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財政審の増税プラン

2005年05月17日 13時47分23秒 | 経済関連
前から検討され、各方面から発表された数字の追認ということでしょうか。その程度のものですね。増税へのステップということなのでしょう。とりあえず不安を増大させるには、何度もこうした危機的状況を説く必要がありますし。ある意味、地ならしという側面もあるのでしょうか。財務省単独でどう頑張ってもこの問題は解決できないし、政治的決着が求められます。私が以前から主張するように、年金制度を根幹から変える以外にないと思います。具体的に言えば、給付水準を大幅にカットすることになると思います。ですが、今の行政の状態で大幅な負担増は国民としては絶対に許すことは出来ませんね。行政の姿勢としては少し変わりつつあるのかもしれないが、未だ澱んでいる。永田町も霞ヶ関も・・・。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 財政審分科会 プライマリーバランス均衡 消費税率19%必要

年金問題は、はっきり言えば高給取りや巨額資産家にとってはどうでもよく、貧乏人たちの問題である。私のような(笑)。そりゃあ、くれるものはちょうだいな、と金持ちも思うかもしれないが、多分基礎年金程度の金を貰っても貰わなくても影響はないんじゃないかな。でも、貧乏人にとっては、死活問題なのである。


私の今まで提案している年金制度は、基礎年金相等部分は税方式で、所得比例部分はなく確定拠出型個人年金で対応というものでした(カテゴリー:社会保障問題を参照して下さいね)。企業負担は、従来の年金(最終的には医療・介護も含む)保険料の事業主負担分を新税として(「社会保障税」と呼ぶことにしていました、そういえば報道されたのを見ると、パクられていたような気がするが・・・どこの政党が考えたのだったかな?)徴収するというもので、地方の取り分と国庫の取り分に分けるのと、企業規模によって税率を傾斜させる方法でした。主な目的としては、現在の非効率的な保険料徴収を止めるのと、増大し続ける年金給付をカットすることで総額規模の縮小を図るということになります。また、所得比例部分がないことで、所得追跡・把握が困難ということにも影響されない制度設計になっています。しかし、これだと、自己責任の割合が相当高いので、低所得層が苦しいのだろうと思う反面、他の行政サービスを付加して、現金給付ばかりではなくその他の形でも扶助するという考え方で補えるのではないかと思います。1人の人の受けられる行政サービスを総合的にというか全体の総額で考えるべき、ということになります。


給与水準が一定以上あったにも係わらず、年金とか恩給といった手厚い給付があることは、現役時代にさらにプラスして格差が広がります。貧乏人はどこまでも貧乏、金持ちは資産をたくさん持つ上に、さらに年金給付も多く貰うという、再配分システムの機能不全が起こっています。その高い給付の人を支える為に、現在の企業負担分や給与の高くもない人達の保険料分が投入されることになり、金があるところにまた金を集めるということになっているのです。従って、給付水準上昇をある程度抑制することが必須です。現在貰っている人達の給付額を大幅に減額したりは出来ないでしょうから、経済財政諮問会議の方針で出されたように、インフレ・ターゲッティング政策をとり、インフレ率よりも大幅に給付額の上昇率を引き下げた額とするしかないでしょう。これによって、旧来の制度の人と、移行期間の人の給付ギャップを縮めることになりますから。企業負担分は、今までの保険料方式だと給付金額に比例して配分されてしまいますが(給与が高かった人は保険料も高く給付も高い、高額保険料納付分はそのまま給付の高い人に移っていくだけ)、社会保障税方式だとだいたい均等になりますから、相対的に低所得層への配分比率が高くなるように思います。


消費税の税率については、(面倒なのですが)3段階程度に分けておいた方がいいと思っています。高額商品を買えるのはリッチな層に決まっており、貧乏人が買えるはずもないですから。金持ちは2割や3割上がっても、欲しけりゃ何だって買うに決まっています。貧乏人から掠め取るより、金持ちから貰う方が良いに決まっています。だって、年間1億円使える1人と、100万円使える100人が同じ訳で、仮に消費税率が20%としたら、この貧乏な100人から1人20万円ずつ(合計2千万円)徴収するよりも、高額商品平均税率が25%で高額商品をたくさん買う1人から2500万円徴収する方が、社会的にも収入的にも好ましいに決まっています(厳密に言うと、税額込みで100万円と1億円だと消費税額は違ってきます)。豆腐一丁や納豆からちまちまと税を集めるよりも、2千万円のダイヤの指輪からドーンととった方が楽だしがっぽり貰えるでしょ?(可処分所得の分布はpawer lawに従うんでしょ?ならば、段階的な方が貧乏人には優しいよね~)。この徴収効果を得るのは面倒かもしれないが、ネットワーク社会が高度になれば、そんなに大変ではなくなりますから。


夢のような話かもしれませんが、役所に商品登録だけしておけば(この時に税率を決定する)、そのタグをつけた商品の自動会計・決済が一瞬で出来るようになりますから(将来は、金額とか品目とか税率とか、一切の情報が商品入れたカゴごとスキャンで一発会計ですよ、きっと)。バーコードは消滅して、タグに切り替わるはずですよ、多分。面倒なことや作業こそ、技術革新によって簡単・容易になっていくのですから、税率は単一ではなく、段階的税率にしておくべきです。


第一段階としては、一律に3%上げ、ということも止むを得ないかもしれません。続いて、高額商品に10%(例えばの話ですよ、アップ率はよく検討して下さい)上乗せと同時に年金保険料廃止、社会保障税導入、医療改革。最後に更なる消費税上乗せ(高額商品が中心ですね)と医療(+介護)保険料廃止(企業負担分の医療保険料とか介護保険料、雇用保険料などの労働保険料なども一体で見直し、新税方式に一括するべきですね。この作業は事業所の話なので、それ程難しくはないでしょう。企業にとってみれば、給与計算も楽になるでしょう)。
こんな感じで進めるしかないと思いますが。単なる消費税率アップだけでは、国民理解を得られないと思います。


それはそうと、年金改革協議はどうなったのだ?全然話が聞こえてこないじゃないか。本気でやる気があるのか?時間がないぞ。ボサっとしていたら、直ぐにお盆がやってきてしまう!9月くらいまでに本当に結論を出せるのか?国民に議論の過程を提示出来るのか、今のような状態で。本当に、議員皆さんの分業体制で取り組まないと間に合いませんよ。



篤志家の心

2005年05月16日 18時29分49秒 | 社会全般
昔の人々が偉かったと思うことは、投資するべき対象に人物を選んでいたことである。学校を創設した人々は、「儲ける」ことを目論んで設立した訳ではない。優れた学問や教育を子供達に受けさせようという思いで、学校を作ったのである。私財を投じて、或いは寄附を集めて、学校の設立に尽力した人々が多数いたのだ。明治時代の、大金持ちでもなかった人々がお金を出して、国や民衆の為に役立てる人間として育成したというその心意気に驚くのである。


有名な野口英世が上京する時に頼ったのは、血脇守之助という(後の東京歯科大学の創設者)、まだ26歳の勤務歯科医であったのだ。その給料から野口英世(当時はまだ清作)に金を工面したり、仕事の世話をしたりしていたことを考えると、人間の大きさというものを感じるのである。また、野口ばかりではなく、明治時代には縁故とか、同じ県の出身ということを頼りにして上京した(県人会は、そうした流れを汲むのかな?)人達がたくさんいて、地元の後援者(篤志家)などから学費の援助をしてもらうことも珍しくなかった。貧乏だが優れた能力があるということで、全くの他人が学費を無償でくれるという、厚情の時代だったのだ。広田弘毅も裕福ではない石屋の倅だったが、学費を他人が出してくれたはずだ。そう考えると、明治人って本当に立派だったのだな、と思う。こういうことって誰が教えたのだろう?「金持ちは優秀な他人の子供に学費を出す」っていうことを、誰かが教えて出来たことなんだろうか?それとも急速に西欧化が進んで、キリスト教系の寄進・寄附行為が一般化したのだろうか?


いずれにせよ、人間を成長させることには金を出す、という明確な意図があるのだ。今の有名私立大学などの多くも、そうした人材育成・教育への理想を持った人達が開校したのだろう、と思う。列強に負けない、国際社会に通用する優れた人材をどんどん育てようという時代の機運が溢れていたのかもしれない。そういう流れの中で、個人的援助にお金を出す人達も多く存在したのだろうと思う。勿論、自己利益のみの執着が強い人達もいただろうと思うが。今の時代に、これほどまでに他人に何かしている人はかなり少ないと思う。税制とか社会環境は違うと思うが、今の高額所得者が昔ほど人の為に拠出しているかどうかは分らない。現代の援助と言えば、悪い意味でしかなくて、「援助交際」という犯罪行為くらいしか出てこないというのも、誠に恥ずかしい限りである。本当に同じ日本人なのだろうか、と思ってしまう。


現代の日本人は、自己利益に囚われ過ぎて、志を失ったかのようである。空ろな態度や言動、空しさが充満した心、そういうものに覆い尽くされて、社会全体の活性が低下したように見える。志を取り戻して欲しい、そう願う。


