いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

年金問題の処理を考えてみる

2007年06月13日 17時40分24秒 | 社会保障問題
これまで色々と辛辣なことや煽りを書いているので、自分も人のことは言えないが(笑)、といりあえず解決に向けた手はずくらいは考えた方がいいと思うけどね。約束しちゃったんだから。

参考記事:どうやら自民党は「非常事態宣言」らしい


人々が慌てて殺到している様は、まさしく「年金パニック」とも言えるかもしれない。だが、こういう急場のシノギに適切な対応が取れていないのは、不信感を募らせますます不満が増大していくだろう。テレビの映像では、全く繋がらないコールセンターに国会議員たちが大挙して「視察」(ある意味「査察」みたいな感じ?)に訪れ、今度はコールセンターのお役人を吊るし上げていた(笑)。まあ、アレだ、私たちは一生懸命取り組んでおります、国民の怒りの声を代わりに代弁して溜飲を下げるのに一役買っています、ということろであろう。ワラタ。

国会議員たちがするべきは、現場の役人をこっぴどく叱りつけて業務の邪魔をすることではない(笑)。視察に行くのは、1人か2人もいれば十分だろう。あんなに無駄に頭数を揃えて取り囲みに行く必要性なんかないのに。片山さつき議員も映っていたようだったので、多分自民党の広報戦略の一環として、ヤラセ映像を証拠として残す・確保するというような意味合いしかないだろう。話にならん。議員たちは、本当に頭が悪いのではないかとさえ思えた(ゴメンね、罵倒してしまって)。国会議員たちがやるべきことは、現地に行って説教食らわせることなんかではない。

膨大な資料とか、取りえるプランとか、そういうのを首っ引きで取り組んで、作戦を考えてあげることが大事なのだ。情報を集める人たちは少数でいいんだよ。他の手の空いている人間は、別な業務を分担してやるべきなのだよ。今の段階では、作戦を考える人たち、というのが国会議員の中にさえきちんとできていない。多人数で同じことをやるな。これ常識ですから。

あの映像は、まるで住民集会で吊るし上げられる少人数の行政職員、という図がピッタリだった。担当者を取り囲み、口々に文句を言う住民たち、みたいな。それか、ラーメン店の前で並んでいる客が、「こっちのボックス席も空いてんじゃねーか」「もっと入れるんだから、客を待たせないで入れればいいんじゃねーか」とか、凄んでいるのと同じだ。あれでは、解決が遠のくというのは判るよ。上がダメなら、負け戦は確実だもんね。作戦司令部が機能せず、戦場であっちに火の手が上がれば慌てて全員で駆けつけ、こっちに敵が押し寄せたら武器も揃ってないのに「とりあえず素手で突撃せよ」みたいな命令が飛んでくるわけですから(笑)。これじゃ、討ち死にといいますか、無駄死にが増えるだけですね。


今の状況を簡単に言えば、

一つしかない手術室に、100人とか押し寄せて全員が「今すぐ手術してくれ!オレを真っ先にやってくれ!ゴラァ」

となっているようなものです。そりゃ、ま、無理だな。
なので、やるべきことをある程度区分して、優先順位を決めて、仕事の内容も振り分けて、ということを考えてやらない限り、無駄に混乱が続くだけ。特に、「オラオラオラ」と議員さんたちの無理なご要望を出せば出すほど、それに対応せねばならなくなるので、かえって仕事が遅くなるだけ。

それと、判らん人間をただ無駄に増やしても、解決には繋がらないばかりか、客側のイライラが募るだけ(笑)。例えば、電器量販店にあることを電話で尋ねたら、当店の1階担当者にご相談下さい、とか言われて、店に行って同じ説明を繰り返したらここが担当ではなく別な階が担当ですからそちらで、と言われ、そっちに行ってまた同じ事を説明したら、ああ現物見ないと判らないですから持ってきて下さい、とか言われて、今度現物を持って出直したら、ああそれは既に販売中止で修理部品もないので新品を買う以外ありません、みたいな。初めから判る人が答えるなら、こうはならない、ってこと(これはあくまで架空の話ですので、実体験ではないです。量販店には何も関係はありません。これホント)。なので、コールセンターに無駄な人員を貼り付けても無駄。それと、いくらソフト開発を死に物狂いでやっても、これも多分効果はあまり大したことないのではないかな。重要部分は結局人力に頼らざるを得ず、機械的にどうにかなるものでもなさそうな感じ。できるだけやってもらっておいた方がいいとは思うけど、時間的に厳しいので、ダメかもしんない、くらいに思っていた方がいいだろう。


後は、具体的に考えてみる。

1)仕事の区分け

今殺到している人たちは、大体が暇な人とか受給者本人とかであると思う(ただの予想)。特に高齢者であることが多いと思うので、そういう人たちは「制度の仕組みをよく知らない」「何を言えばいいのかが判らない」「情報の整理があまりついていない」「話が長い」「理解や納得させるのにも時間がかかる」というような傾向があるのではないかと思う。ですので、窓口の処理速度が落ち、行列になりがちだろう。これを短縮させるためには、窓口では「決まりきったこと」だけの処理で済むようにすべき。またコンピュータ操作とかも、それ専属の人がそればかりやる方が大抵は早く処理できる。レジ係の人はレジばかりやった方がいい、ということ。なので、業務の中身に応じて、話を聞く人、書類を点検する人、入力する人、データ処理を確認する人、みたいな感じで、かなり分業体制を取らないと出来ないと思う。


2)優先順位を付けて受付を制限する

店でも商業施設でも、どこかに殺到するということが起こらないように、分散されていることが多いと思う。なので、現状、コールセンターの処理能力を上げようと思っても難しいだろう。それに上述したような、判らない者にやらせると、あっち行けこっち行けが増えるだけ。なので、順位を付けて、期間区分などで対応する。

優先するべきこととしては、
・今、受給している人
・年齢の高い人
・受給額の低い人
であるので、受給年数がまだまだ先の人たちは、今すぐに処理する必要はない。
よって、次の人たちを順次やる、と大々的に宣言する。コールセンターでの対応もそれに準ずる。


①現在、国民年金を受給している人で

ア)受給額が一人当たり月額8万円以下の人で
a)75歳以上の人
b)それ以外

イ)受給額が一人当たり月額12万円以下の人で
a)75歳以上の人
b)それ以外

ウ)受給額が一人当たり月額12万円以上の人で
a)75歳以上の人
b)それ以外

②現在、厚生(共済等含む)年金を受給している人で

ア)受給額が一人当たり月額8万円以下の人で
a)75歳以上の人
b)それ以外

イ)受給額が一人当たり月額12万円以下の人で
a)75歳以上の人
b)それ以外

ウ)受給額が一人当たり月額20万円以下の人で
a)75歳以上の人
b)それ以外

③過去に国民年金しか払っていない人で60歳以上の人

④過去に厚生年金(転職歴が5つ以下)を含む人で60歳以上の人

⑤過去に厚生年金(転職歴が6つ以上)を含む人で60歳以上の人

⑥遺族が請求する場合

⑦その他
状況を見て決めればいいのでは。年齢区分でやってもいいし。
例えば国民年金だけ、とか年齢で50歳以上と、それ以下とか。
年齢的には受給まで時間があるから、それまでやればいい。

あくまで一例ですけれども、記録上は受給者の大まかな人数とか判るはずでしょうから、適当に区分を決めればいいと思う。要は、一気に全部にならないように、「対象者を振り分ける」ということが必要。それに国民年金しかない人は必要な資料が少なく済むので早く処理可能だし、もめるのは「いつからいつまでは払ったと思うが、証拠がない」というものであろうから、これは今処理できないことに変わりないので(第三者機関で検討せねば結論が出せまい?)、「紛争例」ということに区分けさえ出来ていればいい。難問は後回しにして、5000万件のうち、減らせるデータを確実に減らしていくしかないだろう。


3)処理する手続きと話を聞く人を完全に分ける

年寄りは説明が要領を得ないとか、無駄に話すとか、そういうことが多いので、コールセンターでは
・用意するべきもの、資料
・どこに何をしに行けばいいかという窓口情報を正しく伝えること
だけをやった方がいいのではないかな。
チェックリストを作って、書類1、2、3、…とか本人が用意しなければならないものを教えてあげる(ない場合はしょうがないので、窓口で言ってもらう)。受給者がいつ頃どんな仕事に就いていたか、みたいな過去の長話を聞いていてもしょうがないのです。現在の居住地域がどこか確認して、向かうべき窓口を確実に伝える。あと、高齢者の場合で家族が一緒に行った方がいい人もいると思うので(電話での対応で直ぐに判るであろう)、そういうこともアドバイスする。

社労士団体の方で救援します、とか言ってたと思うが、コールセンターの何らの知識もない人たちが受け答えするより、社労士に対応させる方が片付きやすい。コールセンターに無闇に人員を貼り付けるくらいなら、社労士部隊にやってもらう方が効率がいいだろう。各地域の社会保険事務所ごとで社労士と取り決めを行い、一定書式の「聞き取り調査票」みたいなものを作って、それから想定される年金額が出せるはずなので、現在受給額と乖離がなければ問題なしと判定できるし、額に違いがあればデータミスの可能性が判明するだろう。コンピュータで抜けてる期間がどこかを探す人にとっては、当事者の話を直接聞くよりも、過去の居住地・勤務先とかが正確に判ってさえいれば、どの時点のデータが抜けているか探しやすいであろうし、処理速度が上がる。最も問題なのは、この「聞き取り時間」が長い、ということなのだから。

なので、話しを聞いてあげて、聞き取り調査票をとりあえず作る、という作業を社会保険事務所と社労士で複数窓口に分散して対応する体制をとりあえず直ぐ作ることにするべき。金がかかるのはどうせ同じなのだから仕方がないだろう。日替わりでも何でもいので、社労士団体に人員を出してもらえばいい。まあ、一つの「年金特需」だね。

で、データ照合して訂正手続が必要な人だけが専用窓口にてやるか、調査票からデータ照合して判明したものについては、どんどん処理をしてもらって、後日訂正がきちんと完了しました、という通知を郵送するとか。払った、払ってない、記録がない、という紛争例は、それで区分けすることができる。これについては、後ほど結論を出してもらう。


