とても悲しい夢を見た (またかぃ!)

2013年09月15日 | 日々のアブク
 一週間ほど前のことである。その日,私はクルマを運転していた。車種は1994年式のフォルクスワーゲン・ゴルフGLi。それは以前 わが家が所有していたクルマで,実際には今から8年ほど前に廃車処分にしたはずだった。けれども,夢の中ではまだ家に置かれており,そしてその車を東京都内まで搬送しなくてはならないという厄介な役目を仰せつかったのだった。クルマなんかもうかれこれ5~6年も運転していないという他ならぬ私自身が,である。 おお,何という試練だろうか!

 搬送先は「東京府東京市本所区向島請地町○○番地」という所である。もちろんこれはずっと昔の,それも一世紀近くも昔の住居表示であって,現在でいうと東京都墨田区向島四丁目あたりに相当するようだ。何故にまたそんな所へ?というのは後で説明するとして,取りあえずはゴルフに搭載されたカーナビ(年代物のCDカーナビ)と,それから予め用意しておいた『携帯番地入東京區分地圖』(1910年発行),『東京都区分図墨田区詳細図』(1947年発行)などの何枚かの古地図のコピーを頼りとして,かなり憂鬱な気分を抱えながらではあるが,ともかく盆地の町を出発した。

 東名高速道路を利用して東京に向かった。東名をクルマで走るのは実に久し振りのことだ。現在の私にとって,東名高速というのは日頃の自転車活動において通りすがりに時おり眺めるだけの道路でしかなくなっている。すなわち,県内中・西部のあちこちを自転車で徘徊している折りに東名の上に架かる陸橋を横断する機会がしばしばあるわけで,そんな時,たまには橋上で一休みして高速道路上をクルマがひっきりなしに往き来しているさまを,まるで異境の風景でも眺めるかのように高いところからぼんやりと見下ろしたりしているのだ。我が国を代表する大層立派な主要幹線道路であるからして,いつだって交通量はたいへんに多く,巨大車両から大型車,中・小型車,軽自動車,大型モーターバイクまで,あるいは超高級車から準高級車,一般車,ボロ車まで,各種さまざまなクルマが上り車線・下り車線とも絶えずひっきりなしにビュンビュン走り過ぎてゆく。その台数の多さ,そして走るスピードの速さには全くもって圧倒される。一方で,ときには事故渋滞だろうか,クルマが片側三列縦隊の帯状にどこまでもどこまでも連なって,ほとんど停まっているのと変わらないくらいの速度でユルユルと動いていたりすることもあるが,それもまたなかなかに見応えのある風景である。「モータリゼーション」だとか「交通網」だとか「大動脈」だとか「流通経済」だとかいう月並みな言葉が浮かんでは消えてゆく。それらは現在の私自身の生活実態からはまったく乖離した社会現象であって,いわば風呂屋のペンキ絵(=絵空事)を眺めているようなものに過ぎない。そう,気分はまるで倉橋ルイ子なのである(ったく,モウ!)


   川を クルマが下ってゆく
   歩道橋の手すりに凭れて

   思い出 二つに千切った
   そして 四つ、八つ、十六...



 しかし,これでもずっと以前には東北や北陸・中部,あるいは中国・四国・九州など,全国各地の高速道路や自動車専用道路をしばしば走る機会があったもンです。もっぱら仕事での平日利用だったが,どの地方の高速道も東名・名神などと比べると概して実に閑散としており,とても気持ちよく走ることができた。有料自動車専用道路かくあるべし,という思いを強く抱いたものだった(現状はどうなんだろうか,あいにく当方承知していない)。それに比べると東名高速をはじめとする首都圏近辺の高速道路を走行するのは,昔も今もかなり疲れる。それは100km/h超の高速ドライビング自体が疲れるのではなく,走行中に自分の前後左右を同走しているクルマの走りっぷり,それらのなかには一体何考えて運転してるんだかわからない「顰蹙マナー」のクルマが少なからず混在しているわけで,なおかつそれらのバカグルマから離れることも出来ずにイヤでも近接して一緒に走らねばならないという,その避けがたい状況がすこぶる疲れるのだ。要は,走行速度に対してクルマの通行量が多すぎる。そのような状況を回避するには,例えば高速通行料金を現在の2倍ないし3倍にして,高速道路の制限速度を80km/hにして,なおかつスピード違反車両はバシバシ取り締まる,ということにでもせざるを得ないだろう。そういえば以前,ボンクラ政党政権が高速道路を全て無料にする(キリリ!)などとぬかしておった時期があったが,あのバカ話はその後どうなったのかナ? おっと,その手の下世話な話題に深入りするのは私の望むところではないのでこれ以上は申しますまい。

