若い時というのは、誰でもそれなりに体に自信があるものである。
オジサンも高校、大学とサッカーを続けていて体力だけは誰にも負けなかった。
特にサッカー部のキャプテンをやっていた大学3年の頃は絶頂期であった。
いくら激しい練習や壮絶な試合をやっても心地よい疲労感で翌日には回復していた。
この体力の蓄えは社会人になってもオジサンを支えてくれた。
もっともそれは余り健全とはいえないものであった。
社会人になってやたらと道端を走ることはない。
精々発揮できるのは夜であった。
それも「徹夜」という人間の生理的な機能を破壊する極めて不健康な行為である。
なぜか、オジサンは徹夜に強かった。
誰しもが眠くなる明け方に一人目を爛々と輝かせていた。
しかし体の筋肉は確実に弱まっていた。
学生の頃は皆がはいているジーンズがオジサンは苦手だった。
ヒップと太腿とウェストのサイズのバランスが悪く、既成のものは合わなかった。
すなわち、ウェストで合わせてはくとヒップと太腿がきつく、ヒップに合わせて選ぶとウェストが大きすぎたのである。
やがて結婚し、長女が生まれるにしたがって、オジサンは体力の衰えを徐々に感じ始めた。
その最初の事件は、娘が3歳頃のことである。
会社から早く帰宅した時、娘がオジサンの家の前の坂を勢い良く走ってきた。
当然オジサンは娘を両手で受け止め、上に思いっきり抱きかかえるつもりだった。
しかし現実は残酷だった。
オジサンのイメージ通りには行かず、娘を両手で抱きかかえた瞬間、「グキ!」という鈍い音とも腰から崩れ落ちてしまった。
初めて経験する「ギックリ腰」と呼ばれるものだった。
暫くは立てず、3歳の娘もさすがに父親の異常に動揺している風であった。
娘は急いで母親を呼びオジサンはオバサンに抱きかかえられながら、そのまま車に乗って地元の接骨医に運ばれた。
医者のベッドに横たわるまではまさに地獄の痛みであった。
・・・それから20年以上は、その時の事を忘れて無事に過ごしていた。
特に、床にあるものを持ち上げるときは充分に膝を曲げて両腕を伸ばして立ち上がるという鉄則を守っていた。
先週は、火曜日から4日連続で深夜バスで帰宅する毎日であった。
さすがに昔取った杵柄は役に立たず、全身が疲労感に襲われて、さらに2月に降った雪かきの後遺症を治すために10年来の付き合いのマッサージ治療院に行った。
「特にお疲れのところはありませんか?」
と若い男性のマッサージ師が尋ねるので、
「左肩と首と腰と・・・」
といいかけると、
「それでは全身をチェックしながら診てみましょう」
と背中、足とマッサージを始めた。
強さも丁度良く心地よくなったところで、うつ伏せのまま足を1本づつ上げ始めた。
まさに「片足エビ固め」の姿勢になった。
昔、タイ式のマッサージを受けたときも、こんな姿勢をたらされた事を思い出した。
「体も大分固くなっているようなので少しストレッチをしておきましょう」
といいながら、特に客の意向を確認することもなく始めていった。
日頃、使われない体の各部署を突然動かすのであるから、「ヤバイぞ」と思ったが、
既に手遅れであった。
若干の違和感を感じながら帰途に着き、その晩は特に異変も起きずにおとなしく床に就いた。
日曜日、朝8時頃に目を覚まし、勢い良く布団から起きようとしたが、腰に痛みを感じた。
その痛みは徐々に増してきて、ついには立っている事が辛くなった。
夕方は腰に固定用ベルトを巻いてオバサンの買い物に付き合った。
しかし痛みはとれず、風呂に浸かってみても変わりは無かった。
最後は鎮痛剤に頼るしかないと、夕飯のアルコールの力を借りて痛みを暫し忘れて、
深夜にこの「つぶやき」を書いている。
「マッサージに行って腰を痛めて帰ってくるなんて、弱くなったわね!!」
このオバサンの一言でまたもや痛みがぶり返してきた。
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ここまでは現役時代の苦い思い出である。
そんな「苦さ」も年月が経てば自然と忘却の彼方に追いやれてしまう。
以下は、古希を過ぎて2年も経った昨年の7月以降の出来事である。
昔の仲間との形式的な会議の後は、いつもの「交流会」と称する宴会が始まる。
冷たい缶ビール飲んで冷えた高級日本酒しこたま飲む。交流会会場を何時に出たのか不明。
歩いて地下鉄の駅の階段あたりまで行ったらしいがその後の記憶が全くなく、気が付いたら救急搬送先の虎ノ門病院のベッドの上。
