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GRIPSの博士論文の成果はコレ

2007年06月07日 11時52分19秒 | 教育問題
政策研究大学院大学 - GRIPS

H15年 1件
H16年 0件
H17年 4件
H18年 3件
H19年 4件

大変立派な大学院教育です。さすがですね、GRIPS。
政策研究『大学院大学』が全精力を投入した結果が、この数字ですか。
これまで合わせて「12件」ですか。
博士一人当たりの年平均税金投入額を教えてもらえれば有り難いですな。GRIPSにおいては経済学関連の大変優秀な教授・助教授は多数揃っておられますから、どこが生産性向上に繋がっているのか、即座に回答できることでありましょう。
ですよね?>GRIPS教授・助教授どの

参考記事:

「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?

続・「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?


GRIPSのような大学にこそ、「競争するように仕向ける政策」が必要なのではないですか?(笑)
『大学院大学』と銘打っていながら、こんなに論文数が少ない正当な理由というのが一体何なのか全く判りませんね。何なら、経済学的に「GRIPSのような大学院大学が生き延びられる理由」というのを是非ともご教授願いたいです。

ひょっとして税金のおかげでしょうか?
一段階思考しか持たない素人のトンデモ理論で申し訳ないですが、直ぐに思いつくので。違うというなら、それはそれでいいので、正当な理由というのを出してもらえればと。


実際に全国の大学で比較してみてはいかがでしょうか。何かの指標、そうだな、例えば「教官人数/博士論文数」といった数字を出して、全部の大学院大学と比較してみて下さいな。こんなの簡単だよね?論文1本に対して教官数が多い大学というのは、少ない大学に比べて無駄な頭数が多いと考えられるのでは?理系と違うとか、そういったご意見が出るかもしれないから、同じ分野での比較でもいいですよ。政治・経済・法学・教育・社会等の所謂文系的分野で比べてみたらいかがか。

まあ、何でもいいけどGRIPSは何の成果があったのか早く教えてもらいたいね。
例の比較地方自治研究センターの成果とか。何でいつまで経っても公表せんの?毎年研究くらいやっているんだろうし、何かペーパーらしきものがあるなら出せばいいのに。これじゃ全然「アップ・ツー・デート」じゃないワナ(笑)。

公表できるロクな成果もないにも関わらず、偉そうな肩書きとか能書き垂れるのだけは一丁前ってのが一番…以下自粛



日ハムが13連勝

2007年06月06日 22時02分26秒 | いいことないかな
もう笑いが止まりません。
ありがとう、セ・リーグ!
実際、セ・リーグってのは弱いのかもしれんね。

パ・リーグだけではハムの天敵、ソフトバンクとかに叩かれまくっていて借金生活に沈んでいたわけですが、「大貯金大会」となっているのがセ・リーグのカモ球団です。有難う、本当に有難う。

だって、他のパの球団も貯金しまくってるし。
セ・リーグで唯一勝ち越しているのが巨人だけ。
ハムが11-0、ロッテは9-2、あの楽天が7-4ですからね。
一時は打率以下の勝率だったオリックスでさえ8-3(1分け)なんだよね。
下位球団に軒並み貯金献上のセ・リーグです。
ところで、山崎の22号って…(爆)

一方、パの上位であった西武とソフトバンクは苦しんでいますな。
特に西武は酷いな。

こうして見ると、セ・リーグは本当に弱いのかもしれないが…どうなんでしょうか。

ひょっとすると、セ・リーグはテレビ映像が必ずあるので、スコアラー部隊がビデオ見まくって研究されるのかもしれんな。でも、パ・リーグの下位球団ってあんまり映像がないから、情報が少ないのかもね。西部やソフトバンクは映像があるので、割と研究されるとか?でも、そういう要因だけではなさそうだが。



「チョコレートは…」

2007年06月06日 20時47分20秒 | 俺のそれ
妻から聞いた爆笑話。
実話ですから!

今から20年以上前のこと、(妻の友人の)ある女性がバイトの面接に行った。ロッテ系列の会社だったそうだ。
で、その面接の場でのお話。



面接官と通り一遍のやり取りがあって、最後にさしかかった時に面接官が言った。

面接官「では、当社の製品で何か知っているものとか、気に入っているものがあれば、教えて下さい。」

女性「ハイ、結構色々なお菓子とか好きで…」

面接官「具体的に何かありますか?」

女性「えーと、、ああそうだ、歌えます」
   「チョっコレぇート~、チョっコレぇート~、チョコレートは…ろおって~」

・・・・・・


爆笑した。
例のCMの歌を歌ったのも面白いが、途中まで歌っていて気付かなかったんだそうだ。

この歌は元々「チョコレートは…めいじ~」という歌なのだが、それってロッテじゃなく他社製品じゃないか、ってオチなんだよね。最後の最後で気付いたそうだが、ついでに歌ってしまえということで、強引に「ろおって~」と歌詞を変えたんだそうだ。勿論、異常に低い音階に下がっていったそうな。

で、面接の結果はというと、採用となったそうです(笑)。
面接した方がきっと優秀な人だったんですね。

でも、昔って、今から見れば「ありえねー」ってことが多々あったかもしれませんね。



司法の品質管理を問う~3の壱

2007年06月06日 19時49分51秒 | 法関係
元検弁護士のつぶやき 司法の不確実性について考えるcommentscommentsの方で、まだちょっと継続中ですので、記事にもあげておきます。
以下の内容をコメントに記載してみました。

>YUNYUN先生

お答えが遅れました。時間が取れてなかったもので。質問の意図が伝わりにくくて申し訳ありません。一応、No.12のコメントには質問を記事に書いた旨記載しましたが、お気づきになって頂けなかったようなので、具体的に簡単な2点だけに絞ります。もしもお時間等がある時にでもお答え頂ければ幸いです。

①保健師助産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明
②医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある
=裁判官の判断が収斂していると言えるか
以上2点です。

補足を書いておきます。例として、「Xがレストランで食事中、所持していた携帯電話の充電器を店舗のコンセントに無断でつなぎ、自分の所有する携帯電話の充電を行った。この時に刑法上の責任は問われるか」ということを考えるものとします。私が弁護士の方にこんな説明をするのは恐縮なのですが、一応何を求めているのか分り易いのではないかと思いますので。
刑法上では、第245条規定の「この章の罪については、電気は、財物とみなす。」とのことですので、電気と言えども窃盗が成立しうると考えられ、同235条の「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」との規定より、Xの行った行為(無断で携帯電話の充電を行ったこと)については、窃盗罪が成立しているものと考えられるでありましょう(ですよね?素人判断で申し訳ありませんが)。これと同じく、「看護師に内診行為を行わせる」という指示を行った医師においては、刑事罰を受けるべき理由というものがありましょう。それをお尋ねしているのです。携帯電話の充電事件を起訴するか否かというのは、検察官の裁量ということであっても(起訴されないことの方が多いように思います)、多くの人々に理解されうるものです。起訴便宜主義について答えて欲しいわけではございません。このような携帯電話の充電事件は、事件が同一ではなくとも類似事件においては「同じような解釈が成立」しており、毎回解釈が異なることは殆どないように思えます。これと同様な説明が、「内診行為」事件についても可能なはずです、ということを申し上げております。

