医療費の問題について、とてもよく判る記事がありましたので、書いておきたいと思います。
原田氏は、高齢化要因ということで医療費が増大するわけでもない、ということを述べておられる。GDP成長率よりも低い程度でしか増大しない、という推計を出しておられた(是非元の記事をお読み下さい)。
BizPlus:コラム:原田 泰氏「経済学で考える」第61回「『高齢化で医療費増』は本当か」
(一部引用)
医療費の増加が医療の進歩によるのであれば、国民の負担は増えていない。それで難病が治り、健康寿命が延びるのなら、実質的に国民は豊かになっているのだから負担にはなっていない。大きなテレビが買えるようになったから、負担が増えたと考える人はいないだろう。白内障が治ったら、それは生活水準が格段に向上しているのであって、負担が増えている訳ではない。これを企業の立場から見れば、売り上げの増大は高齢化によってではなく、医療技術の進歩によってもたらされることを意味する。
ただし、医療の進歩には疑問を呈したい点がある。どんな産業の進歩でも、生活を快適にする進歩とそれを安価にする進歩の2つがある。薄型テレビは、大画面、高画質、高音質になりながら安価になった。ところが、医療においては、治癒向上の進歩はあっても、コスト低下の進歩が起きることがまれであるように思える。医療においても薄型テレビのような進歩を起こし、健康寿命を伸ばしながら医療費を安くすることが求められている。質とコスト両面からの技術進歩が進めば、懸念れているような医療費の膨張は、名実ともに回避できるのではないか。
医療費については実額が増大したとしても、「対GDP比は減少する」という推計を出しておられます。そうであるなら、厳しい医療費抑制策というのは、理に適っていないのではないかと思えます。政治家たちや厚生労働省は何とか考えて、過度な抑制路線を変更してくれ、と思ったりします。
これとは少し離れますが、引用部分のご指摘について検討をしてみたいと思います。
質の向上と、コストを低コスト化していく面と、両方が望ましいというご意見ですが、これはそうだろうなと思います。医療以外の多くの分野でそういうことが達成されてきましたから。では、医療においてはどうなんだろうか、ということを考えてみたいと思います。
例えばガン治療というのは、昔は大変難しかった。ほんのひと昔まえのドラマとかだと、「ガンだということは本人に言わないでおきましょう」みたいに、ひた隠しにしていたでしょう。要するに「死の病」というイメージだった。だから、「あなたはガンです」と言われりゃ、まさしく「ガーン」って(笑、オヤジギャグでごめんね)なっていたのです。告知するべきか、しないべきか、みたいな「社会派テーマ」で大問題となっていたわけです。それこそ数限りなく論争みたいなものがあったり、文化人とか識者たちがあれこれと「言うべきだ」「いや、本人の云々」「家族が~」「支える人が~」「生きるって~」「人生って~」となっていたわけです。でも、イマドキ、そんなテーマで大論争みたいなものとか、あんまりないと思うのですよ。それはどうしてそうなったかというと、方向性が定まったからだ、という部分はあると思いますけれども、それ以上に、「死の病」ではなくなってきた、ということの影響が大きいのではないのかな、と思うのです。
それは民間会社の医療保険の傾向などにも現れていて、3大疾病だの、ガン保険だのと色々と出ているわけです。住宅ローンにさえ、特約がついている時代です。それらは主に「死を前提」として商品価値のある保険ではないでしょう。治療して、その後の生活があるので、それらをカバーするべく保険制度となっていると思うのです。治療する、生きる、そういう為にある商品でありましょう。死を前提とするのであれば、「死亡保障」だけあればいいわけで、それなら普通の生命保険と同じ意味合いでしかありません。ですので、ガンという病は、ある程度克服可能な疾病であるということになってきたのです。
ここからは、あまりに酷い喩えといいますか、非人間的な仮定をしていくことになりますので、反感を憶える方々もおられると思いますので、予めお断りしておきます。私個人としては、「人間の命の値段なんて付けられないんだ!」という意見とか考え方には、共感できるのですが、それでも社会的には「意図的に考えねばならない時もある」ということをご理解下さい。交通事故で死亡したら、逸失利益として金額で出されてしまいます。それはやむを得ないのです。私自身、自分の家族とかに値段なんて付けられません。金じゃないんだ、命は地球より重いんだ、というのはそうだろうと思いますけれども、説明には金額が必要ですので、ご容赦下さい。
