新・定年オジサンのつぶやき

残された日々をこの世の矛盾に対して勝手につぶやきます。
孫たちの将来に禍根を残さないよう、よき日本を「取り戻したい」。

改めて考えてみた「民度」とは?

2020年06月07日 11時53分24秒 | 日記

2015年3月16日、参院予算委委員会の質問で「建国以来、大切にしてきた価値観『八紘一宇』を紹介したい。強い国が弱い国のために働く制度ができて、世界は平和になる」と言い放った自民党参院議員の三原じゅん子。
 
この発言を聞いて文芸評論家の斎藤美奈子は2日後の東京新聞の「本音のコラム」でこう批判してい。
 

「会心の無恥」であり口が滑った程度の話じゃない。歴史のお勉強をサボると、こういう惨事を招くんです。いずれにせよ、侵略戦争を正当化したいという願望がなげればこんな無知かつ無恥な発言は出ないはず。厳しく処分しないと禍根を残すよ」

 
しかし大手マスメディアも批判しながら、自民党からの「厳しい処分」は一切なかった。
 
最近で最も印象的な場面は昨年6月の参議院本会議でのこんな罵詈雑言のヘイトスピーチであった。 
 
 
【ダイジェスト】総理問責決議案への反対討論 三原じゅん子参議院議員(2019.6.24)
 
なにしろ安倍内閣を守るためには何でもやるという自民党内では評判の女闘士になっていたようである。
 
しかし勉強不足からなのか、根本的に国会議員の仕事の本質を理解していないのかはいざ知らず、野党の政府の政策に対する批判をすべて「政争の具」と決めつける発想は、平たく言えば、10代の頃のツッパリ生徒がそのまんま50代の国会議員になったということであろう。  
 
そういえば当時三原じゅん子の「八紘一宇」発言を好意的にとらえていたのが、麻生太郎であった。
 
先日、「日本は民度が高いのか、アホ太郎君!」の中でこンな発言を取り上げた。

   
       「国民の民度のレベルが違うから」麻生氏発言

そして、確かにCOVID-19による死者数は欧米と比べれば格段に低いのだが、アジアというスケールで見ると、100万人当りのコロナ死者数は日本7人、香港0.5人、台湾0.3人となって、日本がダントツであり、「日本は他のアジア諸国に比べて、「民度が低い」ということなのだろうか」とつぶやいた。
 
ある識者は「民度という言葉は政治家が絶対に使ってはならない言葉の一つである」と指摘していた。
 
それでは「民度」とは一体、何であろうかということでいくつかの最新版ではない手元の辞書を引いてみた。
 
『三省堂国語辞典』
■国民の文明・生活の程度。「民度が低い」
『新明解国語辞典』
■その地域に住んでいる人びとの経済力や文化の程度。
『新潮現代国語辞典』
■国民・住民の経済生活・文化文明の程度
『岩波国語辞典』
■人民の生活程度「民度が低い」
『明鏡国語辞典』
■国民・住民の生活水準や文化水準の程度。「民度が高い」
次に、インターネットの検索エンジンGoogleで、「民度」に「高い」と「低い」をそれぞれ付けて検索してみた。
 
「民度」   :6,490,000 件  
「民度が高い」:7,900,000 件 
「民度が低い」:8,000,000 件 (2020年6月7日午前時点)
 
ちなみに、17年前にオジサンが調べた結果がこれ。 
 
「民度」=4940件
「民度が低い」=502件
「民度が高い」=156件
(2003年7月14日時点)
 
インターネットの発達により、スマフォで簡単に検索できるという事情も大きく影響しているだろうが、ずいぶんと関心が高まっている。
 
当時は明らかに「民度が低い」の方が、「民度が高い」の3倍以上使われていた。
 
それが現在ではほぼ近い数字で大きな差はないようである。
  
そもそも「民度」なんて言葉を出すこと自体、それを使う相手を貶めようとしているので、当然「高い」よりも「低い」が多く使われているのであろう。
 
『三省堂国語辞典』や『岩波国語辞典』はそういった使用状態を反映させて「民度が低い」という用例(しかも作例)を載せたものだと思われるが、一番新しい『明鏡国語辞典』は、「民度が低い」という言葉に差別的なものを感じて、あえて「民度が高い」の方を作例として採用したのではないかと類推されどうやら、各辞典もそれぞれの会社の特徴がでているようである。
 
最近のネットには、「民度が低い意味って?民度が低いと言われる人達の7つの特徴を解説!」という「民度解説」みたいな記事が出ていたが、あまりにも皮相的な解釈で「オコチャマ」レベルのように思われた。 
 
しかし、落ち着いて考えてみると、もしかしたらこの「民度」というものは、一定の考え方に基づいた、もっとはっきり言うと、「都会の」民主主義的な考え方に基づいた考え方の尺度のようにも思える。
 
そうすると、そういった生き方、考え方に基づかない生活を望む人たちが、第2次安倍内閣以降の選挙で自民党に投票し、結果的には長期安倍政権を実現させてしまったいうことになるのだろうか。
 
そしてその人たちの生き方を「民度が低い」というような一言で済ましてしまっていいのかどうか。
 
というより、そういった生き方で生活している人たちがいるという現実にもしっかりと目をむけていく必要もあるのではないか、とちょっと違った角度から考えさせられてしまう。
 
国民はその程度にふさわしい政府しか手に入らない」といったのはイギリス人だったと言われている。
 
「民度とは何か?」元朝日新聞記者だった本多勝一の定義を一部借用すれば、国民がまわりの流れに押されず、自分でものを考え、歴史や地理からどのくらい教訓を得ているかの度合いでありそれは政治の世界に重大な影響を及ぼすということらしい。
 
オジサン流に言えば「民度」は言葉の語源から「国民の成熟度」とも言えるのだが、残念ながら日本の「民度」はまだまだ成熟の域には程遠い状態ではないだろうか。
 
麻生太郎の発言からは、政府の要請により自発的に自粛生活を強いられても文句を言わず、欧米と比較して多くの死者を出さなかった国民は「一流」だが、そんなことを自分の手柄のように胸張って「日本の力」など頓珍漢な発言を広く海外にも発してしまった安倍晋三をはじめとする政府は「三流である」ということだけは確かである、とオジサンは思う。

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