7月29日の記事で、たまたまプロポーズされて結婚した相手が在日朝鮮人の男性で、おりしも北朝鮮への帰国運動が盛り上がっている時期でもあったので、間もなく一家ともども北朝鮮に渡った日本人妻・斉藤博子さんの「北朝鮮に嫁いで四十年-ある脱北日本人妻の手記」(草思社.2010)を紹介しました。
北朝鮮への帰国事業が、いかに多くの在日朝鮮人や、日本人妻等の運命を大きく左右したか・・・。彼らについて書かれた本や手記等を読むと、その悲劇にも実に多様な「諸相」があることがわかります。(最近公開された梁英姫監督の映画「かぞくのくに」もそのひとつ。)
この「鄭雨沢の妻」(サイマル出版会.1995)も、その一例を提供してくれます。<自伝小説>と銘打たれていますが、おそらくほとんどは著者の角(すみ)圭子さんの実体験とみていいのでは、と思います。
今、鄭雨沢(てい・うたく.チョン・ウテク)という人物を知る人は多くはないでしょう。私ヌルボも知りませんでした。
最近李恢成の自伝的小説「地上生活者」を読んでいたら、朝鮮総聯創立初期の中央常任委員で、文化・宣伝部次長の任にあった千時雨という人物の名が少しだけ出てきて、それでなんとなく書名だけ記憶にあったこの「鄭雨沢の妻」を思い出し、図書館で借りて読んで、はじめていろんなことを知ったというわけです。
鄭雨沢は1927年3月17日生まれ、角圭子さんは1920年生まれ。角さんが7つ年上です。
2人が知り合ったのは1950年、朝鮮戦争が勃発して間もない頃で、角さんは当時神田駿河台のソヴェト研究者協会(ソ研)の事務局で、副島種典(種臣の孫)の下で勤務していました。
そのソ研の総会で、解放新聞社(在日本朝鮮人連盟系)の記者だった彼が招かれ、朝鮮戦争の現状について講演をしたのが1つ目のきっかけ。そして10日ほど後に偶然中央線の電車に偶然乗り合わせたのが2つ目のきっかけ。車内で話に興が載って、武蔵境の寮に帰るという鄭に彼女は声をかけ、彼女が間借生活をしている三鷹で一緒に下車することになります。(こうした偶然が両者の運命を決定づけるんだなー。)
翌1951年1月2日、武蔵境の寮が火災で丸焼けになった後、2人は彼女の部屋で新婚生活に入ります。
その間の2人が交際を深めるエピソードの中で、とくに彼の提案で行った相模湖のデートは最上の思い出だったようで、会話も情景も仔細に、かつ印象深く描かれています。
たとえば湖に浮かべたボートで声をかぎりに歌を歌ったこと等々。彼は少年期に声楽家の従兄から教わったという歌を次々に歌ったとか。
「それらはフォスターであったり、シューベルトであったりしたから私も歌えた。またトセルリの「嘆きのセレナータ」を鄭は母国語で歌い、私は日本語で合わせた。やがて彼は歌劇「リゴレット」中のアリア「女心の歌」を「ラ・ドンナ・エ・モビレ」と、イタリア語で本格的な発声で歌いだし、私を驚かせた」。
歌といえば、後年(1957年)板橋区志村中合でアパート生活を始めた頃の朝のことも・・・。
「黒い目をあけてよ かわいい人よ 夜が明けた もう鳥が啼いている 愛の唄を」
私は・・・眠ったふりをして歌を聴いているが、「愛の唄を」のくだりまでくると噴出してしまう。彼はマスネーの有名な歌曲「青い目をあけて」を黒い目に置き替えて、思い入れたっぷりに唄っているのだ。
私は・・・眠ったふりをして歌を聴いているが、「愛の唄を」のくだりまでくると噴出してしまう。彼はマスネーの有名な歌曲「青い目をあけて」を黒い目に置き替えて、思い入れたっぷりに唄っているのだ。
本についての会話も紹介します。
青写真(未来の人生設計)についての彼女への質問を、そのまま返された彼はこう答えます。
「ぼくが人生のエンジニアだったら、未来をこう設計します。《世界を震撼させた十日間》のジョン・リードとか、《ニッポン日記》のマーク・ゲイン」
私はここでコミュニストのジョン・リードとリベラリストのマーク・ゲインの名が彼の口から同時に出てきたことに、ちょっと驚いた。
「彼らのような一級の、世界的ジャーナリストになって、世界をまたに活躍したいんです」
