ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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ドキュメンタリー映画「李藝 最初の朝鮮通信使」、観客多数

2013-06-10 23:42:38 | 韓国・北朝鮮に関係する映画
 いやー、こんなに混んでいるとは思いませんでしたね。
 ヒューマントラストシネマ有楽町で、朝10:00から1度だけの上映で、ざっと数えたところ80人くらい。あ、6日(木)の話です。

 「李藝 最初の朝鮮通信使」という、勉強にはなりそうですが、娯楽性はまず期待できなさそうな映画なので、こんなに大勢の人が観に来るとは予想外でした。(私ヌルボの観に行く映画の観客数は平均15人くらいなので・・・。)

 この映画は、金住則行の著書(映画と同じ書名)が原作です。内容は、タイトルそのままに、最初の朝鮮通信使、つまり、1428年(正長元年)に足利義教の将軍就任に際して来日する等、43年間に40数回も日本や琉球に渡った李藝(이예.イエ.1373~1445)という世宗の時代の外交官の紹介と、彼のたどった対馬~京都の路程の要所要所を、ナビゲータ―として俳優ユン・テヨンが訪れるというもの。

 あ、「要所要所」というのは、具体的にはパンフに地図が載っていますが(下の画像)、①対馬に博多③下関④下蒲刈(呉市)⑤三原市⑥鞆の浦(福山市)⑦牛窓⑧室津(たつの市)⑨神戸⑩大阪(竹林寺)⑪京都(大聖寺・等持院)
 (あら、三原市(筆景山)とか竹林寺とか映ってなかったんじゃないの!?)

    
     【④~⑧は、行ってみたいと思いつつ、行ってないとこばかり。】

 しかし、鞆の浦といい室津といい、映像で見るかぎり瀬戸内の昔からの港町の佇まいというのはどこも似た感じです。狭い石畳の坂道等々。
 それら通信使ゆかりの町のお寺や、そこに伝えられている遺物等についてもいろいろ紹介されていましたがここではすべて省略します。

 ユン・テヨン氏、空いている鈍行列車の車内で、彼に気づいた韓流オバサンたちからサインを求められたり、お返しに吉備団子をもらったりしたのは、撮影にご協力したというJR西日本ロケーションサービスの情報によると「赤穂線で邑久駅に向かう車内」だったのかな? 他のところではちゃっかりハグをしてもらっちゃったオバサンもいて、いやー、けっこう知られているんですねー。
 この映画館の入りも、もしかしてそういうオバサマ方が大勢来てらっしゃるから? 映画を観たちょっと後に、韓流ファンのオバサマ方と話をしたら、顔は知ってるというレベルの方から「サムソンの副社長の息子で・・・」ということまでご存知の方までバラツキはあるものの、私ヌルボが思っていた以上に知名度は高いみたい。全然知らなかったという方は→ウィキペディア参照。手っ取り早く言えば、ドラマ「太王四神記」で主演のヨン様の敵役として知られるようになった俳優です。

 映画のパンフの最初の8ページは、各地で撮られた写真ばかり。(下の画像) それも「なんだ!? ユン・テヨンの写真集か?」と思ったくらい。

      
  【どういう所を訪れたかは一応わかるようにはなっています。】

 しかし、その後のページを見てみると、李藝や通信使についてのずいぶん詳細な解説がついていたりして・・・。
 っっと、あれれっ! 解説を書いているのは私ヌルボもよ~く知っているN先生ではないですか!! そーか、先生はかつて李藝について論文を書いたという、まさにご専門だったんですよね!?

 また、この映画では、在日韓国大使館の企画による「第3期SNSリポーター」として2012年夏韓国を訪ねた日本人大学生約20人の5日間の旅のようすも挿入されています。
 ソウル、聞慶(ムンギョン)、星州(ソンジュ)のチャメ(マクワウリ)畑、慶州、蔚山(ウルサン)、釜山、利川とは、ずいぶんせわしない旅だなー。
 釜山外国語大学の学生たちとの懇談会では、(案の定)「独島問題」を話題にされたりして・・・。「私たちは過去に被害を受けたという気持ちを忘れていない」と言う韓国の学生に対して「被害者意識をいつまでも持っていたら日本を超えられないと思います」という日本の学生の発言もあったりして・・・。ここらへんはどうも苦心して編集したんじゃないかな?
 そういえば「毎日新聞」の記事等によると、2011年12月に始まった撮影は両国関係の悪化で公開のめどが立たなくなり中断し、スタッフの人件費などが膨らんだため、ホームページなどで寄付を呼びかけりして日韓両国から約2000万円が集まったとか・・・。その間、映画の中身にも手を入れたようです。・・・というようなこともあって、当初の予定より4ヵ月遅れて公開に至ったとのことです。

