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プロ野球改革のこと

2005年05月08日 00時44分15秒 | 社会全般
今交流戦が行われており、最弱決定戦では楽天が巨人に連敗という順当な結果となっている。まあ、仕方がないのだけれど。楽天は得点しているので、ピッチャーを何とかした方がいいですね。巨人はまさか負けるわけにはいきませんから、楽天で気分転換を図ろうと思っているでしょう。ハムは阪神に勝ちましたー。


先日NHKの番組では、滝鼻さん、孫さん、宮内さんの対談形式で、プロ野球改革のこととか球団経営のこととかが話されていました。そこでの話は中々面白かった。孫さんは新規経営者であり、プロ野球に対して新たな可能性に賭けたいという心意気みたいなものが感じられた。番組中でも、対立姿勢であったのは宮内さんで、対照的な感じがした。宮内さんの球団経営に対する考え方は、野球の楽しさや夢をファンに届けるというよりも、ビジネスとしていかに成立させるかとか、会社の利益に直結させるにはどうしたらいいか、というような感じで、宮内さんが経営するのは別にプロ野球でなくともいいような気がした。


孫さんは巨人に人気が集中したり、年俸の高い選手がいたとしてもいいし、それは自然なことで、そういうエネルギーがあることで球界全体に好影響が出ることを期待しているようなスタンスなのだと思った。しかし、宮内さんは徹底した球団・球界管理を行い、均等化や資金分配システムを導入して、選手集めとか球団経営の公平化を図るべき、というような考え方であった。それ故、選手年俸も管理制にするべきというような主張であった。何だか、愛のない経営だな、と思った(実際にどうなのかは知りませんが)。政府の規制緩和の委員だか議長だったかもやっていて、経営管理を好む宮内さんだからなのかな、とも思った。プロスポーツビジネスとしては、孫さんの方法がうまくいくのかどうかは判らないが、一ファンとしては、そちらの方向に期待したいとも思っている。まあ宮内さんにしてみれば球団経営について、「孫さんはまだよく知らないからそんなことが言えるんだよ」と内心思っているのかもしれない。資金を公平に分配することで全部の経営が苦しくなるとか、「他球団の人気におんぶにだっこ」を目論んでいるんじゃないかとか、結局宮内さんのところが「楽して経営できればいいや」的な(他球団の年俸も自分の所と同じくしたい、みたいな)考えであるかのような誤解もあり得る。


滝鼻さんは、どちらの味方ということでもなかったが、宮内さんの「ジャイアンツヒガミ」というか嫉みというか「盟主巨人が元凶」(選手年俸がべらぼうに高く、1人だけ金を集めまくっている、というような・・・)的な発言には、流石にちょっと「嫌な顔」をしていた(心の中ではオーナー会議でも同じことを言ってみろよ、とか思ったのかもしれないな、笑)。ジャイアンツは日本プロ野球界の象徴ですから、オーナーとしての「プロ野球に対する愛」はあるように感じられた。これは、ナベツネもそうだったのだが、経営がどうのということよりも、本心の所では「タニマチ」的な愛があるような感じだと思う。そういうビジネスとしての本気の見返りを求めないようなところが、ジャイアンツの経営陣にはあるような感じがする。それ故に、プロ野球界とか巨人の人気低下には、他の何処よりも心を痛め、危機感を持っていると思う。


プロスポーツビジネスとしての経営戦略としては、無償の愛だのと言っちゃいけないと思うが、でも、夢を売る商売なのに夢が無ければお客は離れていくかもしれないな。試合での選手のパフォーマンスは勿論大事なのだが、競技やチームを愛する人達がいなければ経営的には成り立たない訳で、そういった人を惹きつけるような球団ということを考えると、オリックスは最低ランクだと思う。そういう球団の経営方針であり、経営者なのかなあ、と思ってしまう。その意味では、宮内さんの話を聞いていて、「そうか、やっぱりな」というような印象を受けた。もしも、宮内さんの方法で全球団が経営したら、つまらない野球界になってしまうんじゃないか、と危惧してしまった。


孫さんの言う球団経営の基本的な考えは、スーパースターが生まれればそういうエネルギーで市場全体として活性化される、というようなことだったと理解した(年俸の極端な抑制は海外流出が増加する、ということも言っていた)。宮里愛ちゃんや卓球愛ちゃんとかタイガーのようなスターが必要なんだ、と。なる程、そういう面は大いにあるだろうな、と思った。サッカーもそうだが、選手とか試合放送という、ソフトの価値を高めれば、収入は当然多くなるということだと思う。宮内さんはシステムとしての経営手法をより安定したものにした方がよい、という考え方であろうと思うし、それが間違いだとは言えないが、ソフト価値を高める努力をする方が将来大きな収穫が得られる可能性があるかもしれない。