個人の出来ることを精一杯やることで、社会に役立ち、自己の存在意義が見出せるかもしれないし、充実した気持ちを得られるかもしれない。今は、そういう心意気が感じ取れないような社会だからこそ、ギスギスした、単なる足の引っ張り合い、蹴落としあいみたいな感じがするんじゃなかろうか。明治時代から試験による競争などは同じようにあったし、グローバル化の進度は今の比ではなかっただろう。近代国家ですらなかったのだから。それが僅か30年足らずで、驚異的な努力と適応力で乗り越え、国家の形をなし、日清戦争と日露戦争で大国を退けたのだから、そういう潜在的エネルギーは今の日本人にあっても不思議ではないと思う。当時の日本は国際社会の表舞台に登場するのが遅かったが、非常に大きなインパクトを与えたはずだ(私は日清戦争や日露戦争を美化するつもりではありませんが、両国とも当時の日本に比べれば大国と目されており、国力で劣っていた日本が両者に勝つような力を短期間でつけられたのは、日本人の特性によると思うのです)。


明治時代には、競争相手は常に諸外国であり、隣人との競争というような視野の狭さが、今ほどなかったのかもしれない。現代は情報とか交通機関の発達で、世界は時間的にも空間的にも、明治時代よりはるかに狭まったはずだ。だが、それとともに人間の視野が狭まり、遂には隣の人とか、ごく狭い範囲の日本人同士の競争にばかり目を向けるようになってしまった。会社でも隣の机に座っている奴とか、同期の奴とか、そういう偏狭な視野しか持てない人間が増えてしまったんじゃないだろうか。そして、遂には他人の誰にも目を向けられなくなる、自己中心の、というか自分しか存在しないような、異常に狭い範囲しか見えない人間までが登場するようになったかのようだ。そういう、退行現象のようなことが起こっているのかもしれない。


今年で最後となる納税者番付を見て羨んだり憧れる前に、思い致すべき「篤志家の心」―そういう志のある行いや仕事というものについて多くの日本人に考えて欲しいと思う。勿論私自身もそうなのであるが。どんなことでも、実行は難しいですからね、やっぱり。反省。



電子マネーは紙幣を殺すのか?(笑)

2005年05月16日 13時24分44秒 | 経済関連
パクリ風なタイトルで申し訳ありません。先頃テレビを見ていたら(テレビ東京系、WBSの仲間みたいな番組)、電子マネーやカード決済先進国のお話がありました。なんと意外にもアイスランド(だったと思うよ、アイルランドではなかったはず・・・労働生産性向上が著しいけど・・・)でした。ちっぽけな屋台でさえカードが使える。全支払いの約7割くらいが電子決済だそうです。カード普及率も非常に高く、子供も当然持っていて(家族カードみたいなの)使っています。驚きました。ここまできたんだな、と。多くの人は、リアルなお金を持っていなくて、それでも困らないんだそうです。うむむむ・・・。日本のe-japan、u-japan計画はどうなんでしょうか。順調に進んでいるのかな?かなり前に米国に沸き起こった、「スーパー情報ハイウェイ計画」みたいなもんなんでしょうかね。


ネットワーク社会の未来像の一端が見えるような気がします。日本でもsuicaとかEdyとかの電子マネーが増えてきており、カードも利用できるし、デビット(「デビッド」だったか?)も利用できるとか、色々進化してきています。いずれは、クレジットカード決済と電子マネー(これもいずれ規格統一が行われるんじゃないだろうか)に整理されていくだろうと思われますね。今私が住んでいる所は、電子マネーもお財布携帯もsuicaも何も関係ないので必要性を感じませんが(使える場所も施設もないでーす)、将来の見通しとしてはそういう時代になっていくでしょう。商品には全てICタグになり、万引きは絶対不可能にできるだろうし、商品管理も自動でできるし、レジに金がなくなるので強盗は意味がなくなるだろう。ということは、高度なネットワーク社会は、リアルマネーが消えて、強盗とか万引きが大幅に減少させられるんじゃなかろうか。凄いぞ、電子マネー。だが、ハイテク犯罪とかネットワーク犯罪などが増えるかもしれないな。となると、セキュリティ技術とか生体認証技術などの高度化で対抗ということになるでしょうね。むむう・・・よくわからんけど。強盗殺人がなくなるなら、その方がいいよね。でもお財布携帯を落とすと、勝手にバシバシ遣われちゃうと困るから、そういう携帯とか電子マネーカードみたいなものにも、生体認証技術が必要だね、きっと。こういう時代になっていくんですから、「個人情報がどうの」「納税者番号は無理」「住基ネットは危険」とか、毛嫌いで済まないと思うよ。他のサービスの基準と考えあわせれば、どうしたってそういうネットワーク社会にならざるを得ないと思うけどね。そういうサービスを一切使わず、自分だけ情報をがっちりガードして、尚且つネットワークに全く参画しないで一生涯過せる人なんていやしないよ。だからね、前から言うように社会保障番号を導入した方がいいよ。本当に。払ってない人を確実に追跡できるよ。そういうネットワーク社会が目前に来ているんだってば。


粗暴犯罪としては、強盗がなくなって恐喝・ユスリが増えるのかな?「おい、にいちゃん、ちょいと待ちな。お財布携帯の金を吐き出せ!」とか言われちゃって、「俺の携帯に(たまごっちの通信機能みたいなので)残高データよこせ」とか「おれのエディちゃんに入金しろ、早く」とか、路地裏に連れ込まれて、金を巻き上げられることになってしまったり・・・ああ、これはひょっとして強盗なのかな?何だか、間抜けというか、迫力がないかもしれんがのう。映画のような、難攻不落の巨大金庫に眠る大金をどうやって持ち出して逃げられるか、みたいなのもなくなるってことだよね。銀行ネットワークの厳しいセキュリティを破って、残高データを書き換えたり、架空口座への入金指示などで数字だけを盗むようになるのかな。これなら、1人で実行可能だし、特別な計画とか何も要らないしね。銀行さんは、頑丈金庫への設備投資は避けるべきってことかな。


現在の日銀の銀行券発行とかの処理はどうするんだろうか?リアル紙幣がなくても、数字上の「発行額」というのは作らなければならないのかな?会計上の数字だけ変えるんだったら、楽そうだし、幾らでも変更したりできそうだけどね。それとも電子マネーが主流になったら、銀行券の発行残高が大きく減少して、保有資産の減少(国債保有高など)とかになるのだろうか?よくわかりませんね。


世界的な流れで考えると、ドル紙幣もいずれはなくなっていくのでしょうか。資産の9割分くらいが銀行券のアメリカでは、大幅に電子マネーに切り替えたりはしないのかな。全世界に散らばっているし、ニセ札も混ざって流通しているだろうし。どうするんだろう?ところで、FRBのグリーンスパンさんはかねてからの噂通り、勇退ということになったようです。市場の信任の厚かった彼に代わって次の議長になる人は大変だろうね。今日の読売新聞には、グリーンスパンとクルーグマンを並べて、スタグフレーションの見解と共に、楽観派代表と悲観派代表という扱いで、主張を書いていた。グリーンスパンは長く在任したし高齢なので、もう仕事しなくとも十分だと思うのだが、シャレで「職探し」と言ったらしい。なかなかいいじゃないか。気の利いたコメントって、出来そうで難しいよね。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - FRB議長が退任表明、06年1月末の任期限り


追記:
お金が全て電子マネー化したら、高いとか安いという感覚は、数字列を見て感じるので、何と言うか、金額の数字列は「図柄化」「絵・模様化」するんじゃないだろうか。「この絵の時には、高い」って感覚と一緒だよね、多分。「1万円」という数字列と「ハートのエース」というのには、本質的な違いがなさそうな気がするんですね・・・「ハートのエース」を「1万円と等価」と決めたら、そういうことになるでしょ?(違うかな?)そんなことを思うと、電子マネーの感じ方は、リアルなお金を使ったことがある世代と、全然使ったことがない世代で、違うような気がする。リアル紙幣とかを使った時の感覚が数字列に置換されるのと、数字列しか見たことない人の感覚の違いは、想像つかないな。多分、今の私が1億円の小切手をもらう時の「実感のなさ」と似ているのかな?よく分らんな・・・でも、模様化した金銭感覚は、非常にヤバイですね。単なる数字列が価値判断に置き換わることになるなんて、どこか不自然ですね・・・



日本の国際化は進むか

2005年05月15日 18時16分45秒 | 社会全般
以前に右翼化の話を書いた(右翼化する時代)のであるが、経済財政諮問会議が発表した21世紀ビジョンでは外国人労働者の共生(多分移民の大量受け入れで人口減少社会を補おうということなのだろうと思う)が掲げられており、その方向へ進みだそうとしている。日本の鎖国が解かれ、西欧化の波がやってきた明治時代のようなものなのかもしれない(NHKで放送しているシリーズ、「明治」は面白い。色んな示唆が含まれていると思う)。昔の日本の方が国際化センスはあったのかもしれない。何故なら、実際に受け入れてきたからです。


正確には知らないが、遣隋使とか遣唐使の時代には、九州にやってきた大陸人(中国人とか朝鮮人でしょうか)はいただろうし、帰国せずに定住した人々もいただろう、と思うのです。その当時の最先端技術であったであろう、土木技術・建築技術などを教える人がきっといたんですよね?その他の分野でも色々な人達が命懸けで海を渡って来たんでしょう?ならば、きっと「帰りたくない」と言って、当然の如く住み着いた人達がいたでしょう。そういう人達は、日本人と子供をもうけ、子孫を残しただろうから、その子孫は今の時代にも何処かで生活しているに違いないと思います。「俺は日本人だ」と言いながらも、遺伝子的には昔の大陸人の遺伝子を受け継いでいる人達はかなりの数がいてもおかしくはないかもね。その当時の福岡や北九州あたりは、かなり国際化が進んだ地域だったかもしれないし。そういう人々を受け入れて、一緒に生活したんだろうな、と思えば、当時の人達は偉かったなと素直に思う。情報が少ないので、人物そのものしか見ないから、逆に良かったんだろうな、と思う。