毎年人口も死亡者数も変わらず、一定の年齢で死亡していくものと仮定します。で、ガンで毎年20万人が死亡するとします。これは常に一定です。この疾病の発生確率は変わらないものとして考える、ということです。「昔」という時点と、「現代」という時点とを比較検討することとします。
昔:
・年間100人が治療により助かる
・治療費は一人当たり100万円
・治療後全員3年間生存し、その後再発で死亡する
・全員の生み出す平均利益は一人当たり300万円
こういう条件であるとします。すると、ガンにならなければ得られていたであろう利益というのは、死亡した20万人分があったはずです。毎年、300万円×20万人分あったことになります。けれども、ガンという疾病によってそれらは失われてしまう、ということです。
一人当たりの利益は300万円で3年間生存しますから合計900万円ですが、治療費を100万円投入しているので、差額の800万円が回復された利益ということになるかと思います。これが100人分ならば8億円です。収支は、治療費1億円で9億円を回収したことになります。
次に、時代を変えて見てみます。
今:
・年間10万人が治療により助かる
・治療費は一人当たり150万円
・治療後全員5年間生存し、その後再発で死亡する
・全員の生み出す平均利益は一人当たり450万円
条件が変わりました。
医療費も利益も1.5倍としています。
更に、生存率が向上して5年になっているとします。
一人当たり450万円×5年分=2250万円ですが、治療費150万円が投入されているので差額は2100万円となります。10万人が助かるので、全部で2兆1千億円となります。投入された治療費は全部で1500億円です。昔に比べて1500倍の治療費となっていますが、得られる利益は約2333倍です。命を買う、人生という時間を買う、ということは、本来的には「プライスレス」だと思うのですが、助けられる人の数が増やせるというのは、多くの場合に大きな経済学的利益を生み出すはずです。
医療において「低コストになっていく」ということはどういうことかと言えば、相対的に投資効率が良くなることで、以前には100人にしか提供できなかった医療技術や水準というものが、今では1000倍の10万人に提供できる、というようなことです。一人当たりの単価自体は若干上がってしまうとしても、得られる成果は大きくなるので、相対的にコストは下がっていると考えられるでありましょう。それは、言い方を変えれば、かつては「死」をもってそのコストを支払っていたことになるからだと思うのです。
近年、薬剤耐性の結核が問題になってきていますが、それでも昔のような「サナトリウムの美少年」みたいに、若くして死亡みたいなことが減って、結核で死亡する人たちは減少したでありましょう(最近は逆にやや増加基調だったかもしれません…ちょっと調べてないので判りません)。そうした時代の人々は結核自体の医療費は今よりも少なかったかもしれませんが、命でコストを払っていたからです。自分の人生という時間を削って、コストを払うことになっていたからです。ですので、低コスト化ということを達成するのは、目で見て数字で表すというのは難しい面があるかもしれませんが、「あなたの命、人生の時間で払ってもらえればいいですよ」と言われた時、お金ではなくそれらで払える人たちはどれほど存在しているでしょうか、ということです。死亡率の低くなった疾病の多くは、知識とか治療技術などが確立されていく過程で、「命で払う」「自分の時間の削って払う」ということがなくなり、「お金で払う」ということに変わっていったのだろう、と思います。昔の一人と、今の一人の命も時間も全く同じ価値であるなら、昔の多く死んでいっていた時代というのは、病気のコストが「凄く高かった」としか思えないのです。
変な例かもしれませんが、ここであるゲームというか遊びを考えてみます。
チェスの対戦をします。相手は史上最強の人工知能を持つ「ディープ・レッド」であるとします。AI に勝利すれば、あなたには「名声」「喜び」が手に入るとします。あなたが直接対戦することも可能ですし、代理人を立てることも可能であるとしましょう。勝利の確率を次のように仮定します。
対戦するのが
①自分の時:勝利確率は「0.1%」
②A級代理人の時:同 「1%」
③B級代理人の時:同 「50%」
とします。
負けた場合には、あなたの命を頂くことになっています。
この時、代理人AやBのコストはどのくらいになるでしょうか?
