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サンバの幻想?

2006年07月22日 16時39分10秒 | 社会保障問題
数日前、筑紫さんのニュース番組をチラッと観たら、気になったので取り上げることにします。それは産婦人科医の減少と、出産難民化という問題でした。


普通に考えると、少子化が進んでいるのだから、将来的に需要はどんどん減少していくので、医師の実数は今までよりも必要なくなる。需給関係だけ考えれば、小児科や産婦人科を選択する人数が減る方が好ましいはずだし、合理的であると言えるのではないか。経営原資をみんなが払ってくれて、赤字だろうが不採算だろうがよいのであれば、小児科や産婦人科医を規制して強制配置することも一法ではあると思うが。患者層の数が減っていき、収益的にはマイナスが予想される分野に、無理矢理「おまえが産婦人科医になれ」とか言うわけにもいかないのだから、仕方がないでしょうね。ある程度まで医師数が減少していけば、他よりも競争が少なくなって「それなりに儲けられる」という水準になるでしょうから、そこまで行けば新規参入者のインセンティブとなるのではないでしょうか。


番組中では、産科医減少の事態を改善する為の方策として、「助産師」(昔で言う「助産婦」、看護婦が看護師、保健婦が保健師と名称変更されたのと同じです)の活用を図るべきだ、というような論調でした。まあ、それはそれで一つの案であろうと思いますね。行政の方では、数年前から議論を重ねてきているようですから、今後何らかの方向性が出てくるのではないかと思います。


ここで、ある種の懐古主義的な運動というか、「女性の為の出産」とかみたいな、一部の錯覚とか誤解があるのではないかと思うので、そのことについて書いてみたい。


女性の生物学的な機能としては、「出産」というのが自然なものとして大体備わっている。それはそうだろうと思いますね。犬でも猫でも同じですね(人間の女性が犬や猫と同じだ、とかそういうことを言うワケではないですから。お間違いなきようにお願いします)。病院なんかに行かなくても、はっきり言えば野っ原とかでも産めてしまう、ということです。数千年前とか数万年前には、病院もなければ、特別な設備もないところで、誰もが出産していたんですから(笑)。そうでなければ、人類は滅亡してしまっていたでしょう。なので、出産は自然なことであり、特に病院での特別な保護がなければならないというものでもない、という面はあります。


戦後であっても、出産を自宅で行っていた人たちはたくさんいました。必ずしも病院で出産しなくても、家で十分可能だと言えます。その当時には、所謂「産婆さん」というのが呼ばれたりして、出産に立会い、子どもを取り上げたりしていたようです。田舎になると、免許を有する産婆さんがいなくて、ただ単に「おばあさん」が取り上げたりしたことも多々あったようです。(病院や産婆院に行くまで)遠距離だから、と言う理由ばかりではなく、金がないから、ということも理由の一つになっていたかもしれません。或いは、出産経験が多くなれば(今よりも子どもの数が多かった)、「病院になんていかなくても平気さ」というツワモノも増えていったかもしれませんし(笑)。要するに、「産婆さん」と、ただの「婆さん」と微妙に違いますけれども、そういう人々が出産をさせていたのです。


現代でそういうことのできる女性の数は非常に減っていると思います。これはある意味、文明化の影響かもしれません。それこそ脳の都市化、先入観が作り上げた「不安」「恐怖」とか「自分にはできない、無理だ、危険だ」という妄想の一部なのかもしれません。正確には判らないですが、その結果、大昔みたいに「誰でも自分で産む」ということができなくなってきたのかもしれません。馬とかクジラとかは、自分で産んで自分で育ててきたので絶滅してないはずで、人間だけが特別で、1人で出産できない、というのはオカシナ話なのです。出産についての「経験」や「伝承」が、時代経過と伴に失われて行ったのだろうな、と思います。


そこで近頃登場したのが、「自宅出産」とか「産婆さん」の見直し、というような風潮ですね。「昔はできたのに、今できないわけが無い」というのはその通りと思います。上述した「助産師」の話も、その延長線上にあると思います。これを復活させることで、「女性の権利が・・・云々」とか、「女性にとっての出産の意味づけがどうのこうの・・・」とか、そういう論調の一部に利用されている面があるかもしれません。私の意見としては、「自宅で産みたい」「産婆・助産師の出産をしたい」という人は、希望通りにすればいいのではないかと思います。でもそれが、「女性の地位・権利がなんたらかんたら」とかとは無関係なので、そういうのを喧伝するのは止めて欲しいと思います。酷い言い方をすれば、馬小屋でも出産できますので。出産自体は、特別なことでも何でもないんですから(たまに「嬰児殺し」事件が報道されたりしますが、そういう事件の場合には、たった一人で出産していることも多いですよね?)。あと、それを選択するのであれば、相応の覚悟をしておくべきでしょうね。リスクの問題ですが、よく考えて、判った上で選んでもらいたい、ということです。


昔の「産婆さん」や「婆さん」での出産というのは、現代と何が異なるかと言えば、自然に近い、ということであり、もっと端的に言えば、母体も出生児も「死ぬ確率」は高くなる、ということです。昔の周産期(妊娠22週以降~出産後1週)における母体死や出生児死亡はかなりの数に登っていたと思われます。母体の栄養状態や環境という要因もあると思いますが、「自然に近い」ということはそれなりの「死亡数」が必ず発生する、ということを意味しています。病院などで「救える数が増える」というのは、より不自然である、ということでもあります。ハッキリ言えば、昔ならば「未熟児」として死んでいたものが、今ならば「助けられる」ということに他ならないのであり、これは生物の選択システムとしては甚だ「不自然」で、結果的に「弱い遺伝子」が残される、ということでもあるかもしれません。


日本の周産期死亡は3.3(出生千人対)、早期新生児死亡は1.1(同)です。周産期死亡というのは、1000の出生数がある時、母体又は出生児の死亡が3.3人ある、という意味です。この水準は先進諸国の中でもダントツに少なく、先進国の大体半分くらいであり、早期新生児死亡は半分~3分の1程度に過ぎません。経年的にも、大きく減少してきました。これらは、医療の努力によって、「不自然さ」を追求していくことで達成されたのです。私が生まれた後の1970年でも、今の約7倍くらいは死亡していたのですよ。「産婆さん」の出産が今よりもはるかに多く行われていた当時は、それなりに「死んでいた」ということです。このことを受け入れられるという覚悟をする人たちは、どのような出産を選んでもいいと思いますね。

統計要覧

(リンクが貼り付けられないので、この第1-24表を見て下さい)


因みに、先進国以外となるとデータがあまりわからないのですが、テロの巣窟であるアフガニスタンでは、母体死だけで2.57、新生児死亡は17となっています。つまり、日本の昭和45年頃と似たような水準ということですよ。恐らくアフリカの栄養事情や生活事情の悪い環境であれば、もっと死亡数は多くなると思われます。これでも、「婆さん」(「産婆さん」もそうかもしれないが)の歴史の中で、伝承が何万年かに渡って行われた「知の集積」によって、人間という種族の死亡数は減ってきたはずですが、それでも現代医療の水準の方が優れているのです。出産を自然に任せておくということはどういうことなのか、考えてみることも必要でしょうね。


きっと、自然の選択システムは、無慈悲であり、残酷であり、冷徹なものなのです。他の動物にしても、過酷な選択を受けてきたはずです。つまり、出産に伴って必ず一定数は死亡していく、ということです。直ぐに死ぬことが、遺伝病を持つ個体や弱い個体を排除し、強い遺伝子を残していくという結果になってきたのかもしれません(イジメの問題とも関係しているのではないかと個人的には思っていますが、それはまた別の機会に)。そういう選別が自動的に行われる、ということです。それが最も「自然な状態」なのだろうと思います。このようなシステムに逆らって命を救ってきたのが、小児科であったり産婦人科であったりしたのでしょう。


先日にもちょっと触れました(プロフェッショナルと責任)が、医療の現場では厳しい風当たりもないわけではありません。たとえ通常ではない、稀な事例であったとしても、「救えなかった」ということは責任を追及されます。そのような情勢の中で、どの程度のリスクを取って、或いは知って、「自宅出産」や「助産師による出産」が許容できるでしょうか。もしも死亡例があって、一例でも問題となれば(過失か否かは関係なく)、医療従事者の責任追及とか行政の責任・管理体制とかが厳しく非難されると思います。メディアにしても、「たとえ新生児死亡率が上がったとしても、自宅で出産させる利益の方が大きい」などという主張を果たしてするでしょうか?(笑)


何故事前に診断できなかったのか、何故リスクが判らなかったのか、そういう追及だけはあるでしょう。産婦人科医にしても、ハイリスクグループだけ受け持ってくれ、と言われたとして、利益はそれで出せますか?医師一人当たりの診る患者数は減らせると思いますが、逆に収益にならない、時間とリスクだけが大きい患者ばかりになってしまって、経営できなくなるので早晩ギブアップするのではないかと思ったりもします。それなりの訴訟リスクも抱えることになりますし。私はそういう業界の人間ではありませんので、実際のところは判りかねますが。


出産のリスクは取りたくない、でも、女性の権利がどうの、生き甲斐がどうの、だとか、産婆は良かった、自然な出産が良かった、だとか、思い違いが多すぎなのではないかと思えますね。その代わり、昔は死んでいったんですよ。一定数は死ぬことになってしまうのですよ。その覚悟がありますか?あるなら、別に構わないと思いますよ。そのことをメディアは伝えるべきだろうね。「問題のない部分」だけを取り上げて言うのは簡単なんですよ。「何故最善の医療を受けられなかったのか?」――後からそういうことを決して言わないで欲しい。



トヨタのリコール放置問題と「行政処分」

2006年07月21日 21時48分11秒 | 法関係
最近非難の多い企業不祥事ですけれども、トヨタも同じ道を辿ってしまいました。これについては、まあ色々とあると思いますが、今回の一件は行政庁のとった措置はどうであったのか、ということについて考えてみたいと思います。


Yahooニュース - 毎日新聞 - トヨタリコール放置 国交省が業務改善指示

(記事より一部抜粋)

トヨタ自動車(愛知県豊田市)がレジャー用多目的車「ハイラックスサーフワゴン」のリコール(回収)を放置したとして幹部ら3人が書類送検された業務上過失傷害事件で、国土交通省は21日、トヨタの滝本正民副社長を呼んで業務改善を指示した。社内の安全情報の共有に問題があったことが明らかになっており、リコール担当部署と他部署との連携強化などを求め、8月4日までに再発防止策を求めた。




これを取り上げたワケは、各種報道では「業務改善指示」という風に伝えられていた為、「おや?」と思ったからです。
『指示』ですか。「命令」ではなく。これって、どんな違いがあるのかな?と思いました。そこで、まず根拠を調べることにしました。

国土交通省の(ちょっと探し難い)HPで見たら、ありました。
「欠陥車関連業務に係る業務改善指示について」ですと。


これによれば、「道路運送車両法第63条の4」によるものとされています。で、条文は次の通り。


(報告及び検査)
第六十三条の四  

国土交通大臣は、前二条の規定の施行に必要な限度において、基準不適合自動車を製作し、若しくは輸入した自動車製作者等若しくは基準不適合特定後付装置を製作し、若しくは輸入した装置製作者等又は前条第一項の規定による届出をした自動車製作者等若しくは同条第二項の規定による届出をした装置製作者等に対し、その業務に関し報告をさせ、又はその職員に、当該自動車製作者等若しくは装置製作者等の事務所その他の事業場に立ち入り、帳簿書類その他の物件を検査させ、若しくは関係者に質問させることができる。