 話が少々脱線ならぬ脱輪した。そうこうしているうちに,夢の中の私は,さいわい大きな渋滞に巻き込まれることもなく,交通量は結構多いながらも何とかスイスイ高速走行を続けて徐々に都内へと近づいているのであった。その後,世田谷から首都高速に入って,都内西南部の住宅密集地域やら都心部の高層ビル街やら地下トンネルやらをクネクネと走り抜けたのち,隅田川沿いの首都高6号線・向島インターで降りた。首都高速の方も東名高速同様ソレナリニ順調に流れてはいたが,さすがにこちらは毎度お馴染みの過密ビュンビュン状態であった。とにかくクルマが多すぎる! そんななかを久し振りに眩暈のするようなスピードで自動車専用道路を何とか無事走りおえての難関突破,まずはホッと一息ついた。現在ではまるで他人事のようで信じられないが,思い起こせば20代の頃の自分は東京都内の幹線道路や住宅街の迷宮道路を平気でクルマで走り回ったり,あるいは首都高,湾岸道などの高速道路をバンバン飛ばしていたのだ。特にあのクネクネ迷路のような首都高速道路というのは,いつだって一歩間違えればまさに死と隣り合わせのデンジャラス・サーキットであるわけだが,クルマ社会に身を置くということはつまるところそういう世界で生きてゆかねばならないという覚悟を持つことだ,そのためには一種オロカナ諦念状態に自らを置かなければそういう環境を受け入れることなどとても出来やしない,なんて思いながら「若気の至り」を積極的に発揮していた次第である。ただし,いずれもBusiness Use,すなわち仕事のために止むをえず利用していたのであって,正直なところ,クルマを運転している私自身はそういったクレイジー・ドライビングなんてチットモ楽しくなんかなかった。無事故で通すことができたのは,まったく運が良かっただけなのだ。

 さて,クルマ運転の試練はさらに続く。首都高速を降りたとたん,なぜか周囲の様相が一変した。何やら目に見えないバリアを瞬時に超えたかのように,町中に吹き渡る風が変わり,町を覆い包む匂いが変わり,そして町を構成し,組み立て,集約している風景が一変した。複雑系から単相系へ。原色(カラフル)から単色(モノトーン)へ。自分が一体どこに辿り着いたのかは曖昧で不確実なのだけれども,そこが「現代」でないことは明らかだった。そこからはいよいよ古地図を頼りに未知の土地,未知の道路を走ることになる。雑然とした古い東京の下町に迷い込むことになる。

 ところで,クルマの搬送先である本所区向島請地町という所は,今をさかのぼることちょうど90年前,大正12年(1923年)9月の関東大震災により壊滅的な被害を受けた地域である。ある資料によると,地震の規模は本所・向島地区において震度7弱と推定され,そこに住まう約1,100世帯のうち,家屋の全壊が約67%,半壊を含めると85%近くに及んだという。そして家屋建物の倒壊以上に火災による被害がすこぶる甚大で,本所区全体の9割余りが焼失し,焼死者5万4千人に及んだという。その数は東京市全体の8割以上に達した。なかでも集団避難所となった「本所被服廠跡地」における惨劇は災害史上特筆すべきものであった。

 さらにそれから約20年の後,こんどは大東亜戦争の末期に米軍機による執拗な絨毯爆撃を受けて同地区はふたたび大きな被害をこうむることになった。度重なる空襲による死傷者は6万を超え,30万人近い罹災者を出したという。とくに昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲では,わずか1日で本所地区の96%,向島地区の57%が焼失したとのことだ。Les guerres du mensonge, les guerres coloniales... シアワセとフシアワセはいつだって表裏一体であり,彼らの喜びはしばしば我らの悲しみとなる。戦争というものの まことに愚かな一面が,そこではアカラサマに示されたのだった。それにしても,数知れぬ名もなき無辜の民草に対する,それは何という「見せしめ」だったろうか!