女子プロゴルフだって一時は人気低下とか賞金低下、スポンサーが見つからないという危機を乗り越えたわけだし、サッカーだってJリーグの人気低下時期があったけれど、地道に努力し続けてきた。どのスポーツにしても、低迷期を越えてきたのだから、プロ野球改革も必然だろうと思う。よい傾向としては、少年達が将来の夢として選んだ第1位が「プロ野球選手」でしたから、いずれその効果は出てくるかもしれませんよ。十年後くらいに(笑)。



イラク問題の収束とデフレ終息

2005年05月06日 22時22分23秒 | 経済関連
得意のこじつけと空想と思って読んで下さいね。

そろそろイラク情勢にも、引き揚げの形をつける段階となっても良さそうなのに、具体的な作戦概容が見えてこない。ブレア再選までの時間を待っていたのだろうか?イラク選挙前の期待の大きさと、選挙が終了したのにちっとも前進が見られないことへの失望がアメリカの経済的活力を削いでいるという側面はないだろうか。利上げも影響しているだろうが、アメリカの株価にその失望が反映されているようにも思える。

好ましい材料としては、タリバンが弱ってきたことと、先日小泉さんがテロとの闘いを賞賛・激励したパキスタンで、アルカイダのNo.3アブファラジ・リビを拘束したことぐらいだろう。アメリカ軍の撤退準備が見えてこなければ、米経済の明るい材料というのは当面出てくることはないだろう。その不満は中国に向けられつつあると思うし、日本の牛肉輸入問題にも変に飛び火しそうで少し嫌な気分ではある。


兎にも角にも、イラクからの撤退戦略を再選したブレア君と共に直ぐにでも考えてもらって、心理的好材料を早く明らかにして欲しいということだ。無駄に時間が過ぎたから、ふと見るとGMとフォードが大ピンチの様相で、奥田氏でさえ「塩を乗っけて、助け舟を出そう」というくらいですから、米国内においてはブッシュ大統領の経済政策への信任は完全に失われる危機に直面しているように思える。恐らくブッシュ一派のネオコンの中核メンバーをなしている軍需産業やら石油関連企業には、もう十分おいしい汁を吸わせただろうから、いい加減にイラク撤退を決めるべきである。


トヨタの事情としては、素材価格の上昇分を製品価格に転嫁しようという単純な狙いかもしれないが、トヨタがやれば他も追随する可能性が高くなるだろうし、鉄鋼メーカーとかその他素材メーカー群も、「とっても助かる」というのが本音なのかもしれない。トヨタが本気でやれば、他メーカーも一斉に上げてくる可能性がある。自動車分野だけではなく、その他の分野も同様であろう。原油価格の高止まりは続くだろうし(短期的な調整はあるかもしれないが)、このまま行けば世界一大食漢になるであろう中国が、貪欲にありとあらゆる資源を飲み込みまくっているしね。色んな素材の調達コストが上昇している為に、企業努力ではいよいよ吸収しきれなくなってきている。


しかも、奥田氏は経済財政諮問会議の議員でもあるので、消費者物価のほんの僅かな上昇でもいいから演出したいと考えているかもしれない。もし上昇に転ずれば、デフレ脱却の明瞭なシグナルであり、即ち「構造改革は正解だった」という素晴らしい結論が待っている。なので、価格転嫁は、大義名分としては「GM・フォードを救済する」という形で恩を売り、尚且つ国内的には各メーカーを救済し、政治的には「デフレよさらば」という、一石三鳥の恐るべき効果が期待できうるものである。

では、我々国民の側にはどんな不利益が待っているか?パッと思いつかないけれど、短期的には物価が上昇するので、例えば車を近々買おうと思っている人はちょっと損する。でも、自分が勤めている会社の給料がいずれ上昇して返ってくるかもしれない。巡り巡って、自分にも恩恵がやってくる可能性がある。既にガソリンをはじめとする物価の上昇が起こってきているし、多少の物価上昇は仕方ないな。いますぐには世の中全体に効果が行き渡らないだろうが、デフレ終息宣言が出れば心理的なプラスになるだろう。企業業績の好転にも直結するから、ボーナスとか増える人もきっと出てくる。だが、低賃金の層には厳しい環境になるかもしれない。是非最低時給を上げて欲しいですね。