携帯電話の充電が刑事上の責任を問われることがあるとしても、特別に刑法とか法学的な理論などを知りえない一般人において、ごく普通の倫理・常識に従って行動するのであれば、殆どの場合に刑事罰を受けることは回避できます、ということを言っているのです。ある医療行為について刑事罰を受けるということになれば、医療従事者が殆どの場合に回避できるとも言えず、「内診行為」のように甚大な影響力を持つことはあるのです。

②については、具体的なものと思ったのですが、判決文が探せていませんので、報道からしか判りません。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/17473f2d8408b80ba975d7ccdc29a3c9
高裁逆転判決ということですので、判断は異なることがある、ということは言えましょう。この1例をもって「判断が収斂していない」とは言えないのは当然ですが、具体的な反例ではあります。医療に関する裁判の話をしておりますので、他の刑事事件などにおいて「量刑・判断が一致している」ということをお示し頂いても、論点としては適切ではないでしょう(何度もコメントに書いておりますが、一応刑事事件においても、「古紙持ち去り」に関する事件では有罪と無罪がバラバラですので、刑事事件においても解釈・判断は一致するとも言えないでありましょう)。医療関連の裁判でどの程度の逆転判決例があるのか知らないのですが、9割以上は同一判断であるといった統計的数字などがあるのであれば、それはそれで意味のあるものでしょう。私の「印象として、判断にはバラツキがある」という意見を聞いてみたところで、何らの効果もないことは明らかでありましょう。「裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」ということの主張側はYUNYUN先生ですので、説明は先生がなさるものなのではないでしょうか。私に「信用しがたいという根拠は如何」ということを求め、それを私が立証するべきものではないと思います。参考までに、No.12の記事に示した記事中には、判決が疑問であるという例を挙げております。

>裁判の判断の善し悪しは、学者・実務家の批判に晒されます。
>裁判官は研究会を行ったり、判例評釈を読んで自ら勉強したりして、次の裁判のために役立てるということはしています。
>それは検察官も弁護士も同じです。
>医師が症例研究会をするのと、同じことと思います。

これについては、ご苦労さまです有り難いことです、と本心で思いますけれども、厳しい言い方をしますと当たり前であるようにも思えます。自ら勉強というのは、業務を遂行するに当たり必要不可欠なことであって、それを殊更「自ら研鑽・努力しているのだから」これを評価して欲しい、などということは、裁判の結果・水準には関係のないことです。医療裁判において、相当の研鑽を積んできた医師たちといえども「結果に問題があった、過失であった」ということになるわけですから(どれほど努力をしてきたか、というのは過失の有無にはほぼ無関係)、裁判官や検察官においても「正当な結果」というものが求められて当然でありましょう。学者・実務家の批判に晒されるとして、刑事責任を負わされたりする訳ではないですし、損害賠償請求を個人的に求められたりはしません。医師の症例検討(内部的にも、学会等の外部的にも)で厳しい批判を受けたり相互に研鑽することは、「裁判で裁かれること」と全く違うものであります。法曹の方々が過誤があった時や結果が悪い場合に、「裁判で裁かれる」ということはありますでしょうか?学者や実務家の批判に晒された結果、裁判官を首になった方というのが現実に存在しているのでしょうか?国家権力に裏打ちされた強い外力は、裁判官や検察官には働くことなどないでありましょう。そもそも司法と医療とを同列に語る必要性などは感じておりません。司法は司法です。そうであるが故に、「批判に晒される」などという形だけの話ではなく、システムとして構築するべきです、と申し上げているのです。



今度はGRIPSかよ~貸金業の話

2007年06月05日 17時53分59秒 | 経済関連
コメント欄で情報を教えて頂きました。

特集記事

目新しい論点というのはないですが、特に目を引いたのは例のGRIPS(政策研究大学院大学)の鶴田大輔助教授(助教授の名称は変わっていないのかな?)のご意見。本職の方ですので、まあ、私のようなド素人よりは「学問的に正しいご意見」というのが出されるであろうことは期待できますね。読んでてナルホドな、とは思いますが、感想を一言で言えば「初等的経済学ウマー」みたいな感じ(笑)。悪い意味ではなく。こういう立派で優秀な人がどうして政策立案しないのか、不思議ですね(こういう皮肉を書いても読んだ字面通り受取る人がいるので、一応注釈ということで。笑)。
ですよね?>金融庁どの


端的に言えば鶴田大先生は貸金に関する規制は全廃せよ、ということを言っておられるわけですが、大先生のご意見通りならばリフォーム詐欺みたいなものも十分成立する事業ということでしょうね。通常であれば10万円で水道工事ができるところを、100万円とか300万円でも「経済学的には正しい」ということですな(爆)。「買う人がいるのだから、問題ない」と。大変有り難いご意見です。キュウリの価格が決められないように、他の価格―もちろん金利も―が決められないのだ、と。そりゃそうだわな。

あり得ない想定ですけれども、貸倒率が高くなっても貸せる金利を高くすれば採算を取ることは可能なので、デフォルト率が50%であっても年率120%の金利であれば、成り立つわけです。経済学の理論世界というのは、マーケットが有限ではないでしょうから、永続可能なんですよね。しかし、現実のマーケットというのは、デフォルト率が50%のままであると顧客の新規参入がない限り翌年にはマーケットは消滅するでしょう。これまでの貸金市場というのは、まさしくそういう消滅過程に入っていたかもしれないのだ。目先の利益に飛びついてしまえばマーケットの消滅危機があるにも関わらず、貸し手が審査を厳格化してデフォルト率をより低減させるという調節メカニズムがうまく機能しなくなってしまったということだ。しかも超過利潤があるのであれば、ヤミ金の新規参入が相次いだことは正しいし、そういう「悪い貸し手」がマーケットメカニズムを狂わせたと考えられなくもない。

適正価格が政治家や官僚には決められないにせよ、市場規律を取り戻す為の措置を取ることで一定の成果が期待できるのであれば、規制することは意味があると思う。長期的にはマーケット全体にプラスに作用する可能性はある。毎年新規参入者を上回る貸倒が発生していけば、いずれマーケットは消滅するだろう。
大したことではありませんが、鶴田大先生の想定している「競争するように仕向ける政策」ってのは一体何なのか気になりますね(笑)。是非とも政策案として論文にでもして頂ければ、と期待しております。使ってる税金ほど政策実現に役立っているとは到底思われないGRIPSですので、ここで何か1つくらいはまともな政策立案をしてもらえれば国民としても大変有り難い話です。

鶴田大先生の想定している「中小企業」という大きな括りとか、「ノンバンク」といった括りは、どういったものを考えているのか不明な点が多いのですが、上限金利以内の貸出市場というのは、普通に生きているわけでして。前にも触れたが(貸せなくなるって、本当?)、18年3月時点のデータも出てちょっと変わっていた。事業者向け貸金業者の平均約定金利は2.99%で、約15.4兆円の貸出額だった。大手消費者金融でも14.77%、大手以外は12.08%に過ぎない。まあ、これが借りられない、ということも十分有り得るかもしれんけど。そりゃ、よっぽどハイリスクなんじゃないのか?