(以下略)


この条文の主な意味は、他の色んな法律にもある「報告を徴したり、(立入)検査したり、質問したり」できる権限を規定するものであり、金融庁の銀行検査や保険会社検査とかも同じようなものですね。そういった「行政庁の権限」を規定しているものと思います。ですので、「報告させることができる」という権限に基づいて、自動車会社に「報告せよ」という「行政処分」を下したということになると思います。でも、ちょっと変ではないかと思いました。「報告させる」のと、行政庁が改善の為の「指示」を行うことは全く別の行為ではないかと。少なくとも、「第63条の4」の規定は、行政庁が「指示」するということには関係ないと思われます。


「欠陥車~業務改善指示について」の文中に出てくる、1と2がありますが、「~その後の市場監視を行うこと。」「~強化すること。~取り組むこと。」という風に、行政庁が企業に行為を求めている訳で、これは報告・立入検査・質問権限とは別でしょう。報告の提出を命ずる処分であるならば、「~~について、報告すること。」(上の段の方に「~8月4日まで報告されたい。」と出てますね)だけで済むはずです。このように、付随する意見を付けるやり方というのは、どういうことなんだろうか?と思いますよね。


金融庁などの場合には、会計監査法人とか銀行、保険、貸金などに軒並み「業務改善命令」を出した訳ですが、これらは法律に基づく「命令」であって、行政手続法「第2条の八号のイ」に規定される「処分」ということであると思われます。近頃は、これが大体多いんですよね。ところが、「報告の提出を命ずる処分」というのは、行政手続法の適用除外となる規定とされており(行政手続法第3条十四号)、今回報告の提出を求めた国土交通省の「業務改善指示」がこれに当たると思われます。何で、「業務改善命令」を出さなかったのか?何故「指示」だったのか?という疑問が湧いて来るのですね(笑)。まあ、先に答えを言えば、「どうせトヨタだからさ」、と思ったわけです。


実際にどういった措置があるか見ると、次の条文がありました。

(改善措置の勧告等)
第六十三条の二  

国土交通大臣は、前条第一項の場合において、その構造、装置又は性能が保安基準に適合していないおそれがあると認める同一の型式の一定の範囲の自動車(検査対象外軽自動車を含む。以下この項及び次項並びに次条第一項から第三項までにおいて同じ。)について、その原因が設計又は製作の過程にあると認めるときは、当該自動車(自動車を輸入することを業とする者以外の者が輸入した自動車その他国土交通省令で定める自動車を除く。以下「基準不適合自動車」という。)を製作し、又は輸入した自動車製作者等に対し、当該基準不適合自動車を保安基準に適合させるために必要な改善措置を講ずべきことを勧告することができる。

2  国土交通大臣は、前条第一項の場合において、保安基準に適合していないおそれがあると認める同一の型式の一定の範囲の装置(自動車の製作の過程において取り付けられた装置その他現に自動車に取り付けられている装置であつてその設計又は製作の過程からみて前項の規定により当該自動車の自動車製作者等が改善措置を講ずることが適当と認められるものを除く。以下「後付装置」という。)であつて主として後付装置として大量に使用されていると認められる政令で定めるもの(以下「特定後付装置」という。)について、その原因が設計又は製作の過程にあると認めるときは、当該特定後付装置(自動車の装置を輸入することを業とする者以外の者が輸入した特定後付装置その他国土交通省令で定める特定後付装置を除く。以下「基準不適合特定後付装置」という。)を製作し、又は輸入した装置製作者等(自動車の装置の製作を業とする者又は外国において本邦に輸出される自動車の装置を製作することを業とする者から当該装置を購入する契約を締結している者であつて当該装置を輸入することを業とするものをいう。以下この条、次条第二項から第四項まで及び第六十三条の四第一項において同じ。)に対し、当該基準不適合特定後付装置を保安基準に適合させるために必要な改善措置を講ずべきことを勧告することができる。

3  国土交通大臣は、その原因が設計又は製作の過程にあると認める基準不適合自動車又は基準不適合特定後付装置について、次条第一項の規定による届出をした自動車製作者等又は同条第二項の規定による届出をした装置製作者等による改善措置が講じられ、その結果保安基準に適合していないおそれがなくなつたと認めるときは、第一項又は前項の規定による勧告をしないものとする。

4  国土交通大臣は、第一項又は第二項の規定による勧告をした場合において、その勧告を受けた自動車製作者等又は装置製作者等がその勧告に従わないときは、その旨を公表することができる。

5  国土交通大臣は、第一項又は第二項に規定する勧告を受けた自動車製作者等又は装置製作者等が、前項の規定によりその勧告に従わなかつた旨を公表された後において、なお、正当な理由がなくてその勧告に係る措置をとらなかつたときは、当該自動車製作者等又は装置製作者等に対し、その勧告に係る措置をとるべきことを命ずることができる。



非常に長々と条文には書いてあるんですけど、大雑把に言うと次のようなことです。

まず第一項は、「基準不適合自動車」(リコール対象になってしまうような自動車ということ)のおそれがある場合には、改善措置を講ずるように「勧告」できる、ということです。要は、メーカーに「ちゃんと直しなさいよ」と勧告することができるということです。

第二項は、自動車に取り付ける後付装置の基準に関して、不適合となるおそれがある場合に、同様に「勧告」できるということです。この二つの規定によって、メーカーに「直して下さい」と行政庁から言うことができるのですね。

問題は第三項で、次条(第六十三条の三)の届出(=リコールの届出)規定によって届けているメーカーが、改善措置(リコールして、全部修理する、ってこと)を講じた結果、保安基準に適合するようになる(=全部直った)ならば「勧告」はしませんよ、ということです。企業が自ら申し出て、修理を済ませば、「勧告」は逃れられるんですよね。

で、第四項では「勧告」に従わない場合には「公表」するぞ、第五項は、「公表」されてもまだ逆らって無視してるなら「命令」できるぞ、ということです。つまり「勧告」に至らない場合には、「公表」や「命令」になることはない、ということになります。


解釈の問題もあると思いますが、第三項の届出している場合に、「おそれがなくなったと認めるときは、勧告しない」ということですので、「(修理が全部済んでおらず)おそれのある間」は「勧告」してもいいのではないか、とも思えます。もしも「勧告」すると、「届出したのに何でだよー!」とメーカーからは恨まれる可能性がありますが(笑)。


初めに戻って、今回の「業務改善指示」というのは何なのか、ということになりますが、「指示」という行政処分(?)の明確な規定は発見できないのでよく判りません。が、強いて推測を言えば、「行政指導」の一種ではないかと思われます。「行政指導」は、行政手続法第2条の規定によれば、「行政機関がその任務又は所掌事務の範囲内において一定の行政目的を実現するため特定の者に一定の作為又は不作為を求める指導、勧告、助言その他の行為であって処分に該当しないものをいう。」とあり、一定の作為を求める「指導」「勧告」「助言」「その他の行為」のうち、「指示」がいずれかに該当しているのではないかと思われます。「勧告」だと第四・五項規定に連結していくので、「指示」は「勧告」とは違うかもしれませんけど。上記第63条の規定からすると、「勧告」一歩手前、みたいな感じだろうと思います。


他の色々な法律にもありますが、「~必要な措置を命ずることができる」とか「~改善を命ずることができる」という、行政処分のうち執行強制力の働く「命令」が道路運送車両法にはないんですよね。あるのは「勧告→公表→命令」という不服従の流れに乗ってる場合のみ。本法の命令規定は、「報告・検査・質問」規定だけなんですね。従って、「報告せよ」という「命令」を出して、一緒に「業務改善指示」という曖昧な表現にしているのは、「行政指導」の単なる「お願い」と同じ扱いではあるけれど、(出してる方の)気分は「命令」に近いと思われます。一見「指示」というと、強い口調みたいな感じがあるからなのかもしれませんね。「監督の指示に従え」みたいな使われ方ですし。これでも、強制力は一切ないんですけど。


因みに、リコールの届出をすると自動的に報道されているし実質的に「公表」と同じですので、「勧告→公表→命令」というのは無効なのと同じではないかと思ったりしますけど、どうなんでしょうか?リコールの届出をしないと「勧告」を受けてしまうかもしれませんが、別にいきなり「公表」される訳でもないんですよね、元々の制度的には。現実的に考えると、行政庁による「指示」(お願い)よりも、報道などで公表されてしまうことで「会社の信用に傷がつく」という方が、強い強制力として働いているかもしれませんね。


国土交通省が、(癒着関係の)自動車業界とかトヨタに遠慮したのかも(笑)、と思ったのですが、本当は命令規定が無かった、ということなんですね。勉強になりました。調べなければ、「あ~あ、どうせトヨタさんだからでしょ?ワザとらしいんだよ!」とか思ってしまうところでした。暫く前に、ランクルのリコールとか「コソーリ」出てたしね。目立たないようにしてたのに、今度ばかりはダメだった、ということですね。



格差拡大を海外からも心配される日本

2006年07月20日 22時19分00秒 | 社会全般
OECDの報告書で、日本の貧困層、格差というのが問題に挙げられたようです。「小泉改革のせいで、格差が拡大したんだ」論は、ちょっと違ってるという解釈になるかもしれませんね(笑)。朝日や毎日の主張していたのが、やや疑問ではあります。「~のせいで・・・」という時に、原因を何処に求めるか・何を主な原因と考えるか、ということについて、客観性(所謂「統計的データ」ですね)よりも記者氏たちが心情的に許せない(特に昨年選挙で圧勝したから)と思われる「小泉長期政権」に文句を言いたいだけなんではないかと思えましたから。

asahicom:OECD、所得格差拡大を指摘 二極化、固定化のおそれ-国際

(記事より一部抜粋)

経済協力開発機構(OECD)は20日、06年の対日経済審査報告書を発表した。所得格差問題を詳しく取り上げ「00年段階ですでに日本の所得格差は米国に次いで2番目に高かった」と指摘。その後、格差が固定化している恐れがあり包括的な対策が必要だ、と警告している。

報告書は、所得格差の指標として生産年齢人口(18歳以上65歳以下)の相対的貧困率に着目した。可処分所得が中位置(全体の真ん中)の半分に満たない家計の割合を示す指標で、日本は小泉政権による構造改革が始まる前の00年段階で13.5%だった。OECD加盟国の中で米国(13.7%)に次ぐ高さ。3番目はアイルランドの11.9%で、日米がず抜けていた。日本の90年代半ばの相対的貧困率は11.9%だったという。