  Les guerres du mensonge, les guerres coloniales
  C'est vous et vos pareils qui en êtes tuteurs.

  Quand vous les approuviez à longueur de journal
  Votre plume signait trente années de malheur.



 実際のところ,その「向島」というところへは私はこれまでに一度も行ったことがない。土地勘もなければ知己もあいにくおらない。その地名を聞いて思い浮かぶのは,花柳街とか百花園とか,あるいは幸田露伴とか墨東綺譚だとか,せいぜいそんな耳学問によるものだ。現在の町の概況や風景のありさまについてであれば,グーグルのストリートビューなどを見ればだいたい窺い知ることができる。東京東部の隅田川・荒川デルタ地帯で,平坦な低地に高いビルと低い家屋が混在して密集する,何やら味気ない下町エリアのようだ。江戸情緒を感じさせる歴史的景観などは残念ながらまったく認められない。そりゃそうだ。関東大震災と大東亜戦争の空襲により一度ならず二度も壊滅状態となり,江戸から明治,大正初期にかけての時代の面影はほとんどすべて失われてしまった土地なのだ。

 墨田区の向島地区は東京の下町を南北に流下する大川,隅田川の東側(左岸)に位置する。川を隔てた西側(右岸)は台東区の浅草地区である。現在ではどちらも数多の建物が密集するゴチャゴチャした地域であるが,明治初期の古地図などを見ると両地区の地理的性格はまったく異なっていたようだ。江戸時代以来の歴史ある下町として家々が連なり華やかな賑わいをみせていた浅草とは対照的に,当時の向島は江戸あらため東京という大都市の郊外,というよりもまったくの田舎然とした地域の様相を示している。街道沿いに家々が居並ぶほかは,農地や荒蕪地,湿地等がひろがり,集落はポツリポツリと点在しているに過ぎない。幸田露伴の娘で作家の幸田文は明治の末に向島・寺島町で生まれ,大正末期の震災時までその地で住み暮らしたという。その時代の向島も,やはり浅草の「川向こう」として位置づけられ,川べりで土の薫りのするのどかな土地柄だったようだ。御本人は「農村に生まれ育って二十年」と晩年に回想している。

 さて,私の行き先はどうやら向島の曳舟川という水路ないし運河に沿った近辺であるらしい。現在ではその川は既になく,埋め立てられて広い道路になっているようだが,私がこれから出掛けるのは,とにもかくにも今を去ること一世紀の昔,大正時代のその場所なのである。話が少々ヤヤコシクなるけれども,実は私の父が大正時代の初めに向島で生まれ,そして大東亜戦争の頃までずっとその地で住み暮らしていたのだ。幸田文の住まいとは距離にして1kmも離れていなかったようだ。あちらは寺島小学校(旧:寺島村)に通われたとのことだが,父はその隣の牛島小学校(旧:請地村)に通った。ともに,ほぼ同時代の向島で育ったといってよいだろう。ただし,あちらは大文豪のお嬢様,こちらは鍛冶屋の小倅であるが。

 それでまた,何でわざわざ御苦労にもヤヤコシクも,遙か時代を遡ってまでクルマを搬送するのかといえば,それは,今は亡き父への「供物」なのであった。つまり,夢の中の私は,東京の下町,というか東京郊外の,恐らくは薄汚れた路地裏の茅屋で汗と埃にまみれて日々黙々とモノヅクリに精を出しているであろう父に対する久方ぶりの御挨拶をしようとしているのだった。そして,積年の感謝の意をせめてもの形であらわすために,既に自分にとっては無用の長物となったクルマ,その質実剛健な精密機械たるドイツ車をぜひ父に贈りたい。それを何とか役立ててもらえれば幸いです。もちろん走らせることはできないだろうが,店頭に飾っておいたり,物置代わりにしたり,あるいはバラして部品取りをするなり鉄屑にするなり,如何ようにでも御利用下さい,などと強く念じていたわけなのだった。いわば時空を超えたオツカイ,まるで夢のような時間旅行(あ,夢デスケド)とでも言ったらよろしいだろうか。何やらストーリーの展開がイイカゲンでありますけれども,何分にも夢の話ゆえ何とぞ御容赦願いたいと存じます。

