協定
福田節とガンコな小泉首相


今後は、「喧嘩別れ」路線を選択するならば、いっそアジア単独行動主義でもとることにするのかい?ならば、相手が何と言おうとも、「何バカなことをほざいているんだよ」と突っぱねられるし、ご近所との仲が悪くても気にせず参拝出来るし、中国国内での経済活動も大幅に停止して、「国力勝負」で挑んでみるとかもできるよ(笑)。どう?そのくらいの本気の覚悟で臨むのかどうかであるし、そういう外交で国内支持が得られると思っているなら、やれば?それとも、協力関係を残して、多国間主義でいくならば、多少の我慢も必要でしょう?煙が酷いから、「お庭でバーベキューしないでね」というご近所の苦情があるならさ、普通は家の庭でやらないだろう?「そんなのウチの勝手だろう」とか言えば、近所の人も嫌な感じになるでしょう?そういう配慮に欠けている、っていうんだよ。閣僚や与党幹部が国内向けのアナウンスとして「まったくもって失礼だな」とか言うのと、相手に面と向かって言うのでは訳が違うでしょ?


潜水艦とか暴動などのような、主張するべき権利があるときに、相手に言うのは当然である。相手がツッコミを入れてきたら、ねじこまれないように答える術も必要である。しかし、わざわざ「火に油」を演出するのは、外交戦略としては上手いとは言えないだろう。これは敢えて挑戦状を叩きつけたと思われても仕方がないだろう。相手をへこまそうという意図を持っているならば、「いま何と言った?」と凄まれてあっさり前言撤回などせずに、きちんと「個人的な宗教心の問題であり、政教分離の原則を規定するわが国の憲法の精神を尊重しそれに則って対応している」とか言い切れよ。それも出来ないのなら、初めから挑戦などするべきではないだろう。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 武部氏「内政干渉」発言撤回 靖国批判、中国抗議受け


言葉の繊細さとか、感情のヒダとか、相手の目の中の色(目の表情?っていうか)が分るような人じゃないと、直接会見での重要な発言は無理なんだって。武部君にはそういうセンスの欠片もない。猪突猛進型の突進タイプでは、荷が重過ぎ。大体ね、この半年間での東アジア外交は、「1歩進んで2歩下がる」だ。小泉さんの個人的頑迷さが問題なのだが、周囲の人間ももっと配慮しろよ。本当に皆さんね、よく考えて行動してくださいよ。



橋梁談合事件と「けじめの時代」

2005年05月24日 11時57分14秒 | 社会全般
「けじめの時代」、この流れはどこからやってきたのだろうか。そうだな、21世紀という時代の流れ、日本人の「これからの生き方探し」的な漂泊感、そういったものが、連綿と続けられてきた古きシステムを壊すことを求めているのかもしれぬ。小泉首相の登場と、時代の要請にマッチした「構造改革」という名の、守旧勢力を打破するべき政治的手段を手に入れたことは、飼いならされてきた国民にとっては大きな意味があった。「欺瞞の構造改革主義信奉」という、批判的立場の「学究の徒」もいるだろうが、それは多分今知られている経済原理の中にある幾つかの指標しか見ていないからである。人間には心がある。心の客観的数値化など、今のちっぽけな人間の科学レベルでは不可能である(もしそれが出来るならば、こっそり私にだけ教えて欲しい。投資とか恋愛とかにフル活用なんだけどな・・・笑)。政治に最も重要なのは「民心の安寧」であり、これを数値化して経済学的原理の中に組み込むことができるならば、今まで以上に正確な経済学的法則を一般化して適用出来るようになるだろう(と思う、かな)。


自然界の凄いと思えることは、およそ人間の考えられるような一般的法則・原理がだいたい含まれているところであり、何万年かに渡って積み上げられてきた人間という種の生き抜く知恵が自然界から見出され、後世に伝承されたかのようである。それが、宗教とか、何かの経験則とか、そういうものが何かの教えとなって今まで残されたような気がする。人間の浅はかさや欲望など、2千年以上前から何も変わってなどいない。中国の宦官たちやお役人達の賄賂も、時代劇に登場するような「ぐえっへっへっへ、そちも悪よのう」的お代官様や「越後屋さん」(本当はワルではないそうです、笑)も、現代の繰り返し起こる談合も、どれも同じようなもので、人間の行動原理など大きな違いがなく、進歩のない人間というのが必ず存在するということなのであろう。単なるバカだな。


そんな訳で、毎度まいどのこうした談合事件とか贈収賄事件とか、その犯罪構造は似たりよったりです。お役人達や政治家の関与は、今までに何人も挙げられてきたので昔に比べればはるかに薄まっているでしょうけれど。ですが、談合で活躍する人達というのは、お役所、お役所仕事、役人の人なり、公共事業システムなどを熟知している人達なのではないのかな、とも思います(それは天下った方々が主なのでしょうか?よく判りませんが)。


今回のような大型の事件は、恐らく明るみに出る前から噂とかで知られていたのでしょうけれども、公取が動いて告発しておりますから、捜査当局の本気が見てとれます(これからも頑張れ、公取!)。今後もこうした大型の事件は出てくる可能性はあるかもしれません。行政システムにはびこる抵抗勢力に対する見せしめ的な意味があると思うからです。また、これも言うなれば「国策捜査」という一面があるのではなかろうかと思います。「けじめの時代」がこうした不祥事追及を要求するのでしょう。政官業スクラムの切り崩しは、小泉内閣の「構造改革路線」がなければ行われなかったかもしれない、と思えば、大きな意味があったと言えるでしょう。


しかしながら、菅直人氏曰く「官僚主権国家」の本体であるところの、「霞ヶ関の深淵なる闇」への切り込みは、まだまだ遠いと言わざるを得ません。今回の談合事件の背景にある、国家予算の配分システム・遣われ方というものについて正しい評価を行うことがあらゆる分野での不正を減らすことに繋がるわけですから、霞ヶ関本体の闇を取り除くことこそ、国民の、そして時代の要請であると思います。今後の内閣及び経済財政諮問会議の、「官僚主権」からの脱却を進める政策・指導力が試されるでしょう。



「中国反日デモ」から見える日本政治~その3

2005年05月23日 18時00分17秒 | 社会全般
②サイバー・デモクラシー

近年この「サイバー・~」という造語やテクニカル・タームは増加の一方であるが、佐々木氏は「サイバー・デモクラシーの問題として学界でも話題になっている」と述べており、どうやらこの「サイバー・デモクラシー」が学界では既に認知されているということのようである。これに少し関わりのある記事を以前に書いたので、参考までにお読み頂ければ幸いである。