一番問題なのは、「今ここで解決結果を見せてくれ」みたいな処理をしようと思えば、大変になるだけ。あなたの不安だけは解消に繋がるかもしれんが。
なので、重要ポイントは「聞き取りして、的確にアドバイスできる人」と、「データ照合・処理する人」というのを分業にして、区分けする方がいい、ということ。聞き取りした結果、「わかりました、じゃあ、これとこれの資料とか証明書を探してもらえませんか、○○があればきっと通ると思います」とか、そういう策を与えられる人がいないと進まないのだから。あと、受給額が不足しているんじゃないか、という全く問題ないが不安だけある人たちも大量に混ざっているであろうと思うので、それらの人の長話を聞くのは大変だし処理を遅らせるだけなんではないかと。


社保庁にしても、緊急の「私たちはガンバリます」ビラみたいなものを急遽印刷して、手配りしている暇があるなら、何か策を考えるとか、聞き取り調査票の書式を組むとか、社労士団体と交渉してアクセス先を多く確保するとか、何かやれると思うのですけど。

でも、今のところ、国会議員さんたちの中にはこういった策を考えている人たちは殆どいないであろう。いたら、もう何かやってるだろうし。結局宣伝工作のダミーといいますか、煽り煽られ、みたいなことに自ら迎合するという質の低い連中が「参謀本部」に大量に巣くっている限り、物事の解決には繋がらないであろう、ということは確かではないかな。よくこれで国会議員だの、元官僚だのと言ってるな、とは思う。つまりは、自分にできそうもないことを求めるだけで、誰かを(まあ、とりあえず目の前に立ってる役人の人たちですかね)痛めつけるくらいしか能がないのである。頭数が何人揃っていても、これですから。くだらん。



司法の品質管理を問う~3の補足編

2007年06月13日 09時44分38秒 | 法関係
前の続きです。

司法の品質管理を問う~3の参

回答先はこちら。
元検弁護士のつぶやき 司法の不確実性について考えるcommentscomments


今回の記事で最後の回答とさせて頂きたいと思います。

YUNYUN先生の主張の根本的な部分を私の理解で書きますと、

ア)裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している
イ)判決は批判に晒されるし勉強会や判例評釈等で自己研鑽しているので(今の水準で)問題ない

ということです。
補足的な主張としては、

①事件は1件ごとに違うので少数事例では判例は形成されない
②医療裁判の1件ごとに取り上げて検討したりしてない(価値がないとかの理由)
③判例形成途上にあれば、判断は異なる

上記①と②から、「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している」などとは到底確かめようがない。
調査した結果や具体的資料は存在していない。あるのは、イ)だけ。
更に③によって、少数例しかなければ「判断は異なる」ということを肯定。

これでどうやって「司法の水準(質)」が評価、判断できるのでしょうか。更には、ア)がどうやって判るのでしょう。
誰がどのように評価しているのでしょうか、そういう検証システムのようなものがないか、あっても機能していないのではないでしょうか、と言っているのです。周囲(一般人)から見ても、誰にも妥当性はわかりませんね、と言っているのです。


医療裁判においては、現在の「医療水準」を元に過失の有無を判断せねばなりません。

「医療水準」を示す資料は全て医療側が提示しているし、一般的な原則としてある程度確立されています。
ところが、司法側にはこうした資料が存在していない。裁判の水準や司法水準の評価がどうなっているか、誰にも判らない。司法側には、判断材料とか検討に附す為の基礎的資料すら存在しない。
YUNYUN先生の主張に当てはめると、
「医療は批判に晒されるし勉強会や症例検討等で自己研鑽しているので問題ない」
「症例は1件ごとに違うので、本症例特有のことだし医師の判断は異なる」
ということになってしまいます。これでどうやって、医療水準の判定ができると言うのでしょう。

医療裁判において、「○○という治療法」とか「薬剤○○を投与したこと、量が適切だったか」とか、そういうことを「基礎的資料」に照らして「過失があったか、なかったか」ということを検討するではありませんか。こういう場合にも、ひたすら「○○という治療法について勉強会や自己研鑽を積んできた。なので問題ない。」と言えば、それで裁判官が認めますか?「照らすべきもの」がなければ、比較できないのですよ。こんなのは「医療水準」などではない、と言っているのです。努力しました、自己研鑽を積みました、ということは、「照らすべき医療水準なんかではない」と言っているのですよ。
なのに、司法側の水準とか判断の妥当性を検討するのに、「基礎的資料」もないままどうやって判るのでしょうか。

もっと簡単に言いますと、次のようなことです。とりあえず、
医療で行うこと=医療行為
裁判で行うこと=過失の認定行為
と仮定します。

<医師(医療裁判)の場合>
1)実行された医療行為:薬剤Aを10mg投与
2)比較するべき基礎的資料:文献1で「薬剤Aの常用量は2~5mg」

◎医療水準を示す2)に照らした結果、1)の実行行為は「過量投与であった、即ち過失があった」と判断できる。

<裁判官の場合>
1’)実行された認定行為:Bを過失と認定
2’)比較するべき基礎的資料:なし(オレの自己研鑽を信じろ)

◎裁判水準を示す2’)がないため、「Bを過失と認定」という実行行為が妥当かどうか判断できない。


2)に該当するものが存在していない、ということが問題だ、と言っているのですよ。だから、検証システムという話をしているのです。大方の刑事裁判のような判例数の多いものは比較できるでしょうが、裁判例の少ないものであれば妥当か否かが誰にも判らないのです。医療裁判がまさにそうだ、ということなんですよ。もしも、医師の場合の2)の資料が「オレの経験では正しい」というものである時、どうやって医療行為の妥当性を判断できますか?「類型化できない、全ての事例は同一ではないので比較できない」と言うなら、2)が「全く存在しない」ということになってしまい、照らすべきもの(=医療水準)は全て「経験、自己研鑽」ということに行き着くだけではないですか。

更にもっと疑問なのは、2)が文献などではなく、「他の医師においても90%以上の確度で薬剤Aの投与量は10mg」という主張です。「では、その主張の根拠はありますか」と尋ねたら、「どこの世界にも信じない人たちはいる」などと言いますか?それが裁判で通用するとでも言うのでしょうか。一体、何を言っているのかと思いますね。「90%以上の確度で薬剤Aの投与量は10mg」ということを調べたことがあるか、あるならその資料を提示してくれ、というのは、ごく普通のことですよ。ところが、調査したことなどこれまでただの一度もないにもかかわらず、「実感として「90%以上の確度で薬剤Aの投与量は10mg」なのは正しい」、などという主張しているのです。どこからどう見ても、「90%以上の確度で薬剤Aの投与量は10mg」などとは言えない、というのが当然でしょう。

この「他の医師においても90%以上の確度で薬剤Aの投与量は10mg」を『否定する根拠』を示すのは裁判官が毎回毎回やってますか?違いますでしょう。他の「医師の意見」とか「医療側の基礎的資料」によって妥当性を見るのであって、その資料を用意し提示するのは「医療側」なんですよ。司法側の人間が調べたりしていませんよ。ですから、司法サイドの基礎的資料を用意し提示するべきは司法サイドであって、ましてやその他一般人(私とか)なんかではないでしょう。文献1の「薬剤Aの常用量は2~5mg」に該当する知見をきちんと蓄積して下さい、その為の検証もやって「資料として提示できる、或いは大多数の法曹が説明できる」程度には、システムとして備えてくれ、ということを求めているのですよ。

一般人が「薬剤Aの常用量はどれくらいですか」と聞いたら、「個体差があるので言えない、同一条件じゃないから決められない」とか言わないですよ、普通は。厳密に言えば、全員の薬物動態学・薬力学的条件は「全て異なる」に決まっているのですから。そんなものは当たり前のド真ん中です、と言っているのです。要するに、司法サイドは、こうした知見の積み上げというのを「やってきていない」か「不足している」ということです。最高裁判例しか役に立たないということであれば、それのどこが「司法水準」が担保されていると言えるのかと思います。


>たとえ最高検が違法と判断していることであっても、それが法曹の共通の理解であるということにはなりません。
>検察庁の考え方は、時には弁護士の多数意見と対立することがあります。

そうであるなら、検察は他の裁判官、弁護士とは「異なる法学的理論」を用いているのですね?日本の検察官は、他の法曹から見ても理解or説明できない理屈を用いているということで、それでどうやって一般人が「違法か否か」の認識ができると言うのでしょう。まさしく、ブラックボックスのままということではないですか。そんな恐ろしい司法システムを用いている、ということですか。そうではあっても、法学関係の方々は何らの疑問も生じない、と。

最高検が違法である、と判断した時に用いた法学的理屈を、他の法曹が一般人に説明できないというくらい「検察の法学的理論は特殊である」ということなんでしょうか。これでは、「他の医師には説明困難な、医学的根拠のない特別な治療法を用いているのだ」というのと同じではないですか。もうメチャクチャな話です。他の医師たちから見て説明困難な治療を、ある特殊な医師集団だけが行っており、彼らの権限が強力過ぎてそれを是正させることもできない、ということが明らかとなっただけということでしょう。

これが日本の司法システムということで理解するしかないようです。



少し気が早いが参院選予想

2007年06月13日 02時12分32秒 | 政治って?
えー、政府与党は年金問題で大炎上中なわけですが、選挙への影響はどうなのか、ということがあります。そこで、過去の結果などから、今回の参院選を大胆予想してみたいと思います(笑、いつも大胆すぎて外れているし。応援すると負けるというジンクスもあるかも)。

とりあえず今のところ逆風真っ只中の自民党ですので、2004年の悪夢が蘇りますね。
小泉―安倍幹事長の人気コンビで臨んだにも関わらず、例の「年金問題」とか「道路公団問題」などで追い込まれた状況となっていました。安倍総理にとっては相性の悪い、鬼門の戦かもしれない。

比例選の得票状況を見ると、04年選挙では自民1680万、民主2114万、公明862万、共産436万、社民299万、その他200万といった具合でした。議席数は順に、49、50、11、4、2、5、でした。民主党が勝った、勝った、とは言っても、シェアが40%には届かないのですよね、やっぱり。05年衆院選の自民党大勝時の自民党であっても、比例票の得票率は38%程度だった。なので、案外とシェアを伸ばすのは大変なのですよね。

01年の小泉フィーバー効果が顕著であった時には、自民2111万に対して民主+自由の合計が1322万だった。議席割合で見れば66対32(26+6)のダブルスコア負け。選挙区負けがかなり響いた、ということだろう。特に一人区だな。24議席ゲットしていた。勝率88.9%(24/27)ということで、圧勝の原動力となったことは確かだ。なので、今回の選挙においても、この一人区の勝敗が獲得議席数を大きく左右することは確かであろう。