鉄砲伝来だって、よく考えたら、本当に凄い話だと思うよ。当時の種子島の住民は、国際化とは全くの無縁だったと思うけれど(そうでもないのかな、案外外国と貿易があったりしたのかな?)、西洋人を見た時にはまるで「赤鬼が出たー」とびっくりしたんじゃないだろうか。それとも、昔話の「赤鬼」は当然西洋人を象徴化したものなのかな?よくわからんが、現代で言えばETみたいな見たこともない生き物が突然やってきたようなもので、ETにコミュニケーションをとろうとしたり食べ物を世話したりできるだろうか?だって、化け物みたいにデカイよ、ガイジンは。当時の日本人の平均身長がどれ位か正確には知らないが、150cmくらいしかなかったなら、本当に鬼としか思えんだろう?しかも何を言っているか分らんし、とんでもなく変な格好しているし。そういう中で、殺したりもせず、助けてあげて、語学辞書もなかったのに、物事を教わったりするのって、本当に凄い能力だと思うな。人間って、心を通わせようとするなら、コミュニケーションが可能ってことなんだろうね。


数が多くはないだろうけれど、オランダ人とかポルトガル人がやってきた当時にしても、好色人種だろうから(冗談です、違うかもしれないが・・・笑い)絶対日本人女性に子供産ませた奴はいるだろう(昔植民地を作りまくったスペイン人やポルトガル人達の悪行三昧は、想像を絶するものであったろう、と思う。原住民に対して、酷いことをたくさんやったに違いない。特に悪魔のような船員達がやることといったら・・・)、間違いなく。宣教師だって怪しいかもね。本当は布教しなくちゃいけないのに、「神の試練です」とか適当に言って、日本人女性を騙してセクハラとかあったんじゃないのかな?悪い奴はいつの時代にもいるからね。なので、そういう外国人に騙されたり、騙されなくとも恋愛とかしたりして、日本人がそういう遺伝子を引き継いでいる可能性はあると思うね。時々、日本人離れした顔立ちの人とかは、そういう形質が発現したんじゃなかろうか?何世代も飛び越えて。そんなことを考えると、昔の国際化は凄かったな、と感心してしまう。


今の時代に大量の移民受け入れが日本にとってどうなのか、これはよく分らない。出来そうだけれど、定住するとなれば色々な問題がある訳で、これをどのように乗り越えるかは、知恵が必要になるだろう。明治時代に日本にたくさんの西洋人がやってきて、事業をやったり日本人に指導したりしたことは確かで、そういう人々を受け入れたし共に暮らしたことも事実であろう。昔と違って、教えを請うという立場でなくなった日本人が、どういう感情を抱くのか不明なのです。ブラジルに移民となっていった日本人達は、みな苦労を重ねながらも勤勉さと努力によって運命を切り開き、多くの繁栄を手にしたことを考えると、逆に日本が受け入れる立場になることも必要なのかもしれないのだが、うまくいくのだろうか。


(そうか、明治時代にも大量の西洋人が来ているから、日本人に遺伝子をばら撒いた奴は居るだろうな、間違いない。古いか?)



北朝鮮とイスラム勢力の憤懣

2005年05月15日 12時53分50秒 | 外交問題
北朝鮮の挑発的行動が目だっている。瀬戸際外交と言われているが、真意は分りかねている。中国は米国に対話姿勢を求め、自国が6カ国協議開催の努力を重ねたのにうまくいかないのは米国のせいだ、と言わんばかりだ。恐らく北朝鮮は「アメリカが脅すからイヤだ」というゴネまくりを中国筋に伝えていたのだろうと思う。イラク(イランも含めて)の処理が進めば、次の標的は当然北朝鮮だと感じているのだろう。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 北朝鮮船18隻 国交省ずさん審査 契約の保険会社、支払い拒否“常習”

日本は様子見であるが、北朝鮮船は怪しい保険会社の保険に加入して入港許可証を貰っているようで、これでは油濁法の強化が形骸化してしまう。外務省も海上保安庁も、情報があるならば早くに国交省に教えてあげればいいのに。協力して取り組まないと、有効な政策とはならないでしょ?とりあえず油濁法を厳格に適用することが、間接的にでも北朝鮮のダメージに繋がるのですから、入港許可の取り消し決定くらいやって欲しいですね。許認可取り消し処分は、官僚の最も得意とするところではないですか(笑)。


米中ともに北朝鮮というそれなりの「ならずもの」がいてくれた方が、中国だけに脅威の視線が注がれることを避けられるし、日本の防衛政策にも影響するだろうから、今すぐに消えたりしない方がいいと思っているのかもしれない。韓国の希望は分らないが、国力が余程充実して、統一の弊害に耐えうる経済環境ならば、遠い将来の朝鮮半島統一はあるのかもしれない。だが、おおざっぱにいって、歴史的には統合と分散を繰り返してきたのだと思えば、くっついたり離れたりの循環の一シーンのようでもあり、長いスパンで見れば大した問題ではないのかもしれないが、とりあえず今暴れたり無謀な行動をされると日本が困るのは確かです。


北朝鮮は煽り(米国・ブッシュへの非難、短距離ミサイル発射、燃料棒取り出し、処理など)を続け、米国は「放置できない」という態度になっており、この2国間の緊張が高まれば、米国の本気を見せるという選択肢も無いとは言えない。ブッシュが最もカチンときたのは、核ミサイルの脅威とか核開発推進とかではなくて、単純に「テキサスのバカ」となじられたことなのではないか、とも思うのである。安部ちゃんが「空爆もオプションとして有り得る」とテレビで発言したそうで、核開発施設とミサイル発射施設の局所的攻撃は、皆無とも言えないだろう。何故なら、「北朝鮮が核ミサイル発射準備段階に入った情報を突き止めた」という公式発表を行えば、誰もこれを止めることは出来ない。空爆の確たる証拠が提示できなくとも、国際社会は「ダメじゃないか」とは言いながらも、米国に制裁を加えたりは出来ないからである。米国のこうした攻撃で、北朝鮮の核開発が10年遅れれば、それにこしたことはない、と日本もその他の国々も内心考えるであろう。それに、北朝鮮の政権世代が変われば、リビアのような変貌を遂げる可能性も有り得るんじゃないか、とも思う。


米国がイランへの対処をどのように行うのか、という点は、北朝鮮への脅しとして使えるかもしれない。米国のイラン・イラクでの大きな失敗は、毒をもって毒を制する作戦(本当にそうなのかは判らないが、見かけ上そう見えるが)で、肩入れした方が暴走へと繋がっているかのようである。イラク―イラン―イラク―イラン・・・と何をやってきたんだか、と思える。過去20年以上に渡る工作の失敗とその後始末で、常に紛争が続いてしまったんじゃないのかな。イラン大使館人質事件、湾岸戦争、今のイラク戦争、そしてイランの核開発、と言う具合に、米国が何を目指していたのか知らないが、手を加えて逆に悪化させているとしか思えない面がある。だが、これも恐らく米国のエネルギー戦略とか軍事戦略の一環なのだとすれば(国際社会を舞台にした壮大な実験?なのか、戦闘・兵器の実戦練習場を作った?のかそれは分らない)、こうしたシナリオを書き続けた奴は凄いと思う。絶対にこんなことは許されないが、他人の国土でいくら暴れたり騒いでも平気だし、自分の息子が死んだり身内が不幸にならなければ、屁とも思わない人間にとっては金儲けの手段に過ぎない。

まあ、こんなコミック調の話はないと思うが、歴史の裏側というのは、案外権力者同士の好きな女の取り合いであったり、個人的憎しみだとか、女房同士(若しくは愛人とか)の争いや、女房が嫌いな部下の暗殺と女房のお気に入り(若しくは浮気相手?)の引き立てだったりと、人間の心の織り成す物語が多くあるんじゃないかと思うのです。


Yahoo!ニュース - ロイター - イスラム社会で反米デモ拡大、コーラン冒とく報道で

米国の戦略はあたかもキリスト教徒の反撃のようであり、イスラム圏(教徒)への敵対的行為が主であるかのようです。コーランをトイレに流したという挑発行動の報道によって、イスラム圏の反米感情は拡大しており、これ以上のイスラム圏への敵対的行為が続けば米国の外交戦略に大きな影響が出るのではないかと思います。テロを抑制するどころか、火に油でしょう。イスラム教徒の憤懣が爆発すると、イラクは泥沼化する一方となってしまうのではないかと危惧されます。


ニュースでは、米朝間に進展が見られたようです。
次のような報道がありました。

CNN.co.jp : 米朝高官、電話で協議 6者協議再開目指す - USA

とりあえず何かしてみた、という程度でしょうかね。果たして北朝鮮が本当に応じてくるのか、分りません。

格差社会7

2005年05月14日 15時58分01秒 | 社会全般
新卒の就職状況は少し改善されたようである。企業業績の好転が雇用にも反映したということであろう。良かったね。ちょこっとだけど。ただ、就業希望者だけに限っているだろうから、何にも希望してない人もいるんじゃないかと思うと、やはり若者全体に仕事が行き渡っているわけではないのだろう。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 高卒就職90%台回復 大卒は5年連続上昇