この記事によれば、小泉政権誕生以前に、既に格差は存在しており、「日米がず抜けていた」と朝日新聞は指摘しているわけです。因みに、数字が大きいとか小さいとか比較する時、文章の表現は気をつけるべきでしょうね。文系特有なのでしょうか?修飾語が多い、というのは(笑)。「図抜けて(多い、大きい)」というのは、「どの程度の水準なのか」ということが判らないのに、「もの凄く」or「とんでもなく」or「飛び抜けて」大きい、という印象を与えるということを目的としています。そのような印象操作は不必要でしょう。論文でもないので、そこまで気をつけるべきか、というのは私には判りませんが。でも、13.5%と11.9%を比べる時に、1.6ポイントの違いが「ず抜けて」なんでしょうか?というのが、基本的な疑問です。「13.5%」の約12%程度の違いしかなくても、「図抜けて多い」ということになるんでしょうか(笑)。


いちいちこのような疑問を生じることになるので、数字を比較する場合には、あまり修飾語を用いない方がいいですよ。単に、約2倍、とかそういうのは入れてもいいと思いますけど。例えば、毎月の「年金受給額」がAさん6万円、Bさん6万8千円、と言う場合、両者の違いは8000円、すなわち約12%程度の違い(Bさんから見て)です。この両者を比較すると「BさんはAさんよりも図抜けて多くの年金を貰っていた」とか言うのか?ってことですよ(爆)。福井総裁の厚生年金のようにかなり多い時には、「Aさんの4倍以上貰っていた」とか「Aさんよりも『ず抜けて』多かった」とか言えるかもしれんけどね。


朝日新聞の記者になるには、すごく頭が良くて、高学歴の方じゃないとダメで、給料もいっぱい貰えるんで、非常に厳しい競争を勝ち抜いた人しかなれないんですよね?それこそ「図抜けた才能」なんでしょ?数字を比較する時は、できるだけ事実をきちんと表現するべき、なんてことは言われんでも判り切ってるでしょ。記者氏の思い入れとか、一切いらないの。自分の感想も交えなくてもいいの。単に「増加率は約2倍だった」とか、「○○という指標で見れば、~~の方が多かった」とか、「~~よりも、ナントカの方が増えていた」とか、そういうものでしょ。もしも、どうしても自分の考えを入れたければ、事実とは別に表現するべきだね。


いかん、横道に逸れましたが、要は「格差はもうちょっと是正して下さいよ」というのが、この報告での意図であり、その為の施策はやっておいた方がいいですよ、というご忠告ですね。


それと、昨年からずーっと、何回も言われてるが、日銀は「利上げすんなよ」というのも大事ですね。あれほど、慎重に行け・緩和的にやれ、と釘を刺されたにも関わらず、量的緩和解除、ゼロ金利解除、と連続の忠告無視だったからね。日銀は急いで引き締めたところで、メリットはなんもないのに・・・むしろ日本経済をメチャクチャにしたいのかもしれん。一歩一歩、地歩を固めながら、足元を見ながら進むということを考えられないんだろうね。こんなのが「担当医」とかなら、絶対にイヤだね。患者は非常に危険な目に遭うだろうね。命がいくつあっても足りないよ。



ミサイル防衛力のこと

2006年07月19日 16時48分28秒 | 防衛問題
前にも書いたが、基本的に情報がある程度集められる体制になってないとダメでしょうね。それは米軍の傘を借りようが、自前でも努力しようが、コストパフォーマンスを考えるとは思いますが、必要なものは必要なので揃えるしかないと思いますね。なので、衛星情報を共有化するとか、在日米軍との連携などといったことは、必要な部分はやるしかないと考えています。それを全て自前で用意するとなれば、大変ですよ。


紛争回避の為には、外交努力は勿論必要です。
けれども、日常生活においても、何の落ち度もなく普通に生活してたり、道を歩いてたりするだけで、殺されてしまったりする人は現実に存在します。駅で立ってただけなのに、殺されたりするんですよ。もしも、そういう事態が生じても、決して犯人に刑罰や制裁を加えたりするべきではない、とか、身を守る為に警官は武器を所持するべきではない、とか、そういう主張の人は、「防衛力を持つな」と言うかもしれませんね。本当に多くの国民がそれを望んで選択するというのであれば、これは仕方のないことでしょう。それが民主主義の手続きで決められるということになるなら、当然そうするべきでしょう。


現状でその選択をする勇気は、私にはありません。それは怖いからです。凶暴な犯人に襲われたくないし、自分の独力だけでは身を守る術がありません。なので、警官には武装してもらってもよいし、防衛力は必要なものは用意するしかない、と思っています。多くの反対者たちは、自分が凶暴な連中の前に立ちはだかって、たとえ自分が刺し殺されても他の人々を守る、ということなどしないのに、警官には「武器を持つから危ないんだ、オマエが素手で逝ってこい。口で戦ってこい」とかトンデモナイ激励をすればよいと考えているかのようです(笑)。「ならず者」は本当に何をしでかすのかわからないのだし、もし絶対に反撃されないことが判っている場合には、どんなことをしてくるのか判らないんですよ。


当面は、既にMD構想に基づいて配備を進めるしかないでしょうね。毎日新聞だったかに、「以前地対地ミサイルの研究予算を取ろうと思ったら、ダメになったんだ」とかの防衛庁幹部の「残念コメント」が出てたようだけど、結構恨みが深いね。かなり粘着質ですね。私は勿論反対したけど(笑)。攻撃用地対地ミサイル配備を公に言ったりしたら、それこそもっと非難が来るよ?ミサイル配備後には、「いつでも核弾頭が搭載できる状態になれる」とか、変なデマを飛ばされる、って。地対地ミサイル構想は止めといた方がいいよ。将来、潜在的核脅威国に認定されるかもよ。陸上自衛隊は、海上自衛隊や航空自衛隊を羨みすぎだってば。


敵基地攻撃論ですけれども、口が滑っちゃったのは額賀長官。同じテレビ番組(日テレ系の朝の番組だったと思う)に出演していた、民主党枝野議員の「昔の解釈では敵基地攻撃は可能、そのこと(=能力を持つ)も考えるべき」というような発言(完全に正確ではないが、こんなような意味で言った)を受けて、同じく昔の憲法解釈論を出して言ったのですね。そういうことも議論していかなければならない、というようなことも含めて。そこから「先制攻撃と言った」というような感じになって伝わったと思われますね。報道が積み重なると、多少ニュアンスが変わり、安倍ちゃんも同じように言ったかのように報道されたんだろうと思います。


閣僚が言うと、これも色々とありますので、慎重に言葉を選んだ方が良かったでしょうね。今の時期に言うのは、特に不適切であったと思いました。私個人では、次のように考えています。

・日米の防衛構想上、MDは決まったことですので、これは導入・配備を続けるのは止むを得ないでしょう。政治的判断だったので、単なる防衛力ということの他の部分も含めて考えることになると思います。在日米軍再編や情報共有化等の全体のシステムとして必要、と判断するしかないでしょう。多額の金がかかりますが。米軍に守らせるコストの一部、と思うしかないでしょう。

・「敵基地攻撃力」ですが、まず、言葉が悪いのですよ。これを止めること。「阻止任務能力」とかの表現を使う方が望ましい(元々の言葉の定義は知らんが)。「弾道核ミサイル破壊兵器」とか。基地攻撃だと、無差別的にどこの基地でも攻撃するかの印象を与えるので、そうではないという意図を明確に伝える努力をした方がいいでしょうね。

・地対地ミサイルは絶対によくない。これを持つというと、国内外からの猛反発があると思いますね。

・陸上自衛隊の主力戦車とか自走榴弾砲は減らすしかない。隊員定数も。そういうのは無駄が多くなるだけ。

・とりあえず、将来の配備が決まりそうな戦闘機/攻撃機を考える必要がありそうですね。後継機種選定に絡んで、色々とあるようですけど。ASMが搭載可能な機種は必要。セットで買うことを考える。

・万が一北朝鮮がヤケクソになって、本格的にミサイルを100発とか発射したら防げないじゃん、とか言う人もいますが、とりあえず、核弾頭搭載可能な弾道ミサイルの防衛ができるように考えるしかないと思いますね。鈍重な発射台(テポドンとかの)なら、航空機からの攻撃でも破壊可能。スカッドが飛んできてしまったら、しゃあない。外れることを祈る。戦術核だったら、泣く。射程が届かないことに賭ける。


一酸化炭素中毒死を考える

2006年07月19日 13時53分21秒 | 社会全般
今問題とされているパロマの不正改造等ですけれども、この危険性について少し考えてみたいと思います。

初めにお断りしておきますが、私は毒物の専門家などではありませんので、一般的な水準でしか書くことはできませんので、詳細とか正確な知識をお求めの方はご自身でお調べ下さいませ。


・一酸化炭素中毒死は珍しい?少ないの?

国内で最も多く見られているのは、恐らく自殺であろうと思います。特に近年のネット上の「自殺呼びかけ」で、集団自殺の場合に多く用いられる手段と思われます。昔は車の排気ガスを密閉した車内に引き込むということが多かったと思いますが、最近は練炭が多いのではないかと思われます。人口動態調査などの統計によれば、自殺手段として確か年間3千人以上の死亡があるかと思います。昔は半分くらいでした。

自殺方法では、まず意識障害(大体眠くなる、意識を失う)が先に起こり、その後の苦痛が少なく、方法としても簡便であるため、用いられやすくなってきたのではないかと思われます。飛び込み自殺や首吊り自殺などに比べても、苦痛や死亡後の汚損等が少ないからではなかとも思えます(決して、推奨しているわけではないので、絶対に自殺を考えたりしないで下さい)。


他には、火災による死亡のうち、熱傷ではなく一酸化炭素中毒死が死因となっていることも多くあると思われます。火災事故による死亡のうち、どれ位の割合がそうであるかはちょっと判りません。年間数百名規模ではないかと思われます。


これら以外では年間100~200名程度の死亡がありますが、統計には正確に出てない為にハッキリした数字は判りかねます。事業所等の産業事故などもあるかもしれません(恐らく労働環境の改善指導などで、その数は減ってると思われます。炭鉱等の危険度の高い業種も無くなっていると思いますし)。


・死体でどの程度判るのか?

年間数千人以上の死体が「一酸化炭素中毒死」のものであると考えられ、警察や消防等の職員が滅多に見ないレベルの事例ということは考えにくく、逆に、割とよく観察される死体ではないかと思われます。


一般に、一酸化炭素中毒死の場合、特徴的な死体である為に、判別がつきやすいということが言われています。色が「鮮紅色」であることが、その特徴となっています。一酸化炭素中毒死の死体というのは、見たことがあれば大抵見分けられる程度に「特徴的である」ということです。通常、不審死の場合には、警察か消防(救急隊)は呼ばれるので、死体検案書を必ず書くでしょう。そこで死因はハッキリすることが多いと思います。


・死亡数の水準は?