<ちょっと寄り道:
比例区って結構天国と地獄みたいなのがあって、自民党は神取さん(昨年繰り上がって議員になったけど)が123000票くらい取っていたが落選だった。公明党は17173票しか取っていない人(名前忘れた)が当選だった。もう一人も2万とか凄く少なかったのに当選していた(笑)。なので、多分公明党のこの2人というは、まあオマケみたいなもので当選してしまったのだな。まさかそこまで議席が回ってくるとは思っていなかった、ということかな、と(やってる人は一生懸命やったんだろうと思いますけど。あれだ、タイゾウ君みたいなもんかな)。共産党も7万票台で当選者が出ていた。>

で、今回選挙を予想してみる。投票率が似た水準で57%くらいだろう。ざっくり有権者1億人で無効票が結構出るが、まあ5600万票あるとしよう。勝ち水準は自民でも民主でも35%のシェアを取った方だろう。このラインを超えれば、優勢を確立する、ということかな。つまり1960万票だから、ざっと2000万取ればいい、ってことだな(選挙区はもうちょっと条件が変わるけど)。01年には自民党が、04年には民主党が取った水準だ。大体前回の惨敗水準を目安に、得票を考えてみよう。

まず、決まりやすい所から。共産党430万、社民300万、というのがいい線かな。比例の獲得するべき最低得票が120万くらいで1議席かな。それ以下しか取れない政党には多分議席はこないだろう。で、共産4、社民2ということで、各1議席減少するだろう。社民・共産合わせて、シェア低下が今世紀の傾向だからね。公明は850万くらいかな。で、問題の自民党だが、現状のままであると30%くらいしか取れないであろう。奇しくも1680万票で04年時と同じになってしまうな。民主は2000万票くらい取ることになろうか。ここ数回の選挙を見ても概ね2100~2200万票取れる実力は持ってるからね。で、残り340万票はミニ政党その他ということになる。ヤッシーのところとか。自民党と民主党のシェアは、30%と約35.7%となる。公明の議席数は13から11か12に減る可能性がある。比例で見れば、自民14、民主18、公明8、共産4、社民2、他2、みたいな感じだろうか。

残りの選挙区であるが、これは全然よく判らない。統一地方選でも自民退潮、民主躍進の構図ではあったので、今回選挙ではそれが活きてくるかもしれない。公明とその他で合計6(3+3)議席、共産と社民はゼロ、残り議席数は67。自民32、民主35と逆転、ということになりかねないかな。特に一人区では民主が15、自民は12と前回の半分程度に留まるかもな、と。

比例と合計して考えると、自民46、民主53、公明11、共産4、社民2、その他5、という感じであろうか。

これだと与党、特に自民党惨敗、ということで状況が厳しい。でも、流れ的にはこんな感じになっているように思える。松岡氏の自殺もじわじわ影響してくるだろうしね。

どうなんでしょうか。



柳沢さんは厄年だったのかねえ…

2007年06月12日 22時58分36秒 | 政治って?
「産む機械」発言の時からケチがついてしまって、もっと可哀想な感じになってしまいました。ご本人も「こんなことになるなら、あの時止めとけばよかった」と思っているかもしれません。


連日、批判に晒され、謝り続け、反論しようにも許されず、ひたすらお詫びの姿勢・言葉を繰り返さねばならないのだから。官僚あがりで、頭も良く、常に人の上に立ち、政治の世界でもそれなりに頑張ってきたのに、よりによって「こんな時」の厚生労働大臣とかに当たってしまうとは…あーあ、あん時辞めりゃ良かったよ、と臍をかんでいるかもしれません。

年金って繰り上げ受給もできるし、繰り下げ受給もできるんだけど、「返上」ってのもできるんだよね。ちゃんと条文にも書いてあった。イラネと言えば、支給されないんだよね。でも、イラネといって返上した期間の分を後から「やっぱり前の分、支給してくれ」と言っても、払ってもらえないんですよ(笑)。

話が逸れてしまったが、あんまり知られていないけれども、柳沢さんは自分の「年金は返上する」と言って、恐らく公的年金は貰ってないんだよね。これは年金問題がこれほど騒ぎになる前から、そう決めて返していたんだよね。目立たない話なんだけど、地味に偉い部分もあるんだよね、柳沢さんって。人相も酷くないし(これは関係ないか)。みんなには知られていないけど、実は結構いい人なんだろうな、とは思う。でもね…こんな時の大臣だからね…同情を禁じえないな。


みのもんたとかも、長者番付に載る高給取りで大金持ちなんだろうし、ギネスブックにも載るくらいなんだから(これも無関係か)、「自分の年金返上しますから、手違いでもらえない人たちに是非回してあげて下さい、どうか救済してあげて下さい」くらい言えばいいのに。大体、大金持ちになんて年金はいらんだろ。保有資産が3億円とかあるなら、年金受給権剥奪する立法とかにしたらいいんじゃないか?(笑、こりゃまあ冗談だけど)

そういや、福井総裁の年金もハンパじゃない額だったような気がするし。こういう連中がまず、「自らの年金を返上するので、給付漏れの人たちに優先的に給付してあげて下さい」って言えばいんだよ。漏れてる額って、一人当たりで見れば月額で数千円とかせいぜい1万2万の世界だから、高額受給者が一人返上すれば数十人とか賄えるよ。福井総裁あたりだと確か年額700万円くらいじゃなかった?一人6000円弱/月の給付漏れがあれば、約100人分に匹敵する。

だから人知れず年金を返上している柳沢さんってのは、本当は立派な人なのかもしれんな、とは思っているんだよね。憎めない人相だし。因みに、似顔絵にしやすい顔立ちかもしれんね。風刺画とかにも書きやすそう。そういう意味でも、ちょっと可哀想なんだよね。



イナゴでこんなに釣れるんだね~(さらに重要事項追加)

2007年06月11日 17時41分48秒 | 俺のそれ
池田先生はホンマもんの釣り師かもね。やるな。
さすがアルファ。
みんなが時々期待を寄せるのが判る気がする。
そろそろ「やってくれるんじゃないか」みたいな。


今更感があるが、見たら以前より症例数が増えていた(笑)。

炎上 - Wikipedia

因みにこの「炎上」の説明ページも炎上じゃないや、「荒らし」行為なんかに巻き込まれるようだ(笑)。


そういや、新聞記者事件の頃に東大生ブログのコメントスクラムもあったような気がするが、多分小倉先生の方が詳しく憶えているだろう。
その後、コメントスクラムという「テクニカルターム」(笑)はややマイナーとなり、今ではネットイナゴの方が主流となったみたい。小倉先生がちょっと可哀想。


「コメントスクラム」はどちらかと言うと「現象」面を見た言葉、という感じ。
「ネットイナゴ」は、参加している個体というか一人一人を見た言葉、かな。

当時、コメントラッシュ派は若干存在していたと思うが、これは更にマイナーで廃れたな。「ネットイナゴ」はえっけんさんが作ったんですよね?

どうしてかというと、小倉先生が「ネットウヨ」がどうのこうのとコメントで毎度御馴染みのバトルをやっていたら、「オレは右翼じゃねーんだよ」とか「ネット右翼はどこにいるんですか」とか「右翼の証拠を見せろ」とか「右翼活動の証拠出せ」とか「ネットウヨ」に対する過剰なまでの反応があったんだよね(笑)。思想的な区分として右翼ではないにも関わらず(普段は平凡な思想であって右翼でないと力説する人は多かった、…ように記憶している)、ウヨというレッテルを不満に思ったり妥当性に欠けると主張するイナゴたちが多かった。といいますか、大量発生していた、と。

そこで、政治的思想から分離した用語―小倉先生風に言えば「テクニカルターム」ですか―が必要というか名称として求められることとなってきた、という感じかな。これがネットウヨ改め、「ネットイナゴ」誕生秘話、とでも申しましょうか。って、私が考えた訳でもないんだけど。確か、こんな流れというか、ストーリーだったような気がしますが、どうなんでしょうか>えっけん殿

(参考までに、えっけんさんとは面識もないし全く知らん。が、昨年コメント欄でヘンな広告表示の消し方を教わりました。その節は有難うございました。さてはて、これは届くかな…?)



追加だにょ(何語?)

ところで、追加事項をハケーン(笑)。

W杯日本戦を総括してみる

この頃に発生した高原選手のコメントスクラムがあって、それを見た小倉先生が書いてみた宣言がコレ
Annex de BENLI ネットイナゴ

この記事によれば、紙媒体の初出かも、と。だよ~ん
なので、wikipediaの書いている人は編集しておいた方がいいですよ。
でも、何に書いたのかは小倉先生しか知らない。どんな雑誌なんだろう?


小倉先生の「テクニカル・ターム」話はもっと以前だが、一応、参考まで。
どこに書いたかは伏せておきますので、探してみてね。

「中国反日デモ」から見える日本政治~その3



お門違いに補足するが

2007年06月11日 12時26分26秒 | 社会全般
過去の記事にほぼ書いたのでそちらを見てもらうしかない。公的融資制度についても再三取り上げているので、救済措置の具体例は既に書いた。

退出させられる弱小貸金業者については、競争なのだから仕方がない。大手に規模の経済が働くのであるから、個々に生き延びる方法を考えてもらう以外にはない。以前に書いたかもしれないが、貸金業の従事者全部が失業するよりも、年間の自己破産者の方が多かったのだから。このどちらにどれくらい優先して考えるのか、というのは、人数を決めて考えるのは難しい。

退出されられる弱小貸金業者を生じてしまうのを止めるべきだ、というのは、現状では困難。雇用状況が改善してきている時期にこそ、廃業して転職するなどを促す方がよいと思う。米国のサブプライム・モーゲージでの問題が一時注目されていたが、焦げ付き増加の結果「貸し手が退出」となっているのであって、それは貸し手責任であるのだから止むを得まい。複数の専業会社は処理過程に入ったと思われる。
日本の貸金業においても、「次の貸し手」が現れない限り返済が止まってしまうのであれば、何らかの策を債権者と債務者の間で取り決めるなどを行うしかないであろう。「貸し手責任が問われるのは当然、ということ。サブプライム・ローンは「貸出審査の強化」ということで「借り手を選別」する対策が取られた。貸金業界のこれまでの融資の結果で今の状況を招いたのであれば、それは自分たちで何とかするべきだろう。

既に借金を多額に背負っている人に、自転車操業を継続させる為に資金供給を継続することが、それほど利益になるとは思われない。貸金業界で借入残高は履歴で判明するであろうから、負債額が一定額(例えば150万円とか200万円とか)以上で延滞率の高い人を全件ピックアップし、行政側(各自治体レベルかな)と債務圧縮とか部分的凍結とか何らかの処理を進めるための合同会議とか相談を必須として、三者(債務者、債権者、相談員・第三者)で取り組むとか考えることもできるでしょう。資金が止まって全損をかぶるか、部分的にでも回収していくかは、貸し手が自分たちで考えるべきことだろう。

貸し手側に参入規制を設けることは、例えば銀行業ではごく普通に行われており、一定水準の要件を満たせないのであれば排除されるのは止むを得ない。「問題のある貸し手」が多数存在しているということで、社会に与える影響が大きいのであれば、許可しないという規制は意味があるだろう。医薬品のように「商品」に水準を満たすように規制をかけるか、銀行や証券業のように業者に規制をかけるといったことで、消費者の安全を確保することはあるのだということ。法改正が決まった今となって、事業者向け融資について特別に別な金利水準や貸出条件を考える必要性など感じられない。そのような商品設計を本当に考えていたのであれば、はるか昔から専業の業者があったのだから出すに決まっているだろう。銀行もノンバンクも掃いて捨てるほどあるのに、そういった業者たちが出してこなかったものを、今になって「何か別な仕組み、商品を」などということが急に起こるか?