どういう社会ならば意欲を持ち、先に進んで行けるのだろうか。若者が幻滅したりせずに取り組める社会って、どうしたらいいのだろうか。昔と何が大きく変わったのだろうか。

私は高校まで田舎暮らしでしたから、学習塾もなければ予備校もない所でした。競争も全然厳しくなく、特別勉強したりすることもなく過すことが多かったように思う。なので、普通の公的教育だけで十分であった。凄く楽しい学校生活だった。私は皆勤賞を目指していたし(爆)、学校へ行くのが一番楽しかった。


高校の時には大学進学を希望したが、貧乏だったので私立は絶対に無理だと親に言われた。浪人もさせられない、と宣告された。もし落ちたら働く、という約束だった。私の親は定時制高卒と中卒でしたので、給料がすごく安かったし、特別な高等教育を受けた人間ではなく、本も殆ど読まなかった。親に教わった事は、勉強のこととか進学のことなどは全くなかったが、仕事とか生き方とかは教えられたと思う。家で本を読んだりしていたら、そんな暇があるなら、と用事を言いつけられた。その代わりに、「勉強しろ」などとは一度も言われなかった。だから、勉強したり、本を読んだりして過せることの方がはるかに好きだった。


大学受験は、当時共通一次試験(今のセンター試験)と2次試験があって、国公立は1校しか受けられない制度だった。私立との格差を無くすとかの政策で、全ての国公立大学の受験日程が同じ日になっていた。なので、今まで大学受験はその時の一度だけしかなく、私立は勿論金がないので受験したことはないし(都会へ行く交通費とか受験料が苦しすぎて、親には言えなかった)、高校受験は公立しかないので、これだけでした。田舎に生きると、ほとんど試験がなく過せるんですね(笑)。なので、受験と言っても経験があまりなくて、高校・大学でそれぞれ一回しか経験していないから、受験指導とかは具体的に分らないのです。運良く入学できた国立大学は住居と同じ都道府県の、電車で数時間の地方都市にあり(1人暮らしとなって、すごく嬉しかった)、当時塾でバイトして初めて「都会の子は競争が厳しいんだな」と知りました(地方の中でも都会だと思っていたのです)。


大学では授業料免除と日本育英会の奨学金があったので、ウチのような貧乏な家庭でも進学することが出来ました。もしも、私立だったら絶対に行けなかったでしょう。ですから、私は、大学教育を与えてくれたのは、国であり、国民の税金で教育投資を受けることが出来たと思っています。それに応えるには、私に大学教育を授けてくれた国や国民に、その一部でも恩返しをするのが当然であると思うし、自分の力だけでは無理だったと思うのです(参考記事)。こうした教育制度は当然の如く守られて欲しいし、貧乏とか学歴の低い家庭とかそういう理由で希望格差に繋がるような社会は、どこかオカシイような気がするのです。今から20年くらい前の話ですから、今と比較にもならないし、貧乏自慢とか誰でも大学に入れるということを言おうと思う訳ではありません。ですが、今も同じような制度とか仕組みはある程度残っているだろうし、そういうアドバイスを学校の先生とか行政の人(役場の人とか?)が教えてあげたりすることも必要なのではないか、と思います。私は学校で全て教えてもらえました。


大学には折角立派な先生達や教授達がいたにもかかわらず、私は一生懸命勉強したりせずに、部活やバイトとか遊んで過したし、成績優秀なはずもなく、悪い学生の見本みたいなものでしたから、教育機会を無駄に浪費したのだろうと思う。ゴメンナサイ。その分、社会貢献で頑張りますから(笑)。今こうして仕事をしたり、生活していけるのは、大学教育のお陰と思っています。そういう国の良い政策があればこそ国民は恩恵を受けられるというのに、その一方で、悪い政策とか浪費が続けられて、いい政策の足を引っ張るのだとしたら、これを反対するに決まっています。


私の知人に、2歳くらい年上の女性がいましたが、その方は進学できなかったので(受験で不合格だったとのこと)自衛隊に入隊したそうです。浪人はさせられない、というのが理由だったとのことでした。でも、当時は女性の自衛官は少なくて、入隊したらすぐにアイドルになれたのではないかと思います(そういえば、遠い昔、自衛官募集しても集まらず、婦人自衛官の水着写真集みたいなのを発売したんじゃなかったかな。それとも雑誌に出ただけだったかな?・・・笑)。その人は大きな基地だったか、司令部みたいなところに配属になって、遠くに行ったのではなかったかな。その女性の制服姿がカッコよくて、自衛隊に入隊してみたい、とちょっとだけ思いました(爆)。何度も言うようですが、私は制服マニアとかではありませんよ。本当ですってば(笑)。今なら、中々そういう公務員にはなりたくてもなれないんですよね、きっと。なので、当時の彼女の選択は悪くはなかったのかもしれない。その後の人生を聞いてみたわけではないんですけれども。

参考までに、格差社会シリーズ(カテゴリー:社会全般)とか教育問題のあたりをお読み頂ければ幸いです。



「敵は霞ヶ関にあり」? その2

2005年05月13日 19時49分00秒 | 政治って?
総務省の抵抗勢力がつまみ出されたというところか。政官業スクラムの一角を切り崩したようだ。官邸の強い意向ということであり、内閣の権限を行使するのは当然だ。統治システムとしては当たり前なのだが。
Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 総務審議官ら更迭 「郵政民営化で首相に反抗」


例え話で申し訳ないが、行政組織を会社に見立ててみよう(無知なので、間違っちゃうかもしれない、その時は優しく教えて下さいね)。内閣総理大臣は、グループ企業のCEOである(内閣官房は言ってみれば持株会社かな?)。グループにある連結子会社(各省庁)には、社長(大臣とか長官などの長)がそれぞれいて、運営を任されているが、内閣はこれら長の集まりである最高経営会議みたいなものかな?それぞれに幹部社員(官僚達)がいるが、彼らの人事権は株主(国民)にはない。なので、たとえ幹部社員がどんなに嫌いでも、憎くても(誰がいるのか知らないから、そんな感情あるわけないんですが、笑)罷免できない。だが、社長たちには株主(国民)の効力が及ぶ。下請け子会社(地方自治体)もたくさんあってそこの社長(首長)も同じように選べることになっている。


こうして選んだCEOとかグループ企業の社長とかが、部下である幹部社員(株主から選任されたわけではないから取締役ではないよね?)の人事権を行使することは、至極当然だろうね。使えない部下とか経営の邪魔をする反抗的な部下たちには当然閑職に回ってもらい、有能かつ意欲的な、経営方針に則って業務ができる人材を登用したいと思うのが普通だ。今の公務員制度の中では、そういう人事が可能なのかは知らない。従来の省庁人事については、社長とかCEOが判断するんじゃなくて、因習的な内部事情で行われてきたのかな?事務次官は誰が決めるのか知らないし。これも大臣が最終的に決めると思うが、それは形式的な話で単に追認ということであって、実質的な決定権は別な所にあるんでしょ?この辺のことって、どうなっているんだろう?


社長はよく交代するから、内部の幹部社員たちが実務に長けており、実質的な運営というのは幹部社員が頑張らないと出来ないことも分る。社長が1人で全てを出来る訳でも、隅から隅まで把握できる訳でもないだろうし。ただ、経営とか統治ということで言えば、やはり指導力とかリーダーシップとかは大きな影響があるだろうな。大会社でもCEOが変われば、大きな飛躍を遂げる会社もたくさんあるし。内部の自己改革が進まなかった企業であっても、生まれ変わることもある。日産とかアサヒビールなどはそういう好例だろう。


だから、国民の権限の効力が及ぶ、CEOであるところの、内閣総理大臣は、本当に重要なんだな、と改めて思う。最も身近な下請け会社の社長(首長)選びも、実は大切だな。CEOとか社長候補の経営陣ユニット(政党)にも色んなタイプがあるのだな(いうなれば、ニッポン放送の経営陣として、ライブドアがいいのか、フジサンケイグループがいいのか、みたいな選択かな?――ってことは、党首の比較でホリエモン派か日枝派かを選ぶというようなことか・・・これは分かり易いな)。国民が選べるのは、こうした経営陣ユニットってことか。ぼやーんと分ったような・・・要するに、幹部社員をどうにかしようと思ったら、やっぱり優れたCEOやら社長を選ばないとダメなんだな、ってことだよね。

でもって、国民の統治権限は、株主の議決権と同じで、「シャンシャン総会」とかやっていたんでは全くダメだな。株主責任があるのと同じように、国民にも責任がある。JR西日本だって株主責任があるだろうから、それは配当減とかの形で責任の一部を負わなければならないのかな。これと同じで、国民も黙っていては責任だけ発生してしまうな。


心してかからねばなるまい。


国家公務員の常識

2005年05月13日 15時04分18秒 | 社会全般
毎度のことだが、頭の中を疑いたくなるような連中が多いということだ。本来どうやって国民生活の向上に寄与できるか考えねばならないのに、おかしなシステムとか自らの裏金を増やすことに労力を注ぎ込み、悪しき伝統だけは脈々と引き継ぐようだ。

Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 厚労省 書籍監修料プール、飲食代などに 歴代係長引き継ぎ

