公衆ベンチは誰のために? (ムルージ と ブラッサンス)

2008年06月25日 | 歌っているのは?
 今から半世紀以上も昔の1952年,ジョルジュ・ブラッサンスGeorges Brassensが御年31才の時に作った歌に《公衆ベンチの恋人たちLes amoureux des bancs publics》というのがある。都会の街路の片隅に据えられた「公衆ベンチ」に座って日がな一日愛を語らう若い恋人達の現在と未来とをいささかシニカルにブッキラボーに描写した,けれどもソコハカトナク優しさと哀愁のただよう恋歌だ。 この歌について,小説家のルネ・ファレは 『ブラッサンスが描く恋人たちにはペイネの絵の恋人たちが夢みる幸せな未来はない。ベンチに座ってどんなにしっかりと抱き合ったところで,その恋は彼らの手すり抜けて行く。トレネの歌う「パリの小鳥達」は,ブラッサンスの空の下では翼を失う』 などと解説しているそうだ。また,この曲を含む日本版LPレコード《ベンチの恋人たち》が発売された’70年代の中頃,ライナーノーツを担当していた若き日の永瀧達治@おフレンチ家元氏は,やはりファレと同じようにペイネの恋人云々などと記していたように思う(単なる引き写しだったか?) ま,それはともかくとして。

 ところで,その日本版LPが出たのとほぼ同時期の1976年,マルセル・ムルージMarcel Mouloudjiが54才の時に出したLPに《みんなクルクル回っていたEt ça tournait》というのがある(何と訳したらいいか判らないので,とりあえずイイカゲンなタイトルを付けておきます)。アコルデオニストのマルセル・アゾーラとの競演によるダンス・ミュージック・レコードで,古き良きアコルデオンの時代,ヴァルス・ミュゼットの時代の雰囲気が幾分今風の味付けを伴って再現された,いわばナツメロ・ノスタルジー歌曲集である。そのなかで,《ミュゼットの女王》だとか《青いジャヴァ》だとか《サン・ジャンの私の恋人》だとか《黄昏のワルツ》だとかのよく知られた曲に混じって,この《公衆ベンチの恋人たち》がジャヴァのリズムで軽やかに歌われている。ムルージお馴染みの音程不安定でビミョーな抑揚の声色でもって,ちょいと一杯引っかけて鼻歌気分といった感じでノンシャランスに歌われている。最初聴いたときは選曲が一寸意外な感じがしたが,今になって見れば半世紀前も一世紀前もすべてノスタルジーってことになるのだろう。

 そして,相も変わらず日がな一日仕事机にへばりついて地味で味気ない単純作業を黙々と行っている最近の私は,単調さを紛らわすBGMとしてそれらの歌曲をイヤホン越しに聞き流している。以前はよくラジカセで部屋全体にオープンに歌を響かせていたものだが,この頃はイヤホンで自らの脳内にクローズに歌を響かせることのほうが多くなった。ようするに,巷のそこかしこに溢れているノーテンキ・ニーチャン・ネーチャンたちと同様の所作なわけだ。そういえばいつの頃からか,電車に乗って車内を見渡すと,大多数の若者たちは「Mobile Phone派」か「Digital Audio派」のいずれかに属するようになっている(もちろん,両派を併せ持つ者も少なくない)。閉じられた世界のなかで歌に寄り掛かった生活。歌にからめとられた生活。改めて眺むるに,かなりオカシナ社会,かなりシュールな世界になっているようだ。そして彼らと同類のメンタリティを有するようになってしまった老いたるワタシは,そのことを自らに恥じるべきだろうか? (けれど実際それはなかなかに心地よい響きなんだもの) あるいはそのことを誰かに釈明すべきだろうか? いやそんな必要はあるまい。誰に迷惑かけてるわけじゃない。ちょうど今の時期のシトシト雨のように,誰のせいでもない,誰のせいでもない雨が降っているだけのことだ。(おっと,またぞろ瘋癲老人の仲間入りか?)