CRDデータでランク9とか10あたりになると、採算金利はかなり高いね、確かに。
貸出モデルの転換に向けた制度設計のあり方
採算金利は信用コスト率+短プラで設定されているから、貸金だと「短プラ」程度の上乗せでは足りない(5~10%くらい乗っかる)だろうけど、デフォルト率が10%って設定は、超大甘なので現実的には考え難いでしょう。それでは新銀行東京みたいに「ミドルリスクの中小企業に貸します」とか言っていながら、実際にはデフォルトを食らい過ぎて「貸し手責任となる」というのが普通だわな。でも、貸金市場では、まだまだそうはならない。どうやってか「回収」されるわけだ(笑)。銀行には取れない回収手段があるってことか、貸出ノウハウみたいなもので差があるのかもしれんが。ま、高金利に耐えられる中小企業でビジネスが成り立つってのは、結構難しいんだろうな。もっと高い貸出金利ってのは、まあアレだろうなとは思う。鶴田大先生は、上限金利なんかよりも、もっと高い金利でいいんだ、借りたい人がいれば貸せばいいんだ、ってな考えなんでしょう。ランクで言うと、紙からはみ出すな(笑)。

普通に考えて、貸出金利が高いと破綻率は高いはずなんだが(一部の経済学信奉者たちは「金利水準は関係ない、ライフイベントなんだ」とか言うんだけど、これって違うでしょ?)、中小企業においても、有利子負債の利子率が高いと破綻確率は高いのではないですか?利子率が高いから破綻するということでなく、破綻しやすいから借入金利が高く設定されているのかは分らないけれども、利子率が年率30%、40%となっていくなら、これはバクチの一種みたいなもんだわな、と言っているのですよ。

話が飛ぶが、諮問会議だったかで地方の中小企業支援とか何とかの制度を作るとかあったような気がするが、これも屋上屋みたいなもんで、再生は既にある制度を利用した方がいいと思うけど。

中小企業庁:中小企業再生支援協議会の活動状況

破綻処理とか、再生とかには一定のノウハウみたいなものが必要だろうと思うし、ただ単に貸すだけではなく適切な助言とかが重要なので、ある制度を拡充する方向の方がいいと思う。組織として、産業再生機構みたいなのを新設しようとかって話にはならないと思うのだけどね。現状で使えるものは協同でやる「仕組み・枠組み」みたいな形でいいと思う。政府系金融機関だって出直しなんだから、連携してやっていくようにした方がいいと思うよ(政府系金融機関がなければ、中小企業はもっと死んでいたかもしれん、とは思った。ちょっと前の政府系金融機関改革の話とか、これまでの民間銀行の所業とか、デフレ期間のことを記事に書いてきて思ったですよ)。

話が飛んだが、とりあえず。今、ちょっと急いでるので。



「成功の為の8つの秘訣」はゲーム上達の秘訣

2007年06月04日 14時42分11秒 | 俺のそれ
ハーバード大学医学部留学・独立日記 サクセス・アナリストSt Johnが教える3分間でわかる成功のための8つの秘訣


で、以下は究極ゲーマーというか、名人クラスになる道を想定してみた。

①情熱を持つ:
「○○ゲームがやりてー!!死ぬほどやりてー!!」とか
「オレは○○ゲームを愛してるぜ」のようなもの。

②一生懸命する:
いつもハードにプレイ。生きてる時間の多くを投入する。

③得意になるまで追求する:
ジャンルやゲームを決めて、得意になるまでとことんやり込む。

④フォーカスする:
絞り込んでやる、ステージも絞り込むとか。アイテム探しに絞るとか。

⑤自分をプッシュし続ける:
諦めずに自分を信じて鼓舞し続ける。オレは必ずクリアできるぜ!とか。

⑥自分以外にもサービスする:
裏技とか攻略法とかを見つければ、他の人の役に立てる。

⑦アイデアを持つ:
最弱でも勝つ方法とか。超マイナーキャラの使い方とか。

⑧やり遂げる:
必ずエンディングを見るべし、と。


やっぱり、成功の秘訣かもしれない。



司法の品質管理を問う~3

2007年06月04日 00時31分33秒 | 法関係
モトケン先生のブログ(元検弁護士のつぶやき 司法の不確実性について考えるcommentscomments)の方で弁護士の方からコメントを頂戴しまして、長くなるので、こちらの記事に書いてみたいと思います。
モトケン先生にはお気遣い頂き有難うございます。場違いではございますが、御礼申し上げます。


>YUNYUN先生

コメントを頂き有難うございます。また、拙文をお読み下さり恐縮です。先生のご意見には若干の疑問がございます。

①医療において「証拠関係が同一であること」というのは有り得ない

医療は、全ての条件が異なります。患者固有の要因、生じる症状、時間経過、医療側要因、等々、ありとあらゆるものが異なります。川下りで言えば、川の流れ方も、流れる速度も、水の量も、船も、船頭も過去のある事例と全く同じ条件を再現することはできない、ということです。そうではあっても、これに一定の原則を当てはめること―医療の知見全て―は、無意味ということにはなりません。医療における証拠とは、「患者(側の条件、要因)」「データ類」「画像診断」「症状」「所見」などの全てです。この同一性というものがほぼ有り得ないという中で、幾つかの要因に絞り込んである範疇といいますかグループにおいては、「○○という治療が有効」といった原則を積み上げて行くものです。それが同一の病名というグループ分けであれば、そのグループにおける確率的な考え方で何らかの医療行為を適用していくものです。医療においても、「似た症例」ということはあっても、「同一の症例」ということは有り得ない、ということです。司法における「同一の事件」ではないということと何ら違いはありません。


②司法の原則が明らかにされているか

例えば、
ア)狭心発作が疑われる時→ニトログリセリンを投与
イ)冠スパスムが疑われる時→カルシウム拮抗薬を投与

というような、所謂教科書的原則があるでしょう(本物の医療の知識とは断言できませんが、あくまで大雑把な例です)。

裁判においては、大抵こうした何らかの原則に合致しているか否かを見るものと思います。では、司法においては、こうした原則が明らかにされているのでしょうか?あるのは、判例集のようなものであったりすると思いますけれども、医療裁判における論点を網羅してきているでしょうか?私にはそのようには思われません。医学的知見ほど積み上げられてきてはいないと思います。

コメントにも触れましたが、看護師の行った内診行為について、「保助看師法第30条違反」となり、内診行為を指示した医師が罰金刑となった事件について、犯罪として成立することを法曹の9割以上が「当然刑事罰を受ける」と認識できるはずですので、これを具体的に構成要件等をお示し下さればと思います。因みに条文は、『助産師でない者は、第三条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法 (昭和二十三年法律第二百一号)の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。』というものです。この条文から、看護師が行う「内診行為が違法である」ということを導き出せるはずであろうと思います。そしてその答えとは、法曹の9割に一致する考え方、ということになりましょう。


③同一事件、類似事件についての法曹の判断が収斂していることが判る理由とは何か

医学においては、統計学的な考え方によって、あるグループ分けを行えば②のア)やイ)のような、ある程度の確立された知見・原則のようなものがあります。これらは成書や論文等によって客観的に認識可能な形で存在しています。司法においても、これと同様なものがあるのでしょうか?「症状1、2、3…があれば、~と診断し、○○の処置を行う」と似たような、「証拠(要件)1、2、3…があれば、~違反と判断し、過失(不法行為)と認定」というようなことです。よくある刑事事件などはかなり確立されているであろうとは思いますが、医療裁判に関係するもので、そういった原則があればお聞きしたいと思います。また、同一事件について、法曹が100人とか1000人程度で検討した結果、「判決は極めて妥当なものであり、自分の見解もほぼ同じである」といった統計調査のようなものがあるのでしょうか?もしもそういった調査研究があるのであれば、実例でお聞きしたいと思います。