産経新聞より以下に抜粋します。

同省は昨年、監修料について内部調査を行い、職員延べ約千五百人が過去五年間に総額約十億円を受領したとする結果を公表していた。調査対象は国が補助金を出したり、出版物を大量に買い上げている場合で、今回のケースは該当せず、調査対象外になっていた。
 総務課によると、この書籍は医学書院(東京都文京区)が発行する「病院要覧」。全国の病院の所在地やベッド数などのデータをまとめたもので二年に一回改訂版を出している。その際、総務係長は同省が収集した複数のデータを編集して原稿にし、監修料を受け取っていた。金額は年間百万円程度という。
 監修料は係長名義の口座にプールし、原稿作成に協力した職員の飲食代などに使っていた。係長が代わる度に、口座の名義を変更し引き継いでいた。総務課は「国家公務員法の違反には当たらず、問題はないと思う。平成十五年が最後で今後は行わない」と話している。




報道によれば、「総務係長は同省が収集した複数のデータを編集して原稿にし、監修料を受け取っていた」ということだが、これが法令違反には当たらないという、都合のいい見解を発表している。本当にそうなのか?このような法令の解釈や適用を国民がどうやって防げるというのだ?また得意の裁判か?こんなことを、国民が一件一件訴訟で争えるのか?こういうお役人の考えや答えを、国民から『直ちに』変えさせる有効な手段はない。マスメディアにも、もっともらしく「違反には当たらない」という発表するぐらいだからな。堂々たるもんだよ、官僚達は。


報道を見る限り、総務課では”業務の一環として収集した”病院データを、勝手に編集して部外者である一民間企業にデータ提供を行ったとしか思えない。つまり、総務課の連中が手に入れたデータは、業務上知りえたものであって、業務に従事していなければ入手できなかったデータである。これを、個人帰属のものであるかのように扱い、無断で営利企業に提供したんじゃないか。これの何処が「法令違反に当たらない」のだ?それとも、このデータは官報に出るような、公表データなのか?国民に広く知らせているデータであって、民間企業はそういう公表されているもの(省庁のHPとか開示請求によって得たりとか)を利用して独自に作成したのか?違うだろ?総務課の連中が、業務で知りえたデータを民間企業に横流しして、その報酬を受け取ったのだろ?


いつも偉そうに「法令に基づいて」などという御託を並べるくせに、何でいつもいつもこうなんだ?法とは何の為にある?


国家公務員法

第100条  
職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする。
○2  法令による証人、鑑定人等となり、職務上の秘密に属する事項を発表するには、所轄庁の長(退職者については、その退職した官職又はこれに相当する官職の所轄庁の長)の許可を要する。
○3  前項の許可は、法律又は政令の定める条件及び手続に係る場合を除いては、これを拒むことができない。
○4  前三項の規定は、人事院で扱われる調査又は審理の際人事院から求められる情報に関しては、これを適用しない。何人も、人事院の権限によつて行われる調査又は審理に際して、秘密の又は公表を制限された情報を陳述し又は証言することを人事院から求められた場合には、何人からも許可を受ける必要がない。人事院が正式に要求した情報について、人事院に対して、陳述及び証言を行わなかつた者は、この法律の罰則の適用を受けなければならない。


ここの規定にあるように、守秘義務が課せられているにも係わらず、みだりに情報を有償で提供し、本来省庁に帰属しているはずのデータを、個人的な利益を得る為に利用したんじゃないか。何で職員個人に利用権限があるのだ?これは明らかに守秘義務違反である。これの何処が違反には当たらないのだ?総務課諸君。


それからもう一つ。

第101条  
職員は、法律又は命令の定める場合を除いては、その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、政府がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない。職員は、法律又は命令の定める場合を除いては、官職を兼ねてはならない。職員は、官職を兼ねる場合においても、それに対して給与を受けてはならない。
○2  前項の規定は、地震、火災、水害その他重大な災害に際し、当該官庁が職員を本職以外の業務に従事させることを妨げない。


このように職務専念の義務が課せられている。報道では、総務課が収集したデータを編集したらしいが、この編集作業は業務外で行われなければならない。編集した原稿の作成は、業務外でしかできっこないのだ。ということは、元データを利用したりは出来ない。業務外で個人的利用の為に、省庁が保有する情報にアクセスすることは出来ないからである。社会保険庁の業務外データ閲覧(小泉首相や安倍ちゃん、その他もろもろの・・・)が処罰対象であったことを見れば明らかである。ということは、業務時間内であったら第101条違反、業務時間外であっても何の違反か知らないが(公務員倫理法?)違反であろう。よって、いずれも違反である。にもかかわらず、「法令違反はなかった」という返答なんだそうだ。ふざけるな!


これを読んでみたまえ。官僚諸君は、よっぽど法令には疎いのか?法案作成者が聞いたらきっと泣くぞ。

国家公務員倫理法

第三条  
職員は、国民全体の奉仕者であり、国民の一部に対してのみの奉仕者ではないことを自覚し、職務上知り得た情報について国民の一部に対してのみ有利な取扱いをする等国民に対し不当な差別的取扱いをしてはならず、常に公正な職務の執行に当たらなければならない。
2  職員は、常に公私の別を明らかにし、いやしくもその職務や地位を自らや自らの属する組織のための私的利益のために用いてはならない。
3  職員は、法律により与えられた権限の行使に当たっては、当該権限の行使の対象となる者からの贈与等を受けること等の国民の疑惑や不信を招くような行為をしてはならない。


ことの大小はあれども、元の姿が分るよ。昔からね「これぐらいの役得は当然じゃないか」っていうような腐れ根性が染み付いているってことだろ?「今までずーっとよかったのに、何でいまごろになって」という思いも、もっともかもしれないね。昔から悪いなどとは考えたことがない連中ばっかりなんだから。これも「時代のけじめ」ってやつですか。なるほど。笑わせるな。


法律家は口をそろえて、「知らなかった」では済まされない、と言うだろう。「知らないこと」は罪がなくなる訳ではないんだそうだよ。だからね、総務課諸君が皆「法令違反になるとは考えもしなかった、知らなかった」ということを理由に言い逃れは出来ないということですよ。でもね、奴らは卑怯だから、また勝手に解釈を並べ立て、「法令には違反していない」と言い張るんだよ、きっと。だって取材にそう答えているくらいだからね。無知な国民に法律なんてわかりやしない、解釈・適用も法に疎い衆愚にはわかりっこないし、何の権限もないからね。知られないことをいいように利用し、ただ隠していただけじゃないか。国民不満の矛先が総務課諸君に意図的に向けられているわけでもないぞ。

小さい不正の積み重ねで、大掛かりな浪費システムを作り上げても何とも思わなくなるんだろうよ。それが当たり前、当然って顔をしている。前からやってるんだから、俺が悪いんじゃないんだ、俺だけがとっちめられるのはおかしい、ってな理論なんだろう?


何なんだ、霞ヶ関って。


補足:
ところで、申告はしているのかね、皆さん。所得税法違反だろうな、多分。
それと、「もうやらないから勘弁してくれよ」というのも、おかしいだろ。罪は消えてなくならないだろう?民間人には、遡って違法の適用をするんだろう?役人も同じように適用しろよ。ねえ国税庁さん。示しがつかないでしょう?



末は博士か大臣か―博士貧乏?

2005年05月12日 20時59分05秒 | 社会全般
今のご時世、博士は増えましたが定職に就けない方々も多く存在するのだそうです。文部科学省の政策によって、多くの国立大学(今は独立行政法人)は大学院重点化が進められ、大学院へと進学する人が多くなったのですが、卒業後に研究者としてのポストが少なく、給料も満足に貰えない人もいるということのようです。ニートやフリーターばかりではなく、博士にまで厳しい雇用の現実が待っているようです。


大学院ばかりではなく、ロースクールについても同じような将来が待っているかもしれません。大学院の問題は、米国に比べて在学者数が少ないということが言われたりするのですが、就業環境が異なるために一概に比較は出来ないのかもしれません。給与体系にも明らかな違いがありますし。

研究活動は必ずしも大学等の研究機関に所属していなくとも可能な場合もあります。天体研究家、郷土史研究家、古美術研究家や姓名研究家などは、何処にも所属しておらず全くの個人の方もおられます(権威の重さ?に違いがあるとか、学会内の評価などは知りませんが個人でも可能だということです)。ところが、理系の研究ということになれば、純粋な数学理論などは別として(自分の頭さえあれば研究できそうだからです、思い込みかもしれませんが、笑)、殆どの場合に複雑な実験器機とか実験動物、試薬類、その他もろもろ・・・という具合に、到底個人では出来ないことの方が多いと思います。企業や大学とか公的機関などの研究機関に所属していなければ、まず研究は無理なんじゃないかということです。理系の研究ということだけで、たくさんの予算を使う(器械類とか、ありとあらゆるものに金がかかる)ので、人件費にまで回せるお金というのが相対的に減少してしまうのかもしれないな。文系は元来お金がかかる器具・機械類とかを購入する必要性があんまりないもんね。

それと、経済学、経営学、金融関係などの学問ならば、即お金に直結する部分があるから、コンサルタントや研究機関なども民間レベルでたくさんあるかもしれない。ということは、ポストがそれなりにある、ということになるのかな。テレビのコメンテーターにしても、「~~経済研究所の主席研究員の何とかさん」とか、「何だか総研の上席研究員の何とかさん」という風に、殆ど経済系の人達が多い。稀に理系(と言うのが適切かどうか判りませんが)の「精神科医の○○リカさん」だとかやっぱり「精神科医の和○○○さん」とかくらいかな(ところで、どうして精神科医ばっかりなんだろう?)。他には・・・そうだな江崎玲於奈さんはごく稀に出てるな。