既に述べましたが、一酸化炭素中毒死で最も多いのは自殺であり、恐らく不慮の事故での死亡に比べ10倍~20倍程度多いでしょう。また、火災による死亡のうち、かなりの割合が一酸化炭素中毒死と考えられると思います。従って、パロマのガス器具の危険性による一酸化炭素中毒死よりも、火災などの発生リスクの方が高い可能性があります。

似たような事例では、松下の石油ストーブというのがありました。長い期間に渡ってリコール広告を出してますが、パロマに限らず、不完全燃焼や排気障害などによる一酸化炭素中毒は必ず発生リスクがあります。特に、冬期間にストーブ等の暖房器具などを使う地域では、そのリスクは高まるでしょう。火災の発生リスクについても、雪が積もるような寒い地域では高くなっているのではないかと思えます。


一酸化炭素中毒死に関する死亡統計は見つけられなかったのですが、厚生労働省の人口動態調査の区分で見ると、次のことが判りました。

統計データ・ポータルサイト

94年以前までは、<E868:その他実用ガス及びその他の一酸化炭素による不慮の中毒>という分類が用いられていたと思われます。その死亡数には自殺や火災は含まれていないはずです。この水準で見ると、84年頃は多くて246人でしたが、94年には129人に減少しています。おおよそ100~200の範囲の減少傾向でした。

95年以降では<X47:その他のガス及び蒸気による不慮の中毒及び暴露>という区分に変更となっています。以前と区分が違う為比較は難しいと思いますが、03年で男335人、女性50人となっています。

因みに自殺でのガス中毒死は約3500人(ここ数年で倍増してます)と、はるかに多い数です。都市ガスとかプロパンガスなどの中毒死は別だと思います。


年平均で1~2人の死亡があった可能性があるパロマの器具ですけれども、普通にストーブ等の暖房器具、ガスコンロやガス給湯器等を設置していて死亡する数よりは多分少ないと思われます。設置台数当たりの平均とかは判りませんので、死亡率がどうなのかは正確には評価できないのですが。


参考までに言えば、園芸用や農業用の肥料による中毒死は年間100~150人程度で、不慮の一酸化炭素中毒死と似たような水準ではないかと思われます。すなわち、過って園芸用農薬を摂取してしまって中毒死する数よりも、パロマのガス器具で一酸化炭素中毒死する数は圧倒的に少ないと推測されます。


・会社の責任

これは色々と非難が出ているし、無くなることはないのだろうと思われます。市場からは「不買」という社会的制裁を受ける可能性はあるかもしれません。不正改造について知っていたのに何もしなかったことは不作為の責任を問われるかもしれません。これはまた別な判断であると思いますので、今は触れません。

ただ、普通に生活していて、通常のコンロや暖房器具を改造などせずに用いたりしていても、一酸化炭素中毒死は発生しているだろうし、恐らくパロマの器具での死亡数よりもはるかに多い可能性が高い、ということは考えられると思われます。


これを防ぐには、一般の利用者たちに窓を開けて換気するとか、ガスを発生させる器具の基本的知識の啓蒙の方が多分重要なんだろうな、と思います。一酸化炭素中毒そのものの知識についても、そうかもしれません。


リスクをゼロにすることはできない部分もある、ということは考えてみて欲しいと思います。



北朝鮮問題~サミットまでを概観してみる

2006年07月18日 21時03分31秒 | 外交問題
1)今回の北朝鮮のミサイル発射で最も得をしたのは誰か?

ここからまず考えてみたいと思う。

張本人の北朝鮮ですが、非難されるのは重々承知。そんなことを怖れていては、初めから発射なんてできない。元々「日本の主張をへこます」「米国の譲歩を引き出す」というのが達成できればよく、うまくいけば中韓からの何らかの「援助交際」(笑)が見込めると踏んでいたと思う。ところがドッコイ、そうは問屋がおろさねえ、ってところでしょうか。

「ならず者」同士というのは大概「徒党」を組みやすく、チーマーだか、チンピラ集団だか判らんけど、要するにワルモノ同士はワルモノ同士でつるんだりなんかして、警察権力や他の暴力集団などに対抗しようとするわけです。なので、北朝鮮にはそういうグループとのお付き合いがあって、ミサイルのデモ効果とか言われる面があるようです。しかし、これはどうなんでしょう?デモ効果でミサイル技術やブツそのものが売れて金を稼げる、ってことは、あまり期待できないのではないかと。仮にイラン、ベネズエラ等が調達を決めたとしても、北朝鮮の製造能力では納入までに長期間かかると思いますね(イランやベネズエラには何と言っても資金源の「石油」がある!)。それに、経済封鎖で基本部品等の手当てが困難になれば、比較的高度な製造技術を必要とする電子回路等の製造がままならないのではないでしょうか。別な(韓国や中国)ルートから調達可能なのかもしれませんが、そうした電子部品を買う金そのものが「絞られている」状況ですので、厳しいでしょうね。なので、デモ効果はほぼ期待薄だったのではないかと思えます。

北朝鮮にとっては、やはり「窮余の一策」であったと見ています。

「どうせ撃てまい」→「いや、本気だぞ、撃ってやる」というのが基本的な反応でしょう。本当に撃てば、中韓露は「ほらみろ、日米が厳しくし過ぎるからだ」と言ってくれる、と思っていたからです。そこに見込み違いがあった。


まず、露ですけれども、サミット議長国であったので、「成功させたい、『優等生クラブ』(旧G7)の正式メンバーとして仲間入りしたい、暖かく迎え入れてほしい」という思いはあります。「貧乏な北国の田舎者」という蔑みは避けたい、大国としてのメンツを保ちたい、と考えるのは普通です。その立場を考えれば、北朝鮮を擁護し続けるのはちょっと困難であったでしょう。そこまで、北朝鮮にロシアの利益は乗ってないでしょう。

韓国はどうかと言えば、ミサイル発射の行為自体への拒否感というのはさほど感じてないでしょう。これはスカッド型の配備があるということが元来知られているし、韓国向けのアピールでないことは明白だし。問題は韓国政府の読み筋と、韓国世論の温度差が想像以上に大きかった、ということだと思います。クラス内で「オレ流粗暴ツッパリ君」にどれほど肩入れしてても、「もう、そんなに庇うことないんじゃね?」という素朴な反応が韓国国民にもあるわけで。それに米国にあんまり冷たくされても、「独り立ち」(ちょっとエッチ?)するほど国際社会での立場があるわけでなし。日本にはライバル心を燃やすが、日本以外の部分で国際社会に理解されていることは少ない。せいぜいが、韓国系移民が主に北米で頑張るくらい(女子プロゴルファーとか)。なので、韓国政府は「立ち位置」を間違えた為に、しっぺ返しを食らった格好。

最大の直接関係者である中国ですけれども、いい恥さらしになってしまいました。それは、発射直前まで「思いとどまるはず」という読み違いをしていたことが全世界にバレてしまい、その前に地味に活動していた「六カ国協議非公式会合プラン」とか「米国内工作」とか、水泡に帰してしまったから。多分テコにしてた米国内ネットワークからも、「折角動いてやってたのに、何だよー!」的な反発があったでしょう。外交戦術の変更を強いられることになってしまいました。日本に「あんまり拉致拉致言うな」とか「制裁制裁言うな」とか言える立場にあったものが、滑り落ちました。天罰、天罰(笑)。「ちゃんと見てなかったのかよ」と『優等生クラブ』の面々(英仏独)から思われて、赤っ恥。米国だけならまだしも、欧州伝統国にまで・・・というのが堪えた模様。日本には何とでも言えるが、欧州伝統国には一目置いてるからだろう。

米国は基本的に二国間協議には応じない立場を貫いて、チキンレースに耐え抜くのは楽勝でした。何なら発射させてもいいよ、と思っていたので、別に困ることなし。日本との対応協議に時間を取っていたので、直ぐに動けた。ただし、他の常任理事国の立場を考える必要があったので、「声を一つに」というメッセージで単独主義の影を薄めてみました、ってところだろう。日本の立場を尊重したということを示せればよく、一方では中国に北朝鮮を「預ける」という明確な役割を演じさせたので、まあよし、というところでしょう。

日本では対応策のプランができていたので、すぐさま行動開始ができた。あくまで想像に過ぎませんが、今までにない体制で進められたのは、「情報」の重要性(統合・共有・分析)を認識したから、ということと、外務省と防衛庁が協力できたことではないかと思います。結果としては、得したのは日本であったと思います。譲歩させられた、という評価もあったりしますが、国連という場で国際社会に明示できたことは「技あり」ゲットでしょう。


得失点で言うと、10点満点で、日本+10点、米+5点、露±0点、韓国-3点、北朝鮮-7点、中-10点、というような感じでしょうか。


2)安保理決議

日本の強い態度・要望に米国はすぐさま賛意を示して、各国の反応を窺いました。調整の協議に時間が必要でしたが、これは普通でしょう。日本だけが「こうしよう」と言っても、他の国々が無条件に応じてくることは有り得ないでしょう。

米国は初めから「声を一つにして言うことが大事」と決めてましたので、日本の立場に理解・配慮をしながらも、英仏独と中露の様子を「右見て、左見て、また右を見て」という具合に「指差し確認」してました。売り手と買い手の「価格交渉」みたいなもんで、妥協点の探り合いが続きましたが、日米の基本線としては「まあよし」という落としどころに落ち着きました。ロシアはおそらくサミットでの内容との兼ね合いなんかがあって、欧州勢や米国の意向に「足並みをそろえてもよい」という妥協が直ぐに働いたことでしょう。


問題の中国でしたが、(いつもは同調して日本に文句を言う)韓国がすぐに脱落(笑)していったのでやや心細くなり、ロシアも「ウチは別にいいや」と中国に配慮する気配は殆どなく、「何だ、オレんとこだけかよ、北朝鮮の味方してんのは」ということになってしまいました。北朝鮮のせいで孤立したくもないので、日本以外の欧米諸国あたりからの説得に応じたものと思いますね。大雑把に、態度的に強硬な順で言うと、日、米、英、仏、露、中というような具合だろうと思いますので、結局この中間くらいに落ち着いたということになると思います。中国としては、例えば日本の案には「死んでも反対」、米案には「拒否権使ってでも反対」、という感じになってしまうでしょうから、この2カ国に直接同調するのは耐え難いでしょう。それがイヤなら、「仏案あたりで手を打たんか?」とか言われれば、応じざるを得ないだろう、ということでしょう。


日本としては、「安保理決議に持ち込めた」ということで、所期の目的は達したと言ってもいいでしょう。「振り上げたコブシ」をどうするのか、とか言われたりもしたようですけれども、日本がそのコブシで北朝鮮に殴りかかった訳ではないのですから、制裁決議にならなかったからといって、特別不利益を蒙ることはないですね。更に、いつもは「日本が北朝鮮に文句を言うから(六カ国協議が)進展しないんだ(=日本の拉致問題のせいだ)」、というような主張をしていた中国が、さすがに今回は日本の主張を簡単には非難したり退けることができなかったことでも、日本にプラスになったと見ていいでしょう。


3)サンクトペテルブルク・サミット

ここでの成果はいくつかありました。北朝鮮問題の言及は発射以前からのテーマですので当然として、安保理決議を受けての対応としては「日本の存在・主張を無視できない」ということが示されたのではないかと思います。もしも、安保理決議がなければ、拉致・人道問題の記述を取り上げられなかったかもしれません。日本以外のG8参加国は、「日本が何か協力してくれるなら―例えばイラン問題とかで―問題を共有してあげてもいいですよ(=協力できることはするかもね)」ということを認めたということになります。すなわち、拉致問題というのは、単純に「日朝間の問題」という扱いではなくなった、ということを意味します。ここでも、日本はポイントを上げることに成功しました。


