地球の亜空間世界にあるアルザス(アルツァレト)。日本人と同じイスラエル12部族が住む夜のない世界。その寿命は1000才という。100年に満たない人生が大半の我々には羨ましく思える。しかし、1000才を生きるとは、想像を絶する苦悩があるのではないか?
織田信長の時代には人間五十年。50才で死ぬ前提で、太く短く生きる人生設計がなされた。けれど、空前の高寿命化を迎えた現代では、老後の悲惨さだけが不安視されて、生きる目標を失った中年や若年さえ増え続けている。こんな状態で、突然に1000年生きると言われても、そんな無茶苦茶は御免と戸惑う人のほうが多いのではないか?
例えば、スポーツは若いから可能で、プロでも20年やる人は稀だから興行として成り立っています。選手が高齢化して運動能力が落ちてリタイアする。これがチームの新陳代謝となって、常に適正な人員が保たれる。
ところが、寿命1000才の世界では、数百才でも30代に見えるそうな。これでは新陳代謝は進まない。年齢制限を設けて強制的に辞めさせないと若い人が入ってこなくなる。だから、リタイアした後に数百年生きる人生設計が必要となる。お馬鹿なスポーツ選手では無理ゲーな話し。
科学者や芸術家は、1000年生きられれば業績が上がるかもしれない。しかしそれは、精神的に老け込まないことが前提となる。老けこんだら死ぬほどの苦痛が何百年と続く。
女性の場合、結婚して子供を産んでも、数えきれない孫の世代が続いても、自分も子供を産めるかもしれない。その前に、夫と数百年も一緒に居られるだろうか?1000才の世界では、結婚生活も200才までとかで飽きる人も多いのではないか?
このように考えると、人生に目標のない人ほど長寿が苦痛となるはず。現に、今の老人で前向きに生きられている人は数えるほどしかいない。大半の老人は目が既に死んでいるか欲ボケしている。
学びたい、研究したい、覚えたい、知らない世界を探求したい、あるいは何か創りあげたい。そのような欲求がなくて、ただ食べて寝てテレビ見て年をとるだけの人に、1000才はおろか200才だって長過ぎるのではないか?
浦島太郎のように、理想郷から帰ってみたら、肉親も知人もみんな死んでいなくなっていた。太宰治の御伽草子のように、玉手箱を開けたら一気に老化した方が幸せという考えも成り立つ。実際、僕は大学の同級生と会っても「変わらない」と言われるけど、僕から見たら同級生は棺桶に片足を突っ込んでいる廃人同様ばかり。僕は既に浦島状態。
僕は随分と若く見られますが、実精神年齢はもっと若く、おそらく中学生の大半より若いはず。老けた中学生が多いし。永遠の三歳児は理想で過去形ですが、それでも精神年齢は18才位ではないか。やりたいことが山ほどあり、全部やり遂げるにはあと100年はかかる。少なくとも200才まで生きて人生に飽きることはない。
1000才を生きるアルザスの人でも堕落するらしい。堕落して人肉を頬張り、オカルトに生きることが目的となる。人の骨までバリバリ食べて歯が擦り減らないのは凄い。あれ(ペンタゴンの赤鬼と青鬼)でも、歯が2/3程度には擦り減っているのだろうか?
神の世界は永遠だから、1000才を生きる以上の何かがなくては住むことは出来ない。住むことの出来ない人には永遠の地獄があてがわれる。現世から見てどちらも想像を絶するのは同じ。
1000才を生きる、あるいは永遠の命を手に入れる。そのどちらにしても、大切なのは目的を失わないこと。だから、あと数年で死ぬ、あるいは数十年で死ぬ人であろうが、今の時を無駄にする人には神の世界は遠くなる。今を大切に出来ない人に、未来が託されることはない。

参考 診療報酬詐欺で逮捕された脇坂英理子容疑者
37才なのに素顔は60才を超えて見える ((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
サボってばかりで無駄に時間ばかり進む人生では1000才は生きられない。僕は死ぬまで勉強という言葉は嫌い。死んでからも勉強なら理解できる (;^ω^)
死ぬまでに外国語を1つか2つ読めるようになるとか、聖書を原文で読めるようになるとか、そういう具体的な目標を立てて、コツコツと積み上げていけば100年も生きれば何とかなるはず。既に、50年も生きてアンプを作れないなんて信じられないでしょう。
キットから始めて複雑なアンプが作れるようになるのと同様に、ポップスの英語やイタリア語やスペイン語から始めて言葉が覚えられる。何事も単純なものから複雑化に向かい、最後にまた単純化に至る。創造という世界では、1000才なんてあっという間かもしれません。所詮は神の日の一日ですからね。
エフライム工房 平御幸
織田信長の時代には人間五十年。50才で死ぬ前提で、太く短く生きる人生設計がなされた。けれど、空前の高寿命化を迎えた現代では、老後の悲惨さだけが不安視されて、生きる目標を失った中年や若年さえ増え続けている。こんな状態で、突然に1000年生きると言われても、そんな無茶苦茶は御免と戸惑う人のほうが多いのではないか?