文系の民間ポストは、大きな設備投資が要らない(机とイスくらいあればOKなのかな?あとはPCと自分の脳みそでこれは共通だよね)ので、結構作りやすそうな気がする。実験系の理系研究所となると、大きな製薬会社や企業研究所などが主なポストだと思うけれど、施設自体にかなりお金がかかりそうだよね。実質的には文系よりもはるかに巨額の研究投資が理系分野に行われていると思うが、それが人的需要を大きく生み出す程にもなっていないのかな?博士の行き場がない、というのが、実態がどうなのかよく見えていないんだけれど、こういう研究所関係にも空きができないから、定職に就けないのだろうか?大学にもポストなし、民間もなし、ということになれば、後は別な道しかない、ということなのだろうか。例えば、教職課程の大学を出ても、先生になれない人達がたくさんいるのと同じような感じもするけれど。

博士の行き場がないのは、行政的政策の失敗のツケが院生卒後の人生に回っているということなのかな?それとも、人員とポストの数のバランスが悪いので(人的需要がないのに理系博士の供給が過剰になっている)、博士が余るということかな?余る人達に、何か安定的な就職先を提供できるような環境があればいいですが、今の時代にそれ程の余裕もなさそうですし、他にも同じように大学を卒業しても働けない人達もいるのが現状ですから、大学院卒だけを優遇するような制度を作るということもなかなか難しいでしょう。

先頃政府の(というか経済財政諮問会議の)発表した21世紀の未来像では社会人大学院を拡充して、余った人生の時間を院生として過してくれ、という壮大なる計画ですから、今後も博士貧乏は増えるでしょう(多額の学費を先行投資しても、卒後に仕事なし、笑)。嬉しがるのは、少子化で学生集めが大変な大学(通算の在学年数延長で数の減少を補おうということかな)と、文科省くらいなものでしょうか(多くの大学を救済できれば影響力が行使できるし、官僚の退官後ポストとしての教授ポストもあるしね)。勿論、どういう目的で何を学び、将来どうするのか、ということをよく考えた上で院生を選択するならば、自分の将来に大いに役立つこともあるとは思いますが。でも、全員そうなれるのか、というとこれは難しい。他の業種でも、競争があり、需給関係があれば、余る人が出てしまうのは、防げないようにも思うのです。


時間がないので、後でまた直したり、書き足しますね。

こちらのブログでかなり議論されています。非常に興味深いです。
Y日記

本来的には、受け入れ先があって、それに見合う人材育成という形で博士を送り出せることができればいいのだろうと思いますが、果たしてそういったうまい政策があるのか、というと難しい問題だと思います。しかも、求人需要と本人が求める待遇とのギャップが大きければ、大学院卒であるが故に難しい面も出てくるのかもしれませんね。これは、格差社会シリーズで書きましたが、本人がこのギャップを埋める努力をする以外には、いい解決策は思い浮かびません。


明治時代には、博士が非常に少なかったので、非常に価値のあるものだったのでしょうが、今という時代に生きるには、博士という肩書きだけでは何の約束もないということなのでしょう。


言葉の触発

2005年05月12日 16時37分14秒 | 俺のそれ
イラクで拘束された斉藤さんの無事帰還を願うしかないのであるが、今日の天声人語にも『戦争請負会社』が取り上げられていた。ふーむう、今回の事件で偶然にも注目が集まった本となったようである。多くの知識人や言論人達は、色んな著作を読み多くのことを知っていて、文章にしていくんだろうな、と思う。その一方で、TBSのHPのコラムに記事を書いていた担当部長が、毎日・読売・朝日新聞からの盗作を繰り返していたという事件が報じられた。人間の頭の中に、言葉が浮かばない時ってやってくるのだろうか?私にはよく判らない。考えることが苦痛になっていくのだろうか?そういう時にでも、「きちんとした文章を書かなければ」というようなプレッシャーがあって、他の人の書いたものを使ったりするのかな?思いが何かあれば、何となく出てくるような気もするけれどね。


自分の知識としては何の中身も持たないが、私は基本的に「人が好き」なのだと思う。人間の不思議さとか可能性とか何かの素晴らしさに、いつも期待しているんじゃないかとも思う。そういう目で見たら、人々の行動や営みとか、考えや文章に触発されるような気がする。ただ、文章を書いて商売にするというのは、もっと別次元の話なのかもしれませんが。


文章に触発されるということで言えば、熱烈な読者を持つ作家というのも大変だろうな、と思う。最も厳しい書評家が、マニアな読者であるからだ。かなり有名なのは、ドイルの「シャーロック・ホームズ」の研究家達、そう世界中に「Sherlockian」が存在しており、ありとあらゆる研究がされている。ユニークだけどね。「Sherlockian」と似た感じの、ディケンズ著の『The Pickwick Papers』に出てくる主人公「Pickwick」に由来する「Pickwickian」というのが存在する。これは「ピックウィック研究家」ではなくて、その主人公のような言葉とか行動に当てはまる事柄を指して使われる(私は英語が苦手ですから、正確には語学研究家とかディケンズ研究家の意見を参考にして下さいね)。

どちらの作家も、人間観察のスペシャリストと言えるかもしれない。フィクションの中に書かれる人間が、現実世界と同じように正確に描写されるので、フィクションと思わせないような錯覚をもたらすのかもしれない。ディケンズはPickwickを正確に描写したので、後年彼が患っていたと思われる病気が明らかとなった。「睡眠時無呼吸症候群」というのがそれだ。


元々は「ピックウィック症候群」として知られており、これは主人公のPickwickの観察とぴったり符号するような病態が医学研究で報告され、彼の名前に因んで名付けられた。体型とか昼間でも眠くなるなどの特徴があり、今で言う「睡眠時無呼吸症候群」をディケンズは詳細な観察によって明らかにしていたという訳だ。どちらかと言うと、「Pickwick syndrome」の方が気が利いており、「睡眠時無呼吸症候群」は一目でどんな病気か分かり易いが味気ない感じだな。「ピックウィキアン」とか「ピックウィック症候群」という言葉として名を残すのも、中々文学的な心があって面白いと感じてしまうのである。洒落ているのである。なので、これからは、「睡眠時無呼吸症候群」のことを指して言う時には、「ピックウィック症候群」と呼んで欲しいです(冗談です、落合先生)。


いぜれにしても、人間への興味は尽きないし、それを表現しようとする言葉の中にある、考えや思いを見ようとするなら、常に何かの触発を受けると思う。



これとは全く関係ありませんが、「極東ブログ」のfinalventさんが書いている日記(finalventの日記)には多くのマニア的読者が存在しており、特に哲学、西洋史・文学、語学などの話題の時には、書いてあることが全く理解できない。できれば、もう少し易しく書いて欲しいな、と思う(笑)。だが、ベースが違うので、易しくすると他の読者達が物足りなくなるだろう。恐らく、彼らのような熱心な読者は「finalventian」を自認する人達であろうと勝手に推測している(笑)。ということで、今後は「finalventian」と呼んでしまおう。私は無理だけれども(笑)。



マスメディアはネット言論を意識している?

2005年05月11日 09時54分43秒 | 社会全般
脱線事故後の報道について、過熱報道・メディアスクラムが見られることを多くのブロガーが指摘、非難していました。これを受けてなのか、JR西の記者会見シーンや謝罪要求シーンがテレビから消え、職員の問題行動を探し出す暴露合戦(適正な報道とも言えないので暴露と表現しました)などが鳴りを潜めました。

これは、メディア関係者達の「情報感度」が私のような平凡な人間よりもセンシティブなので、ネット上のこうした批判に即応してピタリと止めてしまったかのようです。テレビ局への電話などの抗議も多かったのかもしれませんが、GW中から出ていたネット上でのマスメディア批判の高まりが影響したのではないかと思います。ドンキホーテの時もそうでしたが、報道関係者は「吊るし上げ」状態を作る時には、無類の強さを発揮するのかもしれませんね。これが普遍的な人間の行動心理なのかどうかは判りません。けれども、経験的には、特定ターゲットが見つかれば(作り上げるのかも)マスメディアの一斉攻撃が開始されるという傾向はあると思います。議員や著名人の年金未納問題の時も同じようなものでした。


マスメディアがそうした批判を受ければ自主的に「止められる」ようになったことは、以前よりも少し良くなったのかもしれませんが、それでも、報道の質・あり方とか記者個人レベルの節度という点で言えば、多くの反省点があると思う。記者会見場での、記者たちが浴びせる言葉や尊大な物言いなどは、多くの非難が集まっていたのですから、誤った特権意識というか記者の節度を越えた行動については改める必要があるでしょう。個人の資質にもよるだろうが、組織内での指導徹底が必要ではないでしょうか。


こうした報道の影響があるのか判りませんが、JRの運転士などへの嫌がらせや暴行が相次いでいます。こんな嫌な世の中になってしまったのかと思うと、本当に残念です。もっと恐ろしいのは、線路への置石事件や自転車放置などという信じられないようなことを行う連中が沢山いることです。狂った人間が存在しているということなのでしょう。「他人の不幸」を心から望むという、酷く屈折した、やり場のない鬱憤をかかえた卑怯者が少なくない、ということです。自分がもがき苦しんで海を泳ぐ時に、船に乗っている人間を溺れさせたいと願い、船底に穴を開けようとするような人間がいるのです。嫌だな、本当に。事故も悲しいが、その後に人間のおぞましさを知らされるのも悲しい。



