カムチャッカの若者がキリンの夢をみているとき
私が司法試験受験のため、大学卒業後、働かずに、いわゆる専業受験生をしていた期間は約3年。その3年で、択一試験にはなんとか合格できるようになったけど、論文試験には合格できなかったね。その原因は、生活リズムの乱れ。朝方4時ごろねて、ひるごろおきるという生活。これじゃ、なかなか勉強はかどらないよね。夜型人間。
この夜型人間には理由があって、専業受験生という肩身の狭い生き方。なので、なんか昼間、家にいるのが、はずかしいというか、いたたまれない。その点、、夜はだれも起きていなくて、心が安定して、そしてやけにテンションがあがるのよね。不思議。でも、夜中に目が覚めて、テンションがあがったところで、ずっと深夜番組をみているぐらい。
この専業受験生の期間でまなんだことは、人間はというか、私は、朝は早く起きないとだめということ。
あともうひとつ学んだのは、人生は無駄なことのためにあるということ。結局私は司法試験には受からなかった。択一試験にご合格しても、論文試験のべ勉強に身が入らなかった。論文というものが苦手ということもあるけども、それよりも、こんな勉強しても、どうせ私は目が見えなくなるんだ、この努力をいくらして、司法試験に受かって、弁護士になったとしても、結局目が見えなくなるんだ。意味がない。今の努力は無駄だ。こういう考えが私の頭の中を占領する。目が見えなくなる私。網膜色素変性症の当時の私。
この努力は無駄だ、目が見えなくなったらもう努力は無駄だ。この考えは、きめつけとおもいこみ。
差別問題の原因は、差別する側のきめつけとおもいこみ。このきめつけとおもいこみは、なんの合理性もない。
その時の私のきめつけとおもいこみも、まったく合理性がない。当時でも、目が見えなくても弁護士をやっていた人は数人いたし。目が見えなくても、だれかの相談をうけて解決の手助けならできる。なのに、その考えがうかばなかった私。
さらに、どうせなにをやっても無駄だ、この努力は報われないという思い込み。そもそも、それもきめつけだしおもいこみ。さらに言うと、人生そのものが、意味がないといっても過言でもない。意味のない人生、無駄な人生に意味をつけることが人間。無駄なことに意味付けをして、日々過ごすそれが人間。このことも、専業受験生の時に学んだね。
ということで、私は、去年の12月から、朝はやおきしてあさかつ、そして意味のないことむだなことをしている。
朝、駅前での、啓発活動。視覚障害者啓発活動、点字ブロックふせつお願い活動。こんなことやって、なんのためにもならないけども、だからこそ、私はやるのよね。無駄だからこそ、そこにいみっ付けして声出し活動。こういった無駄なことを、どれぐらいできるか、それがその人の人生の豊かさだと思う。
朝もやの中、盲人が、ひとり、寒い駅前で、なにかさけんでいる。まったくもって、おかしな後継、いぶかしいし、そしてこっけい。おもしろいね。
こうやって朝、駅に視覚障害者がたっていると、声をかけられる。通行人の見知らぬ人から声をかけられる。
どうしましたか?何かお手伝いしましょうか?
ほんと通行人の人はやさっしいね。はじめのころは、ほぼ毎日声をかけてもらった。今でもまだ声をかけてもらえる。うれしいね。ただ、声をかけてくれるということは、視覚障害者が街でなにかさけんでいたら、助けを求めていると多くの人がおもうのね。視覚障害者はひとりで街にでてないんだよね。
あと、朝だちしていて、最近は、選挙に立候補する人たちもたまにいる。自民党、維新、共産党れいわ、さんせいとう。このぐらいの政党の人がよく朝、駅前であいさつ運動をしている。その人たちに共通なことは、私が先に、啓発声出し活動をしていると、ちかづいてきて、あいさつしてくれるということ。むこうのほうで、私もチラシ配りさせてもらいますとひとこえかけて、あいさつ運動をする政党の人たち。
こういった、社交性とかが立候補する人には必要なのね。私にはそういった社交性がないのよね。
朝、駅前にたっていると、いろんなことが学べる。
なにより、私にとって大事な、朝活動と、無駄なことをやる。この2つをいつも思い出させてくれる。私にとってもこの朝、駅前活動は、とってもいいね。私のこの朝活動が、だれかにとどくといいな。朝のリレーのように。
昔学生時代、詩人のタニガワシュンタロウの朝のリレーというポエム。このポエムはほんとリズムがいいのよね。
カムチャッカの若者がキリンの夢を見て言うとき。
メキシコの娘は朝もやの中でバスをまっている
大阪の盲人は、駅前で、よくわからないことを唱えている。
僕らは朝をりれーする
いいね。タニガワシュンタロウのポエムに盲人を登場させてほしいね。そのためには、私は毎朝、駅前にたたないとな。
イイ感じCM!【ネスカフェ?朝のリレー?(寝顔篇)】(60秒ver.)谷川俊太郎