私はここでコミュニストのジョン・リードとリベラリストのマーク・ゲインの名が彼の口から同時に出てきたことに、ちょっと驚いた。
「彼らのような一級の、世界的ジャーナリストになって、世界をまたに活躍したいんです」
・・・いやー、何という夫婦なんだ! 要するに、2人ともすごいインテリなんですね。
彼女は、両親が画家という家の一人娘。明星学園に11年通った後日本女子大。ノモンハン事件(1939年)の頃には父母には「仮面をかぶって」「ぼつぼつ赤の勉強」を始めたという、すなわち社会主義に理想を抱く良家の子女。戦後のソ研での仕事もその延長線でしょう。
一方鄭雨沢は、朝鮮半島南西部、木浦の沖の荏子島(イムジャド)の富裕な地主の三男。木浦中学2年の時、徴用で大邱の軍事工場に入れられるが、半年後仲間を誘って日本人の監督に闇討ちをかけ、逃亡したため、学歴は中2止まり。以後終戦まで丸5年間本を読み漁る。マルクスも読んでいた彼は、終戦後朝鮮共産党(のちの南朝鮮労働党)に加わり、何度も捕まっては水拷問や電気拷問に責め立てられたりもしたそうです。
1948年8月の大韓民国成立の2ヵ月後起こった麗水・順天事件で、危うく生命の危機を免れた彼は、密航船に乗り込んで日本に逃れます。
2人が出会ったのは、彼が日本に密航して1年9ヵ月後のことです。(捕まったら李承晩政権の韓国に送られて死刑になる、と鄭は彼女に語ります。)
1953年8月8日朝日新聞は「北鮮、十二要人を粛清」との見出しで南朝鮮労働党の指導者だった朴憲永等の粛清を伝えます。(処刑は56年(?)) 同じ南労党出身の鄭雨沢も衝撃を受けたことでしょう。
翌1954年、赤狩りが激化する中で、2人は警察の追及を受ける身となり、居所を転々と移します。
角さんは「良き妻の素振り」で夫に聞こうとしなかったし、彼も語りませんが、分裂している日本共産党の主流派の側に属して同胞の地下活動を指導しているらしかった、とか・・・。
警察の追及を逃れて、最後に入り込んだ所が川崎の池上新田にある大きな朝鮮人街。
「ふつう「中留」と呼ばれているそこは、一九五四年の当時、警察官も一人で入れぬ無法地帯ともいわれていた」
・・・とあります。現在は池上新町。<川崎のコリアタウン>セメント通りも近い所です。そこの街や、そこで暮らす人々のようす、角さん自身の体験の描写は非常に興味深いものがあります。全270ページの本書のうち約100ページに及んでいます。(現在の街はずいぶん変貌していることは推察できます。)
ヤミ商売・密航者・家庭争議・煤煙等々、そんな中で、人々は飲み、食い、歌い、踊る・・・。
この部分については、次のエピソードだけ紹介して、他はあえて省略します。
彼らとのつき合いの中で習った朝鮮語を得意そうに口にした妻に、鄭は「喜ぶどころか複雑な、暗い表情」になります。そして「しばらく考えるふうに黙してから」言います。
「ね、スミ。ここの人たちの言動を朝鮮本来のものとはどうか思いこまないでおくれ。ゆがんでいる・・・・。ひどくすさんでいる」
後半の言葉をとても苦しそうに、だが思い切って言うというふうに言いおわると、あらためてここの人びとに、いや多分、在日朝鮮人のすべてにであろう、思いを馳せる深い眼差しになって、「無理もないことなんだ」と低い声で、ゆっくり噛みしめるようにつぶやく鄭雨沢でもあった。
「ね、スミ。ここの人たちの言動を朝鮮本来のものとはどうか思いこまないでおくれ。ゆがんでいる・・・・。ひどくすさんでいる」
後半の言葉をとても苦しそうに、だが思い切って言うというふうに言いおわると、あらためてここの人びとに、いや多分、在日朝鮮人のすべてにであろう、思いを馳せる深い眼差しになって、「無理もないことなんだ」と低い声で、ゆっくり噛みしめるようにつぶやく鄭雨沢でもあった。
(朝鮮人街に住む人々と、鄭自身との距離感の微妙な表現がいかにもインテリっぽい。)
2人が川崎に潜んで暮らしている間、1955年朝鮮総聯が創立し、民族団体は日共の影響下を離れて北朝鮮に直結した金日成路線へと転換しました。組織内で先覚派(主流派)に対する後覚派に属していた鄭は、神奈川県朝鮮中高級学校の日本語教員に「左遷」されますが、翌56年には中央常任委員に選ばれ、文化・宣伝部次長となって信濃町の総聯中央本部に通うようになります。
