----- 私の履歴書 安倍晋三 -----
そして忘れる事の出来ない2006年9月の総裁選、私は麻生太郎氏、谷垣禎一氏を大差で破って、自由民主党総裁となり、9月26日の臨時国会で戦後最年少、戦後生まれでは初めての内閣総理大臣に就任しました。
この瞬間、私はお祖父様の夢の実現に大きく近づいたと思いました。
私は国のトップです。最高責任者です。日本で一番偉い人になったのです。
喜びで天まで舞い上がりそうでした。
お祖父様が存命だったら、孫の総理就任をどれほど喜んでくれた事でしょう。
私はお祖父様の墓参で報告を行いました。
総理に就任すると、私は小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示すとともに、「美しい国」というテーマの下に「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度(教育に競争原理を導入する)」「ホワイトカラーエグゼンプション(残業代ゼロ)」などを掲げ、改革に着手しました。
このカタカナ交じりの方針は響きがよく、「さすが戦後世代の総理だ」と言ってくれる人も少なくありませんでしたが、あくまでも私の目標は憲法改正でした。
それらの施策は改憲に向けた序章に過ぎなかったのです。
私は組閣にあたり、総裁選で私を支持してくれた方や気の合う仲間を積極的に登用しました。
「お友達内閣」と揶揄する人もいましたが、派閥均衡に気を取られ、動かない内閣を作るよりは、多少の軋轢があってもアグレッシブな内閣を作りたいと思ったのです。
そして、同年の12月には念願だった教育基本法を改正し、防衛庁の防衛省昇格を実現させました。
私の前途は洋々、順風満帆の出帆と思っていましたが、予想だにしない落とし穴が待っていました。
本間正明税制会長が公務員宿舎で愛人と同棲している事が発覚して辞任、行革担当相佐田玄一郎氏が、事実上存在しない事務所の経費架空計上(7,800万円)が判明し辞任、 この後も閣内で次々とスキャンダルが続きました。
文部科学大臣伊吹文明氏の政治資金収支報告書不正記載、
厚生労働大臣柳澤伯夫氏の「女は子供を産む機械」発言、
松岡農水大臣が資金管理団体の不正計上批判を受けて自殺、
久間防衛大臣(当時)の「原爆の投下はしょうがない」発言、
農林水産大臣赤城徳彦氏の政治団体による9,000万円の不正計上等があり、就任当初70%前後だった支持率は一気に30%前後まで落ち込みました。
寄ってたかって、閣僚たちは私の足を引っ張ってくれました。
親しい人たちばかりだったので、身体検査が甘かったのでしょう。
結果、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、連立を組む自民・公明を併せても過半数を獲得できず、第1党から転落してしまいました。
私は政治家になって初めて屈辱感を味わいました。そして同時に天国のお祖父様に対する申しわけなさで一杯でした。
私は9月の臨時国会で一旦は所信表明演説を行いましたが、その2日後に辞意を表明し、総理の座を降りる事にしました。
実はその前から腹痛、下痢、血便が続いており、医師から潰瘍性大腸炎の診断を下されていました。
昭恵からも総理の職を辞するよう勧められており、悩んだ結果の決断でした。
今にして思えば、メディアのコントロールを徹底しておけば、ここまで支持率が落ちる事も無く、選挙で負ける事もなかったのです。
この時、私はしっかり学びました。ネットやメディアの重要性を。
その後、福田内閣、麻生内閣と続きますが、参議院で少数与党に転落した結果、ねじれ国会となってしまい、自公連立政権は結果を残せないままダッジロールを続ける事となったのです。
その責任は、2007年の参議院選挙で惨敗という結果を招いた私にありました。
これまでは自叙伝という事で、かなり自制しながら書いてきましたが、「嘘はいけない」、「本音で書け」という声を頂きました。
本音を書くのは勇気が要りますが、真実の私を知ってもらえば、人間安倍晋三に対する理解が深まり、逆に支持も高まるのではないかという意見もあります。
そこで、今回からは本音を書きます。失望される方もいらっしゃるかもしれませんが、これが私です。
2008年に発足した麻生内閣は残された衆議院任期が1年しかなく、選挙管理内閣同然という厳しい状況にありましたが、率直に申し上げて麻生さんの自滅でした。
麻生さんには申しわけありませんが、いくら経済が強くても、漢字が読めないようでは国民から支持されません。
事務方も答弁書に一々フリガナを振らされ、ボヤいていました。
麻生さんは答弁がダラダラして長すぎます。適当にはぐらかせば良いものを、口を歪めて、話まで歪めてしまわれますから、記者泣かせ、国民泣かせで支持率が下がってしまったのでしょう。
また、閣僚の不祥事も少なからずありました。