妻と娘夫婦が待機中。一瞬事情が呑み込めなかったが妻の説明では駅員に倒れているところを発見され救急車に乗せられたらしい。
夜間の「ナイトドクター」による適切な処置により大事にはならなかったが、貴重品類と携帯等は無事で物取りに襲われたわけでもなく、酔っ払い老人の転倒事故として処理されたらしい。
推測するに階段の最後の段を踏み外し右足から落ちてバランスを崩し右手を突きながら顔の右側をかなり強く打ち付けたらしい。
右目周辺が血だらけになり眼鏡のツルが伸び右レンズがすっ飛び右瞼上に5か所の裂傷と頬にも擦過傷。
右目下は内出血しているらしい。娘婿の車に揺られ午前3時ころ帰宅。そのまま妻の脇に寝て夜を過ごす。
2日目の土曜日に地元の大学医学部付属の病院に、虎ノ門病院の担当医の紹介状とCT画像をもって形成外科を訪れる。
担当の女医はCT画像を見ながら極めて事務的に今後の予定を告げる。
「すでに夏休みに入っており手術は7月中は予約で埋まっており8月の10日に手術しましょう」と患者が記入する関連資料にサインをする。
正式な病状は「頬骨骨折」だという。
頬骨は顔面骨を構成する骨の1つで、いわゆる「ほほぼね」ですが、「きょうこつ」と呼びます。この骨は比較的弱い構造をしており、外から受けた力を緩衝し、脳を守る役割があります。また、ぶつけやすい部分にあるため、頬骨骨折は顔面骨骨折の中で鼻骨骨折に次いで多い骨折であります。交通外傷や転落はもちろん、殴打や転倒などの比較的軽度の外傷でも生じることがあります。小児よりは成人に多く、高齢の方の転倒で骨折する場合が多く認められます。 |
まさに典型的な老人の転倒事故である。
その場で口頭で担当医は模型を使いながら手術の概要を説明してくれた。
骨折した骨の位置がズレた状態で長期間そのままにしていると、骨がその位置で固まってしまい、整復が難しくなってしまいます。そのため、通常、受傷後7~10日以内に全身麻酔下でプレートによる固定術行います。骨折箇所に応じて口の中や下まぶた、眉毛の外側から切開を行い、折れた頬骨の位置を専用の器具で元の位置に戻していきます。その後、骨の位置が正しく戻ったことを確認し、プレートで固定します。プレートはチタン製のものや吸収される材料があります。どちらを選ぶかは、骨折の状態や年齢などの条件を複合的に加味して判断を行います。チタン製のプレートは、長期に留置していても問題ないため、骨折が治癒したのちに取り出すことは必須ではありません。しかし、感染したり、本人の希望がある場合には、1年以上の間隔を置いて同じ切開腺からプレートを取り出す手術を行なう場合があります。吸収性のプレートにはそのような二期的手術は必要ありませんが、時間がたった時に吸収されきれずに腫れてくることがあり、その場合には切除を行うことが稀にあります。 |
そして、入院と術後についてはこんな感じであった。
手術の前日に入院し、食事制限など、手術前の準備を行います。手術が終わり、数時間後からは飲水をはじめ、早い場合は術後半日で軽食から徐々に開始します。翌日に傷を確認し、早い場合には手術後2日で退院となります。口の開きづらさなどは、一時的に悪化することがありますが、徐々に軽快していきます。通常は、術後数日疼痛がありますが、痛み止めの飲み薬で我慢できる場合が多いです。退院してからは、飲酒と湯船につかるのは我慢していただきますが、シャワー浴は問題なく、手術後1週間で抜糸のため来院していただきます。抜糸までは、傷口は石けんで優しく洗って頂き、軟膏を塗ったガーゼをご自身であてていただきます。しびれがある方は、痺れの治療の飲み薬を内服したり、1~2カ月に一度、半年から1年の通院が必要です。 |
全身麻酔のため痛みは全く感じなかったが、麻酔が切れた後も不思議と痛みは残っていなかった。
ただ、「口の中や下まぶた、眉毛の外側から切開」して狭い頬内に金属類を入れて収される材料手術はのプレートで固定させる手術は数時間に及んだ。
抜糸後は1か月おきに今年の初めまで術後検診に通った。
あと10日ほどで術後1年になる。
しかし依然として右頬のプレート固定個所の痺れというのか、サウスポーのハードパンチャーに殴られたという感覚は残っている。
まさに全治ではなく完治1年以上の大事故であった。
若い時の「不覚」は時とともに消えてなくなるのだろうが、老人の「不覚」は受傷個所よりも、心に「深く」残ってしまうということを改めて感じた次第。