もう一点、特徴的であったと思うことは、米国の姿勢がやや変わってきた部分があったことです。「京都議定書」不参加を決め込んでいた米国が、「エネルギー効率・省エネルギー」に関する記述を認めたことです。普通に考えれば、エネルギー安全保障は、産油国などに見られる「資源ナショナリズム」に対する警戒感と、新興諸国のエネルギー消費の爆発的増大に対処せねばならない、ということでしょう。エネルギー資源獲得競争は、価格高騰を招き、世界経済に対して不安定要因となってしまいます。結果的に、資源大国(主に産油国)の発言力が増すことと、高騰した価格の恩恵を受けて(単純に考えれば、売上高大幅増ということですよね)、「オイルダラー」に代表される大量の「資源マネー」は世界市場に「投機的に」流れ込みモンスター化するかもしれない、という危惧はあるだろう。

何よりも、米国にとっては「GMショック」がかなり効いたのではないかと思っています。かつては米国を象徴するかのようなGMでしたが、「省エネルギー」への対応の遅れなどもあり、市場からはっきりNOを突きつけられてしまいました。海外市場での苦戦ばかりではなく、「米国国内」での苦戦というのが省エネ路線へ転換させていったのではないでしょうか。米国の消費者自身がその選択を示したということではないかと思っています。そうでなければ、これほど早く省エネだなんて言わなかったに違いないと思いますね。


最後に、単なる偶然かもしれませんけれども、日本の対露外交の一端はサンクトペテルブルクという地で、ずっと以前から始まっていたでしょう。そうです、「ナショナル・フラッグ」ですよ。ロシアに「お土産」を持って、奥田さんが昨年訪れていたはずですよね。トヨタ工場を進出させる、というサンクトペテルブルクの地が丁度サミット会場であったのは、なんとうまい具合なのでしょう(笑)。民間レベルというか、ビジネス上の外交では、「ナショナル・フラッグ」というのが確かに大事だ。そういう地であったことは、日本にとってプラスに働いただろう。これが全くの計算外で、実は何も考えもせずに偶然工場建設話を持って行ってたのなら、日本の外務省筋は本当の無能ということなんだろう。「舞台は着々と、ずーっと前から既に用意されていた」という方に解釈しておこう、とりあえず(笑)。もしも、今後に無能さを露呈した場合には、「やっぱ買いかぶりだったんだー」って思うことにするぞ。


防衛問題の話は、また後で。



将来を考えるなら、社会科学選択が有利

2006年07月17日 18時54分53秒 | 教育問題
今から大学受験を控えていたり、志望変更の可能な若者諸君は、是非とも考えてみて欲しい。

将来、高い給料を貰いたいと思っているなら、やっぱり『理系よりも文系が有利』だ!!
その理由は次のことが考えられる。

・給与の期待値は文系の方が高い(統計的にそうらしい)
・理系、特に専門技術職系はコモディティ化からは逃れられない(だろう)


狙い目は、次の職種だ。

・メディア(放送・出版)
・大学教員

他の職種に比べて給料が高いぞ。

テレビ局社員の平均年収の高さは有名だが、新聞社もかなり儲かるらしい。で、新たに出版業界でも、講談社の若手もえらく高いことが判明した。スバラシイ。


漫画家さんは超人気作家以外は、かなり厳しい状況で、そのアシスタントとかになれば、もっと悲惨な生活が待っているらしいからね。「家内制手工業」的零細産業の末端があって、そこからの生産物を吸い上げる大手出版社は、高々入社5年未満のものが年収1200万円以上「一律に」貰えるシステムになっているんですか。そーですか。こりゃ、笑いが止まらんシステムなんですな。テレビ局も似てるようだけどね。羨ましい限りです。


日本の評価システムとしては、創造者に対する恩恵が少なすぎるのかもしれないね。作家、漫画家、ライターなどの下請け部隊は、大した原稿料も貰えないが、販売者には多大な恩恵がある、というのが特殊な業界システムなんですね。こういうのを打破するには、やっぱりネットの実力を上げていくしかないのかもしれない。今は現実世界の出版物は、権威付けシステムみたいな感じだもの。有名な雑誌とか出版の流通に乗せられれば、何か箔が付いたような感じになるからね。


もしも、生産者(作家、ライター、漫画家等)がダイレクトにネット上にしか作品を出さず、途中の流通業者とか販売業者(出版社とか・・・他に何があるのか知らん)を介在させなければ、雑誌なんかはもっと安くなるはずだし、逆にそういう部分に搾取されていた金は生産者に直接入ってくるはずなんだよね。でも、それが何故かうまく機能していないかも。基本的にネットで発表して、作者ごとに単行本(コミックでもいいんですけど)で今までに近い形で販売するというのはダメなんですかね。広告業界なんかの、非常に不可思議なシステムがあるのかもしれないから、一概には言えないのかもしれんけどね。生産現場の虐げられし状況と、メディア大手の高給優遇の落差があまりに大きいので、そこに疑問を感じてしまいますね。



それと、前にもちょっと触れたけれど、文系大学教員というのは、同じく高給優遇されてる職種だと思いますね。成果がそもそも曖昧でいいし。研究費にしても、配下はあまり必要なくて一人でやってれば、科研費を使いきれない、とかもあるそうですし。週に2、3日の出勤で済むなら、別に常勤である必要性がないですね。

何でこのような状況になっているかと言うと、競争原理がきちんと働いていないから、なんではないですかね?私立の私学助成金は基本的にどの程度必要なんでしょうか?何で、論文一本も書けなくて、何十年もポストに収まっているような連中に、高給優遇せねばならんのよ?とは思うね。論文って言ったって、複数審査委員とかに査読を受けるような論文でもなくて、大学発行の自分が書きたいものをただ書いて載せる程度のものがですよ?それが教授なんですよ?文系っていいよね。


はっきり言えば、オイシ過ぎ。楽し過ぎ。そういう教員がゴロゴロいるんですよ、大学には。

やることが多い先生もほんの一部にはいると思いますけど、いい先生の下には学生が沢山集まってくるので、そういう教員には大学として高い給料を払えばいいのです。別に、大して働いてない先生の給料を払うためにまで、税金を投入する必要性はないですね。研究費は自力で応募して取ればいいんですよ。私学助成の結果、何か良い成果は上がったのでしょうか?それでは大学経営が成り立たない、というのなら、不必要な大学は退出してもらえばいいのです。いい学校には学生がちゃんと集まるはずですよね?自力で経営できてる学校は、教員にどのような給料を払おうと、大して研究しない先生に多額の給料を払おうと、勝手にすればいいのですよ。完全に自由でいいですよね。でもね、税金を大量に投入してもらってるクセに、私立大学の金の使い方は制御不能なんですよ、今のやり方というのは。ナメタ教員の給料を維持するために、助成金を投入しているような部分があるのですよ。

もしも、助成金が来なくなれば、大学としては経営を考えるから、穀潰し教員は頭数を削減するとか給料水準を下げるとかするでしょう。ぬるま湯に浸かってるうちはいつまで経っても、そういう教員を切れないでしょ?そもそも、国公立大学があるんだから(国立大学法人になっちゃったけど)、無駄な私立大学はそんなにたくさんいらないって。授業料が大幅に跳ね上がってしまう、とか心配するなら、学生に奨学金を与えればいいんですよ。学校に金を直接ばら撒いておく必要性はない。私学というのは、かなりの規制業種ではないですか?


まあ、そうは言っても、今の制度が大きく変わることは暫くないと思いますので、私立文系の大学教員ポストは狙った方がいいと思います。何と言っても、楽(あくまで相対的に、ということで)。理系は逆に大変。自分1人だけで部下とか院生がいなければ、特にマネジメントに頭を痛めたりせんでもいいし。一度なってしまえば、辞めさせることは滅多にないでしょう、不祥事でも起こさない限り。


経済学者は数多くいますが、大学教育分野での実証分析は、日本では少ないそうですよ。何でだか知らんけど。研究分野としては、チャンスがまだまだ多く残されているかもしれませんね。



尊厳リソースの続きです

2006年07月16日 13時34分37秒 | 俺のそれ
昨日書こうと思ってたら、できませんでした。スミマセン。
で、本日続きを書きました。



尊厳リソースを「ネットで無理矢理取り戻そうとする」という指摘は何となく判るような気もするが、実際その立場の人々はどう感じているのか気になるところ。


ごく普通に思い浮かぶのは、著名人の方々。議員さんとか、学者さんとか、テレビに出てくるような人(何とか評論家や文化人風な人?)とか。ネット上で批判されると、「社会的立場を酷く傷つけられた」とより多く感じる人の場合には、「ネット上で無理矢理それを取り戻そうとする」ということか。初めから意見の多様性について、ある程度許容しておけばいいのではないかと思うが、どうなんでしょうか。「誤り」と「多様性」は違うけど、ちょっとくらい間違っても仕方がないじゃない、とも思うけどね。誰でも完璧じゃないんだし、いくつかの意見が交わされる過程で、次の到達地点が見えてくるというか、間違いは方向修正されて行けばいいんじゃなかろうか、と。


「あの山は高いんだよ」と誰かが言うと、「いや、あの山は木の数が多いんだよ」と言う。否定じゃないけど、違う意見だってある。それをある程度認めたっていいんじゃないのかな、と思う。もしも常に完璧な論述を求めるならば、研究者とかと同じくらいになってそれなりの時間とか金をかけてやるべきだね。だったら、専門に研究している人々は要らない、ってことになるか。反対意見として、「実は、木の数はそれ程多いとは言えないんだよ」とか言われたら、「ああ、そうでしたか。アリガトウ」でいいんではないかと。それを認めることは、尊厳とか自尊心に大きく関わるのでしょうか?それに、もっとありがちなのは、正解というのが判らないものとか、価値判断の分かれるものとかがあるのだから、それをいくら論争しても、終着地点はないと思うけど。例えば、ミサイル防衛の話とか。


「何をするか判らない、暴力や危害を加えることも厭わない」という凶悪犯人が相手の場合、

①人間なのだから、とりあえず説得し、暴力を回避する。自分が包丁で刺されても、やむを得ない。

②最低限、警察官は武装させる。犯人が死ぬ場合があってもやむを得ない。

この①に賛成する人というのは、いないわけではないと思います。


これと同じように、防衛力についても、たとえミサイルが着弾してもやむを得ない、だって戦後に着弾したことはなかったのだから防衛力はいらない、という人がいたりしても、この否定は難しいですよね。完全ノーガードで、無防備状態に国を置いてみたことがないですし。そもそも試せるようなことでもないんですけど。中身については今はとりあえず措いておいて、この問題の「正しい答え」を考えようと思っても、結局は判らないのですよね。良さそうな方ならば、導き出せるのだろうと思いますけど。論争そのものの意味は、相手の考え方や立場を知ることができる、ということであり、その上で自分の意見を再び考えたり確かめたりできることなんだろうな、と思います。


