25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

宗教のゆくえ

2018年06月05日 | 文学 思想
 今、生きることが苦しい、死んだほうがましだ、と多くの人が思うときに宗教は現れる。こころの内に病気は体に現れるから、病を治すという奇跡を起こせば、人はその方を神のように崇める。
 科学者のような知識をもつものでさえも同じである。

 原始宗教の始まりは、弱いホモ・サピエンスが集団を形成することで、勝ち抜くことができた。宗教は人が共有できる人類が編み出した弱い者の知恵であった。
 5万年くらいは素朴に弱い者として集団で生きていた。ところが集団同士が争うことも起きてきた。紀元前3000年にもなると部族の長をまとめる国家も誕生した。
 まずしく、戦乱に明け暮れるところから新興宗教が誕生した。まずインドでブッダ。中国で孔子。ギリシャでは宗教ではないが哲学者のソクラテスやプラトン。そして2018年前にイエス・キリストがすさんだ地で誕生した。ギリシャが宗教を生み出さなかったのは、豊かであったせいかもしれない。しかし、聖書を読んでいると、プラトンのイデア論の影響も受けているように思える節がある。イエス・キリストは絶対神への帰依を人々に強く要求した。彼の言葉は神も言葉であり、イエスを通じて神の言葉が語られるとした。
 医療技術ももっていたにちがいない。

 信仰への脳回路がなぼくは聖書言葉を有り難く読んでいるわけではない。
 現在、新約聖書と旧約聖書を同時並行のように読んでいる。夜な夜な読むものだから、眠いときにはちょっと読んで眠ってしまう。
 「ヨハネによる福音書」はマタイ、マルコ、ルカとも違い、やや思弁的である。新約聖書のほうはだんだんとおもしろくなってくる。旧約聖書はまだ「創世記」なので暗示的で興味深い。
 アフリカをでてエジプトやメソポタミアに渡った人類のうち、そこにとどまった人類が旧約聖書の内容を作りあげていったのだろう。メソポタミアにとどまらず、インドに渡った人たちがヒンズー教師や仏教を生み出し、中国に渡った人々は儒教を生み出したのだろう。果ては日本列島であった。イエスの時代で弥生時代であった。ブッダ時代では縄文期であった。仏教が入ってくるのは釈迦入滅後
千年である。
 人類は産業革命と進化論で大きく変化した。アインシュタインの登場でプラトンの学説も少し揺らいだ。原因が不確実なら結果も不確実である、という風にもなってきた。
 ゲノム配列が解明された。
 奇跡を起こすのは科学技術になってきた。
 宗教はどう薄まるもか、不要になるのか。南米で原始のままに暮らす集団ピダハンには神は言うにおよばず精霊さえもいない。
 人間はどうなっていくのか。あたりを見渡せば忖度やら、自己保身やら、ネットでの悪口投稿だの、就活で同じリクルートスーツを来て歩く若者をみると、人間の弱さを目の当たりにする。2000年前とちっとも違ってないじゃないか、と思うことが多い。情けないことばかりが映ってくる。平和の党と自称する公明党とて、集団的自衛権を限定的に許し共謀罪も許す。創価学会も薄くなってきているのだろう。
 イエス・キリストは磔による死後三日で復活した。この馬鹿馬鹿しさも、こころの内のことだと、イデアの内のことだと理解すれば信仰というものを否定はできない。
 とにかくも、ぼくは聖書のすべてを読んでみようと思っている。