そんな訳で、米国経済に怯えつつ、イラクと、奥田氏の出方を眺めてみようかと思う。



外交の本を読んでみた

2005年05月05日 23時45分56秒 | 俺のそれ
少し前に読売新聞の書評欄「本のよみうり堂」にも出ていて、ガ島通信さんやbewaad さんが取り上げていた『国家の罠』を読んでみた。私のような浅学の人間にとっては難しい内容の本であったが、外交の前線に立たされる人の考えが少し理解出来たかもしれない。書評ができる程の読解力がある訳でもありませんが、感想などを書いてみたい。


特捜部の国策捜査についても、内側から見たものとして書かれていた。国民の知らない物語があるのだな、と思った。著者は国策捜査の犠牲となったということを言いたいのかな、とも思った。頭脳明晰な人間ならばもっと違う見方をするのかもしれないが、一国民としての意見を敢えて書くとすれば、霞ヶ関と国民の間には非常に大きな溝が横たわっている気がした。世論の矛先が目標を探し求めることで、以前には組織の誰もが「違法などとは考えていなかったこと」を国策捜査によって有罪に追い込まれるという認識は、多くの国民の支持を受ける感覚とは私には思えない。国民は知らなかったから、単に世論の矛先が向けられなかっただけかもしれない。スケープゴートを必要とされ、その通りに組織から差し出されたようなものであるのかもしれないが。


外務省の組織風土・体質、統治システムとともに、上層部や外交官達の腐敗・私欲とか権力闘争などといった、不明瞭な「霞ヶ関システム」が無かったら、矛先を向けられたりはしなかったかもしれない。そういう深淵なる官僚機構の闇の一部に強力な光を当てられ、少しばかり闇が垣間見えたことによる特捜部捜査であったのかもしれない。組織自身が変わることが出来ずに、強い外力によらざれば変革が起こらないという組織風土であるなら、外力を加えざるを得なかったのではないか。まるで、西武王国の崩壊と似ているようにも思う。


一般に、本書から窺い知る著者の評価が低いとは思えないし、むしろ「国益」を信じそれに従い行動したことに畏敬さえあるかもしれないが、組織にとっては切り捨てる対象でしかないことなのだろう。当事者や関係者という登場人物に違いがあるし、信念の次元や内容にも違いがあるだろうが、似たような現象は他の分野でもあるかもしれない。勿論、受ける罰が刑事罰などではなく、もっと軽い罰であるかもしれないけれども。


著者や担当検事の人物像について否定的な捉え方は少ないと思うが、登場人物の評価をするのが捜査や事件の本質ではないだろうし、外務省の罪が帳消しになるわけでもなく、検察の国策捜査の肯定になるわけでもない。霞ヶ関の組織は、トップが代わろうが、中の人物に入れ替えがあろうが、組織風土や体質には大きな影響がなく、官僚機構の闇は依然として残されたままということが現状なのではないか、ということが、本書を通じて感じ取れたように思う。


ネット言論の試練2

2005年05月04日 14時49分10秒 | 俺のそれ
―私的ブログ考、個人からメディアへのカスケード

ブログ記事には、他のメディアにないようなユニークな記事も沢山ある。具体的な説明とか専門的な解説などが書かれているものも、勿論ある。ある事柄に関して調べたり、検討される時に、ネットではどういった作業が行われるのだろうか。

例えば「富士山は高い山か」ということについて記述されるとしよう。普通のメディアは、1人若しくは数人が記事に書いたり、取材したりして報道する。ブログでは、富士山について「日本で一番高い山」という記事が多く書かれるだろうが、更に専門的知識がある人達は、他の山との高さの比較、火山としての種類、噴火歴、「登山した」という実際の体験、山小屋や観測所の位置は何処にあるか、初めて登頂に成功した女性は誰か、遭難歴・・・などといった様々な事柄が書かれていたりする。多分書く人の視点・知識・経験がたくさんあることで、まるで「カルトクイズ」のような(古すぎ?)感じで「隙間」が埋められる。「富士山」についての情報集積が効率的に行われる。数人の作業では追いつけないような作業量が、並列的に多人数によってこなされていくということだ。当初は相互に関係なく独立的に行われるが、これらの情報が相互の関係を持てば、情報に触発された人々がもっと踏み込んだ記事を書いていく。


スーパーコンピュータで計算すると膨大な時間がかかるような計算量が、無数の並列ネットワークPCで短い時間で計算されるのと似ているような感じである(このような仕組みがあったと思う、実際参加募集サイトがあるんですよね?)。書き手が多いブログは、こうした点が既存メディアに比べ優位性があると思われるが、同じような記事が増えたり有益・有用とも言えない記事も増えてしまうかもしれない。ネットワーク上からこれを抽出する作業というのは、記事の数が増えれば大変になるであろう。並列PCが増えることはいいことなのだが、逆に選択作業が困難になるということである。既存メディアは、情報の送り手の資質として予め一定の基準により選ばれているし、組織としてある程度の担保があると思う(行政の許認可や歴史あるブランド(?)などかな)。


