5月末と、その1週間後に発生した痛ましい2つの事件。
内容も動機も状況もまったく異なるにもかかわらず、川崎の児童殺傷事件では自殺した容疑者が、また元農水省事務次官が刺殺した息子が、それぞれ「ひきこもり」だったとメディアで大々的に報じられていた。
少なくとも、前者の事件は、オジサンが、「安倍晋三は、トランプのディールの実態を知らないトランプ依存症」の冒頭でこんな風につぶやいた。
「幼少の時に両親が離婚し、伯父夫婦に引き取られたが、不幸なことにその夫婦には容疑者と同年代の男と女のイトコたちがいたことであった。
その後は絵にかいたような差別的な扱いをされ、小学校はそのイトコたちは、「お金持ちの子が通う」と近所でも言われていた『カリタス小学校』に人目につくような制服で登校し、容疑者は地元の公立小学校だったという。
その後は中学校を卒業して進学しておらず、職にも就いていないような状態が続いたという。
当然、親の愛からはほど遠く母親の愛情たっぷりの温かい食事など経験することなく大人になってしまったのであろう。
そして伯父夫婦が要介護状態となり、同居している自分を疎ましく思っていると思い込み、「引きこもり状態」になったというが、本人は否定していたという。
そして遂に将来に絶望し自殺覚悟で、恨みの象徴である「カリタス小学校」の児童を道連れにしたというのが、「当たらずと雖も遠からず」ではないかと思う。」
このときには「道連れ的な自殺」といったニュアンスでつぶやいたのだが、その後、メディアにしばしば登場した精神科医の片田珠美は「岩崎容疑者は長期間引きこもりがちの生活だった。人生に絶望し、うまくいかないのは他人のせいだという復讐願望を募らせ道連れにする『拡大自殺』だったのでは」との的外れな見方をまき散らしていた。
その後、どこからともなく聞こえてきた情報によると、かって同居していたイトコたちが「カリタス小学校」の制服を着た子供たちを連れて実家に戻ってきたという。
ひょっとすると、積年の恨みがこの制服を着た小学生をターゲットにしたのではないかと思っていた。
その「拡大自殺」という言葉から、今度はあるテレビのコメンテーターが被害者感情の立場からなのか「死ぬなら1人で死ね」と発言し、ネット上では賛否の声が飛び交っていた。
オジサンは自殺した岩崎容疑者が最も恨んでいたのは差別的な扱いをしてきた伯父夫婦であったはずで、なぜ、その二人に怒りが向かわなかったのかという疑問を持っていた。
それに対しては、元衆議院議員で5児の母でもある経済ジャーナリストの井戸 まさえがこんな分析をしていた。
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<【川崎事件】岩崎容疑者はなぜ伯父夫妻を襲わなかったのか>
2019.06.05 現代ビジネス
・・・前略・・・
岩崎容疑者が蛮行に至った背景には幼少期の両親の離婚と、その後の自分の処遇に対する「積もり積もった思い」があるだろうことは想像に難くない。
父方の親族に預けられ、そこでのいとこたちとの扱いの違い。一方は私立小学校、岩崎容疑者は公立小学校といった露骨でわかりやすい差異は容疑者が死に至るまでこだわったことでもあった。
・・・
岩崎容疑者は最も身近にいた伯父や伯母、または実家に帰ってくるいとこやその家族を巻き添えにするということは考えなかったのであろうか。
自分だけ公立の小学校に行かされた、(散髪代がかからないように)理髪店で短髪にされた等、親戚内で差別的扱いをされたことに恨みを持っていたとするならば、伯父伯母や自分が欲しかったであろう環境を得ていたいとこに対して殺意を持ち刃を向けたとしても不思議はない。
だが、岩崎容疑者はそうはしなかった。もちろん自分が生き残った時のスポンサーがいなくなることは避けたいといった計算もあったかもしれないが、もっと根深い闇があるとも言えるのではないか。
つまり、岩崎容疑者の行為によって、いとこやその家族は血縁をもつ、もしくは親戚というだけで一生責め苦を背負わなければならなくなる。その理不尽こそが幼児期から自分が背負ってきたもの。誰も一緒に持ってくれなかったではないか。
ほら、その重みを感じてみろ。