最近の事例を思い浮かべると、某「Y形―T中論争」後に、華麗に無視というかスルーする人々というのも、何だか大人気ないですね。いつまでもこだわってないで、従来通りの対応に戻ればいいのにね。たったひとつやふたつの意見の齟齬があったからといって、何で他の議論ができなくなるのか不思議だね。他の話題について普通に話せると思うけど。しかも、片方が微妙に「修復シグナル」を送っていても、それすら無視を続ける、というのは、よっぽど「尊厳リソース」を奪われたとか思ってるんかね(笑)。友達と喧嘩して、仮に「オレのフシギダネの方が強いんだよ」「いや、ボクのピカチュウの方が強いんだよ」とか対立したとしても、その後普通に修復されると思うけどね。単に「(オレのフシギダネの方がきっと強いと心の中では思ってるけど)オマエのピカチュウも中々強いかもしんないね」で別にいいじゃん、とは思うね。それに触れたくないんだったら、別な「やっぱ、ザクが一番好き」「いや、ガンタンクだよ~ん」とか、言っとけばいいじゃん。それとも「謝るまでゼッタイ許さないからね」とか、思ってるんかね。イイ年した大人にしては、笑える。まあ、ひとさまのことだから、どうでもいいけど。参考にはなる。「社会的立場」と「尊厳リソース」という部分では。



尊厳リソースと尊厳ポートフォリオ

2006年07月15日 19時23分02秒 | 俺のそれ
『社会的立場のある人がネットで批判されると、うまく対応できないのは、尊厳リソースがその人の社会的立場に多く割り振られているため、尊厳リソースを多く奪われたと感じ、その尊厳リソースを無理矢理ネットで取り戻そうとするためなのだろうと考えてます。』

ARTIFACTハテナ系 - 尊厳ポートフォリオ


kanose氏が取り上げていたので、便乗。ちょっと気になってたのもありますし。本田先生がちょっと怒り風なのも。


私には、よく分らない。
「尊厳リソース」というのは、どういった意味合いなんだろうか、と思った。


コメント欄に書かれてた文脈では、「(ネットで何かの)書き込みをすること」がその人物の「尊厳のリソース」になっている、というようなことであったので、どちらかと言えば「存在意義」「存在価値」に近いようにも思える。これが、ある人の「尊厳」の「みなもと」になっている「もの(こと)」は何か、ということになれば、非常に曖昧な、感覚的なものなのではないかと思えたりする。しかも、自己評価などではなくて、他人が勝手にそう感じたり受け止めたりするものなんじゃないだろうか、とも思う。うーむむ、よく判らなくなってきた。言葉を思考するのは、ニガテだし。哲学とかって、こういうことばかり考えてるんですかね。


「私にとって、組合活動が私の存在意義の一つです」とか言う時には、何となく理解できる。「私」の構成要素(?、活動というか、やってること)がいくつかあって、その内の一つに自己の「リソース」を投入し、その活動が自分にとって最も重要なので、自分の存在価値があると判断できる、というような感じですね。他にも、「子育てこそが、私の存在意義」とか。

「ポートフォリオ」という考え方が出てくるので、自分の活動に、例えば「子育て」「仕事」「ボランティア」「ネットでの書き込み」とかいくつかあって、その内「最も多くの自己のリソースを投入」してたり、「自分の価値判断では最も重視」してたりすることがある、という意味なら判るような気もする。


でも、「誰かの尊厳は、他の誰かの尊厳を奪う(失わせる)ことで成り立つ」というのは、どうなんだろうか。「尊厳」というのは、取り合うものなんだろうか?

「尊厳」の元々の意味は、『とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。「人間の―を守る」』(yahoo辞書・大辞泉)とあって、他人から見た時に受ける感覚というか様子のようなものです。言い換えれば、ある種の「不可侵性」のようなものではないかと思えます。「生命の尊厳」という時に、「生命」自体が何かの行為者であるということでもないように思います。「生命の尊厳」の根源としては、例えば「生命」自体の神秘性・不可逆性・代替不能性というようなものがあるので、「尊厳」というのが感じ取れるのであろうな、ということかと思います。それ故、「決して侵すべからざるもの」という得体の知れない「部分」が、「生命」にはきっとあるのであろうな、と。

人としての「尊厳」は、誰にでもあると思います。これは全員に共通する部分と、必ずしも共通しない個人差のあるような部分がひょっとしたらあるのかもしれません。感じ方の問題であるので、Aさんの尊厳を醸し出す「何か」と、Bさんの「何か」は異なるのかもしれませんね。仮に、神父のCさんの尊厳を犯そうと考える人(とりあえず「Dさん」とします)がいるとしましょう。神父のCさんの「尊厳の源」は何か判りませんが、神に対する態度がその一部であるとDさんが考えた時、DさんはCさんが信仰する神像に向かって唾を吐きかけたとします。すると、Cさんの尊厳が犯される(というか、尊厳の源を汚す?)ということになるのかもしれませんけれども、このことでDさんの「尊厳」が獲得されるということでもないように思えます。この行為を見て、他の人々が「気高く犯しがたい」とは感じないのではないか。


結局、誰かの尊厳は、他の誰かが奪ったり失わせたりできるものではない、ということなんじゃないでしょうか。たとえ他の誰かの尊厳を侵したとしても、その人自体は「尊厳」を獲得したりできないと思います(逆の評価はあると思えますが)。「尊厳」は他人が感じ取るものであって、曖昧で相対的なものであるはずなのに、どういうわけだかある種の「絶対的な判断」という取り扱いを受ける、ということであるように思えます。その「不可侵性」のわけを聞かれても、正確には答えられないのです。でも、その感覚は「絶対的」なのであって、何かと比べるとかで決まる感覚ではないのです。


初めの「尊厳リソース」に話を戻すと、このような表現をたまたまされたものというのは、やっぱり「自己の存在意義・価値」ということのように思えるのですね。他人との関係上から、誰かにとって自己の存在意義を高めるものがあるとしても、他人の中には逆にそれがマイナスの効果を持つものとなり得る、ということなんではないか、と。

適当に思いつく例を書いてみると、

・市民運動(例えば防衛予算削減とか米軍基地排除とか)―地方予算獲得運動(基地やミサイル関連施設誘致)
・利上げ推進派―ゼロ金利維持派
・嫌中派―媚中派

というような。
例がヘン過ぎるとは思いますけれど(ゴメンナサイ)。


自分の中に感じ取るということであるなら、「尊厳」というよりも、やっぱりプライド=「自尊心」「自負心」というようなものではないかな。「社会的立場のある人」は、その社会的立場に「プライド」の源泉が多くある、ということなら、何となく判る。例えば新聞記者の人がいて、自分の「自尊心」を生み出す何かがあって、それには「新聞記者」「キリスト教」「親が社長」「東大卒」・・・とか色々あったとしよう。すると、重要度というか、重視順でいうと、「新聞記者」が第一位の序列に来る、ということなんだろうな、と。


ちょっと退席します。
また後で。



やっぱり解除ですか

2006年07月14日 21時46分43秒 | 社会全般
ゼロ金利は解除されてしまったようです。まあ、そうなんでしょうね。
みんなそれが「当然なんだYO!」という感じだったらしいから。


Yahooニュース - ロイター - ゼロ金利政策解除:識者はこうみる

なんで、エコノミストの人たちの多くは、これほど金利引き上げを望んでいるわけ?引き上げて何の得になるのさ?

とか言ってみてもしょうがないか。


Yahooニュース - ロイター - 福井日銀総裁記者会見の一問一答


「マーケットは既に織り込んでいる」とか言われりゃ、そうなっちゃってるんだそうだから。「地政学的リスク」は、一応触れられたが、国内経済に与えるインパクトは大きくない、という見方なんだろうね。原油高がこのまま上昇トレンドを続けるとなれば、冬に向かってどうすんのYO!とか心配になる訳だけれども、日銀は「だいじょーぶ、マイフレンド」ってことなんですか(古!)。


ところで、一問一答なので「辞任問題は既に決着済みと判断しているのですか?」とか、誰か聞いてみればよかったのに。折角ですし(何が?、笑)。

世界でも「異常な金融政策」という以上に、世界でも稀に見る「異常な中銀総裁」なのではありませんか?って聞いてやれよ。中銀総裁が「個人的利殖行為疑惑」というスキャンダルにまみれた事例は殆どないじゃないですか。これこそ、まさに異常。「日本の恥」っていうのは、こういう時に使ってくれ、とは思いますね。


ゼロ金利を解除されたからっていう訳じゃないですけど。
ついつい非難してしまいます。



PAC3を嘉手納に配備?

2006年07月13日 21時50分09秒 | 防衛問題
これって、沖縄に急いで持ってきたって意味ないでしょ。それは、単に沖縄の米軍基地を守る為だけに配備されるんでしょ?

Yahooニュース - 共同通信 - PAC3嘉手納に配備へ 日米方針、発射台は24基

(記事より一部抜粋)

日米両政府は13日までに、米軍の最新鋭の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)を年内に米軍嘉手納基地(沖縄県)と嘉手納弾薬庫地区(同)に配備する方針を固めた。発射台は24基を予定。これに伴い約600人の米兵が新たに沖縄県内に駐留する方向だ。PAC3の在日米軍基地への配備は初めて。


これさー、たとえ配備しても、日本の本土は全く防衛できないでしょ。そこに急ぐ意味が判らんね。まさかノドンで沖縄を狙ってくると?(笑)
ほとんど有り得ない。大体そこら辺に落とせるかどうかわからんよ?それよりも本土の陸地を狙ったら、どこかに多少ずれても被害を与えられる可能性が出てくる。でも沖縄を狙っても、ちょっとズレたら海に落ちるもんね。遠いしね。

何で首都を守らんの?
先に、首都圏を守るんでないの?
沖縄に届くミサイルなら、東京に届いちゃうよ?


どっちにしても、PAC3では大した防衛力はないと思うけど、お守りみたいなもんだね。効果は不明だけど、持ってると安心できる、ってことで。


あ、東京新聞の記事が割りと詳しかった。

「嘉手納」抱える沖縄市議会

「北」ミサイルの脅威



福井総裁は死んだフリ?