イラクの邦人拘束事件のこと

2005年05月10日 20時28分44秒 | 社会全般
2ヶ月以上前くらいに「本のよみうり堂」の書評欄に紹介されていたP・W・シンガー著『戦争請負会社』(この評者も池内恵氏だったかもしれません)であるが、先日の記事(参考記事)にもちょこっと触れました。今回の邦人拘束事件は、こうした戦争請負会社に所属する日本人ということのようです。報道によれば会社の実態がよく判っていない、ということらしいですが、本には書いていないのかな?
Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 実態見えぬ警備会社、イラクで米軍から業務委託

人質になってしまわれた方の無事を祈るだけですが、国際紛争や戦争における業務委託というのが、本当にビジネスとして行われているというのも、ある意味凄いことですね。随分昔の傭兵部隊とか「エリア88」(笑)のようなのが、今の時代にも実際に存在しているんだな、と思います。勿論、業務内容は大きく様変わりしていますけれども。


戦争というのは、昔はある意味投資であったように感じる。投下資本(莫大な戦費とか兵糧とか兵器・武器・弾薬・・・)とリスク(多数の戦死、大衆の困窮・不満増大、敗戦、休戦で「戦利品なし」とか)に比べて、回収する戦利品やら賠償金とか支配地域の資源とか奴隷とかそういう何かを得る投資としては、メリットが少なくなったので戦争をする意味が減ってきているんじゃないのかな、と思う。そういう投資判断で戦争をする訳ではない場合もあって、独立、名誉、イデオロギーとか宗教といった理由で不採算な戦争が起こるといつまでも続くことになってしまうのかもしれないな。よく分りませんが。利益目的の人間の行動というのは概ね分かり易いし、予測もつきやすいだろうが、利益度外視とか不利益であるにもかかわらず争うという場合には、想定外ゆえに恐ろしいのかもしれない。カルト集団などの場合にも同じような傾向があるのかな。


色んな意味で戦争は昔とは違う形態になったということなのだろう。その一部が戦争請負会社という象徴的な存在として見られるのかもしれない。



話はとんでしまうが、今日の読売新聞の編集手帳には、「鶸(ひわ)色」、「鴇(とき)色」、「鳶(とび)色」、「鶯(うぐいす)色」、「鴨(かも)の羽色」、「山鳩(やまばと)色」「雀(すずめ)色」などの言葉が”色とりどり”に並んでいた(笑)。これを読んだ時に思い出したのが、昨年だったか、ウチの子に買った誕生日プレゼントだ。

例によって「よみうり堂」の日に出ていた『色彩の手帳』という本の切り抜きをウチの子が持っていて、私から誕生日プレゼントは何がいいか尋ねられると、その切り抜きを差し出したのだった(毎年私からのプレゼントは本だと思い込んでいる)。本人は既に本屋で現物を見たらしく、「気に入った」と言っていたので、「それが欲しいならいいよ」と私は言った。後日本屋で買おうと思い、『色彩の手帳』の中を見ると、色見本のような本だった。一色ごとに正方形の色見本と解説が書いてあり、それが数百色か続いている。一瞬「ええーっ!?本当にこれが欲しいの?」と思い、家で本人に確かめると、やはりそれが好きだという。理解不能である。なぜこんな、デザイナーさんとかが見るんじゃないのかな、と思うような本が好きなのか、私には解らなかった。どのページも、色の説明しか書いていないのだ。それも見たこともないような、上の編集手帳に出て来たような色の説明ばかり。子供の考えることはわからんな、と思いながらも、その本と、『ダビンチ・コード上下』をプレゼントすることにした(何故2種類かというと、クリスマスと誕生日が一緒だからで、一つだと可哀想だと思って毎年2つです)。


しばらくたった後で、子供に「これ~~色に似てるね。でも○○色の方がいいよね」とか言われても、返答のしようがない。一度も聞いたことのない色を言われ、親として答えられないのでした。恥ずかしい~。正直言って、子供に自分が「大人のふり」をするのは随分前からヤメていたけれど、既に負けているというのも辛い。どうしてあんなに何遍も読むんだろう、『色彩の手帳』。不思議。美術的センスとか全くないのに。絵を描くのも好きじゃないと言っていたのに。だが、色にだけは関心があるのだろう。わからん。未だに謎。子供って・・・本当に難解なのだな、と思った。


追記:5/11 10時半頃

今日本を見ると間違いでした。正しくは『色の手帖』(監修永田泰弘、小学館)でした。お詫びして訂正致します。『色彩の手帳』は読み替えて下さいね。ごめんなさい。

困らせちゃったかな・・・奥田さん

2005年05月10日 17時17分42秒 | 経済関連
先日の記事で自動車価格のことを書いたのですが、これがちょっと良くなかったかもしれない。こじつけ的な書き方でしたので、一部に誤解を生んでしまったのかも・・・
イラク問題の収束とデフレ終息
NIKKEI NET:主要ニュース

昨日、奥田氏の記者会見があり、曰く「値上げは各社の問題」「一般的な経済人として値上げという見方はある、と言っただけで、他社と話したこともない」と。気を悪くされたりしたら、ゴメンナサイ(まさか私の記事のせいではないと思いますが・・・)。それに私は値上げが悪いとも思っていませんし、当然の見方の一つなんじゃないのかな、と。国内の素材メーカーも助かるだろうし。他が直ぐに追随するかどうかは、正確には判りませんが、素材供給側の販売価格が上げられれば(まさかトヨタさんにだけ高く売り、他メーカーに安く供給はできないでしょう?)、必然的に新車価格に反映されると思うんですが(それとも利幅を今以上に削って価格据置?でもいいですが)。そうなると、例えば「鉄鋼・鋼板関係が値上げしたぞ」となれば、その他メーカーもそれに習って、値上げに踏み切るんじゃないかな、ということです。自動車メーカーが陰で結託しているとか、そんな風には思っていませんが、リーディング・カンパニーであるトヨタが決意するなら、当然の如く多くのメーカーに影響するのではなかろうか、と思うだけです。私は、新車価格値上げには賛成です。当面購入予定もありませんし(笑)。



次は財務省ネタ。谷垣君は、地方に営業に出かけていたようです。タウン・ミーティングで、医療費のキャップ制について発言がありました。「厳格な帽子をかぶせるとおかしなことになる」とのことでした。帽子と言っても、判りにくいと思いますがね。ダイレクトに、「医療費の総額に上限を設ける」とか説明しないと、帽子のイメージでは理解しづらいんじゃないのかな。

NIKKEI NET:主要ニュース

以前に書いたように(参考記事)、経済財政諮問会議の民間議員さん(奥田氏もこの1人ですね)から提案された、医療費伸び率をベンチマークに基づいて管理しよう、という無謀な案でした。そのベンチマークにはGDP成長率を取り入れるべきで、上限を設けることで財政支出の大幅抑制を図ろうということです。谷垣君が触れた「厳格な帽子」とは、このGDP成長率というキャップのことです。


経済財政諮問会議では、呼び出された厚生労働大臣の尾辻さんが集中攻撃を受け(そんなオーバーではないでしょうが、笑)、GDP成長率に替わる合理的なベンチマークを挙げてみろ、と民間議員さん達に迫られ、厚労省の官僚達が必死になって探してはみるものの、いい案が見つかっていません(多分、ですが。これも単なる憶測に過ぎませんから、本当はどうなのか分りませんよ)。経済学的な数値管理という手法よりも、供給される医療サービスとか医療資源の適正化や人員配置・労働力コストの問題にまず目を向ける方が望ましいと思いますがね。基本的には国の基幹産業となるようなものではないかもしれませんが(自動車とかITとかそういう産業構造とは異なるんじゃないかな、と)、市場規模が毎年30兆とか40兆円という医療関係(医療と介護)は人的資源をかなり必要とするし(多くの部分は人材によると思います)、仮にA病院が淘汰されて消滅しB病院に全て(患者、売上、収益など)が移ったとしても、医療界全体での費用総額は大きく変わることもなく、人員がそこで余るということもないのです。単に医療機関ごとに競争すれば医療費抑制になるのかというとそうでもなくて、収益が多い方が勝ち残るなら、逆に支払われる医療費総額は多くなるはずです(出来高払いですから、利益が大きい分だけ多く支払われることになります(材料費や人件費抑制には限界があり(まさか粗悪品の人工関節とか入れられないでしょ?)、もし人件費を大幅に抑制してもよい人材は集まりませんから、結果的には収益力はダウンするでしょう)。ですから、個々の病院の効率化ということでは対処が難しく、むしろ医療界全体で運営コストなどの検討が必要であると思っています(医療制度改革シリーズを読んでみて下さい、カテゴリー:社会保障問題)。


少ない取り分を巡って、各病院が同じような検査器機を導入したり、ある地域に集中して似たような施設が幾つも存在したり、ということが医療全体でみると無駄な設備投資になっているのではないかと思います(昔はそうやって過剰設備投資に費やされてきたのだろう)。そういう部分にこそ管理手法を導入をする意味があるように思いますね。独立行政法人の病院、大学病院、年金関係の病院、旧国鉄や電電の病院、自治体の病院、公務員共済の病院、社会保険関係の病院、と言う風に、公的なお金を入れ続けてきた医療機関の不適正配置というか医療資源の無駄に繋がっている部分があると思います。医療制度改革を行うべきであり、単なる数値目標で片付けることは出来ないと思います。