また、以下の記事に取り上げた事件のいずれにおいても、法曹の多くが一致した見解を持っており判決は妥当である、ということが判る理由があれば、お聞きしたいと思います(全部ではなくても、一部でもよろしいので)。

裁判における検証レベル
Terror of jurisdiction ~加古川事件について
裁判所は独自の医学理論を確立する機関なのか(ちょっと追加)


古紙持ち去り事件とか官舎のビラ配り事件のようなものでは、判決が異なることもあるようですが、これも何らかの統一的見解があるようには見えない(素人だからかもしれません)のです。法学的な理論が明らかになっているのであれば、常に同一の判決(有罪か無罪か)となるようにも思えますがいかがでしょうか。


素人のおかしな意見かもしれませんが、司法サイドに理解できない部分が多く残されていることは確かです。個々の判決について、どの程度詳細に検討され、知見の積み上げとかフィードバックが働いているのか、疑問に思っています。



司法の品質管理を問う~2の参

2007年06月03日 13時38分00秒 | 法関係
しつこいようですが、もうちょっと続けます。これも叱咤激励と言いますか、応援の1つと思って頂ければ、と(笑)。

また、いつものヘンな例で申し訳ありませんが、考えてみたいと思います。

ここに、ある材質でできた棒があるとします。この棒についての情報は、研究によって次の2つが判明しているものとします。

①5千回使用すると、1%が折れる
②1万回使用すると、30%が折れる

医療裁判においては、こうした①や②のような基礎的情報が研究とか学問という形で、獲得されている領域について問題とされることが多いでありましょう。ところが、他の多くの裁判においては、こうした基礎的情報が得られていないものが多いのではないかと思います(印象論ですけど)。例えば、「○○という名誉毀損によって、社会的評価が~%低下する」とか、明確には判らないでしょう。「一般に、○○という言葉を受けた場合の、苦痛・不快指数は~%であるから、○○という言葉を言ったとしてもセクハラにはならない」とか。殆どの裁判においては、誰にも正確に判らない事柄を扱い、紛争化してしまったものを何らかの答えを導き出し解決せねばならないということなので、裁判官の良心、価値観等の何らかの尺度が異なる為、最終的な判断の違いというものを生じてしまう可能性は出てくるでありましょう。

元の話に戻ります。

上記棒は、川下り船の船頭が使用する竿であるとしましょう。
ある時、船頭の使用していた棒が折れ、船はコントロールを失って流され岩場に激突してしまったとしましょう。この時の過失がどうなるかを考えてみます。

棒を購入したのが4年前で、毎日使用していたとしても最大1460回であるなら、5千回以内の使用が明らかとなります。この時、条件①に従って、折れる可能性は1%以下であるなら「折れる危険性」は予見し得なかった、予見することは極めて困難であった、と考えられましょう。であれば、船をコントロールする竿である棒が折れたことをもって船頭の過失を問うことは妥当とは言えないのではないか、ということが考えられます。ですが、「棒(竿)は折れる可能性があるものである」というのは、誰でも予見できるものでありましょう。危険性の存在を認識できたとしても、その可能性が極めて小さいという時、求められる注意義務というのがどのレベルであるのが望ましいか、というのは数字ではなくて価値判断になります。ここに「裁判官の個性、個別の違い」というものを生じるのです。

医療行為に置き換えてみると、例えば何かの手術において大量出血が起こり得ること(=棒が折れること)の予見性はあるわけです。この発生確率が1万回に5回以下の程度である時、棒が折れないように注意せねば過失を問われるのか、ということです。医療裁判における要求水準では、「棒が折れた(=大量出血した)ことは過失」と認定されている、ということです。刑法上の過失を問われる、ということです。

少し条件を変えて、棒の使用回数が5千回を超えていたものとしましょう。回数不明であるが、5千~1万回の間のどこかであるということが判ったものとします。すると、折れる可能性というのは、1~30%の間のどこかになるでしょうけれども、明確には判りません。これが裁判になれば、「棒はいつでも取り替えられたはずだから、5千回を超える使用であれば義務違反」と認定される、ということです。棒を交換するのは運営上困難であるとしても(現実にはお金がかかるので)、取り替えろ」と要求されることになります。そのコストを転嫁することができない制度になっている(医療保険制度ではそうです)のに、です。
判決で求められるのは、「5千回を超えるのであれば、500回毎に耐久テストを行って折れる危険性を防ぐ、といった防止策をとるべき」とか、「折れる試験を別に(行政が)行って、もしも10%が折れる回数が判明すれば、その回数以上のものは交換とするべき」とか、そういう具体的な指摘が必要なのではないでしょうか。社会的に実現可能なものであるか、行政施策上で変えるべきであるなら行政にそれを求めるべきで、「折れる危険性のない新品の棒は存在している」ということをもって「古い棒を使用していたことが過失」と認定するのは、現実の医療制度上では大変厳しいのです。

折れた棒が、物干し竿とか調理用の箸であるならば、「与える(生命身体への)影響」の大きさが船頭の竿とは異なるので、棒が折れることに対する求められるべき基準が異なる、という考え方は理解できます。物干し竿や調理用箸であれば、それほど厳密な基準によって折れることの防止策を実施する必要性がないということで、「折れるまで使用してよい」とか「条件②に従って、1万回を目処に交換するのが望ましい」とか判断することがあるかもしれません。棒が、ジェットコースターの車軸のような重大部品なのであれば、もっと厳密な水準を求め「5千回以上の使用は許されない、たとえ5千回未満であっても定期点検は行うべし」といった要件を課すことがあったとしても、不思議ではないでしょう。まさしく「個別の事例」によるものであると思います。求める水準というのは、「確立された理論」でもなければ、具体的な研究によって明らかにできるものとは限らないからです。そういう違いがあるということならば、普通の社会であっても理解され得るでしょう。

そうではなくて、判決がオカシイのではないかと感じるのは、次のような場合です。

7千回使用していた船頭の棒(竿)が折れて、この過失を考えることになった。判決では、
『条件①と②から、5千回~1万回の折れる確率を考えると、千回当たり5.8%増加し、6千回では約6.8%、7千回では約12.6%、8千回では18.4%が折れることになる。従って7千回で棒を交換しておけば、防げたはずである。実際、他の船頭の棒は大多数が折れていないのであるから、使用に問題があったと考えざるを得ず、過失と言える』
というような具合に過失認定を行っている、というようなことです。

何がオカシイのかと言うと、基礎的情報を利用して「過失を考える」にせよ、適用の仕方が間違っていると思うのです。研究では条件①とか②しか判っていないにも関わらず、「7千回では約12.6%が折れる」とかの理論を裁判所が独自に確立してしまうのです。そんなことは判るはずもないのです。判らない理論みたいなものを敢えて出す必要性はないのではないか、ということです。そして、他の船頭の棒が折れていないことをもって、本件の棒が折れることを防げるはずだ、ということにはならないのです。「他が折れていない」「本件では折れている」ということについて、なぜなのかという原因をきちんと考察するべきなのです。ただ、これには被告側主張とか鑑定にも問題があるといったことも関係しているので、裁判所ばかりを非難することはできないのですけれども。


個別の違いとか、法曹の個性とか、そういうのを発揮する以前に、社会的に求められている水準としては、条件①と②から考えられるものとして、「船頭の竿ならば~~」「物干し竿ならばコレコレ」「乗り物の車軸ならホニャララ」といった「具体的要件」を明示するべきでありましょう。それがあれば、裁判官の違いとか何とかの影響を受け難くなるからであります。その要件外の要素については、個別の事例における諸般の事情に応じて、裁判所が判断するべきことでしょう。そういった統一性のようなものが、あまりにも少なく、ばらつきが大きいというのが現状ではないかな、と。ある統一性の範囲の中で、裁判官の良心とか正義に従って判決を出すことには、賛成の立場であります。ダブルスタンダードと言われるかもしれませんが、個人的には大岡越前とか水戸黄門支持派ですので(笑)。

今のような状態で裁判員制度が始まってしまったりしたら、一体全体どうなってしまうのかと不安です。ホリエモン判決で思うことのコメントにも書きましたが、裁判員制度を本当にやっていけるのでしょうか?



