喪に服したままの年末年始が過ぎた。年頭から別にオメデタイ話題があるわけでもないので,まずは自分のことは棚に上げて勝手なことを言わせていただきたい。何のことかと申せば,芸能人の容姿,それもある程度キャリアを重ねた芸能人の容姿容貌,とりわけ鎖骨付近より上部のポートレイト(御尊顔)を拝見していると,人に歴史あり,あるいは,歳月人を待たず,などという言葉が改めてシミジミと実感されてくる,と,そんなツマラヌ話を少々。それは昨晩遅くに,TVの歌番組を何とはなしに見ていた折りに思い浮かんだ感想である。セルジュ・ラマSerge Lamaの歌に《今まさしく,その歌い手は20才になるのだ! Maintenant, la chanteuse a 20 ans!》 という,いささかシビアで身につまされるフレーズがあるが,それにまつわる思い,と言っていいかも知れない。
日頃の私はTVというものをほとんど見ない。こまめに調べたり探したりすれば視聴したいと思う番組の二,三はあるのかも知れないけれども,概ね95%はクダラナイ電波の垂れ流しに過ぎないと過去の経験則から理解しているので,基本的には日々TVと無縁の生活を暮らしている。しかるに,私を除く家族全員はいずれもTV大好き人間なようで,時折,そろそろ新しいテレビを買おうよ~!なんて言われたりもする。そのような身内からの攻撃に対しては,今のテレビが壊れたらね!あるいは,アナログ放送が終了真近になったらね!などと言い返してその場その場をやり過ごしている。ちなみに,我が家のTVは今から約17年も前に購入した25インチの古いブラウン管テレビジョンである。ただ,これが不思議なことに未だに何の不都合もなくキチンと映るのだ。色の再現性についても全く問題ない(と個人的には思っている)。昨今の家電製品全般の耐久年数の短さをオモンバカルにつけ,実に「当たり」製品であったと言わざるをえない。もっとも,たまに大型家電店などに出掛けた時に,店内にズラリ並んだ液晶だかプラズマだかの大画面テレビの目眩く映像の数々を眺めたりすると,あれまぁ,我が家のテレビとは全く別次元の映像再生装置であることよと,まるで浦島太郎状態におちいってしまうこともまた白状せねばならない。そうそう,今のTVを購入した時よりさらに前,約20年ほど昔の話になるが,仕事で長時間使用するパソコンのモニタは無理をしてでも出来るだけ良いモノにすべきだという某専門家の御意見に単純に同調して,ナナオの16インチモニタFlexScanを大枚20万円近く払ってエイヤッと購入したことがあった。あれから幾星霜。現在では20万も出せば42インチの最新液晶TVが買える時代なのだということは,最新家電情報に疎いこんな私でもそれなりに承知している。承知してはいるけれども,昨今の寒風吹きすさぶ我が家の家計事情のなかでは,その20万円をTVごときにムザムザ費やすのはやはり惜しいと思ったりしてしまうのであります。
何の話だったか。そう,TVの歌番組についてであるが,そこで流れていた映像のなかで,竹内まりやの容貌が何やら八代亜紀化していることに一寸虚を突かれたように驚いた。思い起こせば1970年代から80年代にかけての時代,ポップス歌謡の流行の先端で光輝いていた,ちょっと知的で洒落ていて,そして少しばかり小生意気だったあのオネエチャンが,である。ホンマカイナ。冷酷な現実を容赦なく突きつけられたことに対して,何ともやりきれない諸行無常の思いを強くした。 彼女に続いて登場したのは松田聖子であったが,こちらは見事に松本明子化しており,さらにアワヨクバ五輪真弓化せんとしているようでもあった。アワワ,アワワ,といった感じである。ただ御両人とも,一見したところでは大変シアワセそうな様子であった。 次に現れた高橋真梨子は,こちらは昔日のホンワカした面影を今なお保持しているようで,さほどの違和感は覚えず,少しだけ安心した。ただそれでもソコハカトナク瀬川瑛子化しているような感じはいたしました。あるいは,はるな愛化していたかも知れない(これはちょっと複雑な気持ちである)。 いずれにしても,歳月人を待たず。 さて彼女らは,現在,芸能人として何を求め何を目指しているのだろうか? それぞれに内面では生きてあることの恍惚と不安を抱えながらも,芸能ステージの舞台に上る限りにおいては,世代交代・生者必滅・輪廻転生・酔生夢死といったライフ・ヒストリーをそれなりに悟ったうえでの所業なのだろうか。これをマキハラノリユキ,ではなかったマツモトレージ風に言えば,時間は君らを決して待ってくれない。それとも,君らは時間を待てないのか?