例えば、金利水準が初めの7日間は年率換算で50%、次の14日間は35%、更に次の30日間は27%、次の60日間は15%、それ以降10%、みたいな商品が生み出されたわけでもあるまいに。本当に短期需要に対応していたのであれば、そういった多様な商品が提供されるはずだろう(こういった短期高金利であれば、回収が比較的早い、借入期間が延びても貸倒率が抑制されうる、というようなことが期待できるかもしれないが定かではない)。そういうものならば、「金利水準を規制するんじゃない、10日間程度の資金需要が云々」という主張は理解でき得る。枠組みとして可能かどうかは知らないが、資金調達として3ヶ月償還の債券を発行して、クーポンに年率換算で4%とか5%とか付けても売り切ることが可能かもしれんし。だが、これまではそういったものが何ら提供されてこなかったんだから、必要性がなかったか実態的には別に儲ける方がウマミがあるという手段があったのであろう。それは長期間貸して金利収入を得る、というものだろう。圧倒的大多数の貸し手がまともであったなら、日賦貸しにしてもずっと規制緩和となったであろう。結局のところ、自分たちが種を蒔いて、今の結果をもたらしたということだ。

いずれにせよ、私が何かを検討したからといって、弱小貸金業者たちが失業しないように救済できるわけでもなく、倒産寸前の多額の借金を抱えた零細業者を倒産しないように救えるわけでもない。



税を誰が負担するか、という問題

2007年06月10日 15時59分17秒 | 社会全般
時々国会質疑においても取り上げられる朝日新聞の「声欄」だが(参考までに私は生まれてこのかた一度も読んだことがない)、怒りの声が投書されていたらしい(笑)。

<ちょっと寄り道:
朝日新聞の投書欄がなぜ国会質疑で取り上げられるのか、これは謎である。他愛のない例示、ということなのかもしれないが、信憑性の確かめようのないものであるし、何より「ある一つの具体例」をもってあたかも「国民の声」を代表させるのは問題があるのではないかと思う。そのことを判った上で取り上げるというのはそれでも構わないが、印象操作と思えなくもなく、取扱いは慎重に願いたい。>

たまたま発見したのが、コレ>
愉快痛快奇奇怪怪 - 税負担は変わらない、という名の振り込め詐欺

こちらの記事には、次のように紹介されていた。

6月に入り「地方税納入通知書」が郵送されてきた。公的年金収入のみの私は、今年の市・県民税は合わせて25万円だった。一昨年7万円、昨年14万円だったから、まさに「倍々ゲーム」のような増え方である。一方、年金の所得税減税の方はどうか。昨年12月に比べて今年2月と4月の手取り額は、7千円増えただけだ。1年6回支給だから、年額でも4万2千円にしかならない。

税源移譲は、一般的常識として、地方自治体の財政力を強化するためで、移譲の前後で「住民税+所得税」の納税者の税負担は変わらないとされ、現に、通知書添付の説明も、同様の字句が並んでいる。まるで、振り込め詐欺にでもかかったような思いである。どこにこの怒りをぶるければいいのだろうか。まずは目前の参院選で投じる一票に込めることぐらいしか、思いつかない。




うーん、言いたいことはよく判りますが、何故これほど税金額が増えたのかといえば、「所得が多いから」であります。単純な理由ですな。所得額が少ない人ほど「定率減税廃止」とか、以前には存在していた年金収入に係る各種控除が廃止された影響を受け難いに決まっているのです。つまり、所得がそれなりにあったにも関わらず、控除の恩恵をタップリと受けてきて、それが廃止されればその恩恵効果が失われて、増税感が強まるということはあるでしょう。なので、所得額がある程度ある人は負担額が増える、一般庶民が常々希望しているところの「金を持ってる人、金持ちから税金を取れ!!」ということが実行されたに過ぎないのですよ(笑)。

声欄の「市県民税が年額25万円」というところから、およその年金額を推定してみましょう。あくまで、ざっくりとした概算ですので(言葉がかぶってるな)。

条件
・収入は公的年金のみ
・年額25万円の住民税額

仮定として65歳以上の独居男性、としましょう。住民税は均等割・所得割があり、中身は市町村民税と道府県民税になっていますが(東京都は区ごとなので別な計算?)、面倒なので一括して計算するものとします。国民健康保険・介護保険料等の社会保険料を年額180000円を払っているものとしましょう。


均等割:これは簡単で、年4000円です。

所得割:やや面倒。
控除(65歳以上)の規定は次のようになっています。

①330万円未満   120万円
②330万円以上410万円未満  収入金額×25%+375,000円
③410万円以上770万円未満  収入金額×15%+785,000円
④770万円以上の場合     収入金額×5%+1,555,000円

で、税率は最低だと市民税だけの3%ですが、課税状況から多分違うでしょう。すると、10%か、所得額が多ければ13%ですが、一応10%であるものとして計算してみます。

①の場合
年金額が年額で300万円(25万円/月)であるとします。すると、300-120=180(万円)が雑所得となります。ここから基礎控除330000円+保険料180000を差し引くと129万円が課税所得金額となります。住民税額は129万円×10%=129000円です。25万円には全然届きません。

②の場合
年金額が400万円だとします。計算式は400万円×25%+375000=1375000です。これが控除額となりますので、
4000000-1375000=2625000が雑所得。基礎控除+社会保険料の51万円を引くと、2115000が課税所得金額となり、この10%ですから住民税額は211500円です。まだ届きません。

③の場合
年金額をXとして、住民税25万円のうち、均等割4000円ですから残りは246000円、この税額から上記計算と同様の手順で計算してみます。(年金額-控除③-基礎控除・社会保険料)の10%=246000円なので、

{X-(0.15X+785000)-510000}×10%=246000

これを解くと、X=4417647円となります。月平均では約37万円近くもらっていることになります。単身者でこれだけの年金収入があるのであれば、税金を納めるのも当然と考える人たちはかなり多いでしょう。配偶者がいるのであれば、もう少し控除額が増えるので税額は抑制され、高齢夫婦世帯であるなら恐らく年金額は500万円くらいにはなるであろうと思われます。

この方の住民税額が増加した主な理由としては、年金収入に係る控除廃止(老齢控除みたいなものとか妻の控除が減ったとか)、定率減税の段階的廃止、今年は所得税・住民税の配分が変更になったこと、などが一連の中で出てきたためであると思います。それにしても、増加具合がちょっと多い気もしますが、ひょっとすると配偶者の死亡などによって控除額が減少したとか、そういった別な要因があるのかもしれません。

こういうのを「振り込め詐欺」呼ばわりされるのは考え方の根本から間違っているようにしか思えず、これまでの「負担逃れ」から「負担して下さいね」に変わっただけなんですよね。自分だけが「重い」税金を払っている気になっているのかもしれませんが、まるで権利意識の強い消費者みたいなもので、「タダでサービスを提供しろ」と求めているようなものではないでしょうか。(公的部門が)そんなにタダのサービスを提供できるわけないじゃありませんか。


先にも述べましたが、そもそも「収入が多い」人ほど、これら控除廃止の影響を受けているはずであり、年金額が少ない人の場合には(例えば高齢夫婦世帯の月15万円で年額180万円とか)、これまでの減額効果が小さい(割合は同じでも、100万円の1%と300万円の1%では当然後者の方が数字は大きい)ので、増加する実額というのはそんなに多額にはなりません(それに緩和措置も取られている。一人当たり月10万円以下の年金額しかない場合は3分の1ずつの増額にしかならない)。税負担は収入が多い人ほど多く払うことになるので、年収200万円の人と年収400万円の人が同じ3万円の税を課せられるよりも、前者に2万円、後者に4万円を課す方がいいのですよ。各種控除廃止とか定率減税廃止とかは、収入が多い人ほど「増税効果が期待できる」ということです。これまでにも書いたと思いますが(コメント欄?だったかも)、よく「控除廃止は労働者イジメだ」とか「低所得者を死に追いやる政策だ」みたいに言う人や政党とかありますけれども、実際にはそうじゃないですよ。

月給10万円や15万円でボーナスもなく死ぬほど働いている若者から税や保険料を徴収し、悠々自適の年金暮らしをしている人から負担を回避するというのは、むしろ酷い話だと思いませんか?