司法の品質管理を問う~2の弐

2007年06月02日 17時25分24秒 | 法関係
前の続きです。


2)医療と司法の違い


医療において、患者側の不確実な要因とか、医療側の個性・判断の個人差などということがあるとしても、これを患者側に強要しているわけではないです。基本的に強制力は働かないので、別な医師とか治療法を選択したりできます。患者が自意で医療側の行為を拒否することも、実施も選べます。更には、一定の範囲において、結果について「期待権」を有しており、その結果責任を問うこともできます。

医療においては、

a)選択権:患者が医療者を自由に選べる
b)採否権:医療行為や内容について採用か拒否を決められる
c)期待権:一定水準以上の結果を求めることができる

というものが、患者側にあると思います。では、司法ではどうなのか考えてみます。


a)選択権:

刑事、民事事件を問わず、弁護士のみを選択することはできますが、検察官や裁判官を自由意思によって決定することはできません。弁護士は代理人ということでありますが、いなくても裁判を行うことさえ可能であります。喩えて言うと、患者=容疑者(被告)、付き添いの人(家族とか)=弁護士、医療者=司法の人(検察、裁判官)ということで、被告側からは検察官や裁判官の指名とか任免というような権限はありません。患者であるなら、「この医師がいい」という具合に指名(決定)することが許されます。

この選択権がない、ということはどういうことかといえば、基本的には「どの検察官、裁判官においても、均質に司法が提供される」ということを意味するものと思います。国民は国家に対して、権限の一部を与えるので、国家がその代理ともいうべき権力を保有していると思います。その権力には、検察に与えられた権力とか、裁判所に与えられた権力、といったものがあります。国民が選択できるのは、国会議員ですが、権力の預け先を見ると、次のようなものと思います。

国民→国会議員→内閣→大臣→行政職員

国民には、行政職員に対して選択権がありません。例えば、「A職員に住民票の移動届けを出したくない」とか「A職員に税務調査をしてもらいたくない」とか、選べません。勿論、任免権もありません。国民は、行政職員の任免する権限も含め、決定権限を行政府に委譲している、ということだと思います。国会議員に権利を移す→国会議員がその権利を用いて内閣や大臣を決める→それら大臣は下級職員の任免権や決定権限を有する、ということだろうと思います。行政職員に重大な問題があって、それを解決せよ、ということを強く求めるのであれば、国会議員に対する選挙権でしか権利行使ができません。
ですので、法律の条文では「内閣総理大臣は~できる」とか、「○○大臣は~できる」といった形になっており、下級職員は上司の命令に従って事務を遂行するのみ、ということです。形式上、末端の行政職員が権力行使の形を取っているのは、大臣など省庁の長の権限が末端の全職員に分けられており、これは「大臣本人がやったこと」と同一であることが前提になると思います。出生届を受理できない、とかも、大臣が全件決裁しているわけではないのではないかと。

<ちょっと寄り道:
何かの判決で、大臣決済がないとダメだ、とか何とかの判決があったように思うのですが、内容とか忘れた。でも、下級職員が末端レベルで決めた処分というのは、省庁の長が決定したのと同等でないと、ありとあらゆるものを全部「大臣決済」ということにせねばならず、長になる人はハンコを押すだけで死んでしまうのでは?(笑)
どこかの地裁判決だったと思うのですが、あれって、本当に正しいのかな?と疑問に思ったんですよね。>

国民は検事、副検事などを選べません。検事総長も選べません。検事総長、検事長、次長検事は内閣、その他検事は法務大臣にその権限が委譲されています。個々の検事等が行うことは、基本的には検事総長と同質でなければなりません。検事総長は全ての検察庁職員の指揮監督権を有しているのであり、末端の検察庁職員が行うことは検事総長が行っていることと同じ意味を持つと思います。個々の検察官が行う権限の元を辿れば、検事総長からその権限の一部を分け与えられているだけに過ぎないのではないでしょうか(検事総長を統制することは内閣にその権限が与えられ、国民が間接的にコントロールすることを可能にしている、ということかと)。

これを、個々の行政職員の違い―個性とか信条とか能力差のようなもの―で、判断や処分が異なるということになれば、問題であると思います。東京と大阪で判断が異なってしまう、などということが起こるのは、元来おかしいはずです。法律は同一ですので(条例のように、地域によって適用が異なるものもあるが)。「行政職員の処分が異なる」というのは、喩えて言えば、「認可申請」を行うと、東京では認可され沖縄や北海道では認可されない、といった違いを生じてしまう、ということになってしまいます。

国民が個々の検事を選択できないということは、同質性が高いレベルで求められるということであり、地域とか担当者といったことによる違いというものは元来存在し得ない、ということを前提としているシステムであると思います。

裁判所も同じく、最高裁判事を国民審査で拒否する権限だけがあります。最高裁長官と最高裁判事は内閣にその任命権が与えられており、間接的コントロールができるだけです。下級裁判事も内閣に任命権があります。弾劾裁判はありますが、実質的には発動されること滅多に有り得ないです。これら決定システムは、裁判官の個性を許容する範囲を広げるものではなく、検察官同様に「同質性」というものを高いレベルで実現しているであろうことを前提としていると思うのです。上級審の判断が下級審を拘束することから、最高裁判事と同じく裁判を行うことが、本来必要であろうと思います。下級審であっても、最高裁判事が裁判を行っているのと同等であるならば、最高裁判事を国民審査で拒否する意味があるものと思います。

もしも個々の裁判官での違いが大きい場合には、「下級審で判断してもらっても当てにならない」という信頼性の低い状態を生じ、「全件最高裁に訊いてみなくちゃ判らない」ということになってしまうのではないでしょうか。最高裁での判断が下級審と同じかほぼ近いものであるなら、下級裁判所が最高裁の分身のような形となるので、多数の事件を同時に処理できることになります。

山口県の母子殺害事件のような「死刑か否か」という問題であると、判断が分かれてしまうことが有り得るだろうと思います。そこには、何かの数式とか命題のようなものがある訳ではないからです。そのような価値判断の分かれるような問題があるのと、裁判所判断が頻繁に変わるというのとは異なるものであると思います。

b)採否権:

容疑者が「検事の取調べのやり方が不満であるので、取調べを拒否します」とかの権利を持つ訳ではありません。「もっとベテランの検事にしてくれ」とか「『国家の罠』の著者を担当した検事さんにしてチョ」とかも要求できません。前述した通り、どの検事であっても同じ仕事内容で同じレベルである、ということが前提であろうと思うからです。裁判においても、「この裁判官は嫌いなので、別な人に変えてくれ」とか拒否できません。「法廷指揮が疑問だから、違う進行方法を採用しろ、さもなくば裁判長を変えろ」とかも求めることができません。