うまく考えることができないのですが、これって自分の命に値段を付けねばならない、ということなのではないでしょうか。
勝利しない場合には命を取られるので、代理人Aと代理人Bの値段を決めるとなれば、Bの方が相当高額になって当然なのではないでしょうか。でも、公定価格によって決まっていて、あまり上がってこなかったであろうと思います。それと、かつてはA級しかいなかったのですが、B級代理人の数が圧倒的に多くなれば、1回の対戦当たりでの勝利のコストは「下がった」ということになるのではないでしょうか。
病気の時(=対戦する時)は避けられないのですし、代理人(=医療従事者)は法外な報酬を請求してきたりはしないのです。公的に決まっているからです。勝利コストを確実に下げてきたとしても、多くの人々にはそれがあまりに当たり前過ぎて判らないのであろうと思うのです。もしも判っているのであれば、例えば、周産期死亡がこれほど減ってきたことの意味が理解できていたはずで、医療ミスを責め立てるようなことにもならなかったでありましょう。
結局のところ、自分自身(それとも家族とか?)の命の値段、自分の人生の時間の価値、それらが安価であるなら低コスト化ということには繋がらないでしょう。逆に、価値が高ければ高いほど、低コスト化が達成されているということになるのではないでしょうか。生命、健康、時間、それらをベットして、勝利を手に入れるゲームに参加しているのですから。代理人の報酬と成果は、もたらされた利益―すなわちベットされたものの価値―の大きさとの比較に過ぎないのです。
ちょっと追加ですが、以前にも似たようなことを書きましたので、参考まで。
医療費の分析~その1(追記あり)
医療費の分析~その2
介護問題を考える~「時は金なり」
原田氏は、高齢化要因ということで医療費が増大するわけでもない、ということを述べておられる。GDP成長率よりも低い程度でしか増大しない、という推計を出しておられた(是非元の記事をお読み下さい)。
BizPlus:コラム:原田 泰氏「経済学で考える」第61回「『高齢化で医療費増』は本当か」
(一部引用)
医療費の増加が医療の進歩によるのであれば、国民の負担は増えていない。それで難病が治り、健康寿命が延びるのなら、実質的に国民は豊かになっているのだから負担にはなっていない。大きなテレビが買えるようになったから、負担が増えたと考える人はいないだろう。白内障が治ったら、それは生活水準が格段に向上しているのであって、負担が増えている訳ではない。これを企業の立場から見れば、売り上げの増大は高齢化によってではなく、医療技術の進歩によってもたらされることを意味する。
ただし、医療の進歩には疑問を呈したい点がある。どんな産業の進歩でも、生活を快適にする進歩とそれを安価にする進歩の2つがある。薄型テレビは、大画面、高画質、高音質になりながら安価になった。ところが、医療においては、治癒向上の進歩はあっても、コスト低下の進歩が起きることがまれであるように思える。医療においても薄型テレビのような進歩を起こし、健康寿命を伸ばしながら医療費を安くすることが求められている。質とコスト両面からの技術進歩が進めば、懸念れているような医療費の膨張は、名実ともに回避できるのではないか。
医療費については実額が増大したとしても、「対GDP比は減少する」という推計を出しておられます。そうであるなら、厳しい医療費抑制策というのは、理に適っていないのではないかと思えます。政治家たちや厚生労働省は何とか考えて、過度な抑制路線を変更してくれ、と思ったりします。
これとは少し離れますが、引用部分のご指摘について検討をしてみたいと思います。
質の向上と、コストを低コスト化していく面と、両方が望ましいというご意見ですが、これはそうだろうなと思います。医療以外の多くの分野でそういうことが達成されてきましたから。では、医療においてはどうなんだろうか、ということを考えてみたいと思います。