こうした抽出作業を誰がやるのか?抽出された有益情報を世間に広く知らせるにはどうするか?この辺りに、今のブログの限界が見えつつあると思う。テレビでは1千万人単位で影響を与えることが可能であるが、ブログではそこまでの影響力はないだろう。新聞にしても数百万人単位であると思うが(読売は1千万以上でしょうか?)、ブログが頑張っても10万人単位であり、もっと少ないことも多いだろう。影響力を与えるオーダーが2桁以上違うとなれば、世の中全般での言論の1%以下にしか影響しない。以前にマスコミの「増幅器」としての役割を書いたが(参考記事)、これを利用できるかどうかではなかろうか。


ブログの影響力が追いつけそうな、弱い影響力しか持たないメディアは射程圏内と思われても仕方がないかも。オーダーが同じくらいか、一桁違いくらいなら、メディアの領分をいくらか侵される可能性があるということだ。出版業界とかラジオというのは、そういう意味ではネットの追い上げを受けている。言論の担い手としても、ネットから発した切込隊長氏やガ島通信の藤代氏のような人も登場するに到った。メディア側がネットに着目しただけという面もあるのかもしれないけれども。ネタ切れになれば、「何かないかな」ということで、「利用できるものは何でも利用する」ということなのかもしれない。出版業界では1万部も売れればヒットと聞いたことがあり、そういうオーダーで考えるとネット言論の手が届く範囲であるのかもしれない。ビジネスとしてどうなのか、ということはよく分かりませんが。


ネット言論の抽出・集積という点で言えば、やはり中核となる場が必要であると思うし、その方が効率的であることは確かであると思う。利用者個人が情報を捜し求めてネットワーク上を彷徨うことは不便で、面倒だし、非効率的である。なので、どこかにそうした集積所とか意見集約の場がある方が、探し出し易い。そういうモデルとしては、木村剛氏の試みは有意義であると思っている。

この他、切込隊長氏、「isologue」の磯崎氏、「極東ブログ」のfinalvent氏のような個人ブランドで書いておられる方も存在しているが、あくまで個々のPCのブランド価値が高いということであって、これ一つでスパコンに対抗できる程の奔流とはなっていないと思う。現実世界での各評論家とかコメンテーター個人の影響力が、個々のブランドとしては存在するかもしれないが、世の中全体の意思の潮流を大きく変える程の大きさを持たないことと同じである。なんとなくではあるが、一つひとつの意見だけで形成されるというわけではなくて、マスメディアを通じて全体像が形成されていくような感じがする。実体のない「雰囲気という大勢的意思」がまるで雲のように存在して、雲の構成要素としては極めて小さな粒子(=各個人の意見)で出来ており、中には凄く大きな粒もあったりたくさんの粒が塊になっていたりするものもあるが、全体像としてはもっともっとはるかに大きな雲となっている、というようなイメージである。この雲はもやっとしていて、誰もはっきりとは見えないし、表現として正確に言うことも出来ないが、全体像は誰でも理解できるという不思議さがある。雲全体を特徴付けるのは、やはりマスメディアなどの影響力の大きな論調ではないかと思う。


マスメディアは雲に大きな影響力を持つので、そこに声が届けられるブログや場があれば「増幅器」の効果が出てくることも有り得るのではないかと思う。少なくとも、マスメディアの元来有する判断基準というフィルタを通して抽出されれば、単なる個人の意見から脱皮して「雲の一部を形成する塊」となるかもしれない、ということだ。担い手としては、既存の評論家や言論人、実名ブロガーなどばかりではなく、一般のブロガーもなり得るかもしれない。現状でのブランド力とか信頼性などの優位性はマスメディアにあるのであり、ビジネスベースではネットのモデルがメディア内に取り込まれるが、言論の質とか言説のバリエーションではネットがメディアを補完して、拮抗的競合というよりもむしろ促進的共存が起こるのかもしれない。その意味では、私はネット言論がメディアを圧迫したり、代替となったりはしないような気がする。例えば「紙」ベースの”ビジネス”としてのモデル理論は多分色々あるのではないのかな、と思うのですけれども。