こうした選択権の附与されないものについて、個々の事例毎に違いが大きいということになれば、不公平・不平等であるといった不満が出されても止むを得ないのではないかと思われます。司法システムとして、「差が極めて小さい」というシステムを提供するのは、司法権力側のするべきことであって、受ける側の努力が必要なものではありません。ある事例について、検事Aと検事Bでは処分に違いがないとか、裁判官Aと裁判官Bでも判断に違いがない、ということは、国家権力の機構において守られるべきことなのではないのかな、と。東京にいる社保庁職員でも沖縄にいる職員でも、同一事例について「年金受給要件を満たしていません」と同じ判断をする、ということと同じようなものであると思います。これが毎回変わってしまうというのは、許容されないでありましょう。

c)期待権

医療の場合には、結果について責任を問えることになっていますが、裁判についてはそれが不可能です。これまでの判例から「きっと執行猶予になるだろう」と期待(笑)していても、懲役の実刑であることは有り得ます。期待と異なる結果であるからといって、検察庁や裁判所が過失を問われたりすることはありません。行政側の処分については、期待がどうというような判断は関係ありません。当事者、遺族やその他関係者とかが、「危険運転致死罪で起訴して欲しい」とか「何でもいいので必ず起訴してくれ」とか希望してみても、不起訴処分となったからとて過失責任を問われたりはしません。刑事事件で起訴されて無罪が確定しても、容疑者となっていた人が起訴した検事を個別に訴えることはできないでしょう。検察審査会で起訴相当とか不起訴不当というような意見が出されても、判断した検事の過失を問われたりしませんし、それを理由として訴えられることもありません。同じく、裁判の上級審で逆転判決が出た場合、下級審の裁判官に過失があったとして訴えられることはありません。判決文に誤りがあるとか、量刑に間違いがあっても、過失として訴えられることはありません。

審査制度は別に存在するのであって、個別の検察官や裁判官について「裁判で処罰する」というシステムとはなっていません。期待に反するからということも、無関係なことです。


以上のことから、医療における個別の違いとか医師の判断の違いというものは、司法において同列に考えたり適用できるというものではないように思います。


もうちょっと追加です。

大臣権限の下級職員への委任関係ですけれども、全部規定されている訳ではないかもしれませんが、規定のあるものはあります。

◇例1:公認会計士法

第三十条
 公認会計士が、故意に、虚偽、錯誤又は脱漏のある財務書類を虚偽、錯誤及び脱漏のないものとして証明した場合には、内閣総理大臣は、二年以内の業務の停止又は登録の抹消の処分をすることができる。
2 公認会計士が、相当の注意を怠り、重大な虚偽、錯誤又は脱漏のある財務書類を重大な虚偽、錯誤及び脱漏のないものとして証明した場合には、内閣総理大臣は、戒告又は二年以内の業務の停止の処分をすることができる。
3 監査法人が虚偽、錯誤又は脱漏のある財務書類を虚偽、錯誤及び脱漏のないものとして証明した場合において、当該証明に係る業務を執行した社員である公認会計士に故意又は相当の注意を怠つた事実があるときは、当該公認会計士について前二項の規定を準用する。

第四十九条の三  
 内閣総理大臣は、公益又は投資者保護のため必要かつ適当であると認めるときは、第二条第一項又は第二項の業務に関し、公認会計士、外国公認会計士又は監査法人に対し、報告又は資料の提出を求めることができる。
2  内閣総理大臣は、公益又は投資者保護のため必要かつ適当であると認めるときは、第二条第一項の業務に関し、当該職員に公認会計士、外国公認会計士又は監査法人の事務所その他その業務に関係のある場所に立ち入り、その業務に関係のある帳簿書類その他の物件を検査させることができる。
3  前項の規定により立入検査をしようとする職員は、その身分を示す証票を携帯し、関係人の請求があつたときは、これを提示しなければならない。
4  第二項の規定による立入検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない。

この2つの条文を見れば判るように、権限は元来内閣総理大臣にありますが、現実には金融庁でやっているのですね。で、その権限の委任関係はどうなっているかというと、次の条文に規定されています。


第四十九条の四  
 内閣総理大臣は、この法律による権限(政令で定めるものを除く。)を金融庁長官に委任する。
2  金融庁長官は、前項の規定により委任された権限のうち、第四十六条の九の二第二項の規定による報告の受理に関する事務並びに第四十六条の十二第一項並びに前条第一項及び第二項の規定による権限(第四十六条の九の二第二項の報告に関して行われるものに限る。)を審査会に委任する。
3  金融庁長官は、政令で定めるところにより、第一項の規定により委任された権限(前項の規定により審査会に委任されたものを除く。)の一部を財務局長又は財務支局長に委任することができる。
4  審査会は、政令で定めるところにより、公認会計士試験の実施に関する事務の一部を財務局長又は財務支局長に委任することができる。

つまり、内閣総理大臣→金融庁長官→一部は審査会、一部は財務局長又は財務支局長、ということになっています。勿論局長は更に下級職員に対して命令をしますから、実質的には末端の職員が権限行使を行いますけれども、最終的な決済とか責任所在は個々の末端職員にある訳ではなくて局長とか金融庁長官にあることになります。行政事件の裁判となれば被告になるのは金融庁長官であって内閣総理大臣ではないでしょう、多分。下級職員である金融庁長官の任免権は国民には与えられていませんが、間接的に内閣総理大臣を通じてコントロールする、という形式になっていると思います。金融庁職員は、「金融庁長官」(とか、財務局長とか財務支局長とか)の言うなれば分身のようなもので、金融庁長官と同質でなければならないはずでありましょう。そうでなければ、法に基づいて事務を執行するのが金融庁長官なのですから、各金融庁職員の個性や判断の違いなどということは本来許容されてはいないでありましょう。行政職員というものは、そういうものなのではないでしょうか。


◇例2:国民年金法

第五条の二  
 この法律に規定する社会保険庁長官の権限の一部は、政令の定めるところにより、地方社会保険事務局長に委任することができる。
2  前項の規定により地方社会保険事務局長に委任された権限の全部又は一部は、政令の定めるところにより、社会保険事務所長に委任することができる。

このように権限が下級職員に委任されています。
因みに、国民年金の管掌は「政府」となっており、特定大臣の権限は出ていません。ですが、条文中では社会保険庁長官が権限を持っていることになっているので、ある種の独立王国みたいな感じです。

参考として、別な法令を見ると、次のようなものもあります。

厚生労働省組織規則
(平成十三年一月六日厚生労働省令第一号)

(組織の細目)
第八百八十一条
 この省令に定めるもののほか、事務分掌その他組織の細目は、各施設等機関及び各地方支分部局の長が、厚生労働大臣(社会保険大学校、社会保険業務センター及び地方社会保険事務局については社会保険庁長官)の承認を受けて定める。ただし、厚生労働大臣の指定する施設等機関について、当該施設等機関の長が厚生労働大臣の定める基準に基づき、事務分掌その他組織の細目を定める場合は、承認を経ることを要しないものとする。

このように、厚生労働大臣の承認を受けなくともよい範囲があるので、国民年金に関しては基本的に「厚生労働大臣」権限というものはなく、社会保険庁長官の権限が強力であると思われます(これは法改正によってそうなってしまったのかな?昔は厚生大臣に権限があったのかな?)。