 個々人のライフ・スタイル云々など全くもってドーデモイイことでありますゆえ話を元に戻すと,それにしても,マルセル・ムルージとジョルジュ・ブラッサンスという取り合わせには多少なりとも違和感を覚える人が少なくないだろう。いや,それどころか,ムルージとブラッサンスなんて,そもそもミスマッチの最たるものだと指摘するヒトもおられるかも知れない。私とて,かつては御両人の熱心なリスナーであった者ゆえ,そのあたりは重々承知しております。例えば,ブラッサンスの《オーヴェルニュ人に捧げる歌Chanson pour l'Aubergnat》をムルージが歌っているのをどこかで聴いたことがあるが,はっきり言って全然ダメだった。まったく聞くに堪えなかった。歌心を理解するしない以前の問題であり,要は「人生の不幸」ってぇものに対峙するスタンスが両者全く異なっている,という意味での違和感,ミスマッチであった。

 けれども,この《公衆ベンチの恋人たち》に関しては,大変よい唄いっぷりだと思う。ブラッサンス本人よりも格段によい,とワタクシ的には断じてしまう。それは何故か? ここでまた安直に「人生観」を持ち出してはミもフタもないので,とりあえずペシミストとオプチミストの資質的違いなどと類型化してみたり,あるいはペイザン(土着民)とヴァガボン(流れ者)の違いなどと言い変えてみたりもするが,結局はやはり人生観なのだろう。 そもそも,ブラッサンスとムルージとでは,恋人たちを見つめる眼差しがまったく異なっている。 チャラチャラしてお気楽で頼りなげで,世間の上っ面をなぞっただけのようなムルージの唄いぶりは,人生というのは所詮そういったものなのだという彼の哲学,といってオオゲサであれば当人の思い込みに由来している。しかり。ムルージは「ペイネの恋人たち」を認めているのだ。しょうがねーなー,などと内心では思いながらも,彼らの翼が折れぬように陰ながら祈っているようにも見える。ルフランで何度も繰り返される 「バン・ピュブリック,バン・ピュブリック...」 という微妙なニュアンスでの歌い回しは,ムルージの恋人たちに対する感情移入,優しく温かい心持ちを示していないだろうか。そしてそんな彼の心意気が聴き手である私の心を揺さぶるのだ。

 歌を聞き,歌を解釈し,歌を受け入れるという一連の行為自体は,極めて個人的な営為である。それはどういう事かというと,巷に流れている種々雑多な,数限りない歌というものは,しょせん路上に転がっている小石のようなもの,あるいは路傍に自生する雑草のようなものであるからだ。石なんかに見向きもしないか,石を気紛れにチョコンと蹴飛ばしてみるか,あるいは石を拾い上げてじっくり観察するか,はたまたその石をペロリと舐めてみるか,それらの選択行為に正解・不正解などあろうはずがない。敷衍すれば,普遍的な歌などありはしない,ということになる。 歌っているのは誰か? それはムルージでもなく,ブラッサンスでもなく,じつは昔日のアナタでありワタシであり,今日のワタシでありアナタであるのだ。では,回っているのは? それは人によりさまざまであろうが,例えば中島みゆきの「時代」であるかも知れないし,村下孝蔵の「帽子」であるかも知れないし,栗木京子の「観覧車」であるかも知れない。あるいは,ワタクシ的には水生昆虫の「ミズスマシ」かも知れないし,「ゲンゴロウ」かも知れない。それもごく普通種の「モンキマメゲンゴロウPlatambus pictipennis」くらいが相応しかったりして(何じゃい,そりゃ?)

 グダグタ話はこの辺で止めておこう。私事を述べると,今月のはじめに母が死に,それと前後して2週間ほど体調をくずしてしまい,この1ヶ月近くはほとんど毎日なにもできない状態でいた。正直申してアタマがクルクル,判断停止におちいっている昨今なのであります。書いてる内容が軽薄で自家撞着してるでしょ。内容が無いよ~! 要するに,回っているのはワタシの(ほぼ)カラッポのアタマだったりして。
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