 上記第3期SNSリポーターの皆さんによる韓国探訪の動画記録はYotubeにupされています。<芸術班>は→コチラ、<生活班>は→コチラ、<宗教班>(←ネーミングと内容が合ってないような・・・)は→コチラです。

 映画の冒頭で、SNSリポーターの皆さんが訪れた聞慶のセジェと、蔚山の石溪書院が映されていました。
 石溪書院のことは全然知りませんでした。李藝の出身地蔚山で、彼が祀られている施設です。(→参考(韓国語)。)
 2012年1月にはここで日韓同時発売されたこの映画の原作小説の奉呈式が行われ、著者・金住則行、本映画プロデューサー・益田祐美子両氏等が参加しました。李藝の第18代子孫という李秉稷(イ・ビョンジク)氏は蔚山韓日親善協会の会長とのことで、映画にも登場しています。
 李藝という人は韓国でもそんなに有名ということでもないような・・・。(少なくともユン・テヨン氏はご存知なかった。) 韓国ウィキペディア(→コチラ)にはそれなりに説明されていますが・・・。2005年に韓国文化観光部が今月の文化人物に、また 2010年には外交通商部が今年の外交人物に選定してます。

 聞慶(ムンギョン)は慶尚北道の北西端の市で、北の峠を越えれば忠清北道の忠州方面です。地理的に韓国の真ん中。そういえば、今読んでいるハン・ビヤさんの韓国徒歩縦断記録「風の娘、わが地に立つ」でも、半島南西端のタンクッから北東端の統一展望台までの道のりのちょうど半ばのこの聞慶で、ハン・ビヤさん一旦旅行を中断して、TVの録画撮り等のため数日ソウルに行ったりしてましたね。韓国の短い方の対角線・ソウル~釜山のほぼ真ん中でもあります。

     
   【聞慶の位置や、関門の写真もパンフに載っています。】

 さて、その峠というのが昔から難所として知られるセジェ(새재)。鳥(새)も越えられない峠(재)という意味だとよく言われていますが、他の説もあるようです。半島南部の人たちが都(ソウル)に上る時必ずここを通ったという由緒のある古道で、道立公園があり、またKBS撮影セット場もあったりして観光客も多く、修学旅行のバスも一杯、ということが上述のハン・ビヤさんの本に書かれていました。時代劇でおなじみの、なかなか見映えのいい3つの関門や城壁がありますが、第2関門の鳥谷関は1594年、主屹関(第1関門)と鳥嶺関(第3関門)は1708年に造られ、後に毁損しましたが1966年に史蹟に指定され、1976年に復元されました。
 南から科挙を受けるためセジェを発った人たちを想い、今そこの公園に「과거 길(科挙の道)」と刻まれた石碑が建てられています。(知らないと「過去の道」と読んでしまいそう。) しかし、ここはまた北から南に向かう通信使一行が通った道でもあったわけですね。(李藝の時代にはまだ関門等はなかったのですが・・・。)
 そういうわけで、映画の冒頭にこの石畳の古道が出てきます。「どれだけの人がここを歩いたのだろうか・・・、600年後にはまた、この石畳をどう歩いているのだろうか」というようなことをたしかユン・テヨン氏が呟いていた、かな?

 ※韓国書ですが、朝鮮内での通信使一行の路程について詳述した本が刊行されています。→コチラ

 ※2007年から1年おきに催している<21世紀の朝鮮通信使 ソウル-東京 友情ウオーク>というのがあるんですね。ソウル→東京を50日かけて歩くのですと! 今年2013年は第4次というわけですが、平均年令68歳とか。詳しくは→コチラ

 いやー、映画もベンキョーになりましたが、この記事作成にもちょっと深入りしてしまいました。本人もどーせじきに忘れるのに・・・。

★映画「李藝-最初の朝鮮通信使」ダイジェスト版 →コチラ

★映画「李藝‐最初の朝鮮通信使」予告編 →コチラ
コメント
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