促進的共存は、あたかもカスケードのようであり、ネット上の個人発の意見→集積の場→仮想「ネット世論」→マスメディアというような流れが起こりつつある、と思うのである。従来取材する少数記者→マスメディアであったものが、少数記者の部分に至る過程で個人が参加しているということである。記者は、どのような視点・問題意識を持つか、ネットに散らばる情報の抽出能力や真贋見極め能力が必要になると思う(情報をネットレベルからマスメディアレベルにジャンプさせることは、個人ブロガー程度では今の所かなり難しい)。こうしたカスケードが割りと分かり易く見てとれたのは、NHKvs朝日の問題の時やライブドア問題の時などであった。マスメディアに先んじてネット上での情報集積が進められ、マスメディアはそうした流れを見つつ、報道にも反映させていたのではないかと思う。その一方で、情報の重要性は誰しも判ってはいるが、そういう情報を集めてその結果どのように考え、何に役立て、今後どういうことを考えていくか、という部分に関しては、言論の本質的な部分ですから、そこの部分に対しては各マスメディアとも専門家、文化人や著名人にコメントを取っていた。これはある意味、ネット上の言論についての公の検証作業とも言えるかもしれません。ここまで進められれば、単にネット上の情報とか意見というのを越えて、社会的に有用なものとなり得るのではないかと思います。


スパコンと無数の並列PCの単純な競合関係ではなくて、スパコン(=メディア)もネットワークの一部を構成し、それに繋がる無数の並列PCのネットワークが全体の演算を助けると思えば、ネット言論はカスケードの威力でマスメディアによって増幅効果を与えられることにもなるのではないかと思う。そういう関係を双方が築き上げるかどうかは、これからのネット言論の動向によるかもしれない。果たしてこれを選択するのだろうか。


脱線原因の推測3

2005年05月03日 19時00分45秒 | 社会全般
前の記事で、「私の記事は想像・空想によって書いている」と述べました。お読みになっていて、はっきりと分かるのではないかと思います(笑)。脱線事故の原因についても、単なる推測で書いてしまいました。これは良いことではありませんが、専門家は軽々しく予想を述べたりはできませんし(もし間違えていたら、その人の信用にかかわるからです)、専門知識が多いゆえに、逆に「それは有り得ないのではないか」とか「今までの常識で考えると」というようなことや、考えるべき要素が凄く多いので、かえって推測しにくいということがあると思います。


私は学生時代からずーっとバイク(中型です、400でしたよ)に乗っていました。親に内緒で免許を取りに行き、中古を自分で買いました。当時田舎暮らしの私の親は、「オートバイに乗るのは暴走族」という大間違いな先入観を持っていて、絶対に許してくれなかったのですね。でも、直ぐにバレてしまいまして、一応公認してもらったのですが・・・(笑)。懐かしいですが、この経験が今回の事故の推測に影響を与えたように思います。正確な事故原因はまだ分かりませんが、片輪走行の予想は概ね妥当なようです(脱線後なのか、脱線前の状態なのかは正確には判っていませんけれども)。この推測が浮かんだのは、映画などで観るシーンでの列車や車の動きとか、バイクの運転経験でした。


バイクの最も好きなところは、「自分で運転している」ということが体感できることでした。当然2輪ですから、走っていなければ倒れますし、車とは全然違いますね。バイクでの恐怖体験は、教習所で「急制動」というのがあったのですが、これで一度凄まじい転倒をしたことがありました。直線コースの終わりの所に、路面に引かれた白線にピタリと止まらなければならないのですが、スピードが出すぎてしまい、焦ってブレーキを強くかけたら後輪がロックしてしまい、転倒して数十メートル滑って行きました。その時には何が起こったのか全然分からず、バイクはさらに十メートル以上先まで滑っていきました。物理法則を本当に体感することになってしまったのです。バイクは前輪と後輪しかありませんから、ブレーキを強くかけると、前輪に相当の荷重がかかるのが体感されます。手のレバーは前輪のブレーキで、足のブレーキは後輪なのですが、前後同じように強くブレーキをかけると前輪の方がロックしにくく、後輪は垂直荷重が少ないのでロックしやすいのです。教習所時代にはこれに対する注意が足りなかった為、転倒してしまったのでした。


ですからどんな車体構造であっても(車やバスや電車ですね)、前後的な車輪にブレーキをかけると前方に必ず荷重が大きくかかり、後方は少し浮き上がり(垂直荷重が減少するということ)が起こるように思います。列車は前後の距離が長いし、サスペンション(空気バネとか板バネのような構造物など)の最大沈み込みの限界があると思いますので、前後的な傾きはバイクと比べるとはるかに小さいと思いますが、物理的には前側に傾斜し後方は浮き上がりが起こることは確かであると思います(サスが完全な剛体であれば動かないかもしれませんが)。車のFF車であっても、加速時には前側がやや高くなり、駆動しないにもかかわらず後輪側へと車体は沈み、ブレーキ時には前側へと沈み後輪側が高くなってしまう。今の車はサスのコントロールも電子制御であると思いますが、それでも姿勢変化は少しあるように思います。