私の盟友で財務大臣中川昭一さんの酩酊会見、内閣官房副長官鴻池祥肇の女性問題、特命担当大臣(沖縄及び北方・防災担当)林幹雄の金銭疑惑、農林水産副大臣近藤基彦の建設会社からの1880万円給与授受問題等があり、自民党政権の末期症状とマスコミからも叩かれました。
麻生さんの求心力はみるみる失せ、党内からも公然と麻生降ろしの声が上がりました。
その結果、衆議院選挙で歴史的大敗を期し、あの寄せ集めで、ポリシーも節操も無いような民主党に政権を奪われる羽目になりました。
民主党は「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズで国民の期待を集めましたが、理想論だけでは経済は成立しません。
リーマンショックから立ち直れていない日本経済にとって公共事業投資は景気刺激策として欠かせません。
そんな当たり前の事を知らない民主党に経済は任せられません。
また事業仕分けと称して、民主党は官僚たちに真っ向から喧嘩を売りました。愚かな連中でした。
政権運営には官僚の協力が欠かせません。
官僚たちにもウマい汁を吸わせなければ、彼らは仕事をしません。天下りの何がいけないのですか?国家に貢献すれば、彼らの晩年を保障するのは当然の事です。
そもそも、国民主権という考え自体が間違っているのです。国家があっての国民です。天皇陛下を中心とする立憲君主制こそ日本が選択すべき道です。
また、民主党政権は対米従属からの脱却を唱え、対等な日米関係を主張しましたが、滑稽な話です。
アメリカあっての日本です。日本はアメリカに守ってもらったお陰で高度経済成長を成し遂げられたのです。
安保ただ乗りに助けられたのです。
アメリカに対する恩義を忘れ、対等な関係など主張すれば、アメリカの怒りを買うのは当然です。
小沢一郎、鳩山由紀夫らは元々自民党にいた人たちです。
アメリカに逆らった歴代首相や閣僚の末路を知らないはずがありません。
CIAの怖さを知らないはずがありません。
私は民主党政権は長くないと思いました。
国民は熱しやすく冷めやすい。期待が大きければ、その分、失望も大きくなる。
ましてアメリカに逆らい、官僚を蔑ろにすれば政権運営は行き詰ります。
そこに我々の勝機があると考えました。
先ずは私が自民党総裁に復帰する事。
そして民主党の弱みを見つけ、そこを徹底的に突く事。
ネットやメディアを活用し、民主党攻撃を強める事。
そうすれば我々は3年で政権に復帰できると考えました。
鳩山由紀夫は母親からの献金疑惑を追及して辞任に追い込みました。
菅直人には311東日本大震災時の福島原発事故の責任を取らせました。
一部、私や甘利大臣の責任を追及する新聞社もありましたが、所詮商業新聞はスポンサーがいなければ潰れるだけです。
幾ら記者レベルが騒いでも、幹部を抑えてしまえば好き勝手はできません。
明らかに私に敵対心を燃やす朝日、そして毎日、東京新聞もガス抜き程度の記事しか書けません。
野田さんは異色の総理でした。基本的スタンスは私と変わりません。私と同じく日本会議のメンバーです。
彼が民主党総裁になれたのは、親米保守だったからです。
鳩山由紀夫で反米に舵を切り、アメリカを怒らせましたが、菅直人で少し舵を戻しました。
しかし、やはり我が国の外交基調は親米であるべきです。
そうした意味で野田政権の誕生は好ましい事でした。
財務省主導で誕生した野田政権とは自公民大連立の話もありました。
だからこそ野田政権は消費増税、TPP推進に舵を切ったのです。
しかし私は民主党を俄かに信じる事はできませんでした。
野田さんのグループとは連立できますが、左派の連中とは絶対に組めません。
自民党内には大連立を支持する考えもありましたが、私は野田氏ら右派としか組めないと抵抗しました。
結果、大連立は実現せず、野田さんの自爆解散で民主党政権は幕を閉じる事になりました。
我々の揺さぶりは功を奏しました。
自民党ネットサポーターズクラブを立ち上げ、引きこもりのネトウヨ諸君を中心に数万人規模の組織で民主党攻撃を行いました。
SNSやTwitterを活用し、反自民の発言を封じ込め、意図的に民主党を貶める発言を拡散させました。これでみるみる内に民主嫌いが増えました。
また電通を司令塔としてマスコミ各社との連携を深め、メディアを徹底活用しました。
創価学会、統一教会の全面協力を得て票集めを行いました。
そして最終兵器はムサシです。競り合う選挙区ではムサシの開票マシンを利用しました。
これ以上ここでは書けませんが、ムサシは父安部晋太郎から引き継いだ遺産です。
こうした我々は2012年の総選挙で歴史的な勝利を獲得して政権に返り咲きました。
僅か3年で盤石と言われた民主党政権を追い詰めた私の手腕は高く評価され、党内でも反安部の動きは急速に鳴りを潜め、安部体制を絶対的なものにしました。
(続く)