言葉の創造と理解
続・言葉の創造と理解
日中関係の報道は?
電脳炎上と現実炎上
右翼化する時代


佐々木氏はこうしたサイバースペースの政治活動については、「政治的近代化の観点からすれば、インターネットの世界に大きな政治的エネルギーが滞留するのは決して好ましい事態ではない」としている。これは、ネットでは「政治的意思の疎通においてはしばしば過激な議論や言辞、「現実」から乖離した議論が流通しやすい傾向があり、人間同士が向かい合って議論することを通して醸成される「現実」との接点が貧困になる可能性を含んでいる」ことをその理由として挙げている。今までの傾向から見れば、そのように考えることは自然である。そして、この「サイバー・デモクラシー」への否定として、「「現実」からの遊離を促進し、政治の疑似体験にいたずらに自己満足を見出す可能性が高い」とした上で、この対策としてはリアルな世界での「政治的意思の表出余地を広げ」、「「現実」にそくした実物教育に誘導していく方策が望まれる」と述べている。


佐々木氏の主張は、「サイバー・デモクラシー」への期待やエネルギー蓄積は避けるべきである、というものであると解釈した。また、私が最もショックを受けたのは、そのものズバリと言われてしまった、「いたずらに自己満足を見出す」ということであった。まさにそうだ。これは以前の私の記事にもそのようなことを書いたのだが、真にその通りだとすればまことに残念である。私の今まで費やしてきた、下らないエネルギー蓄積は一体何だったのか、という無念さがこみ上げてくるが、多分“学界”ではこうしたサイバースペースにおける言辞には「耳を貸すべきではない」ということが未だ主流なのであろうと推測する。やはり現実社会で特定階層に属さない人間の言説というものは、何の説得力も持たないのであるし、ネットでの意見というものはそれ自体が「仮想」なのであって、現実遊離の産物であるということだ。


これを「はいそうですか」とは素直に認めたくはないが、実際には多分当たっているのだろうと思う。だが、佐々木氏が言うように、一般大衆が「「現実」に自ら対面し政治権力と向かい合って、自己の政治的意思の表出」を実際に行うことなど可能なのだろうか。ならば、聞こう。現実に小泉首相や竹中大臣が私に向き合ってくれたり、岡田代表が私と対面してくれたりするだろうか?そうして、私にはそうした政治的意思の表出機会が実際に与えられることなどあるだろうか?答えは勿論決まっているだろう。「それなりの「現実」感覚」とはそういうものなのではないか?政治的近代化は一般大衆の政治的意思の自由な表出機会・環境が必要なのであり、この機会・環境において現実世界とサイバースペースとの違いを求めることなどないように思うのであるが、佐々木氏は「現実世界で申し述べよ」ということなのだろう。この感覚は一般大衆のものと全く異なったものであり、それは氏がおよそ多くの政治関係者と直接会えるとか、意見表出する機会があった為に、「現実世界で申し述べよ」という発想になるのだろうと思う。それは氏が単に特定階層に属する人間だったからである。これが果たして政治的近代化なのか?


これに対する叛旗として、「サイバー・デモクラシー」の影響力を高められるように私は活動を続けるし、「現実遊離」や「自己閉塞」に陥ったりしないように出来るだけ注意をしながらやって行こうと思う。だが「自己満足」を防げる自信はない。政治的影響力の評価が正確には出来ないので、活動の動機付けとしては「自己満足」という面が必要になることもあるからである。


③政治の「幼稚化」

佐々木氏はこれに関しては、「これまでの政治権力の基盤が動揺し、それに代わる政治的体験のストックがないという状況は安易なナショナリズムに格好の舞台を提供している。しかもこうしたナショナリズムが互いに連鎖反応を起こしている」、「メディアは互いの国民がどのような好悪感情を持っているのかを大々的に報道し、政治の動向が互いの「好き」「嫌い」関係によって決められるというような「幼稚化」現象が一部に浮上しつつある」と述べている。つまり、第一にメディアの反応・報道が余りに「幼稚」であり、第二に国民の好悪感情は大衆迎合化しつつある政治の現場で政策決定に影響を与えるということで、これら一連の現象が、政治の「幼稚化」ということであろう。

恐らく、この現象は中国だけに向けられたものではなくて、韓国や日本も含めることを意図しているだろうと思う。それが氏の言う「東アジア地域における政治的体験のストックの乏しさと政治の「幼稚化」の問題」で、むしろ日本の大きな問題にありつつあると感じているのかもしれない。そこで、日本への警鐘としては「まずは自ら「幼稚化」現象に陥らないこと、その上で世界世論を背景にこの地域の政治的・社会的近代化の旗印を掲げ続けること」と述べている。ただ、この「旗印を掲げ続けること」というのも、分ったようで分らないアドバイスである。だって、本当に旗を立てるわけにはいかないので、国民の好悪感情に流されることなく政治的決定を行う、というくらいのものであろうが、それが諸外国から見た時に成熟した国家としての姿勢として理解されるかどうかは不明だからである。外交の実力・政策や国際的政治力という点では、日本は旧大陸国家群と比肩するにはまだまだ遠いと言わざるを得ないと感じている。

政治的体験のストックで言えば、ヨーロッパのように近代国家群がしのぎを削り続けたりしない限り、実力をつけるのは容易ではないだろうと思うし。


まあ、小泉さんは今までよりも「程よく感情の抑え」がきいている方が望ましいのですが、発言には「好悪感情」がにじみ出てしまうのですから、日本が成熟した大人の国家としては評価されないこともあるかもしれませんが。今後閣僚全員に、ポーカーとかブリッジなどのカードゲームで鍛えてもらおうか(笑)。


シリーズの記事:
「中国反日デモ」から見える日本政治
「中国反日デモ」から見える日本政治~その2


「中国反日デモ」から見える日本政治~その2

2005年05月23日 13時59分15秒 | 社会全般
前の記事の続きです。昨日は用事があって、途中になってしまいました。スミマセンでした。
「中国反日デモ」から見える日本政治


また佐々木氏は政治的近代化とは、「大多数の人間が「現実」に自ら対面し、それなりの「現実」感覚を培い、その上で政治権力と向かい合うということ」を前提とし、「「現実」を認識するための多様な情報の流通がそのインフラとして存在した上での話」と述べている。日本においても確かに政治権力にいつも対面してきただろうが、大多数の人間が本当に現実認識のベースとなる多様な情報に接し、それを基にして政治の現実感を本当に持ち得たのか定かではないように思う。