参考までに、夫婦と子ども2人のサラリーマン世帯で年収530万円だと(4人で生活せねばならないのです)、住民税は約93000円くらいだそうです。年金額500万円の老夫婦世帯(勿論2人暮らしだ)が、以前にはこのサラリーマン世帯よりも「少ない住民税で済んでいた」ということの方が、疑問だと思えませんか?サラリーマン世帯の所得の伸びがほぼゼロ(ちょっと前までは連続でマイナスだった)なのに、「年額42000もベースアップ」している高齢世帯の方がはるかに恵まれているのではありませんか?労働組合は1000円とか1500円のベースアップを勝ち取るのに大変な苦労とかコストをかけているのですが、それと比べてどうですか?自分たちがなんにもしなくても、月7000円も収入が増えたのだから、「大変有り難いこと」なのではありませんか?物価上昇率は年率でたったの0.3%程度なんだし。月40万円の消費支出があっても、1%物価上昇率で4000円分だ(0.3%上昇なら1200円分に過ぎない)。7000円も増額されたのなら、物価上昇よりもはるかにお得じゃないか。それで何が不満だと?(笑)

独身の若年者で300万円未満の年収しかない人たちが所得税、住民税や各種社会保険料を払わねばならないことを考えますと、いかに公的年金収入しかない高齢者であっても、ある程度の負担をしてもらわねばならないことは止むを得ないのではないかと思います。


朝日新聞の声欄には、こういった印象付けを行うものが実は存在しているのであり、単に「7万円→14万円→25万円」という数字だけ見せて、「庶民を苦しめる増税」は許せない、みたいな論調を引き出そうとしているのです。細かい仕組みを「一般の人々の多くは知らない」ということにつけ込んだ、世論操作の一種の可能性すらあります。石原都知事が選挙直前にぶちあげた例の「一種の福祉」と言ったヤツ、すなわち「住民税増税で苦しむ人たちを助けたい」というプロパガンダ的減税案(参考記事)みたいなもんだ。

マスメディアに期待されるのは、「間違った先入観」を植えつけることではなく、正しく理解できるように「易しく、判りやすく」伝えることです。国民が正しく判断できるように「材料、道具」をきちんと提供することです。



昨日の「喰いタン」は良かった

2007年06月10日 15時52分11秒 | 俺のそれ
いつも家族で楽しく観ている(笑)。上流階級ではない、平凡な一家なので。
昨日のは特に良かったですよ。

ベタに典型的な筋立てにしてあって、低年齢層(小学生くらい?)に対するアプローチが感じ取れた。

個人的に特に良かったのは、「越後屋」さんと「そちも悪よの~ウワーハッッハッハ」みたいなのとか(笑、ひょっとして私だけ?)。

イジメを題材としていたのも好感が持てた。

このシリーズは、所謂「教訓」ぽいというか、説話的というか、そういうのを含むところが中々良いと思う。昨夜のは、いつにも増してそれが色濃く出ていたな。

香港(上海だったか?)ロケの特別編とかでも、そういうのを意図的に折り込ませてあったからね。最近は、こんなの流行らないんだよー、とか、余計なお世話なんだよー、とか、言われてしまうかもしれないけれど、個人的には好きなタイプの筋書きだな。まあ、嫌いな人は観ないんだし。



司法の品質管理を問う~3の参

2007年06月09日 11時00分52秒 | 法関係
これまで続いてきたので、一応まとめてみます。

司法の品質管理を問う~3

司法の品質管理を問う~3の壱

司法の品質管理を問う~3の弐(古紙持ち去り事件に関して)


>YUNYUN先生

質問事項は少ないものだったので、それについて説明して頂ければと思っておりました。だんだんと話が拡大しておりますが、もう一度出発点を振り返りますと、
①保健師助産師看護師法第30条違反で略式起訴された事件の説明
②医療裁判において判断が異なる結果となっている事件がある
=裁判官の判断が収斂していると言えるか
ということです。

その前にコメント(No.12)に書いた記事でも、
①医療において「証拠関係が同一であること」というのは有り得ない
②司法の原則が明らかにされているか
③同一事件、類似事件についての法曹の判断が収斂していることが判る理由とは何か
の3点に集約しておいたのですが、これだと②と③の回答範囲が広いようでしたので、上記2点に絞ってお尋ねしたわけです。
(附言しますと、当然私の疑問とは②については「原則が明らかとなっているとは限らないのではないか」、③については「収斂しているとも思えない」ということです。先生の主張とは対立するものです)

先生のご意見を拝見しておりますと、私の提示した意見や他の方への回答を見て、それに個別にお答え下さったりされておりますが、本来そのような回答を求めているのではありません。元々は、先生が主張された次の論点について、説明できるならばそれをお願いしているのです。
>私の考えでは、裁判官の判断は90%の以上の確度で収斂し、差はさほど開かない。
>従って、結論の違いは事案の違いによる というものです。

この根拠とか、具体的説明を求めているのであって、示せないのであればこれ以上はお尋ねしても意味がありません。つまり、
「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂し、差はさほど開かない」とは言えないだろう
ということが(私の中で)推測されるだけです。

私がいくつか具体例を挙げたのは、先生が次のようにご質問されましたので出したまでです。
>逆にお聞きしますが、まさくに様は、実際に裁判官によって判断にバラツキが大きいと思われますか。
>「信用しがたい」とおっしゃる根拠は如何?

私は裁判のような弁論や争いをやりたいのではありません(実際には見たこともないのですが)。ところが、先生ご自身は自分の主張点であるところの、「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している、差はさほど開かない」ということの論証を何らされておりません。私の挙げた点や意見について、個々に反論可能な言い方をしているようにしか思われません。できれば私の論点に対してではなく、ご自身の主張が正しいということを説明されますようお願い申し上げます。

ご質問については、若干お答えしておきたいと思います。

1)保健師助産師看護師法第30条違反について

私の基本的考え方は上記コメントでも、記事でも書いております。「元々の30条の立法主旨としては、無資格者が助産院を行うとかニセ医者同様にニセ助産師としての活動を禁止するものが30条規定なのではないか」(No.52)というのが私見であり、条文を意味不明とは思っていません。ただ、個別具体的な医療行為(この場合には内診行為)に刑事罰を与えて禁止するものとは思われない、ということです。罪刑法定主義というのが基本的にあるのであれば、条文上に規定するべきで、そうでないなら「刑事罰をもって禁止行為を規定(周知)する」というのはオカシイ、ということを申し上げているのです。条文に具体的規定がないにも関わらず「刑事罰を与える」という恣意性が許容されることには反対という立場です。

先生ご指摘の「司法の不確実性をもたらす原因の一つではあっても、司法の責任ではありません。」ということには同意できるものではなく、「今、存在している法令(条文)」に則って正しく判断するのが裁判所の役割であるならば、条文(或いは通知)の内容とか稚拙さをもって司法判断の責を免れるものではないと思います。立法技術云々の問題などではありません。条文がオカシイのであれば、違憲立法である旨指摘するとか、条文自体が無効であるとか、判決で明確に何が悪いか指摘するべきことであって、立法技術が拙いので司法判断が難しくバラツキを生じる、というのは単なる責任転嫁にしか見えません。こういうことは、私のようなド素人がいくら主張しても無効であるので、法学的に「業の規定をもって個別具体的な禁止行為が明確にできる、刑事罰も与えられる」ということが「学問的に明らかとなっている」のであれば、それはそれで結構です。その証拠を提示してもらえれば、このような意見交換も不要ですし(例えば「狭心発作にはニトログリセリンが有効である」とか「急性心筋梗塞の場合、PCI が有効となる症例がある」とか、そういう文献的証拠ということです)。そういう知見や検討結果がないのであれば、どうやってそれが判ったのか、ということを問題としているのですよ。それを問題視しないというのは理解し難い、ということです。

この問題については、これ以上合意点は見出せないので、これで終わりにさせて頂ければと思います。
それから、この問題で起訴されたのは略式起訴事件だけしか私は知りません。

2)検察官や裁判官に処罰を与える必要はない

何度も同じことを書きますけれども、No.52中で「私は裁判官を罰してくれとか、検察官を個人的に追及する制度を作ってくれ、とか願っているのではありません。本来、その特殊な職務上の権限を行使するのですから、独立した地位が保全されていなければ行政権力などには対抗できません。」と書いております。司法は医療とは違います。医療の個別の症例や医師の個別の判断が異なるとか、そういうものと司法は「根本的に異なっているでしょう」と申し上げています。特別に法律を変えたりする必要などなく、今ある制度の中で判例や事件の検証することはいくらでも可能です。「国民の側からは司法サイドを変えさせられない」というのが、決定的な違いであり壁なのです。裁判官や検察官というのは、その独立した地位・権限により「他からの作用」というのは働かないようにできているでしょう、ならば「自分たちの中で改善して下さい」と言っているのです。それをどのようにするか考えて決めるのは、司法サイドの問題であって、私のような素人が「こうせよ」と求められるものではない、ということです。現に、裁判で罰を受けない制度になっているのであり、そうであるが故に、こちらからはどうにもできないと申し上げているのです。しかし、水準を(品質を)担保する為の努力はきちんとやって欲しい、ということを要望しているのです。今も既にやってる、というのは、当てにはなりません、ということです。

ある医師が「教科書、専門書や論文を多数読み、自己研鑽を積んできた。よって、私が心臓移植手術を行います。これまでの研鑽を是非とも認めて下さい。」と言って、いい加減な手術が許されますでしょうか?「これほど自己研鑽を積んだのだから、結果は問わないでね」なんてことがありますでしょうか?研鑽しているから、なんてのは、「司法制度の水準や正しさ」を担保するものではないと言っているのです。「やってます」なんてことを口で言うだけではなく、「結果で見せてくれ」「形として明示してくれ」ということを求めているのです。結果とは裁判結果のことであり、判決の品質です。形とは、法学的な知見であるとか、判決文が専門家によってどのように検討されどのような結論が導き出されたかというものを「論文と同等の形」で出してくれ、ということです。

裁判に用いられる「医学論文」とかの証拠と同等のものです。それか、証拠と認定できるような明確な制度とかシステムです。世の中、「努力しました」で済むことなんて、殆どありません。ソバ屋の出前で、「頑張って運びました、研鑽を積んで努力しました。が、ザルを道路にぶちまけてしまい、殆どソバは残っていません。でも一生懸命努力したので、これで我慢してください」なんてことは普通許されない、ということです。うまく運べるように努力することなど当たり前です、と思っています。




当方の書き方に不明瞭な点が多く、意図が伝わらなかったことはお詫びいたします。
しかし、例えば私の「古紙持ち去り事件では、判断が分かれている」との例示に対して、先生が全て反論する必要性はないですし、私の挙げた具体例が「反証になっていない」と全て不採用ということならそれでも構いません。たとえ具体例を全て捨てたとして、先生の「裁判官の判断は収斂している」との主張は、今もって何ら明らかにはなっておりません。大体、古紙持ち去り事件は、「違憲立法である」とか「条例制定権を逸脱してる」といった判断が出されているのですから、事件の個別性も何もあったものではなく、根本的な論点は「条例は違憲か否か」とか「制定権を逸脱しているか否か」といった、極めて法学理論っぽい話ではないかと思いますが。

