六分水(ろくぶすい)の虫干しがありました

2013-11-12 04:41:50 | 雑感


先日六分水(ろくぶすい)の虫干しがありました。関係7区(新張、原口、別府、中屋敷、大石、片羽、桜井)の区長さんと地元議員3名が集まり、立会人として市長が参加されました。

東御市の滋野地区は昔から水には苦労してきた土地です。山が浅いことから沢の水が少なく水争いが絶えなかったそうです。川上3区(新張、原口、別府)は祢津領(幕府直轄地)、川下4区(中屋敷、大石、片羽、桜井)は小諸藩ということもあり、水争いの裁定には江戸表まで出向かなければなりませんでした。その結果、沢の水を枡場で滋野地区へは6分、祢津地区へは4分に分けるということが決まりました。これが六分水のいわれです。

その後取り決めを順守するために幕府の裁定許可状と用水の絵図面を厳重に保管し、毎年1回虫干しという名目で開封し中身を改め、その後また封印してきました。私も議員になって初めて虫干しに参加し、裁定状と絵図面を目にしました。

今では灌水設備も整い水に不自由することはなくなりましたが、かつて六分水はまさに滋野の命の水でした。この伝統を子供たちにも伝えて行かなくてはと思っています。

第2次総合計画の意見公募を行っています

2013-11-12 04:28:55 | 議会活動

11月11日、滋野コミュニティセンターで東御市第2次総合計画についての説明会がありました。区長さんを中心に10数名の市民の皆さんが参加されていました。来年は東部町と北御牧村が合併して10年になります。次の10年を目指して総合計画の策定が進められています。今回素案ができあがったので地区別に説明会を開催し、11月末まで意見公募を求めています。

めざす将来都市像は「人と自然が織りなす しあわせ交流都市 とうみ」というのだそうです。この実現を目指して6つの基本目標、21の政策、65の施策を掲げています。多くの市民の皆さんがこの計画に関心を持ち、意見公募に参加されることを願っています。

施策段階ではこれまで議会として問題としてきた事柄が多く含まれています。荒廃地対策、鳥獣被害対策、農業後継者問題などなど。じっくりと検討してみたいと思っています。

総合計画(素案)、前期基本計画(素案)は東御市のホームページからダウンロードできます。

北御牧地区の歴史散歩を楽しんできました

2013-11-11 00:04:24 | 趣味・野良仕事
11月5日、東御市郷土史研究会が主催する秋季研修会で北御牧の文化財を見てきました。北御牧地区とは旧北御牧村のことです。平成16年に旧東部町と合併。東御市になりました。ここはかつて朝廷の御料牧場、御牧(みまき)が置かれていたところ。興味深い文化財を見て回ることができました。以下に写真でご紹介いたします。


1、安政の川除け(かわよけ)(羽毛山堤防)
千曲川沿いの羽毛山地区はたびたびの洪水で大変な被害を受けていました。この復興のために小諸藩主の命で築かれたものがこの堤防です。


2、外山城(とやまじょう)跡
外山城は八重原台地の最北端に位置し、眼下には千曲川が見下ろせる断崖の上にあります。ここに戦国時代武田信玄により狼煙台が築かれました。現在東御市のイベント、巨峰の億国祭りで祢津地区の城山と烽火による交信を行っています。


3、鍋蓋砦(なべぶたとりで)跡
下八重原鍋蓋にあります。戦国時代武田軍がここに陣営を張ったと言われています。現在は祠しか残っていません。


4、黒沢嘉兵衛(くろさわ・かひょうえ)と八重原新田開発
黒沢嘉兵衛は小諸城主に仕え、藩の命で万治3年(1660)八重原用水を完成させました。写真は黒沢家の門で嘉永年間(1848~1853)に建てられたもので屋敷前には八重原用水堰が流れています。旧北御牧村では昭和59年に復元改築しています。