脱線原因の推測5

2005年05月09日 15時22分37秒 | 社会全般
昨日の記事に、塚口駅あたりで乗客達や車掌が異状を感じたことを書き、車両やブレーキのことも触れました。電車のブレーキは空気ブレーキということのようです。車のブレーキオイルが漏れると、ブレーキの利きが悪くなってしまうが(いずれは全く利かなくなる)、電車の空気ブレーキも同様にエアリークがあるとブレーキは利きが悪くなるのだろうか。車両のブレーキ圧の構造はよく判りませんが、個々の車両ごとに独立した構造となっているのか、全車両の圧が同じくなっているかによっても、利きに違いがあると思われます。


空気ブレーキのエアリークが徐々に進めば(リーク箇所が段々大きくなるとか)、各駅でオーバーランを繰り返し、伊丹駅で最大のオーバーとなることには理屈が合うように思います。だんだんブレーキの利きが悪化していくからです。ただし、運転士の焦りが極大化へ向かったとしても同じような結果が起こりえるので、正確には判りません。ブレーキの空気圧が通常よりも低ければ、同じ強さの、例えば5という段階のブレーキをかけても2とか3くらいの強さにしかならないということもあり得ます。結局強めにかけるには、最後の非常ブレーキにレバーを入れるしかないということになります。空気ブレーキは、ダンプカーやバスなどでも用いられているのかな?よくダンプなどが停車する時などに「プシュー」とかいっているのが空気ブレーキなのかな?あれはコンプレッサーがどこかにあるのかな?そうじゃないと、抜けっぱなしだもんね。


それと、空気バネですが、これも個々に独立した構造体なのか、連結されていたかによっても異なるかもしれません。もしも1、2両目くらいの片側の空気バネにエアリークを生じ(例えば左側だけ)、減衰が弱まれば、塚口駅を通過した後の直線部分でも車体の揺れは通常よりも長く続く可能性があります。全車両が同じ空気圧構造になっているとすれば、先頭も7両目も似たような振動現象となるかもしれません。しかし、空気圧が各車両(又は車輪)ごとに独立構造になっているなら、先頭が揺れたとしても7両目が同じように揺れることはなく、車掌が報告した「揺れている」証言には結びつきません。


空気バネが個々に独立的な圧構造になっているなら、1つや2つの圧バランスが悪くても(エアリークがあったとしても)先頭から7両目まで全部の揺れが大きいということはあり得ず、事故現場までの揺れは単に速度がかなり早いことによるバンピィな感覚があったということかもしれないし。ただエアリーク箇所が先頭か2両目にあり、事故のようなカーブを高速で走行するという強い圧がかかることは想定されていないかもしれないし、強度の限界圧を超えると、リーク箇所から破裂するとか一気にエアが噴出されることもあり得るかもしれない。そうなると車体が急速に傾くことになります。


でも、事故調はまず車体やブレーキを調べて異常がないかどうか判断しますから、恐らく後部車両には何ら異常がなかったのだと思います。それに、エアリークは最初に想定され、既に検証されている可能性は高いのですが、事故調の「このスピード、ブレーキでは倒れそうにない」というようなニュアンスでの発言がありますから、「普通ではないこと」が起こったのだろうと思うし、何か別の要因を探し出すしかありませんね。


空気バネに関しては、日比谷線の脱線事故の時にかなり詳しく調査されているはずだし(かなりの疑いをかけられていたのでは?)、事故後には空気バネの圧調節とか圧センサーみたいなものは厳密に調整するなどの安全対策がとられるようになっているだろうから、今回の事故車両の空気バネやエアコンプレッサー関係に不具合があったことは考えにくいのかもしれないけれど。事故調が詳しく調べないと判りません。


脱線原因の推測4

2005年05月08日 18時21分59秒 | 社会全般
疑問に思えることは、乗客達や車掌は何故事故現場に到達する前に異状を感じたのか?である。普段も直線を120kmで走行していたとしたら、事故の日にそれ程「スピードが出ている」とは感じないはずで、「いつもと同じ」という感触のはずである。左右の揺れが相当大きかったか、外の景色の感じから「かなり早い」ということを感じたか、であろう。時速10km程度の違いの時に、景色で体感速度が変わるというのは普通の人には難しいと思う。当日たとえ126kmで走行していたとしても、普段の116~120kmとの違いが判る人は極めて少ないのではないか、ということだ。塚口駅辺りで異状を感じる人がかなりいたことを考えると、遠くの景色を見て判断したというのは少ないと思う。

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この前訂正で取り上げた(参考記事)毎日の記事なのですが、どうも気になるのです。特に塚口駅通過頃に、乗客の不安感が増大したのは・・・何故なのか?


塚口駅付近では直線とは言いながらも、駅構内を通過する時に、ごく僅かに左側へ曲がり続いてすぐ右へ戻るという小さな「ふくらみ」のようなコースとなっていたのではないのかな?ここを通過する時の横揺れがいつもよりはるかに大きくて、多くの乗客達が「普通じゃない」と感じたのではないだろうか?その後にも車体の異状感が続いていたのではないかと。それが蛇行動などと一部報道が見られたように、かなりの揺れとして体感されたのだと思う。普通は減衰振動で揺れがすぐに弱まるのだが、当日には大きく揺れたままで、なかなか揺れが収まらなかったのでは?この時点で車両に何か異状が既に発生していたか、もしくは通過の際に発生したという可能性があるかもしれません。


もう一つ、非常ブレーキのレバー位置と、実際の非常ブレーキの証拠が見られておらず、一致していない。レバーを入れてすぐに利き始めるのかわからないのと、脱線直後にレバーを入れた可能性もある。「非常ブレーキはなかった」ということを、たまたま4両目に乗車していた運転士は話しており、実質的に非常ブレーキが作動することがなかったか、前方3両と後方4両ではブレーキの利き方に大きな違いとかタイムラグがあったとか、ブレーキの不具合ということなのか、よくわからない。カーブ手前で全くブレーキをかけないということは考えにくく、一度は通常よりも強くブレーキをかけるはずである。それが、「一回、前に引っ張られるような感じがした」という表現なのかと思っていたのです。それでも減速が出来ずに、最後には非常ブレーキ・・・ということかと思いましたが、非常ブレーキの痕跡が無い理由が何なのかよく判りません。



電車の加速性能はよくわかりませんが、おおよその予測をして考えてみます。伊丹駅を9時16分20秒に出発、1900m先の猪名寺駅へは約32秒程度加速(距離にして540m進む)して秒速34m(時速では約122kmで、秒速の方が分かり易いので、以後秒速表示とします。時速108kmが丁度秒速30mです)となり、秒速34mの平均速度を維持したままだとすると、猪名寺駅は17分30秒~35秒頃通過、1100m先の塚口駅は18分5秒~10秒頃通過することになります(通常ダイヤでは伊丹駅9時15分発、塚口駅通過は17分ころ、「システム上1分の遅れ」で見れば大体この位であっているかな?)。ここでの通過速度が通常もっと遅くて(先に述べたように、もし「ふくらみ」みたいになっているなら、ちょっとスピードを落とすと思うんですけれど)、時速100km弱程度だとすれば、速度差が時速で約20km以上あることになり、これならば体感速度は違うと思います。開けた景色の場所よりも、車両から近い所にある建物とか壁を見ると、普段との速度差が分かり易いはずです。

続いて、塚口駅を通過後秒速35m(報道では時速126kmとなっているからです)で高速道路の高架の辺りまで行くとして、約22秒間秒速35mで進み(距離で約770m)、その後秒速35mから30mまで6秒間で減速したとすると(約200m進む)、既にカーブに到達します。高架下の通過時間は18分30秒~35秒頃だと思われます(伊丹出発後わずかに2分少々しかたっていません)。このまま事故のカーブへと進入して行きました(高架からカーブ入り口までの距離が判りませんが、概略このくらいかと推測してみました)。


車掌が「揺れと脱線の可能性」を指令所へ連絡したのが、恐らく塚口駅を通過して高架下へ向かう途中だとすると、高架下までの約22秒間に連絡したのではないでしょうか(10秒程進んで、おや?と感じ、「減速しなければ間に合わないんじゃないか」と考えたであろう、高架手前450mあたりでしょうか)。高架到達前に減速しているべき所を、秒速35mで進んでいたのですから、おかしいと思うはずです。しかし、指令所の連絡ブザーが鳴ってから、たった10秒くらいで高架を通過するとなれば、車掌は満足に説明している暇もなかったでしょう。同時に、このときの10秒間の決断に・・・「もしも」とは言えません、私には・・・


18分40秒前後に問題のカーブへと電車は進入していきました。緩和曲線を約2秒で過ぎた次の瞬間、強烈な横Gが襲いかかり、この直後に非常ブレーキのレバーが入れられたとすると、利くまでにタイムラグがきっとあったでしょう。その僅かな間に脱線ポイントへと到達してしまいました。カーブ進入から約4秒、非常ブレーキレバー操作から1秒強程度で脱線となってしまいました。非常ブレーキレバーを入れる5秒前には、電車は損傷した電柱から約190~200mほど塚口側にいたんじゃないかと思います。


おそらく車掌が指令所に連絡を入れた瞬間から、約20秒間で全てが起こってしまったのではないかな。このような予想ですが、よく判りません。モニター分析でもっと正確に判ると思います。