2006年07月13日 20時17分00秒 | 社会全般
各種報道によれば、いよいよゼロ金利解除が目前に迫っているらしい。量的緩和解除の時も反対したけど、無効だったから、反対してみたところで変わりなしだろうね。


テポドンに心底感謝しているのは、多分福井総裁だろう。ヤメレの大合唱だったのが、急に「ミサイル騒動」でメディアの前から消えて逝ったからね(笑)。心の中では「北朝鮮よ、アリガトウ」と思っているだろう。今はひたすら息を潜めて、「死んだフリ」をしておいて、ホトボリが冷めるのを待っているんですよね。でもね、今朝の読売新聞には、「福井総裁は辞めるべき」という世論が「圧倒的」に多かったようですよ。これほど国民に信頼されない日銀総裁、ってどうよ?とは思いますね。


まあ、中央銀行総裁というのは、国民の支持なんてこれっぽっちもいらねえんだ、「オレが正しいのだから、オレがルールだ、全てオレに聞け」流なんでしょうけどね。金融政策は専門家に任せとけ、ってことで、今までどれ程の結果を残してきたのかは疑問だけど。これを国民は黙って従わねばならんのですよ。


私には、もう訳が分らん。日銀の考えてることも、総裁の絶対に辞めようとしない理由も、理解できない。日本のシステムとは、やはりこういうものなのかもしれん。他の幹部とか、何とも思わんのかね。


こんな状況で、解除されちまうんでしょうか。まあ、「専門家」が決めるのだから、正しいんだそうですよ。そういうもんなんですと。



ミサイル防衛のこと

2006年07月12日 14時45分46秒 | 防衛問題
北朝鮮が実際にミサイル発射を実行した後で、いくつかの非難というものを目にしました。主なものは、次のようなものです。

①ミサイル発射の情報が国民に伝わっておらず、国民を守れるのか
②発射から官邸への情報伝達が遅かったのではないか、政府の対応が遅いのではないか
③都道府県などに連絡が来たのは数時間後であり、地方ではどう対応してよいか困った
④政府発表は信じられないので、正確な情報を国民に示して欲しい


まず、昨年3月頃を思い起こして欲しいと思いますが、米軍との衛星情報の共有化という問題や、迎撃ミサイル発射権限の問題ということがありました。うろ覚えですけど、当時の一部メディアには、大雑把に言えば「米軍との一体化が進められ、(軍事大国への)危険性がある」とか、「制服組(要は現場の判断)に迎撃ミサイル発射の権限を許すのは問題で、シビリアンコントロールから外れてる」みたいな意見が出されていたと思うのですが、今の時点でこうした主張を繰り返さないのはどうしたことでしょうか?(笑)

参考:
日米安保とミサイル防衛

防衛情報とインテリジェンス


衛星情報が共有されたりしていなければ、発射から探知までの時間がかかることが想定されるので、米軍からの情報提供をただ待つことになります。自衛隊の一部レーダーでは発射後に探知可能であったと思いますが、事前の発射準備などの分析は必ずしも可能ではないでしょう。日本にも衛星情報があることの方が、明らかに有利なのです。これをダメだ、反対だ、とか言ってた人は、「米軍の衛星情報なんか必要ない、ミサイル発射は事後的に知ればよい」とかを断固主張して欲しいです。

ミサイルが発射されて、これを探知した後で、閣僚とか国会議員たちに緊急連絡を回して、寝惚けてるところを叩き起こし官邸に集合して、対応を話し合ったりしてから、「撃ち落す迎撃用ミサイルの発射許可」を決定し、その後自衛隊に迎撃せよ、とか命令していたんでは間に合わんのですよ。どっちにしたって、迎撃する以外にないんですから。発射許可を文民に求めるべきである、とかを主張していたのであれば、「ミサイル迎撃は間に合わなくても仕方ない、たとえ着弾したとしても文民の許可を求めろ」と、今も大声で主張するべきですね。


現実問題として、今回のように未明のミサイル発射があった場合、緊急のテレビ・ラジオ報道などで情報伝達は困難なのですし、仮に見ている人がいても凄く少ないハズです。「今から逃げれ、地下に隠れろ」とか言われても、無理っぽいですね。北朝鮮からのミサイルが飛来したら、せいぜい10分以内に着弾するだろうから、その時間で行動できることなどは非常に限られていますよね。自分の家に地下シェルターでも設置してあるなら別ですが。なので、発射されてしまえば、取り得る対応など限定的になってしまいますよ。

都道府県にそれを知らせても同じですよね。都道府県内で連絡を受けて、僅か数分の間に緊急避難情報を全部署に通知している作業をやっている間に、着弾してしまうでしょう。最大でも5分以内に連絡を全て完了し、自分もその場を退避することができるように全職員が訓練されているならば、何かはできるかもしれませんけど。知事に連絡なんてやってたり、寝てるところを起こしにいって、指示を聞いて・・・なんてやってたら、それだけでタイムオーバーですよね(笑)。知事からの答えを聞く前に、着弾してしまうでしょうね。

◎本当に実弾を発射されたら、対応時間は極めて短く、対処は限定的である。確実にできることを、決められた手順で行う以外にない。事前の周知徹底や準備が全てである。


政府対応が遅かった、というような批判もチラッとあったりしますが、これも、北朝鮮のミサイルが発射実験である、という相当程度信頼性のある情報・分析が行われていたハズで、それ故、実験なのだから「慌ててもしょうがない」という部分はあったのではないかと思いますね。もしも核弾頭かどうかが不明のまま発射されたのであれば、これは最大級の危機であったと言えるでしょう。そんなにのんびりとは構えていられないでしょう。大体、2ヶ月も前から発射準備の情報を掴んでいて、核ミサイル発射をただ見ているわけがないと思っています。

今、目の前に出刃包丁の刃を研いでいる強盗犯がいて、「強盗に入ってやるぞ」と言っているのに、これを2ヶ月前から続けているのを黙って見ている人はいないのではないかと思います(笑)。これが単なる演技に過ぎず、「映画の撮影シーンの練習だよ」とかが判っていれば、特別慌てたり強盗犯を恐れたりはしないでしょう。政府の判断では、発射実験であるということが確定的であろうと判っていたので、発射後の対応策について準備をしていたのだろうと思います。「本気かもしれない」となれば、戦時下と同じですよ。

ミサイル発射は実験であるということが、事前の情報分析から判明していたので、発射事実そのものについて慌てる必要がなかったのではないかと思います。


発射実験であったため、都道府県への伝達もやや遅れて行われたのであろうと思います。それは緊急に対応する必要性がなかったから、であると思います。今回の一件を、本番同様の訓練として行う積もりでやった方が、様々な不備が明らかにできて良かったのではないか、という見方はできると思います。もしも政府側の準備に余裕があったのなら、各都道府県での対応時間などを抜き打ち的に計測したり、行動計画の何%くらい達成できたか、等、問題点の指摘に使えたのではないかと思ったりもします。地方側も「もっと早く教えてくれ」とか言ってますので。

でも、仮に発射情報が直ぐに伝達されて聞いたところで、地方がどの程度やれたか、というのは甚だ疑問。何故なら多くの地域住民は、元々そのような訓練も指示も受けてないと推測されるから(一部では訓練が実施されてると思いますが、行政職員の訓練が殆どではないかと思います)。しかも、今回の発射では「日本には着弾しない」と判断されれば、一応知らせたとしても、特に避難させたり、発電所を緊急停止させたりする必要性がないですよね。発射実験に対しても、毎回原発を止めてたりする積もりなのでしょうか?「1分前にミサイルが発射されました。次弾以降に備え、警戒せよ。ターゲット、着弾地点は不明」とか、都道府県に情報を出したとして、これを聞かされた市町村職員は、どの程度のことができるでしょうか?その後、住民たちは何ができるでしょうか?



必ずしも多いわけではない意見ですけれども、政府の(発表)情報は信頼できない、というようなものがありました。日本のミサイル防衛能力がどの程度であるか、発射に関する情報はどの程度得ているか、そういう情報を知りたい、ということのようです。しかし、舞台裏の全てを明かす訳にはいかない、と思うのです。防衛情報の全てを国民が知ることになれば、外国にも全部筒抜けになってしまいます。特に探知・防衛能力に関しては、情報の全てを公開するべきものとも思えないですね。

そもそもミサイル防衛力を心配するなら、発射される前に心配しておいて欲しいものです。2ヶ月くらい前から、「兆候がある」と報道されているのですから。もし防衛能力の情報を知っていても、着弾の被害が減らせる訳でもないかも。自分でシェルターを買って設置するのでしょうか。現実的には日米の防衛力に頼る以外になく、信頼できるとかできないとかに関係なく、着弾する時は着弾してしまうでしょう。どうしても信頼できない、という人は、発射兆候が事前に報道されていたのですから、日本から逃げるとかできたはずではないかと思います。



テポドンを追尾せよ!(6)

2006年07月11日 22時05分39秒 | 俺のそれ
最終章 カウントダウン


・日本―6月28日

「めぐみさん」の夫と目されていたキム・ヨンナムが、韓国の家族と再会したと報道された。北朝鮮と韓国の外交筋は、翌日の日米首脳会談の前日に、この「再会劇」を敢えてぶつけた。北朝鮮問題への首脳会談の反応を確かめる為だった。「拉致問題の前進」として評価されるか、北朝鮮への懸念表明や対応に何らかの変化をもたらすのか、そういう部分を見る為であった。

日本のマスコミに対して、キム・ヨンナムの家族たちは緘口令を敷かれた。
家族から情報が色々と与えられて、矛盾や食い違いなどを嗅ぎつけられなくするための予防策であった。これまでも、拉致問題に関する北朝鮮側の情報には、矛盾点が多くあったからだった。その為、韓国の家族たちは、面会数日前から日本のマスコミとの接触は禁止されていた。

この結果次第で、外交上の戦術が決まる、と言ってもよかった。「よかった、よかった」という反応―特に韓国での―が得られて、北朝鮮が「誠実に対応したんだ」という印象を与えること、「日本は拉致、拉致って騒ぐな」的な反応を引き出すこと、これらが狙いなのであった。韓国が日本に対して、「めぐみさんは亡くなったんだ」という事実を突き付ける形になることが最も望ましいのだった。


この時点で、衛星画像の分析ではミサイルの発射可能段階には至っていない状況であり、もう少し時間が必要であろう、という報道が産経新聞のwebサイトに出されていた。

韓国も中国も当然のことながら、北朝鮮のミサイルの準備状況は知っていた。


・米国―6月29日

この日、日米首脳会談が行われた。北朝鮮はこの様子をじっと観察していたのだった。

日米共同文書が出されたが、その中には当然北朝鮮に関する問題―拉致・人道問題+非核化+中国の責任(を求める)―が含まれていた。この内容は、北朝鮮に対して明確なメッセージとなった。すなわち、キム・ヨンナム投入を決断したにも関わらず、「拉致問題」では「有効ポイント」とは評価されなかった、ということを意味していた。総理大臣の上機嫌な歌や踊りの陰で、北朝鮮の外交一派には失望感が急速に広がっていった・・・・

米国政府にも、対応変化の兆しは、まるで見られなかった。
既に米国政府を動かせるチャンネルは、北朝鮮側には残されていなかった。


・北朝鮮―7月1日

キム・ヨンナムを登場させ、感動の対面を果たしたはずだった。

訓練通りに証言をさせていったにも関わらず、「証言の矛盾」が再び問題視された。年老いた母と姉といった、難しいことを考えられない老女程度を言いくるめるには十分効果があったのだが、全ての人々に信じ込ませるには限界があり、やはり「作り話」が露わになってしまったのだった。

韓国政府は拉致問題では日本に肩入れせずに、何とか北朝鮮の拉致解決ムードを支援しようと試みていた。ところが、韓国国民の中に、韓国政府に懐疑的な意見が目立ち始めていたのだった。漂流証言に対して、早速矛盾点が指摘された。日本国内での反論というのは、数々の想定問答で予め練習していた。しかし、想定外の反論というのがあるもので、韓国国内から出てきた「漂流は有り得ない」というのがまさにそれだった。完全犯罪を目指してウソの証言を考えておいても、綻びがどこかにあったりするものなのだろう。


外交一派は敗北が決定的となった。既に挽回のチャンスは失われていた。切り札と思われた「拉致カード」、キム・ヨンナムの投入は完全な失敗に終わった。日米首脳会談の感触でも、それは明らかであった。遂に、日米からの譲歩を引き出せる道は途絶えた。軍部内の強硬論をはね返すだけの力は、外交部には残されていなかった・・・・