明治以前に存在した政治体制としては、何と表現するのか分らないが、”商業ベース”の統治制度が好ましいようで、しかも村とか県(藩)レベルに小さな範囲の方がより効果的に統治が出来てきたような気がするのである(ごく一部の商業都市統治や一向宗などによる統治などの例外があるが、おおよそ自由度で見ればこうした限局化された統治の方が政治的には近代化されていたように感じるので)。”商業ベース”というのは、単純に経済活動が活発に行えればそれでよく、そういう経済活動の結果によって一般民衆の活力があり、統治者に対する反発が少ないのではないのかな。米が豊作であったり、郷土品がよく売れたりして、民衆がある程度潤ってさえいれば、特別な思想的活動を活発化して幕府転覆を図るなどということはないのではないか、と思うのである。そこには政治体制に対する特別な思いというものが存在しないんじゃないのかな、と。まさに黒澤映画の「七人の侍」に出てくる農民達と同じようなものなのではないかと感じるのである。


そういう背景があって、明治以後に一般大衆が急速に政治的経験を多く積み、その事が政治的近代化に大きな貢献をしたのだ、とは言えないように思う。日本の一般大衆の暴動は、前世紀末頃のロス暴動とあまり違いがなく、発端となる理由には様々なことがあるだろうが、行為内容としては困窮者が暴徒化して略奪などを働くというレベルであり、政治思想への強烈な変革要求というものは存在してこなかったのではなかろうか。暴動が起こったとしても、江戸幕府の征夷大将軍の「お命頂戴」とか「退任要求」とか「死刑実行」などということが起こらなかったろうし、明治天皇への要求というほどの事態には発展しなかったのだろう。一般大衆の要求レベルが、国民の権利とか自由とか統治体制の大変革というものではなかったということだ。


明治以後に幾度も暴動が起こったが、一般大衆の政治的意思が統治者を退場させる程の力を持っていたことなどあるのだろうか。現憲法に変わってからの戦後政治になっても、一般大衆のデモや暴動などの混乱は見られたが、それは中国の反日デモと似たような程度の社会的ストレスが発散されたに過ぎないのではないか。すなわち、ロス暴動や反日デモも安保闘争と似たレベルであり、政治的近代化のエポックとは異なったものと私は受け止めている。日本において、一般大衆は政治思想が成熟して暴動を止めたりするのではなく、明治以前の民衆と似たような「経済活動」が保全され安定した「経済状況」である限り、社会的ストレスの蓄積・膨化が単に少ないだけなのであり、それが見かけ上の政治的安定性となっているのであろうと思う。


結局のところ日本の政治的近代化は、一般大衆が牽引したというよりも、特定層の人達のせめぎ合いが行われ、それを傍から見ていて「誰に乗るか、どちらについていくか」のような行動が行われてきたことによるのではないだろうか。まるで会社組織の中で「どこの派閥に加わるか」「誰に付き従っていくか」というような、生き残り戦術みたいな面があって、それが大規模に行われた結果がその時代の政治に繋がってきたのだと思う。特定層のせめぎ合いは大衆支持に必ずしも比例しておらず、会社の派閥で言えば上司同士が勝手に争って結果が決まり、それぞれ支持する部下達の意向とは直結しないのである。そのことがいい場合もあるだろうし、悪い場合もあるだろう。正しい「誰か」が常に存在するとも言えないし、選択するべき「誰か」がいなければ戦前の日本のような方向へと進んでいってしまう。また、近年のように政治的無関心が起こることや、特定部分だけ見れば大衆迎合の結果として悪い方向へと進んでいってしまうこともある。特定層の人達の争いの結果は、とても重要ということになる。近年ポピュリズム的側面が強調されているような感がなくもないが、こうした傾向も特定層の政治思想の脆弱化によるのかもしれない、とも思う。


佐々木氏は一般大衆が自由な「政治的・社会的意思表示」が可能な環境を政治的近代化の条件と考えておられるのであろうと読んだのであるが、これはまことにその通りであろうと思う。中国の今後の政治的近代化において最も考慮されなければならないポイントであることは佐々木氏の指摘は正しいと思う。情報の統制や意思表示への政治的権力の制限が大きいことは、(今回のデモの抑制・防止にも繋がったのであるけれども)政治的近代化への大きな障害であることは間違いなく、日本でも戦後に大きく改善された点であろうと思う。また、日本ではネット環境の浸透によっても、そうした「政治的・社会的意思表示」機会は増加し、特定層の動向なども以前に比べれば見えやすくなってきていると思う。それ故に、大衆の求める政治には、手が届く程度の小範囲のものや、非常に個別・具体化したものが出てきたのだろうと思う。細分化された問題と従来からある大きな問題のその両者について政治的解決を提示できる、大衆が共通して選べる政治思想を持つ特定層というのは、なかなか存在しなくなってきているのかもしれない。



「中国反日デモ」から見える日本政治

2005年05月22日 18時30分07秒 | 社会全般
切込隊長氏は、『諸君』に「チャイナレポート」関連を執筆する(『中央公論』にも、何とか何とかなのだそう)とブログに書いておられたが、読売新聞のコーナー「地球を読む」では、「中国の反日デモ」について書かれていた。執筆者は今年度から新たに加わった佐々木毅氏で、「地球を読む」には初登場であったので、興味深く読んだ。佐々木氏は現在学習院大教授だそうだが、前東大学長でもある。そういえば、以前に切込隊長氏が佐々木氏の著書について書いておられましたね。何だったかな。ああ、マキアヴェッリものでしたね(国連との距離は?)。そうでした。


佐々木氏の「地球を読む」での私が感じたポイントというかキーワードは、①政治的近代化、②サイバー・デモクラシー、③政治の「幼稚化」、ということであった。これについて感想などを書いてみたい。


①政治的近代化
佐々木氏はミルの『代議政体論』を引いて、「意識面や制度面での長い経験の蓄積なしには政治的近代化はその現実性を持ち得ない。それは政府と国民との一定の信頼関係を蓄積することによって初めて可能になる。」と述べている。このことに同意できない訳ではないが、日本の過去を振り返ってみて、国民の政治的経験が本当に積み上げられてきたのか疑問に思うのである。そのことが、今のような国民の政治的無関心さやある種の投げやり・諦めに繋がっているかのようにも思える。明治時代に近代国家としての形が整えられていったのだが、日本の立憲政治というのは高々百年というレベルではないか。これが、他の近代国家に比して多いのか少ないのかは正確には分らないのであるが、少なくとも民主政治の醸成レベルはオールドな国家群とは異なっているだろうし、例えばG7の中でも若いと言わざるを得ないのではないだろうか。


それと、私の特殊な受け止め方を記しておきたい。私は陰陽道など全く知らないが、「還暦」という60年周期の古来からの時間的循環を思い起こせば、この周期で転換点を迎えてきたような気がするのである。幕府が消え1868年に明治となってから約60年後に、昭和(1926)という新たな時代が始まり(昭和の終わりは更に約60年後の1989年である)、日本は間断なき戦争国・帝国主義国家の色合いが強くなっていった。大日本帝国憲法は1889年に公布されたが、約60年後の1947年には今の日本国憲法へと変わっていった。立憲国家の形としては、現在までの約116年ということになり、次の転換点は2009年前後というのは有り得る話なのである(私は改憲推進論者ではありませんよ)。私のこじつけ的発想なので、これらに因果関係があるとか60年周期の循環が有意であるのかは分らないが、こんな風に感じてしまうのである。コンドラチェフの波があるように、政治・政体にも似たような循環があっても不思議ではなさそう、と思うのである。本題とは関係ない話なのですが・・・。