先生がコメントに書かれた、
>裁判官の判断が分かれる理由は、第一には条文の作り方が悪くて、文言が曖昧だからでしょう。また、財物の価値や可罰的違法性の限界事例であるために、裁判官の価値観によって分かれる部分もあります。

を拝見しても、何を主張したいのか、素人の私にはまるで判りません。
「条文が悪い」ことで、「違憲立法である」と「有罪である」という違いを生ずる司法判断といいますか、法解釈というのはそこに「どのような理論、原則」が見出せますでしょうか?素人目には、「全くの別物」としか思えませんけど。整合的な理論と思しきものは、何ら感じ取ることができない、ということです。ただ単に、私の例示した論点に反論した、ということだけなのであれば、これ以上何も申し上げることはありません。議論に長々とお付き合いさせてしまい、大変有難うございました。私の理解としては、「裁判官の判断が収斂している」ということについては、何も立証されていないことと同じです。



以下は独り言ですので。

一応、具体的に書いておきます。YUNYUN先生の主張を整理すると、次のような感じです(=以下は、私が読み取ったことを補足して書いております。YUNYUN先生がコメントに書かれた部分はその上に表記しています。)。


本当に、同じ事件について判断が分かれることが、そんなにあるのでしょうか。

=同一事件では(概ね)「判断は一致する」


<同じ事件>とは厳密には、「証拠関係が同一であること」を意味します。それ以外は「似た事件」ではあっても、「同じ事件」ではありません。
似た事件も同一ではない以上、裁判結果が異なることがあり得る
判例理解として、似た事件における違う要素を無視して、過大に一般法則を読み取ろうとする(判例の射程距離を長く取ろうとする)点が、問題であろうと思います。

=同一事件でなければ裁判結果は異なり、一般法則は似た事件といえども読み取りにくい


具体的にご指摘の事件について、誰かが評釈を書いているかどうか、今後に書かれる予定があるかどうかは知りません。判例雑誌(判例時報、判例タイムズ等)をワッチしておくしかないでしょう。
誰かがこの判例に着目して研究しようと思ってくれなければなりませんが、判例としての先例的価値(医学的な事例としての価値ではない)があると評価されなければ、誰も手を付けないかもしれません。控訴審で覆ったというだけでは、単なる一事例にすぎず、先例的価値があることにはならないからです。

=ある裁判例について、取り上げられているのか批判されているのか判らない、誰も手を付けないかもしれない


多くの場合は、一審で敗訴したのは、主張の仕方や私的鑑定書の書き方(広い意味での訴訟戦術)が拙かったため裁判官の説得に失敗したのであり、控訴審では挽回したということでしょう。

=訴訟戦術によって裁判官の印象は変わるかもしれず、説得のやり方次第?である


起訴の段階では犯罪として成立していると「検察官が考えた」ことなので、裁判官がそれを是認するか否かは、まだ定まっていません。

=検察官と裁判官の有している法学的理論?(のようなもの?)は別物であって、同じ証拠・法律上であっても判断は異なる


裁判官の判断が分かれる理由は、第一には条文の作り方が悪くて、文言が曖昧だからでしょう。また、財物の価値や可罰的違法性の限界事例であるために、裁判官の価値観によって分かれる部分もあります。
この事例は、今まさに判例統一への途上にあるものです。
判例が統一されるまでに、同種事件の判断がいくつも出るのは珍しいことではありません。10個程度ではまだ少ないとすら言えます。

=10個程度では判例途上、同種事件では判例がいくつもでる

これら主張ア~カから、「裁判官の判断は90%以上の確度で収斂している」ということがどのように読み取れるのでしょうか。

・第一に、「主張イ」から、同一事件は唯一つであって、他の判例からの読み取りは困難。つまり、同一事件に対して、例えば裁判官100人が「同じ判断を下したかどうか」を検証しない限り、「判断が収斂する」ということは判らない。だが、「主張ウ」から、放置されて何の評価も受けない判例は多数存在していると思われ、「裁判官(或いは学者、その他法曹)」の評価が実質的に行われているとは言えない。評釈等を受けている判決についても、裁判官の多数決とかアンケート調査といった具体的資料は認められない。

・医療裁判においても「同一事件」は一つしか存在しないので、仮に上級審での裁判例があろうとも当該判決毎についてのみ深く検証され、多数の裁判官によって判決内容の評価が行われない限り、「判決が検証されたことにはなり得ない」。しかし、「主張ウ」からそれが本当に行われていることはむしろ疑わしく、よって、「主張ア」を確認する術がなく、裏付ける証拠もない。

・「主張カ」から、同種事件の判例が10個以下程度では途上であって、いくつも異なった判例が出る。そもそも医療裁判における同種事件というのは少ないと思われ、10例以下である事件であれば「判例途上であることから、いくつも異なった判例が出る」ことは有り得ると推定される。よって、医療裁判における同種事件であろうとも、「判断が収斂している」可能性が高いことを示す証拠はなく、異なった判断となってしまうことは十分考えられる(つまり、事件の個別性、裁判官の個性が色濃く出るということか?)。

・「主張エ」から、裁判官には訴訟戦術に左右される要因が大きく作用し、逆転判決が有り得ることが窺える。裁判官側要因ではなく、主張者側の戦術の違いによって「判断の違いを生じ得る」ことから、たとえ同一の証拠を基に精査しようとも他の裁判官と同一の判断が下せるか否かは疑いの余地がある。

・「主張オ」から、検察官と裁判官では「犯罪として成立しているか否か」という判断は異なる。その違いを生ずる法学的な理由は不明のまま、刑事裁判が日々行われているということだろうか。同一証拠、同じ適用条文であっても考え方が「違う」ということは言える。


要するに、事件は1件1件「個別に異なっている」ということであれば、1件毎に詳しく検討しないと「批判に晒され」て検証されているなどとは言えないでしょう。類似事件の中からピックアップされている、ということであるなら、「一般法則は読み取り難い」ということになってしまうのがオチか、その他残りは「先例的価値のない単なる一事例」にすぎないものとして闇に葬り去られたままになっているだけであろう。いずれの場合にせよ、「判断が収斂しているなどということが確かめようがない」ことが、かなりの確度をもって予測されるだけである。


10例以下しかない判例ならば、「途上であるので、判断がバラバラであることはごく当たり前」という印象を受けたが、医療裁判における類似事件というのがどのくらいあるかと言えば、あまり多くはないであろうと思われる。ならば、「バラバラであることは当たり前に起こり得ますね」ということがおよそ肯定されているのであって、医療裁判において「判断は収斂しているはずである」というのがかなり疑わしい、ということが判るだけである。しかもコメントの主張内容そのもので、最後は「最高裁が判断の責務を負う(=最高裁判決を見てみないと判らない)」という所に行き着いているのであって、ならばこれまで記事で指摘した下級審での裁判は不確実性が高くなっているということで、「最高裁に全件聞いてみないと判らない」ということになってしまっているのではありませんか、ということが確認できただけである。下級審といえども、「最高裁の分身」として裁判をやるのが当たり前だ、という私の記事は、一体何だったのかとは思う。


どこから見ても、「裁判官の判断は90%以上の確度をもって収斂している」ということを信ずるに足る主張というのが見出せないばかりか、むしろ「収斂しているとは言えないのではないか」ということを補強する主張が増えているだけのようにしか見えないのである。

その一方、私が仮に例示した
「仮に医療従事者がこれまで日々業務として行ってきた行為が「それは医師法違反です」と言われて逮捕され、裁判では東京、札幌、沖縄で有罪、大阪、名古屋、京都では無罪、となったとき、自分自身がその有罪判決を受けた身になってみて下さい」
という別な方々への回答について、

>そういう事例は起こっていないし、今後も起こりえないと考えます。

とコメントされていたが、その絶対的確信はどこから生じるのか甚だ疑問。

現実に「内診行為問題」では、数件で起訴・不起訴となっている。千葉では略式起訴、名古屋、横浜では起訴猶予となっている。例は確かに大袈裟だが、本質的に似たようなものだ、と言っているのであって、そのような違いを生ずる「司法システム」というものを、一体誰が是正するのか、どのように公平性や水準を担保しているというのか、ということを問うているのである。このことの意味が伝えられなかったのは、当方の落ち度でもあろうが(裁判で言えば戦術が悪い、ということなのでしょう)、残念である。



政策選択をすると、反対勢力の人たちの分まで政治活動を何倍も頑張らねばならないのか

2007年06月09日 03時31分15秒 | 経済関連
kenboxさんのコメントを頂いた(今度はGRIPSかよ~貸金業の話)ので、記事に書いてみました。


まずそのコメントから。

社会全体を一人の人間の体とすれば「数年経てば治癒し再生するのだから原因になっている菌と侵された部分を切り取る為に発生する痛みは耐えて下さい。」的なあなたの外科的処方箋は説得力があります。しかしこの問題の根の深さは切り取られる部分も一人一人の人間で、しかも一様に生きたがっているという当然の権利と現実です。その処方箋を「他の方法があるのではないですか?違う生き方があるのではないですか?そこから先は究極的には行政の範疇ですよ。」と主張する事で完結させているのであれば、あなたは今の何倍ものパワーで国や行政に強力にアピールし現実に対応可能な具体的な対策を迫るべきだ。しかも早急に。



何を求めているのかよく判りませんが、別に「切り取れ」とかを目的としてるわけでもないですけど。また例で考えてみる。

今、「タクシーの規制緩和を行う」という政策を選択するべきか否かが問題とされているとしよう。

規制緩和を行えば、

・タクシーの台数が増加し、競争が激化する
・運転手一人あたりの賃金が減少する
・競争に敗れたタクシー会社は倒産に追い込まれる

ということが起こると考えられる。

この時、「タクシーの規制緩和を行う」ことに賛成する人たちがいるものとする。この人たちに対して、
「君たちは、タクシードライバーの生活を破壊しようとしている。競争に敗れた人たちを切り取ろうとしている。タクシードライバーの権利を守る為に、政治的活動を行うべきだ。その運動には、賛成することの何倍も力を注ぐべきだ。」とか求めるということだろうか。
実際、タクシー会社の倒産とか、個人タクシーの廃業はあった。特に、個人タクシーの倒産件数は増加してきているとか言われてるらしいし。要するに、規制緩和に賛成する人たちは、こうしたタクシードライバーの生活を守る為に、政治活動を行え、と。

一方、規制緩和によって、新たにタクシードライバーの雇用が増加して、仕事に就くことができた人たちも多数いたわけだ。特に女性ドライバーなんかも昔に比べれば増加した。台数が増加しているので、一人当たりの賃金は減るが、貰える人の数は増えて、その分雇用保険なんかの給付も抑えられたであろう。必ずしもマイナス面ばかりがあるわけではない。


「タクシーの規制緩和を行う」ことに賛成ですか?