※1954年横浜の紅葉ヶ丘に音楽堂とともに落成した県立図書館に2人がほとんど日曜ごとに通って思い思いの読書に耽った、という記述には、今近辺に居住してその「歴史を感じさせる」たたずまいを知るヌルボにとっては、思うところが多いですね・・・。
1957年夏から板橋区志村中台のアパートへ。「ひぐらしの里」とよばれる美しい自然環境で、2人はしあわせな日々を送ります。
そして1958年夏頃から北朝鮮への帰国運動が活発化します。
総聯の宣伝部長として、鄭雨沢は最前線で働きます。
1959年4月、角さんが著した「トルストイの愛と青春」の刊行を祝って、中央公論社の地下ホールに先輩や友人たちが集まります。その二次会の席でロシア文学者の江川卓がツルゲーネフの「その前夜」を話題にします。ブルガリア人青年と結婚したロシア人女性エレーナが、夫の病死後も彼が命をかけた独立戦争に身を捧げるため看護婦としてブルガリアに向かうという物語。「エレーナの生き方を私に重ねていたからかもしれない」とも思われる江川が「角さんも、いくの? やっぱり」という問いかけに「行くってどこへ」ととぼける彼女。江川は鄭雨沢にも、彼が岩波の「世界」3月号に載せた「全国民を敵として 李政権の恐怖政治と国家保安法」について語りかけます。(角さんは、密航者である夫が「もう、大丈夫なんだわ」という喜びを内心に秘めます。)
角さんの人生の転機は、不意打ちのようにやってきます。
出版記念会の20日後、当時続けてきた朝鮮大学校の講師の解雇を、突然言い渡されます。
そして1961年。朝鮮戦争開戦日の6月25日日比谷公園で開かれる在日朝鮮人の集会で、演説するための原稿を持って出かけるところの鄭雨沢に、角さんは「私もあとから行くわ」と言います。ところが振り返った彼の言葉は「来る必要ないよ」でした。
大学を馘になって以来の疑問と悲しみを一度にぶつける妻に、鄭雨沢が語ったのは、帰還船に乗り込んだ日本人妻の多くが社会主義建設の重荷になっている、ということ。朝鮮人の帰国者には指導員1人つけば足りるのに、日本人妻には3人つけても間に合わない等々。したがって、日本人妻を帰国船に乗せるのはわが国にもう少し余裕ができるまで見合わせて、同族結婚の家族を優先してほしい、と共和国(北朝鮮)から連絡があった、というのです。
ともかく今日の集会には反・日本人妻感情といったものが沸騰していて、その中に自分をさらすことが鄭にはできないとわかった角さんは「集会に行かないから、心配しないで行って」と告げますが、彼が背中を見せた瞬間激しい孤独感に襲われて「テイ」と呼びとめます。
振り向いた彼に「私はこれからどう生きればいいの」問いかけると、しばらく無言で見つめ合った後、大粒の涙を流しながら彼が発した言葉が「スミ、ぼくたちは別れなければならない」です。「スミは、自民族の良き娘に還らなければならない」とも・・・。
「スミは日本人の中でも、とくべつ毛並みの良い家の娘に生まれた。ご両親がきみにさずけた才能の上に、ああいう家庭で培われたおのずからのものを、きみは資質としても、感性としても持っている。朝鮮人の世界では、そういうかけがえのない貴重なものを殺してかからなければ・・・」
もし彼らの物語が将来映画化でもされることがあったら、このような彼の言葉を手がかりに、彼女を北朝鮮に連れて行った後の悲劇を予見して、あえて別れた、という含みをもたせるかもしれません。
しかし、ここはやはり彼はあくまでも共和国の指示に忠実だったとみるのが正しいかも。
(上記のような日本人妻についての見方は、あくまでも組織の内部情報に止めたということなんでしょうか? 具体的にすると、知られてはまずい北の実情が「敵」に漏れてしまうし・・・。)
「テイ、演説に遅れて、早く行って」という彼女の言葉で終わる本書が書かれたのは1995年。巻頭には、79年春のこととして、新聞に「北・朝総連元幹部相次ぎ粛清」という横見出しの下に「知識人らを“スパイ”で処断、鄭雨沢(元中央外務部副部長)も」とある記事を目にします。