 大正時代の初めにその地で生まれた父は,震災当時は8才になったばかり,まだ尋常小学校の二年生だった。父親(すなわち私の祖父)は震災の2ヶ月前に病死しており,寡婦となった母親(すなわち私の祖母)と父,それから父には姉が二人いたので合わせて4名の一家が向島の地で細々と暮らしていた。女世帯の4人家族が未曾有の大災害からどのようにして生き延びたのかは承知していないが,とにもかくにも全員何とか無事に生きながらえたようだ。ちなみに,8才といえども当時の旧民法下においては戸籍上「家長」なのである。一家の大黒柱であった父を早くに亡くして家業を継ぎ,その直後に大きな災害に見舞われた8才のコドモにとって,世の中はどのように映じただろうか。家長という「肩書き」はあまりに大きなプレッシャーではなかったか。世間の風の吹きようはいかばかりで,そして「村の鍛冶屋」のナリワイはどんなだったろう。大正の末から昭和の初めにかけての名もなき無辜の民草の暮らしぶり,恐らくは貧困と苦難,悲惨と絶望,無力と厭世とが日常のそこかしこにアタリマエのように存在するなかで,それでも一縷の希望,生きる喜びは見出せたのだろうか。漠然とあれこれ想像するだに,やはりすべては悲しい夢物語のように思えるのである。

 東京の町それ自体は,その後,震災による打撃から徐々に立ち直って復興の歩みを進めてゆく。けれど,時代の荒波はあくまで厳しく,やがて昭和恐慌の嵐がおしよせ,デフレ経済不況のもと,倒産,解雇,失業,浮浪,転落,身売り,犯罪,退廃などさまざまな社会不安が蔓延する暗い世相が続いていった。そんななかで,二人の姉は前後してそれぞれ東京を離れて遠くへ嫁いでゆき,加えて昭和13年には母が亡くなった。ひとり残された父は,その後も向島の地で鍛冶職人としての仕事を続けたという。頼るべき親類縁者も近くにはほとんどいなかったようだと人づてに聞いている。折しも国際社会の情勢は風雲急を告げ,大陸では蘆溝橋事件,上海事変と小さな紛争が勃発するなど何やら焦臭い状況となって世の中全体に暗雲が立ちこめ,やがて国を挙げての大東亜戦争へと突き進んでゆく。一介の町職人であった父も,当然ながら赤紙による応召を受け,見知らぬ南方の戦地へと駆り出された(戦時中における一兵卒としての父の去就動向は,今の私にはまったくわからない)。

 昭和20年の夏,我が国は敗戦を迎える。幸いにも戦地で生きながらえて南方から復員した父は,再び東京に戻った。本所・向島界隈は戦禍によりことごとく破壊され昔日の面影は跡形もなく,親類縁者はすべて音信が途絶えていた。わずかに残された知人の伝を頼って上野,板橋,そして目黒方面へと居を移したという。すべては生きるため,働くための転居であったようだ。やがて縁あって結婚し,すぐに子供が次々と生まれた。時代はまさにベビー・ブームなのでありました (このあたりの話はムニャムニャムニャ。。。)

 その父は,昭和30年代の初め,勤めていた目黒の町工場から客先の現場へと自転車で出掛ける途中,渋谷の代々木公園近くの山手通りで 居眠り運転のトラックに跳ねられて死亡した。享年42才の厄年だった。関東大震災と大東亜戦争という二つの巨きな災厄から何とか免れて生き延びてきたにもかかわらず,一瞬の交通事故により実にあっけなくその生涯を終えてしまった。当時,目黒区立不動小学校の二年生であった私は,偶然にも父と同じ年齢で自分の父親を亡くしたことになった。