電車の車体で左右の揺れの場合を想定してみます。真っ直ぐな状態で右側へ荷重をかけると、右側サスが沈み、その後右側サスは上方向へ反発し右側が高くなるとともに左側へと沈むことになると思う。これが何度か繰り返されて、沈むのは右、左、右、左・・・という具合に、減衰振動となるように思う。静止状態でサスの性質としてこうした減衰振動があるとすれば、走っている電車であっても、右に沈んだ車体は、次には左へ沈もうとするんじゃないかと思われるのです。つまり、右の垂直荷重は減少し、左へと重心が移っていくということです。


バイクでは、サスの沈み込みから、反発による浮き上がりの挙動を利用した曲芸的な乗り方をする人がいます。例えば、前輪を持ち上げる場合(ウィリー状態ですね)には、まず荷重を前輪に強くかけてサスを沈め、その直後にサスが戻るのとタイミングを合わせて後輪側へと荷重を移せば前輪は持ち上がり、一輪走行状態になります。サスの性質としては、垂直荷重が減少すれば、押し込まれているサスが必ず戻ろうとするということです。


脱線した電車は、事故現場に到着する前から「大きく揺れている」ということを車掌が報告しており、このことは電車の速度が速くて側方力がいつもより大きく働けば、左右への減衰振動が大きくなることは予想されると思います。「大きく揺れる」というのは、振幅の大きさを感じているのでしょう。


脱線事故の電車は、高速で緩和曲線部分に進入していくと、カントによって本来内側へと傾いていくはずです。しかし、その動きはほんの一瞬で、すぐさま強い遠心力によってカーブ外側(左側)へと傾こうとするはずです。そのタイミングと、一瞬右側サスの沈み込みが起こっていたことによる反発が一致して起これば、内側車輪(右側)の垂直荷重急減が起こりえるのではないか、と思います。バイクのウィリーと同じ原理です。電車は右に一度揺れた直後に左側へと大きく沈み込みながら傾斜が強くなり、左へと倒れていきます。

この状態でブレーキがかけられたのではないか、と推測しました。後は、以前記事に書いた通りです。



ネット言論の試練1

2005年05月01日 17時54分23秒 | 俺のそれ
―私的ブログ考、妄信という動機

私は昨年の10/22日にブログデビューして以来、半年が過ぎました。当初は何となく始めてみたのですが、こんなに続けられるとは思ってもいませんでした。今度デザインもちょこっと変更したりしてみようかな、と思ったりします(たいした問題でもないのですが)。初めの頃に書いた記事を見ると、何と言うか、恥ずかしいですね(爆)。どこか大衆に媚びるような口調があります。どういう人々が読んでくれるか分らなかったことと、出来るだけ沢山の人達に読んでもらいたいと思い、何となく媚びてしまった感があります。だって、誰も読んでくれないなら、つまらないし。書く時に、読み手を意識するということが出てきたのは、暫く書いてからです。今も出来れば百万人の方に読んで欲しいとは思いますが(笑)、それは無理な話ですから、読んで欲しいと思う、特定の方々へ向けて書いているように思います。時々そうでもなくて、普通に素直な気持ちというか、感情を露わにして書いてしまうのですが(笑)。そうした無礼も承知しておりますが、どうぞお許し下さい。


今までの感想は、ブログって色んなことがあるんだな、ということ。論争とか炎上とかコメントスクラムとか閉鎖とかを含めて。人間の感情が、自分の外部へ向けてこれほどまでに表現されるというのは、ネットの特性なのでしょうか。掲示板とか昔のこととか、私は全然知りませんでしたが、ネット上のコミュニケーションは、現実世界におけるものと違いが見られるようです。理由が何なのかは判りませんが。

私の単なる個人的意見から少し先に進んで、いくらか考えを共有して下さる方々がおられたり、純粋に有意義な示唆とかご意見を下さる方々がおられたりして、自分の考えや意見というものを書いてきて良かったと思えます。自分の意見表明が世の中に対してどれ程の影響力があるのか、また何かの役に立っているのか、といったことの評価は出来ないですし、よく分りません。これっぽっちも役に立っていないかもしれないし、逆に悪影響なのかもしれないし、無駄なことなのかもしれない。指摘があるように、自己満足を作り上げる、無益な作業を行っているのかもしれない。だが、唯一の支えというか、書く動機というものは、「顔は見えないが、ネットの向こう側にいる誰か」が読んでくれて、何かのキッカケとなったり、考えの足しにしてもらえたりするんじゃないかという、ある種の幻想というか、妄信とでも言うべきものかもしれない。他の人達が何故書くのかは、正確には知らない。