日本の政治的近代化は、主に思想家達、所謂知識人達や特定階層の人々が先頭に立って推進していったものであって、国民が自ら選択し作り上げたものとは違うような気がする。それに昭和の戦前政治にしても、国民が望む民主政治として推進された結果だ、などとは普通の人は考えない(国民としての責任論はまた別として、今はそれについては触れない)であろう。敗戦後の日本国憲法や政治体制についても同様で、特定の人間たちがそれを選んだに過ぎず、国民それぞれが自らの意志をもって他の政治体制との中から選択していったのとは違うであろう。もしも当時、一般大衆が政治体制を本気で完全自由に選んでいたとしたら、共産主義国家となっていたかもしれない(今の歴史を絶対視する訳ではないが、共産主義を選択しなかったことは正解であったと思える)。


(つづく)
途中ですが、お許しを。


鳥インフルエンザ対策

2005年05月22日 14時32分53秒 | 社会全般
鳥インフルエンザについてはWHOがその脅威について指摘しており、日本でも行政が動き出したようである。半分は、ベトナムとの外交上の資金協力ということなのかもしれないが、厚労省が共同で研究を行うことには安全対策上重要な意味がある。しかも、中国での発生が再び確認されており、日本の鳥にも感染が拡大する恐れはないとは言えないだろう。鳥の被害も確かにあるが、それ以上にパニックに陥りやすい状況はヒトへの感染で、これがもし確認されようものなら、また騒動が起こりかねないだろう。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 鳥インフルエンザ ヒト感染、危険性拡大 東南アジアで続発 ウイルス変異か

この記事より、以下に一部抜粋します。

今月三日のWHO報告書によると、ベトナムではこれまでに鳥インフルエンザ発生の波が三度あった。二〇〇三年十二月から〇四年八月までに起きた最初と二度目の波では、両方をあわせた致死率が74%と高かったが、第三波にあたる同年十二月から〇五年四月は36%と低下。しかし発生は続いており、現地からの報道によると、今月に入って二人の感染者が出た。これは、ウイルスの毒性が弱まったことで致死率が下がった半面、感染の効率はよくなった可能性があるという。
 今月六、七の両日にマニラで開かれたWHO専門家会議での議論のまとめによると、ベトナムでも地域差があり、致死率は北部では34%だったが、南部では83・3%と高かった。その一方で、集団発生は北部で八件と多発したが、南部では二件だった。タイでも昨年、ヒトからヒトへの感染が確認されたが致死率は71%、カンボジアでは100%と、ベトナム北部とは違っていた。



このような状況のようです。そしてもう一つは、中国の感染情報。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 鳥インフルエンザ、中国で10か月ぶり感染を確認


厚生労働省の動きは次のような報道がありました。

NIKKEI NET:経済ニュース


厚労省が考え付いたプラン(まさか外務省ではあるまい?)としては、まことに上策である。おまけに、ベトナムとの共同研究は、単なる国内研究機関への研究費ばら撒きよりも有効であるし、外交上も意味がある。中国と国境を接する国でもあるしね。まあ、鳥にとっては国境もなければ、どこから飛んできて、どこへ飛び去っても誰にも文句は言われないのであるが、ウイルスを運んでくるのは大いに文句が出るだろう。ウイルスに感染した鳥が、中国は「ベトナムから飛んできたんだよ」と文句を言い、日本は「中国から飛んできたんだよ」と文句を言う、みたいな構図になってしまうな。ベトナムから直接日本に飛んでくる渡り鳥は多分いないんでしょう?(もしいたとしても、何で飛んでくるかわからん。日本になんてはるばるやってきても、餌が多いとも思えないし、空気が悪く不健康そうだし、幸せになれそうな予感はないな。『幸福の王子』に登場するツバメさんが最も可哀想な鳥だと思うけど)。


そういう訳で、鳥インフルエンザ退治が出来るように準備しておかねばならないことは確実で、お役所仕事にしては早い動き出しであったと思う。いつもは、大騒動とか被害が大きくなってからようやく重い腰を上げることが多かったと思うけれど。こういう風に、きちんとやろうと思えばできるんじゃないか。この調子で頑張って下さいな。


男女の家事事情

2005年05月22日 12時54分10秒 | 俺のそれ
いまどきの男性は家事に協力することが多いそうだ。私は妻がいないと何も出来ない。極稀に食事を作るくらいだ(とは言うものの、全然たいしたことないんですが。即席メンは得意!)。finalventian達からは非難されると思いますが、「男子厨房に入らず」というのを自分に都合よく使っているだけなのですけれども・・・ゴメンナサイ。料理の得意な男性には、羨望の眼差しを送らずにはいられない。finalventさんはどうして料理が得意なのでしょう?妻は「料理なんか出来なくてもいいわよ」と言ってくれる。おまけに家事のお手伝いは子供の仕事と決めてあり、私は何にもしていない、本当に。世間の旦那さま達は意外にエライ、と思う。私よりはるかに協力的だもん。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 夫の家事はゴミ出し・食後片付け…分担意識で男女差

この記事によれば、<女性の34・5%が「家族で共同分担する形を強めたい」という気持ちを持っているのに、同様に考えている男性は18・8%に過ぎなかった。共同分担したいと思っている人は、40代女性が43・1%と最も多く、30代男性が13・6%と最も少なかった。>となっており、30代男性が最も非協力的ということなのか。私と同じ考え方の方々が、これほど多いとは。これも何故だか分らんが、意外だな。年配になる方が、家事をするのを躊躇うのではないのかと思っていたのだけれど・・・30代は他の世代よりも封建的なのだろうかね。


ゴミ出しも後片付けも、私は一切やらない。妻よ、ごめん。やるのは、「母の日」とか「誕生日」くらいなもので、その時にカレーライスを作るのと、食器を洗う(洗浄器に入れるだけなんですが、トホホ・・・)くらいです。他には、ワックスがけとか年末大掃除の時にちょこっと手伝うかな。こんな非協力的亭主は、いまどき落第でしょうね、きっと。家事苦手、というよりも嫌い。妻がいなければ本当に生きていけない。


ウチの場合には専業主婦なので、それでいいじゃないか、と少しは思っていたりする。だって、家事労働が妻の仕事なのだから、分担作業で考えれば私は外で働き、妻は家で働く。これも分担と言えるんじゃないのかな?こういう昔風の考えはよくない?古すぎなのかな、私が。