それでも一部に諦めきれない人々がいたのだった。この前の若手幹部らだ。外交努力をギリギリまで続けるべきだと主張して、今持ってる全てのルートに働きかけを行うことに全力を傾けるのであった。たとえ無駄かもしれないと知りつつも、外交担当の立場としては、それしか方法がなかったからであった。


・ロシア―7月3日

ロシアは、北朝鮮のミサイル発射実験の情報は当然掴んでいた。ただ現時点では、北朝鮮は発射を踏み止まるだろう、という評価をしていたことは判断の誤りであった。恐らく燃料注入はしないだろう、というのがロシア側の大方の見方だった。それ故、サミットの議長総括に「北朝鮮のミサイル問題」というのを入れる、という算段をしていた。これは、ロシアの庇い立ても限界に達している、というメッセージとなった。北朝鮮を失望させるには、十分であった。


・北朝鮮―7月4日

中国は北朝鮮の外交部の努力に応えたらしく、6カ国協議の非公式会合を予定し、その開催に向けて関係各国に働きかけを行うつもりである、との情報を流した。これに同調した韓国も同じく、非公式会合の開催努力をしている、と発表し、担当者が渡米するなどというアクションを見せたのだった。

韓国の拉致被害者団体は、「キム・ヨンナム証言は信用できない、拉致は明らかである」とする発表を行い、北朝鮮の「拉致カード」戦術にトドメを刺した。韓国国内の風向きを変えることはできなかった。韓国政府は国内世論を気にして、拉致問題で北朝鮮寄りの立場に立てなくなってしまったのだった。

キム・ヨンナム証言のウソを騒ぎ立てる日本のメディアに対しては、面会前には家族への接触禁止という厳しく対応であったのに、今度はピョンヤン入りまでさせることを確約し、どうにか解決ムードを盛り上げようと試みていた。



中国、韓国、ロシアは、この時点で北朝鮮がミサイル発射に踏み切るとは考えていなかった。特に、「裏切られた」形となったのは、中国と韓国であった。北朝鮮外交部筋の必死のお願いに応えて、ギリギリまでアピールを続けていたのに、発射されることになったからであった。



軍部は既に発射態勢を整えていた。
ただ、液体燃料の量が十分ではなく、備蓄量があまり多くはなかったのだった。金回りが非常に悪かったので、燃料に回せる金にも限りがあった。従って、全ての発射予定ミサイル―ノドンやテポドン―に、燃料を満タンに注入していなかった。その不足を補う意味で、固定燃料の「スカッド改良型」を発射する、ということが選択された。同時に、どれが新型ミサイルなのか、ということを判別し難くするという目的も兼ねていた。


外交部の連中は、もう軍部に反論できる術がなかった。


・日本―7月5日3時過ぎ

かれこれ2ヶ月に渡る北朝鮮と日米の我慢比べは、北朝鮮が先に焦れて行動を起こすこととなった。いうなれば、「チキンレース」に負けたということだ。

米軍は、北朝鮮がこの日に発射するかどうか、正確に分っていた訳ではなかった。しかし、発射された場合の対策は立ててあり、天候などに左右されるものの、この数日前から「ヤマ場」であるという情報は掴んでいたのだった。北朝鮮外交部の頑張りが、思いのほか発射を長引かせた、ということでもあった。


明け方に発射するというのは、マシな選択であった。監視している方の注意力が落ちているであろう時間帯であり、意表を衝くということでは意味があった。米軍の衛星に探知されたミサイルは、非常に短い飛翔時間で日本海に落下していった。ケチった燃料が燃焼される時間は、限られていたのであった。同時に、北朝鮮の追跡レーダーの範囲は非常に狭い為に、それ以上の距離になると単なる「ロスト」になってしまうのであった。


自衛隊のレーダー網は、北朝鮮のミサイル発射を探知していた。また、日本海に配備されていたイージス艦のレーダーでも、確実にミサイルの軌跡を捉えていた。

恐らくアラームが鳴って、ハッとしたことだろう。
画面をジッと見つめた担当官は、興奮した声で叫んだに違いない。

「ミサイル発射を探知!今、北朝鮮から発射。ミサイルを追尾中!・・・・・」



テポドンを追尾せよ!(5)

2006年07月10日 18時01分22秒 | 俺のそれ
・日本―5月下旬

意図的な情報リークによって、北朝鮮の「ミサイル発射準備の兆候」に関する報道が出された(「発射の兆候」ではなく、「発射準備の兆候」なのであって、内部情報のリークがない限り、メディアが知ることはできないはずだった)。情報が漏れてしまった後だった為に、外相は国会質問に対して「発射準備の懸念については、かなり前から承知している」との答弁をすることになった。これを受けて、日米両政府は「ミサイルに重大な懸念」を表明せざるを得なくなり、「発射を自制するように」という公式発表を繰り返さねばならなくなった。

ここで北朝鮮が発射を断念した場合には、日米双方にとっての折角の「チャンス」を、活かすことができなくなるかもしれなかった。MDの必要性も、軍事的連携強化の方向性も、日本国民に説くことができなくなってしまうからだった。下手な情報リークが、逆効果をもたらすことになる可能性が出てきてしまったのだった。


・北朝鮮―5月下旬

軍部は予定通り、タイムリミットの月末までに発射準備を進めていた。しかし、日本やアメリカでの発射計画漏洩報道によって、発射時期がどうなるのか不透明となっていた。

この前の「アメリカの攻撃可能性」については、中国からもたらされた情報では「やはり本気だった」ということが確認された。すなわち、実験発射という意思表示が必要になり、それがない場合には攻撃を受ける危険性はあるのだった。

これらの状況変化によって、軍部が強硬に主張していたミサイル発射については、二の足を踏ませることとなった。
タイムリミットを数日後に控え、最高指導者を前にした幹部たちの会議では、予定通り発射を実行するかどうかが検討された。

軍部のパク中将を中心とする発射推進派の主張は、次のようなものであった。
発射計画が発覚するのは時間の問題であって、それも計算の一部に過ぎない。偵察衛星の監視下では、必ず発見されるのであり、意図的に発見させているのである。日米の嫌がらせに屈して発射を取り止めたとなれば、我々が敗北したように見られるのは確実である。彼らの狙いはそこにある。公表されれば「発射できまい」という、彼らの挑発なのである。我々が先に譲歩するだろう、と甘く見ている証拠である。ここで発射を断念する訳にはいかない。挑発を弾き返す、真の勇気を示さねばならない。

これに対して、外交重視派は次のように主張した。
ミサイルは刀と同じであり、発射すれば「抜き身の刀」と同じことになる。即ち、「竹光」程度であれば、それが敵に悟られる危険性もある。鋭く長い刃を見せて、敵を震撼させられればよいが、逆に敵に情報をいくつか与える結果となってしまうかもしれない。刀を鞘から抜かなければ、どれほどの刀なのか敵にも見えない為に、恐怖の対象となり得る。一度抜刀してしまうと、太刀筋や切っ先を見切られれば、「恐るに足らぬ」と逆効果となる可能性がある。外交手段では、まだ「拉致カード」が使える。韓国はこれに協力するということで、「めぐみの夫」を使えた。「めぐみの夫」は朝鮮人だから大丈夫だ。訓練も十分積んでいる。


意見はミサイル発射に対して賛成と反対に分かれており、最高指導者がどちらの選択をするかであった。
当初予定では、5月末までに進展がなければ6月に発射、ということを考えていた。しかし、発射計画を公表されたこともあり、また「拉致カード」の効果をもう少し見極めたい、という部分もあった。今の状態で、ミサイル発射に踏み切る自信が持てなかった。そのため、24時間以内に発射可能な状態になるように準備は進めていくが、発射時期については「留保」ということになったのだった。


今後は、日米と北朝鮮の「我慢比べ大会」ということになる、ということを意味していた。その間、中国や韓国ルートでの工作が奏功するかどうか、ということも、発射を左右する要因となったのであった。


・米国―6月初旬

北朝鮮は米国の偵察衛星を明らかに意識していた。衛星からはっきりと見えやすい基地で怪しげな動きを度々繰り返し、米国の反応を窺っていた。しかし、米国側は北朝鮮の「引っぱり込み戦術」には一切相手をせず、放置していた。米国側から「折れる」という選択肢は既にない、ということが明らかであった。敢えて発射させる段階まで北朝鮮を追い込む、という当初の方針からは当然なのであった。北朝鮮の挑んだ「チキンレース」は、米国にとっては願ってもないことだった。

米朝関係は、完全な膠着状態に陥った。まさに、米国は「撃てるもんなら撃ってみろ」という態度であり、北朝鮮は「撃つぞ、本当に撃つぞ」と言ってるのと同じであった。アン工作員のレポートにあった通り、北朝鮮は金の還流をかなり絞られていたので困り果てていた。中国経由の働きかけにも直ぐには応じず、逆に北朝鮮をテーブルに引っ張り出してくるように中国に求めたのだった。


・日本―6月

ミサイル発射の可能性などの報道は続いていたが、国内の反応は落ち着いていた。日本にミサイルが飛んでくる、などとパニックになったり、世紀末思想?のように日本が滅びる、などというデマもなかった。意外にも、国民の大多数は冷静に事態を静観しているようだった。

既に韓国や中国においても、北朝鮮のミサイル発射はあくまで実験発射に過ぎない、ということがほぼ確定的な情報として理解されていた。つまり、たとえミサイル発射が行われたとしても、軍事的な対応を必要とされる事態にはならない、ということであった。このような環境でなければ、北朝鮮といえどもミサイル発射に踏み切るには障害が多すぎると言えただろう。


ミサイル懸念の一方で、「拉致カード」の工作は進行していた。

韓国は北朝鮮に協力的であり、ある程度のシナリオ通りに事を運んでいた。「拉致問題を解決した」という印象を与える既成事実を作り出すことが、北朝鮮には必要だったのだ。5月末には横田夫妻とキム・ヨンナムの家族を韓国で再会させていたので、あとは本人登場のタイミングを計っていたのだった。もしも本人と家族を再会させることで韓国(家族)側の納得が得られ、夫の証言を元に「めぐみさん」問題は終わった、ということを決定的にすることができれば、拉致問題が解決したも同然なのであり、それ以上の有力な手掛かりは日本には残されていないはずだった。


・北朝鮮―6月中旬

この時期に来ても、北朝鮮側にはまだ発射に対する迷いがあり、計画の延期を重ねていたにも関わらず、決定的な発射のタイミングを決められないでいたのだった。


「拉致カード」で有効ポイントを稼ぐことができれば、発射を更に猶予できる可能性も残されていた。外交重視派たちは、キム・ヨンナム登場に賭けていた。ここでしくじれば発射する以外にないだろう、軍部の意見を通さざるを得ないだろう、と彼らは考えていたのだった。

少しずつキム・ヨンナムの情報を出していき、韓国の家族との再会の日取りが決まった。


この結果が、外交一派の敗北を決定的にした。
それは、同時にミサイル発射へのカウントダウンとなっていったのだった。