ヌルボが一読者として思うに、上述のように①南労党系で、②地主階級出身で、③ブルジョア的教養(?)を持つ彼が粛清されたのは、(今から見れば)当然の成り行きでしょう。
※先述の鄭雨沢が歌った西洋の歌曲について思い出されるのが声楽家金永吉(日本名・永田絃次郎)のこと。1960年1月帰国船に乗って清津港に着いた彼は、歓迎式直後に「オーソレミオ」をイタリア語で歌ったことが問題とされたといわれます。それが彼の共和国の状況だったとすると、鄭雨沢の教養は、国にとっても彼にとっても危険なものだったでしょう。
そのような危惧を彼は予感していなかったのでしょうか? 総連関係者で、「帰国」すれば処罰が待っているような北朝鮮に、それでも行く事例は何かで読んだ記憶がありますが・・・。
夫とともに北朝鮮に行った日本人妻・斉藤博子さんの場合は生まれて間もない子どもと別れたくない、ということが決断の大きな理由となりました。
斉藤博子さん夫妻と、鄭雨沢・角圭子夫妻は、夫婦の民族性以外はほとんど対照的です。
ただ、角さんに子どもがいれば状況は変わったかどうか・・・。
また、もし鄭雨沢が日本人妻についての情報を聞いていなかったり、無視したとすると、角さんは当然心に決めていた通り北朝鮮に渡っていたでしょう。するとその先は・・・。
・・・ということなどをいろいろ考えてみると、本当に禍福はあざなえる縄のごとし、です。
角さんは、まえがきで「見たことも行ったこともない国の在り様を、鄭とともに信じてうたがわなかった責任から、私がまぬがれ得るものとは思わない」と記しています。このような誠実さに、彼女の人間性がうかがわれます。(彼女よりもはるかに大きな責任を負っていながらも、なんらの反省や謝罪の言葉もない人はたくさんいるのに・・・。)
★追記
先にあげた李恢成「地上生活者 第3部」に、物語の語り手・趙愚哲が在日の学生組織の仲間の自宅を訪ねる場面があります。その場所が川崎の中留。そこで一晩をすごした翌朝、その友人が声をかけます。
「ほら、前の部屋だよ、千時雨が少し前まで住んでいたのは」
直接会ったことがない千時雨の名を愚哲が覚えているのは、雑誌「世界」に彼が書いたものを読んでいるからです。
以下、長いですが、そのまま引き写します。
驚ろくのはその文章のなめらかさだった。日本人はだしである。たぶんこの自分よりか七、八歳うえの世代だろう。植民地時代にたっぷり国定教科書や軍事訓練による教育を受けた賜物もあるのかも知れないが、要は本人の資質のせいにちがいない。愚哲は在日一世にこんな達者な文章で論理展開をする人がいるのを誇らしく思ったくらいなのだ。
「千時雨氏はここで日本人のかみさんと暮してたのさ。ロシア文学やってる角田敬子という女性だけど知らんか? トンムはロシア文学やってたから知ってるんじゃないの」
「うーん。おれは天麩羅学生みたいなもんだからな。けど、名前だけは何かの翻訳で見たことがあるような気がするな」
「そうか。彼女は民族師範専門学校でもロシア語をおしえているオシドリ夫婦なのさ」
「ふうん」ぼく愚哲は深く考えぬまま彼の話を聞き流していた。
まさかそのときは後年この二人と知り合いになり、入院中の彼を見舞ったり、あげくの果てはべつの若い朝鮮人女性と帰国する彼を独りで上野駅まで見送ることになろうとはゆめにも想像していなかった。
「千時雨氏はここで日本人のかみさんと暮してたのさ。ロシア文学やってる角田敬子という女性だけど知らんか? トンムはロシア文学やってたから知ってるんじゃないの」
「うーん。おれは天麩羅学生みたいなもんだからな。けど、名前だけは何かの翻訳で見たことがあるような気がするな」
「そうか。彼女は民族師範専門学校でもロシア語をおしえているオシドリ夫婦なのさ」
「ふうん」ぼく愚哲は深く考えぬまま彼の話を聞き流していた。
まさかそのときは後年この二人と知り合いになり、入院中の彼を見舞ったり、あげくの果てはべつの若い朝鮮人女性と帰国する彼を独りで上野駅まで見送ることになろうとはゆめにも想像していなかった。
「地上生活者 第4部」には、千時雨は同僚の若い朝鮮人女性と北に渡ったこと、その時彼女は身籠っていたことが短く書かれています。