摩訶迦羅と呼ばれる大黒天は「打ち出の小槌」を持つ神様だが、勿論厨房の神でもある。私に金が集まらないのは、厨房に立たない為に、大黒天との縁が薄いからなのか?(笑)でも、神様はそんな罰を私に与えるだろうか?うーん、今後少し妻の手伝いをした方がよいのかもしれないな・・・動機が不純であるな・・・笑。


人間の社会性と言葉

2005年05月21日 14時57分58秒 | 俺のそれ
以前に、人間が持つ他の動物と異った社会性は、言葉の獲得によるのではないか、と書いた(参考記事)。このことについてもう少し書いてみたい。普通の社会学者、行動学者や生物学者などはもっと別の見解があると思うので、全くの私見であることをお断りしておく。単なる想像に過ぎないので、厳しいツッコミは許してね。


人間は、言葉によって目の前に現実に存在しないものを理解したりできる。想像によって何かの意志決定をしたりできる。これはどの生物にもあるのか確かめることはできない。しかし、多分そういうことはないのではないか、と思う。例えばイルカは「お化け、幽霊」のような存在を考えたりできるだろうか。一度も見たこともないものを考えたりできるだろうか。


世の中には、生まれつき視力を失っておられる方がきっと存在すると思う。そういう方は、視覚的情報を取り入れられないから、視覚的なイメージとか視覚的先入観というものは恐らく形成されないと思う。だが、「言葉」という特別な記号によって、情報の質を変化させられるのではなかろうか。視覚情報がないのに、人間は視覚的に見たことがなくとも、恐怖の対象を感じることができる。通常乳幼児は見て不快であるとか、何となく恐怖を感じるというものはあるが、見たことがないものには恐怖しないと思う(動物としての本能的な反応はあると思うが)。だが、2、3歳くらいから「お化け」を怖がったり、病院とか注射を怖がるようになる。恐怖の度合いは、それより年少の方が少ないが(恐らく理解できないからであろう)、想像力がついてくると対象(例えば注射器とかお医者さんとか・・・)を見る前から恐怖心を持つようになる。これは言葉を理解することによって生じる、極度の不快とか身体侵害の恐怖などがあるんじゃないか、ということである。だから、1歳くらいの乳幼児は想像できないし、言葉の理解が不十分なので、注射器などを見たとしてもそれほど怖がらないし、お化けを怖がることもない。


動物は見たことがなくとも逃げたり、恐怖感を抱くこともあると思う。例えば、シマウマはライオンを見たことがなくとも、追いかけられると逃げるだろうと思う。それは、本能的に感じるシステムの一つに過ぎないのではないかと思う。振動、匂い、音や視覚的情報(急速に接近してくる、牙を持っている、体が大きい、等々・・・)などから、「逃げろ」という個体の防御機能が働くからだと思う。見たことがないためにライオンから逃げないとすれば、食われる確率が高くなってしまうよね。地震の前にナマズが感知したり、動物達が先に避難している(と考えられているのですよね?)のは、脳の容量がそういう体性感覚の鋭敏さに使われているんじゃないか、と思うのである。犬の嗅覚は優れているが、そういう機能に脳の容量が多く割り当てられているのではないかな。


大地震の前に起こる何かの変化要因―これが何かは不明のままであるが、地球環境の大きな変化があっても生き延びてきた生物が獲得した特殊な能力なのだろうと思う―多分違うだろうが、例えば地磁気の変化、大気のプラズマ変化、気温と湿度の変化、風の起こり方、大地と空気の微細振動・・・そういう何かの変化を感知して、その組み合わせによって地震とか火山噴火などを感じ取るんじゃないかな、と思う。動物の感知システムで、危険と判断するスイッチがいくつかあるとして、条件A、B、・・・Eというふうにあれば、どれもスイッチオン状態になるのは32通りの一つである。通常時にも似たような変化はあるが、全部が揃うことが滅多にないから、それで感知できるんじゃなかろうか。この解は、今のところ人間には見つけられないのであるが。生物進化の過程で、生物がこうした感知システムを持ったとしても不思議ではないと思う。だって、GPSもなければ慣性誘導もなければレーダーもないのに、渡り鳥は数千キロを飛んでいくし、サケだって自分の生まれ故郷に何千~何万キロも泳いで帰ってくるし、そういう特殊能力を持つのとあまり違いがないようにも思うからである。


話が逸れてしまったが、動物達はそういう感覚部分に脳の容量をたくさん使うが、人間はそういうものを縮小した代わりに言語能力や手の能力に多くの容量を割くようになったんじゃないだろうか。もっと大きな脳を持てば、色んな容量を増やせたかもしれないのだが、それほどの変化が起こるには時間が足りなかったか、生物として生き延びるには十分であったからなのかもしれない。また、単純に大きさだけで言えばイルカの方が大きかったと思うが、そういう大きさだけでは機能の比較ができないだろう。コンピュータの進歩と同じで、今のPCの方がはるかに小さいのに、昔の大型コンピュータよりも高性能であるようなものだろう。


言葉によって、「獲物がたくさんいる」「洞窟には化け物が棲み付いている」というようなことが、人間の集団に理解されるようになった。洞窟の中の化け物を見た人が1人だけであっても、仲間達はそれを理解することができるようになったのである。他の動物ならば、洞窟においしい実のなる植物がたくさん生えていると思えば、たとえ化け物がいたとしても「おいしい実」を食べに行ってしまうかもしれない。ところが、人間は言葉を得ることによって、「あそこの洞窟に入ってはいけない」ということが伝達され、「洞窟に化け物」という見ていない情報を知ることになるのである。このような積み重ねが、人間の特殊な社会性獲得につながったと思うのである。自分以外の人間との情報共有が言葉によって可能になり、ある人間が獲得した感覚情報(例えば、洞窟の中で吼える声が聞こえた、巨体のトラを見た、仲間が食われて引きずりこまれた、・・・等々)を知ることによって、自分が感じた感覚情報ではないのにその情報をインプットすることになるのである。そうすると、実際にその洞窟に近づけば、トラを見たわけでもないのに恐怖を感じたり、洞窟内からの吼え声を聞くだけで恐怖を感じるようになるのではないだろうか。


犬であっても、喜んでいる様子や好意的表現(本当にそうなのかどうかは知らないが、何となくそう感じる時がある)があると思うが、人間同士のコミュニケーションも言葉がなくとも可能であったはずである。そうじゃないと、求愛行動などが出来ないでしょ?恐らく社会性は言葉の獲得以前からあっただろうし、サルと似たような集団性もあっただろう。そのような環境にあって、更に言葉を獲得したことで、より複雑化した社会性を生じたのだと思う。それからさらに長い時間をかけて、世代を超えた伝達情報の蓄積が行われたはずだ。