残念なことは、人気が出ないことだ。一週間のpvはgooのデータしか判らんが、8千~9千、多いときで1万ちょいだ。「風○嬢の・・・なんちゃら~」とかにも全くかなわん。きっと私の記事がつまらないからだと思う。そう思って、時々変な色気を出して(笑)、柔らかい記事も書こうと思うのだが、かえってpvが落ちちゃったりする(ガックリ・・・)。gooだけでもうすぐ20万にもなるというのに・・・他のブログに鞍替えしてみるか・・・そういうことは関係ない、あっそうですよね、やっぱり。書き手の能力によると。シクシク・・・

私は当然のことながら、専門家としての立場で書いている記事は無い。評論家でもなければ、難しいことが判る学者でもない。本当に一介のオッサンに過ぎない。もしも私が、本当は何処かの偉い教授とか立派な役人とか財をなした資産家とか(笑)だとしたら(私の文章をお読みになれば、いずれも明らかに違うことが直ぐにお分かり頂けるでしょう)、多くの人が信じたり支持者が増えたりするのだろうか?私の立場が変わることで、私の書いた内容の信頼性に変わりはあるだろうか?私が仮に政治評論家と名乗っていたならば、多くの人はゲンナリするだろう。単なる一個人に過ぎないことが、「何も求められない」ということに繋がるようにも思う。何の期待も持たれることがない、というのは非常に有り難い。自己都合で勝手に書けてしまいます。そういう意味では、私は卑怯なのかもしれません。


私は難しい本を読んだり、色々な資料とか文献を調べたりして書くことは殆どありません。自分の単なる感覚で書いてしまっています。これは読めば明らかですから直ぐに判ると思いますが、いいと思うか悪いと思うかは読み手にお任せしています。また、「本当にそうなの?」ということも、読み手の方に判断してもらえたら、と思っています。だって、普通はちょっと読めば書き手のレベルは直ぐにわかるでしょ?そういう部分は、ネットの評価というのは概ね当たっていると思います。信頼性が高く、いいこと言ってるなとか、なるほどと思うような言説については、多くの支持を集めていることが多いと思います。ですから、ネット上で有名な人達(現実世界では別として)が書いておられるブログには、沢山の読者がついています。


今まで書こうかどうしようか迷っていたことがあります。それは、小倉先生がIT frontのブログを終了することです。って、違います。これはこれで残念に思いますが、他でブログを始めるそうですので(という噂が何処かに書かれていました)、そちらにお邪魔しようと思っています。このことではなくて、切込隊長氏のことです。先月終わりごろから、経歴についての疑惑があったらしく、記事の更新も少なくなって、非常に残念です。私には、切込隊長氏がどういった人物で、どのような経歴の持ち主であったのかは、あまり興味がありません。たとえ聞いたとしても、「へぇ~、そうなんだ」くらいにしか思いません。今までそんなに有名な投資家であったことも、資産家であったことも知りませんでしたし、何の仕事をしていたとかも知りません。著作を買ったことも、読んだこともありませんし。ですが、記事を読みに行き、「ほーぉ」「何言ってるかわからんな」「随分小難しいことを言うねえ」「もっと易しく書いてくれ」「こんな発言は止めてくれ」などということを感じたり、それを自分の記事にも書いて来ました。切込隊長氏に裏切られた訳でもなく、騙されたとかもありませんから、経歴の何が問題なのかと思います。金を100億持っていようが、いまいが、私には何の影響もありません。くれるというなら話は別ですが。真実はどうなのか知りませんが、以前から書いているように、ブログの記事を信じたくなければそこに行って記事を読まなければ済むことです。現実世界にしても、切込隊長氏に影響があるだけで、読者はとやかく言ってみても仕方がないことですね。仮に私が今、100億円の資産家であったとしても、これまでの記事には何の変化もないはずです。何かの先入観をもって物事を見ようとした人達にも責任があるように思います。ただ、仮に「切込隊長氏の言説に虚偽が多い」という世間の評価が大勢になるとしたら、今後のブログ全体の信頼性に影響するでしょう。私ごときの感覚記事とはわけが違いますから。それでも、記事を書き続け、再び信頼を作り上げられれば、それはそれでいいと思っています。切込隊長氏という書き手をみすみす失うことは、あくまで損失としか思えません。