男の歌い手の方では,沢田研二がほぼホームレス老人化していたが,それについては別段驚くまでもなく,ごくアタリマエのことのように思われた。単に,自然にメッキが剥げ落ちて本来の地が現れただけのように思われた。あるいは,かつての名刀正宗が刃こぼれした(シェイプ・ダウンした)ようにも思われた。いっぽうで,そのホームレス的見目御姿からは,老残,というコトバを自ら積極的に引き受けている心意気といったようなものさえ感じられた。いや,決して悪い意味ではございません。ま,ジジイは所詮ジジイであるわけですし。 ところで,少し前のアサヒシンブン地方版によれば,沢田研二は今から約20年ほど前に横浜の山手だか本牧だかに移り住み,以後現在までずっとそこらで暮らしており,さらにその地を「終の棲家」とするつもりだ,ということであった。そうか,私が横浜・関内を離れたのと入れ替わりでジュリーは横浜にやって来たのか。でもしかし,そんなにヨコハマの街が好きなのだったら,出来ますれば本牧,山手,元町といったハイソでスノッブな界隈ばかりでなく,寿町,長者町,万世町,横浜橋あたりもうろついて欲しいものだ。さらに申せば,日常生活においてはクルマを捨てて横浜の都心部や港湾地区,山手,下町などのあちこちを徒歩で,あるいは自転車で積極的に徘徊していただきたいものだ。そしたらもっと素敵なジーサンになるだろう。 あ,完璧に余計なお世話ですか。
それにしても,あー切ない。あー切りがない。かくしてショーモナイ愚考を重ねつつ冬の夜は劫々と更けてゆく。
日頃の私はTVというものをほとんど見ない。こまめに調べたり探したりすれば視聴したいと思う番組の二,三はあるのかも知れないけれども,概ね95%はクダラナイ電波の垂れ流しに過ぎないと過去の経験則から理解しているので,基本的には日々TVと無縁の生活を暮らしている。しかるに,私を除く家族全員はいずれもTV大好き人間なようで,時折,そろそろ新しいテレビを買おうよ~!なんて言われたりもする。そのような身内からの攻撃に対しては,今のテレビが壊れたらね!あるいは,アナログ放送が終了真近になったらね!などと言い返してその場その場をやり過ごしている。ちなみに,我が家のTVは今から約17年も前に購入した25インチの古いブラウン管テレビジョンである。ただ,これが不思議なことに未だに何の不都合もなくキチンと映るのだ。色の再現性についても全く問題ない(と個人的には思っている)。昨今の家電製品全般の耐久年数の短さをオモンバカルにつけ,実に「当たり」製品であったと言わざるをえない。もっとも,たまに大型家電店などに出掛けた時に,店内にズラリ並んだ液晶だかプラズマだかの大画面テレビの目眩く映像の数々を眺めたりすると,あれまぁ,我が家のテレビとは全く別次元の映像再生装置であることよと,まるで浦島太郎状態におちいってしまうこともまた白状せねばならない。そうそう,今のTVを購入した時よりさらに前,約20年ほど昔の話になるが,仕事で長時間使用するパソコンのモニタは無理をしてでも出来るだけ良いモノにすべきだという某専門家の御意見に単純に同調して,ナナオの16インチモニタFlexScanを大枚20万円近く払ってエイヤッと購入したことがあった。あれから幾星霜。現在では20万も出せば42インチの最新液晶TVが買える時代なのだということは,最新家電情報に疎いこんな私でもそれなりに承知している。承知してはいるけれども,昨今の寒風吹きすさぶ我が家の家計事情のなかでは,その20万円をTVごときにムザムザ費やすのはやはり惜しいと思ったりしてしまうのであります。