そして、ついに人間はあるものを手に入れた。それは、多分抽象概念ではないだろうか。最初は、恐らく「死」(現象として見れば具体的でもあるが、凄く抽象概念でもあるように思う)ではなかったか。それか、「自分」かな?動物には、「自分」という認識はないような気がする(勿論、生物としての空間占有の物体として、本能的な体性感覚はあるだろうが)。「自分」と「他者」の区別は、かなり高度な概念だと思う。でも、それ以上に、「死」は生物的な感覚であるような気がするのである。だから、私の予想としては、「死」を認識してこれを言葉の世界に取り入れ、それ以後人間の言語能力は飛躍的に向上していったのではないかな、と思うのである。これはインドで「ゼロ」の発見をしたのと同じくらい凄い概念だと思う。このような抽象概念が言葉として表現されるようになって、「自分が体性感覚で感じる情報」「他人が体性感覚で得た情報」以外に、「誰も形として見えない(見ることができない、感覚として捉えられない)情報」というものが登場するようになったのではないだろうか。これは「想像」というか「脳内感覚」というか、凄く特殊なものなのではないか。それが発達して行けば、見たことがないのに、「道具」を作るとかが可能になるようにも思う。そうやって創造性(想像力)が備わるようになっていったのではないのかな。


このように推測しているので、人間の社会性は本能的には遺伝的にプログラムされているはずだと思っている。それ以外の社会性は後天的に獲得したものであって、言葉を知ることでそれが可能となると思う。もしも言葉のない生活をする人間がいるならば、遺伝的なプログラミング以上の生物的社会性はないだろうと思う。大昔にあった狼少女(本当に実在したのかどうかは知らないが)の話みたいに、言葉のない世界で人間が生活していたとすればその人は他の動物と大差ないのではなかろうか(サルや鯨と同程度?)、と思うのである。


民主党の攪乱

2005年05月20日 20時20分53秒 | 政治って?
郵政民営化法案の与党の混乱に乗じて民主党は審議拒否という作戦に出た。小泉さんの支持率上昇と民主党の支持率低下を受けて、出来るだけ大胆な作戦を取ろうということだろう。何を考えているんだか。民主党の郵政改革案を出してない時点で負けだろう。今さらかき回してどうするの?そんな所に労力を注ぎ込むより、社会保障改革のビジョンを出す方が重要だろう。それと特別会計の抜本改革案を示せ、っての。特別会計に着目するのは当然としても、現実にはそれぞれ個別法の根拠があるんでしょう?そういう法的根拠をどのように改正していくか、特別会計と一般会計の関係とか、どういった業務の存続が必要で何を処分するべきか、などの考えるべきことがあるはずです。郵政民営化に反対して、振り出しに戻すなんざ最低だよ。政局にしようって魂胆も腹立たしい。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 郵政民営化特別委を設置…民主、社民は本会議欠席


補選で連敗した上に、支持率低下も相まって、民主党の信任は大きく低下していることくらい判るだろう。国会開始直後の審議拒否と同じ態度ってのは芸がないし、今本当に必要なことは民営化阻止なんかではないぞ。政権をとるというのは、もっと別な次元の話である。どのような政策を実行し、どういう将来ビジョンがあるかが問題なのであって、単なる「反対ー!」というのは全くの無駄、愚策である。この期に及んで審議拒否など片腹痛いわ!もっと別な形で頑張れよ。


民主党は「平ちゃん叩き」(参考記事)が失敗に終わり、それでも飽き足らず、自民党の抵抗勢力に加担しようなどという愚かなことをするとは、支持を取りやめにする。個人的には郵政民営化に賭けたので(郵政民営化のまとめ編1)、政府に頑張ってもらうしかないと思っている。万が一、この改革が達成出来なければ、行財政改革の道ははるかに遠のく。公庫公団の改革も激しい抵抗に遭って、進められなくなる。郵政事業の「利息丸呑み」も続くだろう。


民主党を応援するのは、止めだ。今の状態では支持出来ない。安倍ちゃんが首相になるのは必ずしも賛成出来ないが、(統治)ユニット比較では、自民党に軍配である。今自民党との直接対決で民主党が勝てる要素は全くない。好きじゃないけれど、仕方がない。郵政民営化達成までは、小泉支持にする!民主党支持は永久凍結だ!頭にきた。プンプン!



財務省の金策

2005年05月19日 21時59分22秒 | 経済関連
国家財政の危機的状況を目の前にして、財務省は金策に走り回っている。何だか、涙ぐましくなるような努力であるが、その一方で予算が甘くて批判を浴びてしまった。かなり無駄遣いになっているんですね、本当は。財務省の本音としては、他の省庁はもっと死ぬ気で節約してくれよ、というところだろう。昔風に言えば、「我が家の大蔵省(お母さん)がどれほど切り詰めても、ダメ亭主が遊びや博打に金をすってしまって、何にもならない」みたいな状況かもしれないな。

財務省は、道路特定財源に余剰分が出そう、という話を聞けば、「一般会計に戻してくれ」と考えるだろう。

Yahoo!ニュース - ロイター - 道路特定財源の見直し、一般財源化も含め幅広い検討が大事=財務次官


少し前に、国が所有していた古銭を売りに出す、ということが報じられていたはずだ。とりあえず、現金に換えられるものは何でもかき集めているのだ。国有地の売却が今後も進められるだろう。これは数年前から売却されていたのだが、その水準以上に遊休地を売却して「ゲンナマ」に換え、借金返済原資としたい、ということだろう。民間企業の本社ビルとその土地の売却などに見習って、省庁本庁舎の売却さえ考えてみたくらいですからね(でも、国有地のままの方が支出が少なく済むという結論が出ていたようです)。


一般人も借金返済に困ったら、現金化できそうなCD、コミック・書籍類、ゲーム本体やソフトなどを売るだろうな。まさにそういう心境だと思うよ、財務省は。だって、コインまで売っちまうんですからね。でも、それを全部合わせても、たぶん何億にもならないんじゃないか。可哀想な話だけど。はっきり言ってね、そんな所の金をかき集めるよりも、おかしな公益法人への補助金を何個か吹き飛ばせば、すぐにそれ以上の効果が得られるだろうね。独立行政法人の発注する委託業務などの見直しをすれば、これもまた効果があるだろうね。ああ、それと、財務省の担当部局がこちらを無視して知らんぷりを決め込んでいるようだけどね、国家公務員共済組合連合会への補助金77億円を止めれば即効果が出るよ。まあ、全額と言わないけれど、剰余分を返還させればそれだけで50~60億円くらいいけるだろ?あれこれかき集める割には、自分達の所管のこういう法人への補助金を見直さないってのはどう考えてもおかしいのではないですか?金策して、尚且つ別なところから、垂れ流し、ってオカシイですから。本当に。