今までも言ってきましたが、私は高名な学者さんが書いた難しい本や哲学書、論説本といったものを読めるほどの水準にはありません。難しい言葉も全然知らないし、専門知識も何にもありません。その代わりと言っては変ですが、田舎モノの私は自分の感性というか感覚を重視します。根拠は特にありません。著名人がこう言っていたから、とか、誰々がこう書いていたから、とか、そういう理由で賛成したりはしません。自分が考えた時、賛成できるかどうか、共感できるかどうか、感服するかどうかでしかありません。その判断の良し悪しは、正しいかどうかも判りません。真実ではないのに、信じ込んでいることも多くあります。でも、自分の感覚的な判断や基準をある程度信じています。恐らく、それで今まで生きてこれたからだと思います。ですから、いつも突拍子もないことを書いたり、大間違いなことを書いたりしてしまいます。賢い人が読めば、「あー、まるで間違ってる」「トンデモナイ」と直ぐに判るでしょう(笑)。単なる私の感覚に過ぎないのですから。おバカということですね。それでもいいじゃありませんか、と開き直ってみる(笑)。


私は「恐らく富士山はすごく高い山だと思う。ひょっとして、日本で一番かも」と記事に書く。調べた訳でもないけれど、多分そうなんじゃないかな、と。でも、資料をきちんと調査して書けよ、という立派な人も沢山いて、そういう人達は、「富士山は3776m」「日本の山の10傑は・・・」「世界の山と比べると・・・」とか、きちんと記事に書いてくれる。そういう記事を読むと、私は「そうだったのか」と感心して、この人は信頼性の高い記事を書く人だな、と判るわけですね。あと、私は「富士山はアジアで一番だったような気がします」とか間違えて書くのですが、これは知っている人が読めば直ぐに判る。そりゃ違うだろ、と。賢い人は、そのように読んでくれるはずです(調べないことを推奨してる訳ではありません。調査能力が低い、おバカなもので、ゴメンナサイ)。別な意味で考えると、空想とか想像だけで書いてしまうこともままあり、はっきり言ってこれはよくないな。勝手な空想野郎とでもいいましょうか、無知なる生き物ですね。


文系の人達は普段どういう研究の仕方をするのでしょう?私はよく知らないのですが、考古学とかなら遺跡発掘とか、インディ・ジョーンズとか(笑)のような研究もあると思うのですが、例えば法学部教授は、毎日講義無い時にどのような研究をするんでしょう?想像ですが、誰かが書いた本とか論文とかを百とか二百とか読み漁り、「ふーん、そういう見方、意見、解釈もあるんだー」と知った後で、じゃあ自分は「こう考える、解釈する」というような方法なんじゃないか、と思うのです。それとも裁判所に足しげく通って、一つひとつの裁判例を調べ上げたりすることもあるのかもしれませんが、大体本とか何かを読んだ結果、何か書く、という頭の中だけの作業をするのではないでしょうか?A説、B説、C説があり、私はこれらを考え合わせてD説です、のような。それとか、A説よりもB+C説の方が妥当なのではないか、とか。要するに、実験とか科学的データを取ることよりも、頭の中で「考える」という作業によって完結することも可能なのではないか、ということです。哲学や宗教学なども似たような感じなのでしょうか?私の空想・想像(もしくは妄想?)の作業と、レベルや意味は全く違いますが、やることは似てるんじゃないかと、勝手に思ったりします(笑)。

A説を説明する時に、誰かの文献を元にするでしょうが、A説にも初出の時が必ずあるはずで、これは単なる考え方の一つに過ぎず、その厳格な証拠などないと思う。でも他の研究者達が、「なーるほど」と思ったり、多くの専門家が「賛成ー!」と言えば、きっと認められてA説になるのでは?勿論、考える道筋には妥当性とか基礎的知識は必要でしょうが、極論すれば、きっと頭の中の「想像」で書いているんじゃないのかな、と思う。論理的思考の結果導き出される結論と思しき推論は、あくまで想像(という言葉が適切なのか判りませんが、他に思い浮かばないので・・・)に過ぎない。言うなれば、推理小説に登場する探偵の、最後の謎解きシーンは限りなく想像であって、実験データのような、目の前に再現できる事実ではない。その推論に大多数の人達が納得するのであるけれども(これが定説として捉えられるという意味?)。


ということで、ある分野の研究者達は、単に自分の頭の仲に浮かぶ言葉(想像)を文章化したものが、論文などの研究成果ということになるんじゃないだろうか?ならば、私の単なる想像・空想による文章も許容されてもいいんじゃないでしょうか?(って、全然違いますから、残念!)暴論というか極限的こじつけだな(爆)。


学者さんは難しい本を読み文献考察の結果から、自分の脳内で理論を構成して書く。
私は、漫画本を読み身近な生活の経験から、自分の脳内で屁理屈を構成して書く。

ほら、作業パターンは似てませんか?苦しい~