私が司法試験受験のため、大学卒業後、働かずに、いわゆる専業受験生をしていた期間は約3年。その3年で、択一試験にはなんとか合格できるようになったけど、論文試験には合格できなかったね。その原因は、生活リズムの乱れ。朝方4時ごろねて、ひるごろおきるという生活。これじゃ、なかなか勉強はかどらないよね。夜型人間。
この夜型人間には理由があって、専業受験生という肩身の狭い生き方。なので、なんか昼間、家にいるのが、はずかしいというか、いたたまれない。その点、、夜はだれも起きていなくて、心が安定して、そしてやけにテンションがあがるのよね。不思議。でも、夜中に目が覚めて、テンションがあがったところで、ずっと深夜番組をみているぐらい。
この専業受験生の期間でまなんだことは、人間はというか、私は、朝は早く起きないとだめということ。
あともうひとつ学んだのは、人生は無駄なことのためにあるということ。結局私は司法試験には受からなかった。択一試験にご合格しても、論文試験のべ勉強に身が入らなかった。論文というものが苦手ということもあるけども、それよりも、こんな勉強しても、どうせ私は目が見えなくなるんだ、この努力をいくらして、司法試験に受かって、弁護士になったとしても、結局目が見えなくなるんだ。意味がない。今の努力は無駄だ。こういう考えが私の頭の中を占領する。目が見えなくなる私。網膜色素変性症の当時の私。
この努力は無駄だ、目が見えなくなったらもう努力は無駄だ。この考えは、きめつけとおもいこみ。
差別問題の原因は、差別する側のきめつけとおもいこみ。このきめつけとおもいこみは、なんの合理性もない。
その時の私のきめつけとおもいこみも、まったく合理性がない。当時でも、目が見えなくても弁護士をやっていた人は数人いたし。目が見えなくても、だれかの相談をうけて解決の手助けならできる。なのに、その考えがうかばなかった私。
さらに、どうせなにをやっても無駄だ、この努力は報われないという思い込み。そもそも、それもきめつけだしおもいこみ。さらに言うと、人生そのものが、意味がないといっても過言でもない。意味のない人生、無駄な人生に意味をつけることが人間。無駄なことに意味付けをして、日々過ごすそれが人間。このことも、専業受験生の時に学んだね。
ということで、私は、去年の12月から、朝はやおきしてあさかつ、そして意味のないことむだなことをしている。
朝、駅前での、啓発活動。視覚障害者啓発活動、点字ブロックふせつお願い活動。こんなことやって、なんのためにもならないけども、だからこそ、私はやるのよね。無駄だからこそ、そこにいみっ付けして声出し活動。こういった無駄なことを、どれぐらいできるか、それがその人の人生の豊かさだと思う。
朝もやの中、盲人が、ひとり、寒い駅前で、なにかさけんでいる。まったくもって、おかしな後継、いぶかしいし、そしてこっけい。おもしろいね。
こうやって朝、駅に視覚障害者がたっていると、声をかけられる。通行人の見知らぬ人から声をかけられる。
どうしましたか?何かお手伝いしましょうか?
ほんと通行人の人はやさっしいね。はじめのころは、ほぼ毎日声をかけてもらった。今でもまだ声をかけてもらえる。うれしいね。ただ、声をかけてくれるということは、視覚障害者が街でなにかさけんでいたら、助けを求めていると多くの人がおもうのね。視覚障害者はひとりで街にでてないんだよね。
あと、朝だちしていて、最近は、選挙に立候補する人たちもたまにいる。自民党、維新、共産党れいわ、さんせいとう。このぐらいの政党の人がよく朝、駅前であいさつ運動をしている。その人たちに共通なことは、私が先に、啓発声出し活動をしていると、ちかづいてきて、あいさつしてくれるということ。むこうのほうで、私もチラシ配りさせてもらいますとひとこえかけて、あいさつ運動をする政党の人たち。
こういった、社交性とかが立候補する人には必要なのね。私にはそういった社交性がないのよね。
朝、駅前にたっていると、いろんなことが学べる。
なにより、私にとって大事な、朝活動と、無駄なことをやる。この2つをいつも思い出させてくれる。私にとってもこの朝、駅前活動は、とってもいいね。私のこの朝活動が、だれかにとどくといいな。朝のリレーのように。
昔学生時代、詩人のタニガワシュンタロウの朝のリレーというポエム。このポエムはほんとリズムがいいのよね。
カムチャッカの若者がキリンの夢を見て言うとき。
メキシコの娘は朝もやの中でバスをまっている
大阪の盲人は、駅前で、よくわからないことを唱えている。
僕らは朝をりれーする
いいね。タニガワシュンタロウのポエムに盲人を登場させてほしいね。そのためには、私は毎朝、駅前にたたないとな。
イイ感じCM!【ネスカフェ?朝のリレー?(寝顔篇)】(60秒ver.)谷川俊太郎