そこまで切羽詰っているならば、もう少しまともな考えで予算案に取り組もうよ。予算配分とか優先順位については、政治的決定も勿論ですが、各省庁の中でもしも切られるとしたらどの部分から切るか、予め省庁内で決めるべきでは。そうじゃないと、財務省が切る時に、「何でこれを先に切るんだ」とか「A事業とB事業のどちらも同じ重要度なのに、どうしてBにしか予算がつかないんだ」とかおバカな答えを各省庁がするだろう。財務省の役人だって万能じゃないんだから、全ての省庁の業務内容なんてわかりっこないって。だったら、それぞれの省庁が各事業毎に、絶対に予算が必要とか、2割カットは我慢するとか、半分で我慢するとか、来年以降に事業を延ばすとか、そういう順位をつければよい。それなら、財務省が金額カットしやすいよ。どこの家でも、金がないのに「車買って~」「液晶テレビ買って~」「PS3買って」「Xbox買って」「電子レンジ買って」「ブランドのバッグ買って」・・・と見境なく要求しないだろう?普通、使える金額と優先順位で買うものを決めるだろう?普通のことが何故出来ないのか不思議だ。頭のいい役人達が何万人も集まって、どうしてこんな有様なのか不思議だ。


いずれにしても、財務省は金を工面することに躍起だ。気持ちは判るよ。でもね、方向が違ってると思うよ、やっぱり。



福田節とガンコな小泉首相

2005年05月18日 09時46分30秒 | 外交問題
かなり前に郵政の「(民営化会社)社長に就任したいよ」と、ちょっぴり福田節を披露していた福田さんであるが(本人だから当然か)、久々に委員会登場となりました。妻は、細田さんの歯切れの悪い話し方や、いつも少し困ったような表情が気に入らないと私に文句を言うのであるが、「どうして前の人はいなくなっちゃったの?」(名前も知らないのだ)と私に突っ込まれてもね・・・。まあ、ウチの中では、福田さんの評価は高い方でしょう。それにいつも読んでいるyodaway2さんのブログ「週刊!Tomorrow's Way」(左のブックマーク欄にあります)の記事にも取り上げられ(詳しくまとめられております)高い評価を受けていますから、妻の見立ては悪くないのかもしれません。女の勘ってやつですかい?


Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 福田氏 首相に配慮、答弁指名せず 「ポスト小泉」へ中韓に気遣い!?


その福田さんが苦言を呈したという報道に、思わず惹かれました。そうですか、暫くぶりの福田節ですか、とね。どうやら小泉さんのアジア外交、特に中国との関係について憂慮していることをスマート町村さんに述べたようです。外務大臣にと言いながらも、小泉さんへの強いメッセージでもありました。町村さんへのライバル意識という側面もあるのかもしれませんが。

小泉さんの考えも言いたいことも理解出来ますが、今という大事な時期ですから、慎重さが求められます。「適切に判断する」と答えるのは構いませんが、「(中国も韓国も)他国が干渉すべきでない」と不快感を露にしたのはどうかと思います。


小泉さんもどうしてこんなに頑ななのかな?先日の中国側の紳士協定提案をこうもあっさり袖にするなら、中国側としても事態の進展には手を貸せない、という気分になるでしょう。小泉さんのそういうガンコさを熟知している福田さんが、「バランス感覚」を求めたと言えるでしょう。参拝したいと思うなら、こっそり行けば済むことです。誰にも言わずに参拝して下さいね、小泉さん。日本の態度としては公に「首相が参拝する」とは言えないでしょう。北朝鮮、常任理事国などの共通課題があり、いずれも中国の協力を得られないと目的の達成が難しいのですから、そこをどのようにするかを考えるべきですね。「何故他国が参拝に反対するのか、その理由が判らない」などと答えたりせずに、必要な「イス」を手に入れることが肝要であり、小さなことに拘るべきではありません。


Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - 小泉首相 パレスチナに総額1億ドルの経済支援表明 

その常任理事国入りの手土産というか、箔付けの材料にするために、イスラエル・パレスチナ問題を利用しようと意図しているんだろう。その為には、取りあえず金、っていうのも日本らしい(笑)のかもしれないが、政治力を見せる舞台装置としては今ひとつで、毎日の指摘の通り、力不足は否めないだろう。


中韓には嫌な顔をしながら、パレスチナには花束と贈り物を、というのも、「イス取りゲーム」に勝ち残る戦術としては悪い選択と言わざるを得ない。韓国は直接のイス取り参加者ですから争う以外ありませんが、中国と本題以外のところで争うことは避けるべきなのです。そういうことは、日本が「イス」に座ってからでも反発することができますし、「紳士協定など知らないよ」と言い切ることも可能でしょう。今はとりあえずおとなしく問題を表面化させない方向で、そっとしておくことが望ましいと思います。


無関係な話題:

気分を変えて、デザインを変更しました。見慣れない感じですが、背景が暗いと、目が疲れるのかな。左側の欄を見ると、辛い。慣れることができるでしょうかね・・・



公共事業は誰の為にあるか

2005年05月17日 22時37分01秒 | 社会全般
諫早湾干拓事業の差し止め取り消しが、福岡高裁から出された。この判断に、賛成は多いのだろうか。公共事業は一体誰の為に行うのだろう。行政の考えることというのは、どうなっているんだろう。高裁は、調査をしろ、って言ったのに、何で長期間の調査もしないのに工事再開するんだろう。絶対にオカシイ。裁判所の言うことは守らなくともいい、ってことなのか?

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 諫早湾干拓工事、差し止め取り消し受け18日再開

干拓事業は、当然賛成派が多いので地元の陳情などが積極的に行われたりしたんだろうと思う。だが、事業の妥当性というものを考える時に、何を基準に考えたらよいのだろうか。公共事業の性質とか内容にもよると思うが、多数決の原則ということなのだろうか?