YES→お前ら、運転手の賃金が減るとか個人タクシーが潰れてもいいのか、彼らの生活を守る運動をせよ!

NO→お前ら、雇用を確保するのに反対するのか、彼らの生活を守る運動をせよ!

これでは賛否の意見表明もするなと言っているに等しい。意見表明するならば、その代償として運動してこい、と。これは無理な話ではないかと思いますね。政策を決めるのですから、どちらかしかないわけで。どっちを選ぶとしても、どこかに「しわよせ」はある。全員を救済できるということにはならない。そうではあっても、有利な方をどうにか選択するしかないのである。


個人商店とか雑貨屋が、「コンビニや大手スーパーが営業すると、潰れるからヤメロ。個人商店の権利を守れ。」ということを主張するのであれば、大多数の人々に賛同を得られるように説得するしかないでしょうね。競争できないのであれば、退出させられることも止むを得ないだろう。同一商品なのに、大手の仕入れ値が50円、片や個人商店が100円ならば、競争が厳しいのは決まっており、差別化を図るとか何かできないならいずれ淘汰される。



届いたこと

2007年06月08日 23時44分27秒 | 俺のそれ
単なるメモということで。


昨夜、筑紫さんのコメントが紹介されていた。頑張れ、と思った。
それと、finalventさんが数年越しで書き続けてきたダルフール問題が報じらていたれた。


読売の編集手帳氏は…例の伊藤選手の取材問題を取り上げていた。旗本退屈男は、これは余計か、ゴメンゴメン、旗本くんも書いていた。


そうか、こうやって…目に見えない何かが、
繋がっているところがあって、
何かに心を痛める人たちがいて、
そういう良心は、どこの分野でも、ブンヤでも(笑)、
持ち続ける人たちがいるのだな、と。

だから、私にとっては、存在を保ち続けて欲しい、
ジャーナリストは死滅しない、
という希望は残っている。

やっぱり、どこかで信じているのだ。
ジャーナリズムを支えようとしている人々がいることを。


「やっぱりそうだったのかー!口約束にダマされたのかー!」~年金は

2007年06月08日 13時04分59秒 | 社会全般
ガガーリンは関係ない、ガガーンだ…

isologue - by 磯崎哲也事務所

磯崎氏は衝撃の真実を述べていた。

『世の中の人は「年金の掛金を払った人は、将来、年金をもらう権利がある」と思ってらっしゃる方が大半のようですが、これも大間違いなんでしょうね。』

ううう…(泣)ひょっとして、そうなのかもしれないとは思ったが、これまで払った保険料は社保庁職員風に言えば「納め損ですな」ってことなのかも…
磯崎氏が述べているのは、貰えないってことじゃなくて、「債権」ではないってことなんですけどね。

でも、右から左へって、「ムーディー勝山」か!!(笑)


多分口約束に過ぎないというのは、これまで記事に書いてきた。このへんとか。

出生率に怯える社会

所得代替率という「ゴマカシ」


以前に出た公務員共済の年金減額問題では、「財産権の侵害だ、憲法違反だ」とか実しやかに出されてたけど、あれってどうなんだろうか。普通に考えれば、法律の専門家とかでなくても直ぐに判るってことなんだろうか。そうだとすれば、どうして「憲法違反だ」とか主張をしていたんだろうか。謎。ニセの論点で反対の主張していたということなのか。

NTTの行政訴訟

裁判結果がどうなったのかは知らないのであるが、本当に「年金減額が憲法違反」であるとすれば、大変なことになってしまう(笑、年金関連法案の大幅修正が必要となってしまうかな)。逆に、憲法違反じゃない、減額していいんだよ、ということであっても、将来の自分の年金はスッパリと「払えないので減額しますから」と言われて、貰えるんだか貰えないんだか判らんけど、受給できたとしても「微々たるもの」でしかないかもしれない。


任意脱退する人たちが続出するかもしれんね(年齢というか年数規定があるようだけど)。残存年数25年って微妙な世代なんですよね。35歳が分水嶺。丁度溺れて沈んでいた世代頃なんだよね。あと、若い世代では、脱退しなくても、支払拒否とかあるし。やっぱり、見通し暗いな。

払う気力というか、動機付けにはならんわな。
マイナスの出来事が多すぎるもんね。


ちょっと追加。

磯崎氏の書いてたことに、あんなにみんなが過剰反応せんでもいいように思うのだけど。既に「減額は可能」という当たり前のことが判っていたんだし。上にも書いてたが、債権みたいなガチの権利とは違いまっせ、ってな警句でしたし。
でも、法律的な考え方とかは、そりゃbewaad氏の記事とか見て勉強した方がいいとは思うけど、普通の人たちの理解としてはハイレベルの為、難しいんではないかなと。

そこに更に、アルファな断固guyさんまで突入して、煽らんでも(笑、煽ってはいないか)。

因みに引用記事の人は、以前の所謂「経済成長論争」頃にもあれこれ言ってたと思うが、ちょっと違ってたような…今回も、「60歳からもらえないのは詐欺じゃん」みたいに書いてあったりするようだが、確か、「希望すれば60歳から受給できる」はずだったと思うけど。勿論支給額は減額されちゃうが、希望すれば可能であって、65歳からになってるのは、受給しなくても済む人は(最近の就業年齢延長とかで働いてたり)結構いたりするからね。60歳から支給してもらえるのに、「貰えないから詐欺」とか言う方がデマだと思うが。これって、「住民税の増税だ!!」みたいな論調と似てるんだよね。



司法の品質管理を問う~3の弐(古紙持ち去り事件に関して)

2007年06月08日 00時01分22秒 | 法関係
記事の途中で投稿してしまって、変になった。
もう一度、書いたのでご容赦下さい。

区の条例は違憲 資源ごみ持ち去り業者に無罪判決-事件ですのニュースイザ!

古紙価格の急騰を受け、平成12年ごろから、業者が集積場所から古紙を勝手に持っていく行為が全国的に横行。15年12月から条例にごみ持ち去りに対する罰則規定を盛り込んだ世田谷区に続いて、大津や岡山、さいたま市などが同様の条例を制定しており、今回の判決はこれら自治体の対策にも影響を与えそうだ。
同条例では「一般廃棄物計画で定める所定の場所からの古紙などの収集を禁じる」と規定しているが、判決で松本裁判官は「所定の場所に関して一般人が分かる基準が明確に示されておらず、法規の内容を明確にし、公平に処罰するために必要な事前の『公平な告知』を定めた憲法31条に反する」と述べた。



もう一個の記事。

古新聞持ち去りまた無罪判決 簡裁判断「真っ二つ」-事件ですのニュースイザ!

横川保広裁判官は「条例は持ち去りを禁じる場所の特定についての規定が欠落している」と述べ、いずれも無罪(求刑罰金20万円)を言い渡した。条例は「所定の場所に置かれた廃棄物のうち、古紙などを指定者以外が収集・運搬してはならない」と規定している。争点は、2被告が古新聞を持ち去った場所が、条例の定める「所定の場所」に当たるか-だった。横川裁判官は「ごみ集積場は、区民がごみを出すように定められた場所で、条例が指す『所定の場所』とは異なる」と指摘。条例の定める「所定の場所」と、ごみ集積場が同一場所と判断できるような規定もないため、古新聞を持ち去っても条例違反には当たらないと結論付けた。
世田谷区の古紙持ち去り事件では、この判決を含め東京簡裁の5人の裁判官が計12被告を審理。3人の裁判官が7被告に無罪を、2人の裁判官が5被告に有罪を言い渡しており、判断が真っ二つに分かれている。




それから、リンクが消えているのですが、3/26の読売新聞記事では次のように記されていた。

2人を無罪とした松本弘裁判官は「条例は、どこがごみ集積場か定義があいまいで、不明確な規定で刑罰を与えることを禁止した憲法31条に違反する」と指摘。他の3人を無罪とした堀内信明裁判官は「廃棄物処理法には一般廃棄物の持ち去りに関する罰則規定はない。廃棄物の持ち去りを無条件に禁止し、罰金を科すのは同法に違反しており、地方自治体の条例制定権を逸脱している」と述べた。

判決などによると、世田谷区は2003年12月、同条例を改正、「一般廃棄物処理計画で定める所定の場所」に置かれた資源ゴミを、警告や禁止命令を無視して持ち去った場合、20万円以下の罰金を科すとの罰則を定めた。区は04年7月~05年2月、業者13人を同条例違反で告発。13人は略式起訴され、1人は略式命令を受けたが、12人は無罪を主張して公判が続いていた。



これらをまとめると、次のようになる。

・世田谷区の条例違反で13人を告発
・1人は争わず略式命令
・12人のうち、7人が無罪、5人が有罪
・判断した裁判官は5人
・裁判官の1人は「憲法31条違反」と認定
・裁判官の1人は「条例制定権を逸脱」と認定
・裁判官の1人は「場所の規定が欠落している」と認定

要するに、行為を行った側の問題を指摘しているのではなく、条例そのものに問題があるという指摘が3人の裁判官から出されている、ということである。個別の事例毎の違いといったことではない。条例は全て同一であるからである。

この例をもって、「裁判官の判断は収斂していない」とまでは言えないものの、解釈上の相違は存在しており、有罪になった例とは明らかに異なっていると思われる。そもそも条例が違憲立法であるならば、有罪とはなり得ないのではないか。
しかもこれら判決は前後して出されており、本当に判例研究とか法曹同士での批判などがあったのであれば、何故これほど異なった判断が相次ぐのか疑問である、ということである。
略式命令は既に終結しているし、有罪となった人もいるのであるから、影響は小さくない。このような違いが公平な司法システムと言えるのであろうか?

裁判官の判断は収斂している、という主張には、簡単に頷けないのである。
犯罪として成立しているか否か、ということでさえ、これほど分かれてしまっている、ということである。



マスメディアは「生ける屍」となるのか

2007年06月07日 20時50分33秒 | 俺のそれ
この前から書こう書こうと思っていたのだが、何となくまとまらずに時間が過ぎてしまった。モヤモヤしたものが堆積してきたような感じだ。

参考記事:
続・知識階層は弱体化が進んだのか

新聞の特殊指定問題(追記後)

プロフェッショナルと責任

アマチュアらしさ?