それは自分の人生を家の中に押し込めた者への最大の仕返しであると同時に、どこかでその体験を通じて、自分を理解してもらいたいとでも言っているかのようだ。圧倒的な孤独感の先にすら残る、最後の「つながりを求めた行為」とも思える。
伯父や伯母、いとこにしても岩崎容疑者が家族の一員との意識はなかったのだと思う。むしろ家族に侵入してきた異物であり、なんで自分たちがこの子どもと一緒にいなければならないのかと、被害者意識を持っていたのかもしれない。
にもかかわらず、この蛮行が「家族」であることの証明だとしたら、彼らはやりきれないだろう。
ただ一方で、この事件は容疑者は死亡したものの、その検証は丁寧に、徹底的にやらなければならない。事件を起こす前に、岩崎容疑者をどこかの段階で救えた可能性はないのか。
そのためにも生育歴を含めて、ともに暮らしていた人々の証言はとても重要である。
岩崎容疑者がなぜこの行動に至ったのか、動機の解明を様々な角度から行う必要がある。特にその育ちの中での児童虐待の視点からの検討は必要なことだと思う。
当然のことだが恵まれない幼児期を過ごしたからと言って無差別殺人が正当化されるはずもない。許されない行為だからこそ、容疑者死亡で終わらせるのではなく検証作業が必要なのだ。
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すくなくとも、岩崎容疑者は単なる「ひきこもり」ではなかったことは事実であろう。
根本匠厚生労働相が4日の記者会見で、容疑者が引きこもり傾向にあったとされる川崎市の児童ら殺傷事件などを巡り「捜査中で事実関係は明らかではないが、安易に引きこもりと(事件の原因を)結び付けることは厳に慎むべきだ」と指摘していたが、「引きこもり 犯罪予備軍」というキーワードで検索をかけたところ、11時前には約 3,520,000 件 がヒットした。
中でも、在米ジャーナリストの飯塚真紀子の下記の記事が最も正鵠を射る内容だった。
「『ひきこもり』という言葉に感じる違和感 レッテル貼りする社会 川崎殺傷事件について思うこと」
この中では、筆者は、
「『ひきこもり』という言葉自体に違和感を覚えてしまう。“レッテル貼り”感のある新語や造語であるが、新語や造語は、自分がそれに当てはまると感じている人たちの気持ちを考えて作られたり、使われたりしているだろうか? 『ひきこもり』や『負け組』や『貧困女子』や『下級国民』という言葉で傷ついたり自信をなくしたりする人々の気持ちを考えて作られたり、使われたりしているだろうか?」と疑問を呈している。
さらには、
「『ひきこもり』というレッテルが貼られたら、現実的にも、人はひきこもる行動をとるようになってしまうのである。環境が人の行動を生み出すということかもしれない。
岩崎容疑者の犯行動機は不明だ。しかし、『ひきこもり』というレッテルが貼られたことと関係があり、それによって、傷ついたり、差別されたりしていると感じ、自分がレッテル貼りする社会の被害者だという思いに取り憑かれていた可能性もあるのではないか?」と続けて、最後に「“レッテル貼り”を感じさせるような新語や造語を生み出したり使ったりするのは、もうやめにしてはどうだろうか?」と訴えていた。
すでに政治の世界では「レッテル貼り」という言葉は、相手を攻撃する場合にはもっとも手っ取り早い言葉であり、しばしば図星を突かれて興奮した安倍晋三の姿を国会で見かけたものである。
世の中に32万世帯に「ひきこもり」と言われる人々がいても、その理由も32万種類もあり、政府が類型的に定義しても、必ずしも当てはまることはない。
実際に約25年間、引きこもり状態から抜け出せないこの人は、「危ないやつとレッテルを貼られるのが怖くて意見が言えなかったが、そんな自分を変えたい。もがきながらも、社会で働くことを目標に闘っている人がいることを世間に知ってほしい」とインタビューに答えていた。
「引きこもり 葛藤分かって 25年の男性 川崎事件に心境「レッテル貼り怖い」
【東京新聞より】
昨日もある昼下がりのテレビ番組でお笑い芸人の司会者が、「ひきこもりは大きな社会問題になっているので、もっと社会全体で考えなくてはならない問題ですね」とシタり顔で言っていたが、「ひきこもり」の当事者からすれば「原因も分からず知った顔で大きなお世話焼くな」といった心情ではないだろうか、とオジサンは思う。