例えば、スポーツは若いから可能で、プロでも20年やる人は稀だから興行として成り立っています。選手が高齢化して運動能力が落ちてリタイアする。これがチームの新陳代謝となって、常に適正な人員が保たれる。
ところが、寿命1000才の世界では、数百才でも30代に見えるそうな。これでは新陳代謝は進まない。年齢制限を設けて強制的に辞めさせないと若い人が入ってこなくなる。だから、リタイアした後に数百年生きる人生設計が必要となる。お馬鹿なスポーツ選手では無理ゲーな話し。
科学者や芸術家は、1000年生きられれば業績が上がるかもしれない。しかしそれは、精神的に老け込まないことが前提となる。老けこんだら死ぬほどの苦痛が何百年と続く。
女性の場合、結婚して子供を産んでも、数えきれない孫の世代が続いても、自分も子供を産めるかもしれない。その前に、夫と数百年も一緒に居られるだろうか?1000才の世界では、結婚生活も200才までとかで飽きる人も多いのではないか?
このように考えると、人生に目標のない人ほど長寿が苦痛となるはず。現に、今の老人で前向きに生きられている人は数えるほどしかいない。大半の老人は目が既に死んでいるか欲ボケしている。
学びたい、研究したい、覚えたい、知らない世界を探求したい、あるいは何か創りあげたい。そのような欲求がなくて、ただ食べて寝てテレビ見て年をとるだけの人に、1000才はおろか200才だって長過ぎるのではないか?
浦島太郎のように、理想郷から帰ってみたら、肉親も知人もみんな死んでいなくなっていた。太宰治の御伽草子のように、玉手箱を開けたら一気に老化した方が幸せという考えも成り立つ。実際、僕は大学の同級生と会っても「変わらない」と言われるけど、僕から見たら同級生は棺桶に片足を突っ込んでいる廃人同様ばかり。僕は既に浦島状態。
僕は随分と若く見られますが、実精神年齢はもっと若く、おそらく中学生の大半より若いはず。老けた中学生が多いし。永遠の三歳児は理想で過去形ですが、それでも精神年齢は18才位ではないか。やりたいことが山ほどあり、全部やり遂げるにはあと100年はかかる。少なくとも200才まで生きて人生に飽きることはない。
1000才を生きるアルザスの人でも堕落するらしい。堕落して人肉を頬張り、オカルトに生きることが目的となる。人の骨までバリバリ食べて歯が擦り減らないのは凄い。あれ(ペンタゴンの赤鬼と青鬼)でも、歯が2/3程度には擦り減っているのだろうか?
神の世界は永遠だから、1000才を生きる以上の何かがなくては住むことは出来ない。住むことの出来ない人には永遠の地獄があてがわれる。現世から見てどちらも想像を絶するのは同じ。
1000才を生きる、あるいは永遠の命を手に入れる。そのどちらにしても、大切なのは目的を失わないこと。だから、あと数年で死ぬ、あるいは数十年で死ぬ人であろうが、今の時を無駄にする人には神の世界は遠くなる。今を大切に出来ない人に、未来が託されることはない。

参考 診療報酬詐欺で逮捕された脇坂英理子容疑者
37才なのに素顔は60才を超えて見える ((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
サボってばかりで無駄に時間ばかり進む人生では1000才は生きられない。僕は死ぬまで勉強という言葉は嫌い。死んでからも勉強なら理解できる (;^ω^)
死ぬまでに外国語を1つか2つ読めるようになるとか、聖書を原文で読めるようになるとか、そういう具体的な目標を立てて、コツコツと積み上げていけば100年も生きれば何とかなるはず。既に、50年も生きてアンプを作れないなんて信じられないでしょう。
キットから始めて複雑なアンプが作れるようになるのと同様に、ポップスの英語やイタリア語やスペイン語から始めて言葉が覚えられる。何事も単純なものから複雑化に向かい、最後にまた単純化に至る。創造という世界では、1000才なんてあっという間かもしれません。所詮は神の日の一日ですからね。
エフライム工房 平御幸