何の話だったか。そう,TVの歌番組についてであるが,そこで流れていた映像のなかで,竹内まりやの容貌が何やら八代亜紀化していることに一寸虚を突かれたように驚いた。思い起こせば1970年代から80年代にかけての時代,ポップス歌謡の流行の先端で光輝いていた,ちょっと知的で洒落ていて,そして少しばかり小生意気だったあのオネエチャンが,である。ホンマカイナ。冷酷な現実を容赦なく突きつけられたことに対して,何ともやりきれない諸行無常の思いを強くした。 彼女に続いて登場したのは松田聖子であったが,こちらは見事に松本明子化しており,さらにアワヨクバ五輪真弓化せんとしているようでもあった。アワワ,アワワ,といった感じである。ただ御両人とも,一見したところでは大変シアワセそうな様子であった。 次に現れた高橋真梨子は,こちらは昔日のホンワカした面影を今なお保持しているようで,さほどの違和感は覚えず,少しだけ安心した。ただそれでもソコハカトナク瀬川瑛子化しているような感じはいたしました。あるいは,はるな愛化していたかも知れない(これはちょっと複雑な気持ちである)。 いずれにしても,歳月人を待たず。 さて彼女らは,現在,芸能人として何を求め何を目指しているのだろうか? それぞれに内面では生きてあることの恍惚と不安を抱えながらも,芸能ステージの舞台に上る限りにおいては,世代交代・生者必滅・輪廻転生・酔生夢死といったライフ・ヒストリーをそれなりに悟ったうえでの所業なのだろうか。これをマキハラノリユキ,ではなかったマツモトレージ風に言えば,時間は君らを決して待ってくれない。それとも,君らは時間を待てないのか?
男の歌い手の方では,沢田研二がほぼホームレス老人化していたが,それについては別段驚くまでもなく,ごくアタリマエのことのように思われた。単に,自然にメッキが剥げ落ちて本来の地が現れただけのように思われた。あるいは,かつての名刀正宗が刃こぼれした(シェイプ・ダウンした)ようにも思われた。いっぽうで,そのホームレス的見目御姿からは,老残,というコトバを自ら積極的に引き受けている心意気といったようなものさえ感じられた。いや,決して悪い意味ではございません。ま,ジジイは所詮ジジイであるわけですし。 ところで,少し前のアサヒシンブン地方版によれば,沢田研二は今から約20年ほど前に横浜の山手だか本牧だかに移り住み,以後現在までずっとそこらで暮らしており,さらにその地を「終の棲家」とするつもりだ,ということであった。そうか,私が横浜・関内を離れたのと入れ替わりでジュリーは横浜にやって来たのか。でもしかし,そんなにヨコハマの街が好きなのだったら,出来ますれば本牧,山手,元町といったハイソでスノッブな界隈ばかりでなく,寿町,長者町,万世町,横浜橋あたりもうろついて欲しいものだ。さらに申せば,日常生活においてはクルマを捨てて横浜の都心部や港湾地区,山手,下町などのあちこちを徒歩で,あるいは自転車で積極的に徘徊していただきたいものだ。そしたらもっと素敵なジーサンになるだろう。 あ,完璧に余計なお世話ですか。
それにしても,あー切ない。あー切りがない。かくしてショーモナイ愚考を重ねつつ冬の夜は劫々と更けてゆく。