 父が事故で死んだという報を聞いたとき,まだ小さかった私には「交通事故死」というものの持つ意味が咄嗟に理解できなかった。事故で怪我をする,というのならまだ分かる。それは当時の自分だって,貸し自転車(!)に乗って目黒の町中をあちこち走り回っているときに,転んで手足を擦りむいたり打撲したりすることはしばしばあったのだから。また私以上に年がら年じゅう外遊びをしていた兄など,やはりその頃 廃材置き場で遊んでいるときに,五寸釘を思いっ切り踏んづけて靴の上から足裏にモロに突き刺さり,ひどい大怪我をしたこともあった。けれど,「怪我」と「死」には決定的な違いがあった。怪我はやがて快復するだろうが,死は決して快復しない。それは突然の落雷や雪崩あるいは隕石の落下など,いわゆる自然災害に遭遇したときの最悪の結果のごときもの,すなわち何の予告もなしに起こった宿命的な悲劇なのであって,ああ,「運」が悪かったんだな,と思うことで自らを強く納得させるしかなかった。8才にして既に運命論者になっていたのだ。生来寡黙な父であったがゆえ,また,私自身もまだ幼かったゆえ,父の生い立ちや昔の暮らしぶり,震災や戦争の苦労などを生きているうちに全く聞くことができなかったことが,今となってはまことに悔やまれる。。。

 さて,夢の続きでありますが,その後,水路に沿った家並みの一角にあるバラック小屋のような建物の前で私はクルマを止めた。どうやらそこが目指す場所の鍛冶屋のようだった。店のたたずまいは,そうさな,「鈴木オート」(@ALWAYS三丁目の夕日)を更に更にミスボラシクしたような,暗く埃っぽく寂れた感じだった。六ちゃんはどうやらいないみたいだ。東京タワーならぬ浅草十二階(凌雲閣)の塔も,あいにくそこからは望むことができなかった。

 クルマを止めたのち,自らの高ぶる気持ちを落ち着かせるために何度か深呼吸などして,それから周囲を気にしながら恐る恐るクルマから降りた。そして,店の中を碌々確認することもせずに(いや,そんなこと出来やしない),すぐさま私はダッシュで水路沿いの道を駆け出していた。これで私の役目は終わった。そう,取りあえずコレデイイノダ。用を済ませたらとにかく一目散にその場を立ち去らねばならない。そうしないと元の世界に戻れなくなるゾ。原田知世も仲里依紗もそう言っていたではないか。 でも,どこへ? 今の私に,戻るべき世界などあるのだろうか。ダロウカ。。。?

   。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 多少の脚色や饒舌はありますけれども,概ねそんな夢でした。(ああ,ドット疲れた)

 父の墓は東京・上野の谷中にある。真言宗豊山派の末寺で,詩人の立原道造の墓などもあるという古い寺だ。その寺の墓地の隅っこの方に,こじんまりとして質素な墓石が建てられている。今では長年の風雨にさらされて苔生し劣化し,ちょっと大きな地震でもあれば崩れ落ちてしまいそうなありまさだ。過ぎてきた歳月の重さをシミジミと思わずにはいられない。お墓って何だろう,と思う。

 さらに余計を申せば,向島の父の生家のすぐ近くには,現在「東京スカイツリー」なる超有名な超高層タワーが建てられている。こちらは今まさにピッカピカの現代建築物で,そのおかげで現地周辺は一躍観光名所となってしまったようだ。たまに上京したおり,遠くからそのスカイツリーが望まれることがある。ああ,あの辺が向島なんだなと思う。あるいは大気の澄みわたった好天の日であれば,拙宅近くの山々の高い場所からも遙か東の彼方にそのタワーがチョコンと見えることだってある。おお,あそこなのか,と思う。それは今の私にとっては まるで慰霊塔のようだ。何かを知らせ,何かを思い起こさせる標識のようだ。悲しみのモニュメント,ってか? 瞑目。合掌。オソマツ様。
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