例えばガン治療というのは、昔は大変難しかった。ほんのひと昔まえのドラマとかだと、「ガンだということは本人に言わないでおきましょう」みたいに、ひた隠しにしていたでしょう。要するに「死の病」というイメージだった。だから、「あなたはガンです」と言われりゃ、まさしく「ガーン」って(笑、オヤジギャグでごめんね)なっていたのです。告知するべきか、しないべきか、みたいな「社会派テーマ」で大問題となっていたわけです。それこそ数限りなく論争みたいなものがあったり、文化人とか識者たちがあれこれと「言うべきだ」「いや、本人の云々」「家族が~」「支える人が~」「生きるって~」「人生って~」となっていたわけです。でも、イマドキ、そんなテーマで大論争みたいなものとか、あんまりないと思うのですよ。それはどうしてそうなったかというと、方向性が定まったからだ、という部分はあると思いますけれども、それ以上に、「死の病」ではなくなってきた、ということの影響が大きいのではないのかな、と思うのです。
それは民間会社の医療保険の傾向などにも現れていて、3大疾病だの、ガン保険だのと色々と出ているわけです。住宅ローンにさえ、特約がついている時代です。それらは主に「死を前提」として商品価値のある保険ではないでしょう。治療して、その後の生活があるので、それらをカバーするべく保険制度となっていると思うのです。治療する、生きる、そういう為にある商品でありましょう。死を前提とするのであれば、「死亡保障」だけあればいいわけで、それなら普通の生命保険と同じ意味合いでしかありません。ですので、ガンという病は、ある程度克服可能な疾病であるということになってきたのです。
ここからは、あまりに酷い喩えといいますか、非人間的な仮定をしていくことになりますので、反感を憶える方々もおられると思いますので、予めお断りしておきます。私個人としては、「人間の命の値段なんて付けられないんだ!」という意見とか考え方には、共感できるのですが、それでも社会的には「意図的に考えねばならない時もある」ということをご理解下さい。交通事故で死亡したら、逸失利益として金額で出されてしまいます。それはやむを得ないのです。私自身、自分の家族とかに値段なんて付けられません。金じゃないんだ、命は地球より重いんだ、というのはそうだろうと思いますけれども、説明には金額が必要ですので、ご容赦下さい。
毎年人口も死亡者数も変わらず、一定の年齢で死亡していくものと仮定します。で、ガンで毎年20万人が死亡するとします。これは常に一定です。この疾病の発生確率は変わらないものとして考える、ということです。「昔」という時点と、「現代」という時点とを比較検討することとします。
昔:
・年間100人が治療により助かる
・治療費は一人当たり100万円
・治療後全員3年間生存し、その後再発で死亡する
・全員の生み出す平均利益は一人当たり300万円
こういう条件であるとします。すると、ガンにならなければ得られていたであろう利益というのは、死亡した20万人分があったはずです。毎年、300万円×20万人分あったことになります。けれども、ガンという疾病によってそれらは失われてしまう、ということです。
一人当たりの利益は300万円で3年間生存しますから合計900万円ですが、治療費を100万円投入しているので、差額の800万円が回復された利益ということになるかと思います。これが100人分ならば8億円です。収支は、治療費1億円で9億円を回収したことになります。
次に、時代を変えて見てみます。
今:
・年間10万人が治療により助かる
・治療費は一人当たり150万円
・治療後全員5年間生存し、その後再発で死亡する
・全員の生み出す平均利益は一人当たり450万円
条件が変わりました。
医療費も利益も1.5倍としています。
更に、生存率が向上して5年になっているとします。
一人当たり450万円×5年分=2250万円ですが、治療費150万円が投入されているので差額は2100万円となります。10万人が助かるので、全部で2兆1千億円となります。投入された治療費は全部で1500億円です。昔に比べて1500倍の治療費となっていますが、得られる利益は約2333倍です。命を買う、人生という時間を買う、ということは、本来的には「プライスレス」だと思うのですが、助けられる人の数が増やせるというのは、多くの場合に大きな経済学的利益を生み出すはずです。