今話題になっている、年金不払いですけれども、末端職員が「払えません」と答えているのは、社会保険庁長官の決済とか、それ以下の権限委任先である地方社会保険事務局長や社会保険事務所長なんかの(似たような組織の長の肩書きが沢山あるんだね、笑)決済を受けて、「払いません」という決定を行っているはずなんですよね。国民年金法の条文中では、次のようになっています。

第十四条  
社会保険庁長官は、国民年金原簿を備え、これに被保険者の氏名、資格の取得及び喪失、種別の変更、保険料の納付状況その他厚生労働省令で定める事項を記録するものとする。

第十六条
給付を受ける権利は、その権利を有する者(以下「受給権者」という。)の請求に基いて、社会保険庁長官が裁定する。

なので、厚生労働大臣の責任が云々というのは、ちょっと的外れなのではなかろうかとも思ったりしますが、昔の省庁再編前の法律ではどうだったか判りません。原簿のミスは長官に責任があるものと思いますけどね。
以前は社保庁長官ではなく厚生大臣に権限があったのなら、厚生大臣に責任があるでしょうけど。厚生大臣は社会保険庁長官の任免権を持つので、それが責任問題なのでしょうか?まあ、これは今の話題には関係ないので、別にいいけど。


大事なのは、末端職員が「あなたには年金給付額はこれだけです」とか「給付できません」とか答えているのは、社保庁長官がそう答えるのと同等ということであって、その判断とか処分は極めて同質性が高くなっていなければならない、ということです。行政側が権力を行使するということは、個々の職員において個別に違いがあってもらっては困る、というのが基本であろうということです。



司法の品質管理を問う~2の壱

2007年06月02日 17時23分03秒 | 法関係
いつも拝見しているモトケン先生のブログですが、ご不満に思われていることがあるようです。

元検弁護士のつぶやき 一部の医師に一言いいたいcommentscomments

(以下に敢えて全文を掲載させて頂きます)

医療側の皆さんはこぞって言います。

 同じ病名でも患者によってその症状や治療方法は必ずしも同じでない
 同じ患者に対する治療方針についても医師によって判断は異なる

 これに異を唱える医師はいないと思われます。
 そしてこのブログの常連法曹もそのことを理解していると思います。
 少なくとも私は異を唱えるつもりはありません。

 法曹が本来的に扱っている法律紛争も同じだからです。
 最近コメントしましたが、法律上の争点が同じ事件でも、人(当事者だけでなく弁護士・検事・裁判官を含みます)が変われば解決方針が異なってくるのを身に染みてわかってますから、医療においても患者の個体差や医師の考え方の違いで当然治療内容は異なってくることは容易にわかります。

 しかし、一部の医師は、医療については個別判断の重要性と必要性を声高に主張するにもかかわらず、司法については個々の事件の特殊性や法曹の個性を一切無視した発言をします。

 大野病院事件を元にして、司法は検察はと言っていた医師は、富士見産婦人科病院事件における浦和地検の不起訴処分を見てどう思うのでしょうか?

 あえて名指しはしませんが、一部の医師の方については自らのダブルスタンダードを自覚していただきたいと思います。



確かにお気持ちは判らないではありません。これまで医療側の立場を考え、理解を示してこられたのに、司法側(特に裁判官や検察官)への批判ばかりが出されるわけですから、嫌気が差しても不思議ではありません。お察し申し上げる次第です。
とか言いながら、かくいう私も、「司法の「品質管理」を問う」とか、「Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する」とか、書いてきたので批判的立場という点では同じなのですけれども。唯一モトケン先生のご指摘と異なっていることは医師ではない、ということだけです。「検察」とか「裁判所」とか、ひと括りで批判しています。申し訳なく思う部分はありますが、批判しなくても安心できる司法制度であるとも考えていないのは正直な気持ちであります。

そのような批判は妥当ではないという意見はごく標準的なものであると思いますので、仰るのも判るな、と私も考えますが、気持ちを理解できることと批判は別であると考えていますので、いくつか意見を述べておきたいと思います。法学的な用語とか考え方等については、何らの知識も有しておりませんので誤りは多々あろうかと思いますが、それでも、敢えて書いておきます。


1)司法に許される裁量とは

モトケン先生は(主に医療側が)『司法については個々の事件の特殊性や法曹の個性を一切無視した発言をします。』と指摘されており、『法律上の争点が同じ事件でも、人(当事者だけでなく弁護士・検事・裁判官を含みます)が変われば解決方針が異なってくるのを身に染みてわかってますから、医療においても患者の個体差や医師の考え方の違いで当然治療内容は異なってくることは容易にわかります。』とも述べておられます。これに異を唱える積もりはありませんし、不確実な部分が多く含まれている、ということで、紛争解決などに結びつくのであれば良い面もあるのかもしれません。でも、許容されざる部分というのがあると思うので、それについて書いてみます。

・刑事事件について

例えば同一行為について、東京では傷害罪が成立しないけれど、大阪では成立するといった違いが許容されるのか、ということがあります。これを「検察官が違うから」とか「裁判官が違っているから」などという曖昧な理由を基にして、違った判断が許されていいということにはならないのではないかと思います。刑事裁判において、基本的には法曹の個性などという主張は問題があるのではなかろうかと思われます。量刑判断において、ある裁判官は懲役3年、別な裁判官は懲役5年という違いが生じる可能性というのはあるでしょう。それは「個々の事例に応じて」判断されるべきことであるので、判断が分かれるという理屈ならば理解できます。

しかし、「刑事責任」の成立か不成立かということについて、個々の法曹の個性を反映されては困るのは当然です。司法制度そのものの恣意性を広く認めろ、ということなのでしょうか。医療(行為)などと決定的に違うことは、検察も裁判所も「権力の行使」であるのであって、適用される側(容疑者側)には選択の自由もなければ自分の意志によって避けることもできないものである、ということです。医療においては、受ける側に自由に回避したり拒否したりする権利を持ちますが、刑事裁判では受ける側にそのような権利は持ちません。適用する側に、一方的な権力行使の権限が附与されている、ということです。そういう危険な権力であるが故に、行使する側(警察や検察側)に厳密な手続などを課されている、ということなんだろう、と思っておりました。

そうであるなら、例えば検察官の個性とか恣意性などというものを認めることは、そもそも問題なのではないかと思えます。犯罪として成立しているかどうか、という理屈は、ある一定の「法学的理論」に基づくものでなければならないはずであり、それは一人の検察官だけに通用する理論などではなく、「圧倒的大多数の法曹」に通じる理論でなければならないでしょうし、それは法曹以外の一般人が認識可能なレベルのものであるはずです。法律を詳しく知らなかったとしても、普通の人が考えれば「回避可能な水準」ということです。適用される理屈というものが、誰が聞いても明瞭に理解できるのが当然なのであって、多くの人々が理解できず特定の検察官にしか思いつかないような理屈で刑罰を与えられる可能性があるとすれば、危険なのではないかと思います。

◎強制力が働く権力行使なので、曖昧であることの方が危険であり、法曹の個性などは排除されるべきではないか
◎適用される理屈というものは簡明平易なものであるべきで、一般人においても容易に理解可能なものであるべきではないか
◎量刑判断においては、個別の事例に応じて斟酌するべき諸般の事情等で多少変わることも有り得るが、大筋としては法曹のみならず国民全般にも一定の合意がある必要があるのではないか(例えば死刑適用の基準とか)