おかしな仮定で申し訳ないのだが、ずーっと疑問に思っていることがあった。それは沈没寸前の船に乗っている乗客の問題である。大海原に船が浮かんでおり、乗員の誰かを降ろさなければ確実に沈没するとする。まあ仮に10名いるとして、1人だけ降ろせば残りの全員は助かるという場合に、どうやって問題を解決するか、ということだ。もしも、私の家族しかいない場合に、私は家族の者を助ける為と同時にリーダーの決断として、必ず自分が死を選ぶ。この決定は他の選択の余地がないので、いつもそういう気持ちでいる。


だが、全員が全くの赤の他人の場合に、どうするだろうか。普通は、1人の犠牲によって残りの9人を助けると思う。しかし、中には全員が同じ運命を享受するべきだ、というような意見の人も現れるかもしれない。たった一人だけ、「絶対に1人を降ろさない」と強硬に主張したとしよう。この時、多数決によってこの意見は否決され、他の人達は1人を降ろす選択に賛成するだろう。果たして降ろす1人に、先の強硬に反対した人間を選ぶだろうか?通常はくじで公平に決めようとするだろう。だが、多数決の原則で選ぶことってあるのだろうか?女性と子供が混ざっている時に、その人達は除外されるだろうか?力の強い暴力的な者が、勝手に1人の人間を海に投げ落とそうとするのを他の人達は戦って防ぐだろうか?年齢で決めようという意見は出たりしないのだろうか(年上の人間は先に死ぬ確率が高いし、ある程度人生を経験できたから若者に人生を授けるべきだ、みたいな)?その時の10名の構成にもよる(子供や老人が含まれるとか)と思うが、多数決の原則がこういう極限的な状況でどの位発揮されるのだろうか、と思うのです。犠牲者を決める作業をする時に、これは民主主義なのだろうか?私にはよく判らないのです。


こういう仮定は意味がないと言われるかもしれないので、何かの結論とか出せる訳ではないのですが、公共事業というものの性質も、船の仮定と似たところがあるんじゃないか、と思ってしまうのです。だいたい、公共事業では多数派の利益の為に、少数派は不利益となる(又は利益とは考えられないか)決定を下されたりするのです。船の例で言えば、犠牲者として選択されるということが、多数決という民主主義のルールに基づくような形で行われるようなものです。実際には、こうした多数決が行われていない公共事業もあり(住民投票となるような事業は多くはないんじゃないかというくらいの話ですが)、船の話で言えば、ある特定の数人が勝手に犠牲者の選別を行うようなものなのではないか、と感じたりします。


空港を作るという場合に、「やめてくれ」と反対する人達がいるが、直接不利益とならない人達は積極的に反対したりしないことが多く、船の話で言えば自分が犠牲者に選ばれなければ反対しないのと同じようなものです。また、役人達や地元議員達(=勝手に誰かを海に突き落とす人)は、地元の多くの人が頼みもしないような空港建設という公共事業を計画し、行政の権限で実行に移されるのは(=本当に誰かが海に落とされる)、明らかにおかしいはずなのだが、これを止める有効な権限は住民(=船の乗員)にはないのである。唯一の権力が司法なのだが、今回の高裁の差し止め取り消しというようなことになれば、誰にも止められないのである。


そういう議員を選挙で選ぶのが悪い、と言われるだろう。船の乗員のリーダーならば、おかしい奴と判れば他の誰かを選ぶと思うのであるが、議員となるとそうでもない。結局、船に乗っている暴力的な奴(=議員とか役人)の回りに腰ぎんちゃくみたいなのが3人くらいつけば、この勢力に対抗するというのは難しくなるかもしれない。だって、こいつらの勢力に加われば、犠牲者に選ばれずに済むからだ。犠牲者の数がもっと多くなれば、確率的に厳しくなるので、その他の人々もこうした勢力に対抗するべきと思うようになるかもしれない。だが、たった一人の犠牲によって他の人達が助かるというような状況では、自分が選ばれなければ犠牲者の選択に文句を言わないことが多いんじゃないか、ってことか。選ばれた犠牲者以外のその他の人達の動向が本当は重要なはずなのだが、暴力的な奴には逆らわず、誰かが海に落とされるのを受け入れるんだろうな。

今の世の中って、こういう感じなのかな?


勿論全ての公共事業がこのような訳ではないはずだが、誰のどういう利益になるのかがよく判らない。そういう評価のない事業が多すぎるんじゃないだろうか。まあ、今後は削減されていくとは思うけれども。



公務員制度改革5

2005年05月17日 18時06分45秒 | 行政制度
国家公務員改革の一環として、農水省から省庁移動となる官僚が500人程いるとのこと。「役割の低下している国家公務員」と呼ばれるのも可哀想だが、今までまともに仕事してなかった人みたいじゃないか(実際どうなのか知りませんが、他省庁の官僚よりも楽していたみたいで、移動先でも「なーんだ、暇な部署のゴク潰しだった奴じゃないか」的扱いを受けるのは辛いと思うな。イジメないでね。笑)。移動先での昇進はもう見込めないのかな?だって、新参者であり、本流からは外れているでしょ?そうすると途中で退職してしまう確率が高くなるのかな?またしても「天下り予備隊」が増員される要因となるってこと?わからんが。

NIKKEI NET:経済ニュース

それから、このニュース。
NIKKEI NET:政治ニュース


一方で、省庁間での人材交流をやってくれ、と。そういう面も大事だと思うけれど、まずね、同一省庁内での組織柔軟性を持たせる方が先ではないか、という気もするけどね。酷いのが、今まで別組織だったのが統一されて同じ省庁になったのに、統合的な業務運営が出来るようになる訳でもなく、旧省庁の横断的政策実施が出来るようにもなっていない。同じ看板を掲げて、ただ寄せ集められただけなんじゃないかと疑いたくなる。例えて言えば、同じみずほ銀行なのに興銀と富士銀が別個に活動していて、互いに知らん顔して独自の業務だけをやっていては、良くはならないし効率化も図れないんじゃないかと思う。みずほ銀行さんは、実際にはそんなことなくて、共に同じ目標に向かって業務の効率化を図り、従来の得意分野を活かしながら相乗効果を得る努力をするので、企業価値として市場に認められているのでしょう。ですが、省庁再編によって、良くなった所ってどれ位あるのか疑問です。合併組織の場合には、きっと色々(派閥争いやらポストの順番、領域の死守・取り合いなど?かな・・・)あるんじゃないかとは思いますが、そういう欠点を越えて協調したり、統合的政策を考えたり、互いの知恵を活かしたり(得意分野がそれぞれあると思うが、そういう他者のいい所を合わせるような)、組織活性化を図らなければ意味がないのですね。


夫婦で言えば、家庭内別居みたいに好き勝手にやって、不干渉を続け、完全に別々に生活しているようなもんです。前にも言いましたが、チームのいい所は1+1が2でないところで、場合によっては3とか4にもなり得るけれど、今の省庁の実力はせいぜい2か下手をするとそれ以下の程度でしかないかもしれない。そういうチームは強くならないし、個人の実力も十分発揮されない。それぞれ個別に独りぽっちで仕事している方がまだまし、ってことになりかねない。そんな職場が好きで、そういう仕事のやり方を皆が望んでいるなら、ある意味仕方がないのだけれど。官僚諸氏はそういう人生を送りたいと願っているのだろうか?国家公務員制度改革の検討チームの願う職場って、具体的にどんなの?自分が「やりがいがあるな」って思える省庁って、どんな風なところ?いつまでも変われない組織ならば、強い外力によって変えるしかなくなるぞ。