よくありがちな大衆批判とかは、「賢人」を自認するタイプの人間に見受けられる。簡単に言えば「大衆とは愚かだ、無知だ、正しいことを知らない」と嘆き批判するのである。中には真の賢人という人が稀にいるかもしれないが、総じて大衆と何ら変わらないかそれ以下であることが多い。批判者自身が愚かであることは珍しくはないのである。無知な大衆よりもタチが悪いのは、本人が愚かさに無自覚であることであり、変に「賢い」と自認しているのでなおさら手に負えないのである。このようなタイプの人物に、物事を見切られると大変なことになる(笑)。世界を見通した気分に浸っているので、愚かな大衆には気付くことができない”向こう側”に、「真実」とか「正解」を見つけることができてしまう(ここで言う”向こう側”とは、web2.0ものとは無関係。遊離した遠くの世界ってこと。彼らにとっては存在するらしい)。それ故、恐ろしいのである。「腐れエリート」とか、「エリートもどき」とかに見られやすいかもしれない。

これと似ているのが、「ネット言論はクズだ」発言である。これも、批判対象が「自分(たち)よりも愚かで低脳で下品だ」という「見下し感」によって支えられているものである。どうやら発言者は向こう側に逝っているらしい(笑)。

finalventの日記 - ネットの言論はクズ

典型例は鳥越編集長だったか、オーマイvsネット住人みたいな構図。鳥越氏は元々「掲示板(=2ちゃんねる)ってのは云々かんぬん」って先入観の持ち主であって、これがネット言論の全部であるかのような「錯覚(誤解?)」を抱いていたようである。彼は「自分こそがジャーナリズムを体現している人間」という、前述した自らを「賢人と自認するタイプ」と同じような選民的思想傾向を持つのではないかと思われる。ネット言論なんて、と吐き捨てるような人物を何故オーマイが選んだのか不明ではあるが、なるべくしてなったのは編集長降板ということであろう。そもそも新天地を切り拓くような柔軟性を持たない人物に、ネット言論の一翼を担わせようというのは無理な話なのである。旧体制の枠組みを超えて行ける能力など初めから持ち合わせていないのだから。ガチガチに固まった思考しか持たず、自らを賢人視する人間というのは、全くの無知なる人々よりも悪弊が多い上に度し難いのである。今は闘病中の筑紫さんの方が、むしろ「ネット言論にも見るべきものがある」として「理解しよう」とする許容範囲の広さはあるだろう(ガンに負けないでね、応援していますよ、マジで)。罵倒対象にされがちな筑紫さんだが、「ジャーナリストの魂・習性」みたいなものが染み付いているのは筑紫さんの方であろうと思う。

<筑紫氏に対する個人的評価としては、色々と疑問に思うことを言うな、とは思うし、言論の質の高さというのが「それ程でもないのでは」と感じることもあるが、職業的なジャーナリストの感性みたいなものは、やはり持っているのだなと思っていた。>

マスメディアの中では、全部が「ネット?フン、氏ね、クズ」みたいに思っているわけではないでしょう。大きく分けて3つのタイプがありそうです(って、勝手な分類ですけど)。

①ジャーナリズムを捨ててない、死んでない層

ネット言論であろうとも、情報源の1つとみなして、自らの知識や情報を補完しようとするタイプ。現実世界の取材は勿論行うが、ネット言論から切り口や見方を学ぶ。自らにないものを見出す能力があれば、有効利用可能なのだ。言論世界の一部を形成している対象としてネット言論を見ている。割と若手なんかが多いかもしれないが、実態は不明。将来のマスメディア像なんかにも関心が高いかもしれない。危機意識もそれなりに持っているかも。

②毒された層

ほぼ、屍状態。ネット世界を敵視しているか、はじめから見下しているので、「ネットのバーカ、バーカ」的対応。「ネット言論はクズ」の一派もこれと思われる。旧体制の枠から抜け出せない体質。これまで自分を取り囲んでいた古い世界観に縛られており、それにしがみつこうとする。もしもこれを奪われると、大海に漂流するような恐怖に見舞われるので、恐ろしくて手放せないのである。船を漕ぎ出す勇気を持たないくせに、見下すのだけは得意なのである。変にエリート意識があるのも危険。恐らく実数としては、多数派ではないであろう。

③甘んじる層

どうしていいのか判らない層。自分では決められない。今のマスメディアの仕事も、命令されるからやっているが、本当のところは自分でもよく分らない。なので、サラリーマンとして仕事をこなす。「自分の看板」を永遠に持てないが、ジャーナリズムとは別な出世とか社内の力学関係とか、そういった本質とは関係ないところで力を発揮することもあるかも。なので、ネット言論が云々とかいうのは「関係ないや」ということで片付く。どっちでもいい(というか、実は自分で評価できないのかも)。現実には、割と多いかもしれない(ひょっとして最大多数派?)。


新聞に限らず、テレビとかも含めて、マスメディアという大きな捉え方だと結構幅があるかもしれない。なので「マスゴミ」とか叩かれるのも同情してしまうな。新聞の社説なり、テレビの番組なり、個々に批判した方が有効ではないかと思う。まとめて批判されても、批判される側が理解できないからだ。割と頑張っていることもあるし、よくない面があることも勿論ある。ただ「テレビはゴミだ」とか「新聞はオワタ」とか言っても伝わらないので、もっと具体的に指摘した方がいい。分る人には分るだろうと思う。特に、①のタイプの人々には通じるはずだと思っている。


具体例を少し。

ライブドアがニッポン放送株を電撃購入した時に、フジ系列ではニュースでも一切触れなかった。恐らく社内的には「禁句」みたいになってしまったんだろうと思う。そりゃ判るよ、気持ち的には。でも、報道なんだから、伝えるのが筋なんだよね。で、社内的タブーみたいなのを押し退けて報じたのは、何と小倉さんが出てる「特ダネ」というワイドショー番組だった。番組の上の方の人たち(ディレクター?プロデューサー?みたいな人?)とかは相当勇気があったんだろう(笑)。ネット上でかなり色んな情報が集められていたので、彼らはそういった情報を見ながら報じていたと思う(これは実際どうであったかは、私には分らない。確認する術がないし。あくまで個人的印象で述べたまでです)。下手にライブドア関連の報道をやって、社内的に立場を悪くするんじゃないか、という恐れを抱くとしても普通であろう。だが、敢えてその問題に正面からぶつかって行った。そういう行動を示すということが大事なんじゃないのかな、と。で、そういうことができてる人たちの方が、ネット言論なんかを見て役立つものを選び取っているのであろうな、と。結局、ジャーナリズムに関してフレキシビリティの高い人が、ネット言論に対しても何らかの評価をしているのだと思う。これは新聞記者であっても、ネット言論を見て評価・判断している人たちはいると思う。

「自分の看板」を掲げて書いている人、というのも重要だ。最近の例で思いつくのは日経新聞の清水真人氏だろうか。「プロの視点」シリーズで書いていますね。著書も出たらしいですからね(一つも読んだことないが。失礼)。こういう活動を行っている人は、「自分の看板」という重みがあることをよく知っているであろう。そして、これはネット言論でも同じだ。「極東ブログ」がまさしくそうである。


現実世界の中での取材や観察というのも勿論だが、1つ1つの「事柄」を結ぶ線というか「織り糸」のようなものの感性は、旧来の政治記者とか政治評論家の意見だけ聞いていても生み出されないのではないかと思える。むしろ、ネット世界の言論にこそ、そうした色々な種類の「織り糸」が存在しているのだ、と思う。そういう何かを発見できるようになれば、ネット世界に広がる言論の中に価値を見出せるようになるであろう。それが見出せないのは、自らの未熟さ能力の低さ故なのだ、ということに気付けない人たちはいるのであろう。

Timeの表紙を飾ったのは「You」ということの意味について、未だに理解できないという人々は存在するのです。持っている感性がTimeのレベルとは全く異なっているのだということでしょう。悲しいかな、これが日本のマスメディアを騙る連中の実情ということです。



「追い貸し」で思い出したけど

2007年06月07日 15時25分11秒 | 政治って?
公的機関においては、まあそれと似たようなことが漫然と行われているな。もう随分前の記事になってしまったが、一応挙げておく。

郵政と財投と周辺組織の問題2

特殊法人の不良債権額の推測?

特殊法人の不良債権額の推測?2

国の債務超過額


4番目の記事に書いた当時、国家公務員共済の一元化を予想してはみたものの、本当に実現するとは真剣に考えていなかった。
自らまいた種ということなんでしょう>財務省どの(笑)


民間企業再生については専門的知識とかノウハウみたいなものが必要なのだろうから、私には分らないが、一般的には清算処理よりも回収額が多くなるし、雇用面でもプラスが多い。なので、単なる「資金供給停止」とかではなくて、きちんと「再建計画」を立て、事業の継続性があるものについては存続させるような道を模索するべきだと思っている。債務の減免とか一時凍結とかDESとか(専門的にはきっとたくさんあると思うので、私には詳しく判りません)、何らかの手法を駆使して対処することが必要だと思う。

けれども、公的機関というのは、市場の処理システムというようなものが機能しない。法改正とかの強力な変更がなければ、無駄な組織であっても、公費を貪り続けるのだ。緑資源機構のようなものがいい例だ。行政府内部の作用だけでは、これに類する組織を自ら処理できないそうなので、バッサリと切られることも覚悟せねばならなくなるのである。


話が戻ってしまうが、中小企業再生・支援関連については過日触れたように、既にある制度とか枠組みを利用していくことを考えた方がいいと思うのですよ。新たな組織を作って、ってことになれば、どうせ無駄なものがいくつも重複して作られることになってしまうだけだから。これまでの政策においても、重複が十重二十重となって(笑)似たような無駄組織が生み出されてきたように思えます。

再生プランを作っていく人たちと、資金の出し手と、それぞれ別にあるものを利用して、公的融資制度の枠内でできるものなんかを有効活用していけばいいのではないかな、と思うのですよね。素人考えだから、カバーされていない部分がたくさんあると思うけれど、現状あるものを利用していく、無い部分については新たな施策として手当てが必要なら「制度の枠組み」を用意する、ということで対応するべきと思います。教育再生会議の評判の悪さを見れば、(中教審の上に重ねられて)新しい組織をある程度うまく運用していけるようになるまでに、無駄な犠牲とか試行錯誤を繰り返すことになりそうな予感が…ということです。