・民事事件

テレビの「行列~」なんかで判断が分かれたり食い違うことの方が大多数であるので、これが「個々の事例の違い」とか「法曹の個性」といったものの一部なのではないかと思えます。主に「苦痛に感じた」とか「恥ずかしい思いをさせられた」というような、定量化・数値化が困難な部分を判断せねばならなかったりするので、違いを生むということはあるのだろうな、と思います。医療において、「痛み」を正確に測れないのと似ています。限度(限界?)・境界線というものの基準とか、元々曖昧なものの区分けを行うことには、曖昧さが多く残されるものであろうと思います。

判断の材料としては、多くが研究などによって理論が確立されていないものであるため、判断に違いを生じえることは理解できます。そうではあっても、判例などの研究によって、一定範囲に収束していくべきものであると考えられます。それを行えるのは、司法側の人々であり、特に裁判官たちの考え方が変わるとかまとまっていくということにならなければ、国民の側から「変えさせる有効な手段」というものは持ち得ないでありましょう。

◎主に「価値判断」などの、理論化されていない事柄を取り扱うので、判決に個別の違いを生じ得る
◎司法の判断基準は国民の側からは変えさせることができない


長くなったので、分割して次に。


年金不信が続くだけでは

2007年06月01日 15時45分39秒 | 社会保障問題
初めにお詫びしますが、早とちりで、記事に書いてしまいました。
ゴメンなさい。5000万件全件を急いで調べる訳ではないそうです。

煽り記事はコレだ>どうやら自民党は「非常事態宣言」らしい

かなり感情的に書いたので、間違いだらけでした(いつものことか?)。
年金は宙に浮いてなんかいないんだそうです。もらう人たちの額が増えることはあっても、大幅に減額ということにはならないでしょうから、年金給付額はかなり増えてしまうかもしれません。そうなると、また「保険料収入」よりも払って出て行く方が大幅に増えることになりそうです。

実際には「2000万件以上少ない」、2880万件を調べればいいだけだそうです(笑)。
オマケに、「第三者機関」を設置してやるんだそうです。それで手続きが本当に進むのでしょうか?ただ単に混乱に拍車がかかるだけなのではないかと、心配になります。1件ごとに精査してやっていては、一体いつになったら作業が終わるのか想像もつかないわけですが、どうなんでしょうか。

Yahooニュース - 毎日新聞 - <年金Q&A>照合に10年 60歳以上優先 遺族も受給


遺族が支払い当事者でもないことは多いので、過去の記録や記憶というものをどうやって証明できるのか判りませんよね。
「オレの死んだ爺さんは、払っていたはずなんだYO!」とか言う、どう見ても胡散臭い若者がやってきたら、どうするのだろうか?本当なのかもしれないし、ウソなのかもしれない。これをいちいち第三者機関が判定するのでしょうか?百万年かかってしまいそうですが、どうなんでしょうか。遺族側が証明するにせよ、じいさんが転々と引っ越していたり、何度も転職していたり、夕張みたいな閉山した炭鉱夫であったりすると、証拠書類を探し当てるのに一苦労というか大変な作業ですよね。こういうのを「全件やっていく」と。国民も行政側も。

国を挙げての、壮大な歴史探訪(家族の歴史?)大作戦、ということなんでしょうか(笑)。


関係ないけど、西友の牛肉事件のことを思い出してしまいます(参考記事:電脳炎上と現実炎上)。確か、「払い戻し」はそのスーパーにおける年間の「精肉部門の売上全部」よりも多くの額を払うことになってしまったのではなかったかと思いますが、不正確なんですけど。

まさか、年寄りがメールで「みんなに払ってくれるらしいわよ」とか連絡して、大挙してやってきたりはしないかもしれませんが、世代が世代だけに恐ろしい気もします。みんな「昔の血が騒ぐ」とかの気分になり、デモ隊よろしく「はーらーえ!はーらーえ!ねんきんをはーらーえ!!」とかの騒ぎにならないとも限らないのではないか、と危惧したりもします(冗談です)。なんてたって、ねじり鉢巻とか手ぬぐいまいて、プラカードやこぶしを掲げて、「エイ、エイ、オー!」とか真剣に戦っていた世代ですからね。何事も「力わざ」というか、暴力とか「徒党の力」とかで、問題解消(というより潰し?)やぶんどりを実行してきたという実績がありますから。年金受給年齢になっているにも関わらず、「腹が立ったので殺った」とかいう事件は珍しくありませんし(年寄りも殺人や傷害事件を起こしてますよね)。なので、イマドキの年寄りは油断も隙もあったものではなく、昔みたいに年寄りだから信用できるとか、規範に外れたことはやらないとか、そういうことはないんじゃなかろうかと思ったりもします。

どっちにしろ、混迷の続く今の年金制度を維持することよりも、抜本的な制度改革に乗り出すべきであると思います。一元化へ向けて、3党合意に基づく話し合いを進めていくのが筋であろうと思いますね。>自民党、民主党、公明党



弱小零細貸金業者は撤退した方がお得かも

2007年06月01日 13時42分16秒 | 社会全般
貸金業法改正が決定されたことによって、これまで貸金業を営んできた貸金業者たちの撤退傾向が明らかとなっていくであろう。既に始まっているのかもしれないが。その主な理由というのを、ちょっと考えてみた。

自分が貸金業者であった場合にどう考えるか、という視点ですので、現実がどうなのかは判らない。
廃業する理由としては、返還請求の増加ということが最も考えられる。上限金利自体はまだ引き下げられてはいないので、直ぐに約定金利を変える必要性はないが、利息収入の減少という問題よりも、返還額の増加の方がダメージは大きいだろうと推測している。

返還請求に備えて大手貸金5社が合わせて1兆円を超える引当金を積んだと報道されていた。「過払い返還請求」は今後も継続されるであろう。これは中小業者にとっても同じく請求対象とされるであろう。合法業者であるなら、会社の所在も連絡先も定まっているし、財務局に登録とかして届けているので、返還請求からは逃れられないことの方が多いのではないか。非合法のヤミ金ならば、姿をくらませたり、存在しないような事業所の所在とかで、請求から逃れているのではないかと思うが。

そうすると、過去の過払い請求を受けた場合、5年間分の利息収入の約3分の1程度の損失を蒙る可能性が考えられるであろう。となれば、それが「払えそうにない」と判断できるのであれば、廃業して姿をくらませた方が得なこともある。貸金業者がいなくなると、個々の返還請求者が自分で探し出して請求しなければならず、金額がかなり大きくなければ面倒なのでわざわざ探さないことが多いかもしれない(いちいち業者を捜し当てるのは大変なコストがかかるだろう)。

業者側から見れば、顧客1人当たりの平均返還請求額が10万円として、そういう客が100人いれば1000万円分の返還をせねばならない。それをやるよりも、廃業して返還を逃れ、保有債権を全て売却し、別な場所に行ってしまう方がよいこともあるだろう。保有債権が2000万円で売却額が7掛けで1400万円になったとすると、2000万円の債権を保有したまま1000万円の返還分を支払うよりも「お得」ということになるからだ。2000万円の債権にしても、貸した金が2000万円なんかではなく、利息が生み出した債権額であることが多いのであって、元々投入した資金がそれほど多かったわけでもないだろう。

なので、返還請求に応じるよりも廃業した方が有利な場合は有り得るだろう。

多くの弱小貸金業者は、保有債権額が5000万円に満たないだろう。法改正に伴って、この基準が適用されると成り立たない。大手などへの集約化が進んでゆくだろうと思われる。