医療において「低コストになっていく」ということはどういうことかと言えば、相対的に投資効率が良くなることで、以前には100人にしか提供できなかった医療技術や水準というものが、今では1000倍の10万人に提供できる、というようなことです。一人当たりの単価自体は若干上がってしまうとしても、得られる成果は大きくなるので、相対的にコストは下がっていると考えられるでありましょう。それは、言い方を変えれば、かつては「死」をもってそのコストを支払っていたことになるからだと思うのです。
近年、薬剤耐性の結核が問題になってきていますが、それでも昔のような「サナトリウムの美少年」みたいに、若くして死亡みたいなことが減って、結核で死亡する人たちは減少したでありましょう(最近は逆にやや増加基調だったかもしれません…ちょっと調べてないので判りません)。そうした時代の人々は結核自体の医療費は今よりも少なかったかもしれませんが、命でコストを払っていたからです。自分の人生という時間を削って、コストを払うことになっていたからです。ですので、低コスト化ということを達成するのは、目で見て数字で表すというのは難しい面があるかもしれませんが、「あなたの命、人生の時間で払ってもらえればいいですよ」と言われた時、お金ではなくそれらで払える人たちはどれほど存在しているでしょうか、ということです。死亡率の低くなった疾病の多くは、知識とか治療技術などが確立されていく過程で、「命で払う」「自分の時間の削って払う」ということがなくなり、「お金で払う」ということに変わっていったのだろう、と思います。昔の一人と、今の一人の命も時間も全く同じ価値であるなら、昔の多く死んでいっていた時代というのは、病気のコストが「凄く高かった」としか思えないのです。
変な例かもしれませんが、ここであるゲームというか遊びを考えてみます。
チェスの対戦をします。相手は史上最強の人工知能を持つ「ディープ・レッド」であるとします。AI に勝利すれば、あなたには「名声」「喜び」が手に入るとします。あなたが直接対戦することも可能ですし、代理人を立てることも可能であるとしましょう。勝利の確率を次のように仮定します。
対戦するのが
①自分の時:勝利確率は「0.1%」
②A級代理人の時:同 「1%」
③B級代理人の時:同 「50%」
とします。
負けた場合には、あなたの命を頂くことになっています。
この時、代理人AやBのコストはどのくらいになるでしょうか?
うまく考えることができないのですが、これって自分の命に値段を付けねばならない、ということなのではないでしょうか。
勝利しない場合には命を取られるので、代理人Aと代理人Bの値段を決めるとなれば、Bの方が相当高額になって当然なのではないでしょうか。でも、公定価格によって決まっていて、あまり上がってこなかったであろうと思います。それと、かつてはA級しかいなかったのですが、B級代理人の数が圧倒的に多くなれば、1回の対戦当たりでの勝利のコストは「下がった」ということになるのではないでしょうか。
病気の時(=対戦する時)は避けられないのですし、代理人(=医療従事者)は法外な報酬を請求してきたりはしないのです。公的に決まっているからです。勝利コストを確実に下げてきたとしても、多くの人々にはそれがあまりに当たり前過ぎて判らないのであろうと思うのです。もしも判っているのであれば、例えば、周産期死亡がこれほど減ってきたことの意味が理解できていたはずで、医療ミスを責め立てるようなことにもならなかったでありましょう。
結局のところ、自分自身(それとも家族とか?)の命の値段、自分の人生の時間の価値、それらが安価であるなら低コスト化ということには繋がらないでしょう。逆に、価値が高ければ高いほど、低コスト化が達成されているということになるのではないでしょうか。生命、健康、時間、それらをベットして、勝利を手に入れるゲームに参加しているのですから。代理人の報酬と成果は、もたらされた利益―すなわちベットされたものの価値―の大きさとの比較に過ぎないのです。
ちょっと追加ですが、以前にも似たようなことを書きましたので、参考まで。
医療費の分析~その1(追記あり)
医療費の分析~その2
介護問題を考える~「時は金なり」