5、西峰古窯(にしみね・こよう)
八重原台地・御牧原台地には奈良から平安時代に大陸から伝えられたという登り窯が分布しています。この登り窯は平成5年、千曲川左岸広域農道(千曲ビューライン)建設中に発見され、保存状態が良好であったため芸術村公園に移設し保存展示されています。


6、八重原用水大枡(おおます)
八重原用水を中八重原と下八重原に分水する大枡です。


7、上の大土手
この大土手の規模は高さ3~7m、長さは300mに及び最上部に八重原用水路が設置されています。八重原用水の完成は寛文2年(1662)ですが開田が進む中で水が不足、宝永6年(1709)小諸藩により近隣の村から述べ2万人を動員し完成したもの。盛土が崩れないように田楽刺しという工法が使われ、現在集落名「田楽平」として残っています。


8、木造阿弥陀三尊像(大日向・観音寺)
この仏像は小諸藩主牧野氏の移封に伴い越後から小諸城下の寺に移り、その後廃寺になったため明治初期に隠居寺である観音寺の主尊となったもの。鎌倉時代初期の作。本尊を中心に観音菩薩、勢至菩薩が並んでいます。


9、両羽神社(もろは・じんじゃ)
この神社はもともとは原宮、芝宮といい御牧原台地にあったそうです。望月氏がこの地を治めるようになってから御牧7郷の惣社として大宮神社と称し、武士や御料牧場の守り神となりました。江戸時代に両羽神社と社号を改めています。


10、四ツ京塚(よつきょうづか)
御牧原台地の南部に位置し直径約6m、高さ約1.8mのほぼ同規模の塚が南北一直線に並んでいます。明治11年(1878)の下之条村村誌はこの塚を経塚(経文を納めた塚)と説明していますが、朝廷の御料牧場の時代の馬の調教場との説もあり築造時期なども不明です。


11、野馬除跡(のまよけあと)
御牧原は平安から鎌倉時代まで4百年にわたり朝廷の良馬を生産した信濃16牧のうち最大の御料牧場「望月の牧」が設置されていました。野馬除は放し飼いの馬が逃げ出すのを防ぐために牧場の周囲にめぐらした囲いです。現在土砂や落ち葉に埋もれて深さは1m位となっています。


12、縁切り地蔵(島川原)
お堂の中には3体の石造があり、右から縁切地蔵、如意輪観音、縁結び地蔵となっています。如意輪観音は十九夜念仏としてお産など女性の神様です。封建時代嫁の立場は不合理なもので3体のお地蔵さんは女性の地位を守るものとして信仰されてきました。

長らくのご無沙汰で申し訳ありません

2013-11-10 03:36:21 | 雑感
このところホームページの方ばかりかまっていて、ブログはご無沙汰になっていました。それでも毎日百数十人の方がお見えになっています。肝心の私がこんなありさまなのにありがたい限りです。先日も久しぶりに海野宿に行った折、駐車場の管理人さんが「若林さんのブログを見てこられた方がいましたよ」とおっしゃっていただきました。感謝です。

そんなことで久しぶりに投稿を見たら新しい書き込みがありました。2か月近く前のものです。ここに掲載させていただきます。

みつけましたよ! (木浪照之)2013-09-23 10:13:59おじさんですみません
昨日実家の父母が持参した巨峰に
「若林幹雄」とありましたよ!
まさに写真の通り
見ず知らずの私ですが
不思議なもので
なんとなく嬉しいものですね

これからも素敵なぶどうをお作り下さい
ぶどう大好きですよ


何のことかわかりませんよね。下記をクリックしてください。

http://blog.goo.ne.jp/dragonfly_nagano/e/2adc86decc7e0221080162927401c71a

わが家はぶどう農家です。農協さんを通して首都圏のスーパーや小売店にぶどうを出荷しています。その際、責任を明確にするためにぶどうのトレーに名前を記入したフィルムをかけます。買い求めたぶどうの中に私の名前が書かれているものを見つけられたというのです。感謝、感謝です。広い世間の中でよくぞわが家のぶどうを見つけ、お買い求めいただきました。ありがとうございます。来年はぜひご注文いただければうれしいかぎりです。


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