最近、事あるごとに「マスメディアの使命」とかジャーナリストとしての矜持は、という批判めいたことを耳にする。
オジサンも、時には「マスメディアは誰の味方なのか?」と思われるようなことに遭遇する。
かつて、「第4の権力」ということばが流行った頃の定義として、
「マスメディアの持つ権力を指す言葉。大衆が大きな部分を占める社会において、その大衆に対して大量の情報を迅速に流布する媒体がマスメディアである」、「われわれが受け取る政治の情報のほとんどはマスメディアに依存している。これが、立法・行政・司法の3つの権力と並んで『第4の権力』としばしば呼ばれるゆえんである」
と、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典に記載されている。
ところが、「第4の権力」というのは、”the Fourth Estate”の誤訳で、昔イギリスの議会が聖職者(First Estate)・貴族(Second Estate)・平民(Third Estate)から成り立っていたのに加え、報道席(Reporters Gallery)にいる人たちが彼らよりも力を持っているという意味で「第4の権力」と言われるようになったそうである。
最初にこれを言ったのはトーマス・カーライルという19世紀の評論家であり、語源からみれば司法・立法・行政の三権に次ぐ権力(Power)という意味ではなさそうであった。
◆現在の三権は機能しているのか
それでは中学生でも知っている日本の「司法・立法・行政」の三権は正しく分立しているのであろうか。
教科書では、それぞれがお互いに牽制し合う図が示されており、あたかも権力の均衡が保たれているように記載されている。
その三権の最高責任者は、司法が「最高裁判所長官」、立法が「両院議長」、行政が「内閣総理大臣」と定められているのだが、最近は、「私は立法府の長である」と平然と、かつ確信的に国会で言い放つ総理大臣も現れている始末。
たしかに立法府は構成議員の過半数を占める政党が与党となって国会を仕切っており、与党の党首が内閣総理大臣になる慣例からすれば、三権の内「立法・行政」は独立した機能を果たすことはなく、すべて内閣総理大臣に握られてしまっているといっても過言ではない。
さらに近年は国民が国を訴えるような憲法裁判や政府の政策に反するような裁判では、ことごとく原告の敗訴が続き、特に最高裁の腐敗ぶりは目を覆いたくなるようであり、司法の公平・公正も政権への「忖度」によりゆがめられているのが現状であろう。
冒頭紹介した百科事典には、「われわれが受け取る政治の情報のほとんどはマスメディアに依存している」とあるように、ごく一部の人たちを除けば、大部分の国民はマスメディアと呼ばれる「新聞・テレビ・ラジオ・雑誌等」の媒体と、それらの情報をディジタルに伝えるインターネット情報に頼っている。
したがって、国家権力者は国民に伝わるこれらの情報の管理に躍起となっている。
◆過去の「第4の権力」は今では政権の太鼓持ちと化す
第二次安倍政権以来、安倍政権のメディアコントロールはかなり露骨になっていることは改めて言うまでもない。
安倍晋三首相と在京主要新聞社や通信社の首脳との不定期ながらも行われていた会食や、重要法案の採決後に行われていた政治ジャーナリストや政治評論家と称する人たちとの会食など。
そして通信社配下全国の新聞社の論説委員や編集員を集めた情報交換会等々。
極めつけは公共電波を使用しているテレビ会社への放送法4条の「政治的に公平であること」を根拠に、「停波」をちらかせる総務相や官邸からの恫喝ともとれる締め付け等々。
その結果、リベラルといわれてきた主要マスメディアは「両論併記」が基本となり、特に新聞社の「旗幟」が不鮮明となり、民放テレビ各局は、政権への批判的な言説はすべて「政治的」という言葉で封殺しまっているのが現状である。
特にその傾向が顕著に表れたのが今年の参議院選挙に関するテレビ各局の報道姿勢ではなかったのか。
史上2番目という低投票率の原因を挙げればきりがないが、少なくとも政治に余りにも無関心な国民が増えたということは確かである。
詳細は省くが、在京民放5社の、公示日から15日までの12日間で選挙に関する放送時間は、6年前や3年前と比較しても大幅に減少しており有権者にとって選挙への関心を高める情報を提供しなかったという事実は否定できない。
さらに付け加えるならば、在京大手紙でも、投開票日の翌日の.一面の見出しには、讀賣新聞の「与党勝利 改選過半数-1人区自民22勝10敗」という表現は政権広報紙と揶揄されている所以であるが、毎日新聞までもが「自公勝利 改選過半数-改憲3分の2届かず」と讀賣新聞並みに「勝利」と評した忖度ぶりは印象操作と指摘されても反論の余地はないであろう。
もっとも、良心的な記者が「自民党単独過半数割る-改憲勢力3人の2下回る」という見出しを付けたのかも知れないが、記事の最終チェックはデスクが行うので、そのレベルで直されたかもしれない。
◆マスメディアの現場では
しかし政権の顔色をうかがいながら放送していると揶揄されているNHKの現場では、たまに「ガス抜き」と称される質の良いドキュメンタリー番組が放映されており、また、正面から政権に対峙した記事を送っている、それぞれ個別の問題を抱えている地方紙も存在する。
内閣記者クラブ主催の菅義偉官房長官会見の場で孤軍奮闘している東京新聞社会部の望月衣塑子記者は、7月、ニューヨーク・タイムズ紙に、「権力の座にある人々を監視すること」が自分の使命であり、政府は「常に情報を隠そうとする。それを掘り起こさなければならない」と、述べていたが、いまどき珍しいまさにジャーナリストの矜持であろう。
同紙は「日本には多くの記者クラブがあり、所属する記者たちは政府側の情報を得られなくなることを恐れ、当局者との対立を避ける傾向がある」との見方も紹介していたが、残念ながら日本の在京主要新聞社からの反応は一切なかった。
◆フェイクニュースにはファクトチェックを
米国のトランプ大統領が登場して以来、「フェイクニュース」という言葉が世界中を駆け巡っている。
それは、自分に対する批判的な内容やトランプ政権を批判する特定新聞社の記事をすべて「フェイクニュース」として切り捨てるという、本来あるまじき行為であった。
なぜなら特定の新聞社の記事が「虚偽である」というこというであり、メディアの信用を貶めることになるからである。
もっともトランプ大統領は露骨にそれを狙ったようであった。
日本では政府の見解や安倍晋三首相の言葉は基本的にはそのままテレビで放映されたり紙面に掲載されたりする。
たとえその内容に「明らかに間違い」があろうとメディアからすれば安倍晋三首相の発言を正確に伝えたので「誤報」ではないとの立場であろう。
しかし、それが「事実」であっても、正しい数字であっても、政府にとって都合よく切り取られた情報は「真実」を伝えたことにはならない。
本来は発信するメディア側が、その内容の裏取りをして「ファクトチェック」をしなければならない。
とりわけ「政治情報」については、正しく「ファクトチェック」されているか否かを受け取る側が見極める「メディアリテラシー」の深化が今後はますます要求されるであろうし、「マスゴミ」などと言っている場合ではないのである、とオジサンは思う。