25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

縁起譚

2018年06月08日 | 文学 思想
新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書までがイエスが誕生してわずか二年の布教活動の末に磔の刑で死に、その三日後に復活して四十日弟子たちと共にいたところまでを描いている。
 内容は「奇跡を起こし人々の病気を癒し、治すこと」と「自分は主なる神ヤファウェの子であり、イエスのいう言葉は主なる神が言っていることなのだ」と激しくなんどもなんども言う。時々、たとえ話で隣人を愛せ、とか、故郷は預言者を受け入れない、とか、驕るな、姦淫するな、・・・のような訓戒を述べている。

続く、「使徒行伝」は残されて、特別にイエスから力を与えられた弟子たちがイエスの死後、キリスト教を各地に拡げていく様を描いている。この内容は各地に行き、説法をし、奇跡を起こして信者が増えていく。ほとんどペテロとパウロに代表される初代キリスト教社会の活動であり,聖霊の働きによって福音がエルサレムからローマへ伝播する歴史である。
 「教え」というのは出て来ない。ただ弟子たちは主の子イエスより与えられた力で、弟子たちの言葉はすなわちイエスの言葉、すなわちヤファウェの言葉である、と激しく主張している。

一方読み進めている旧約聖書では「ノアの箱舟」のところが終わったところである。

 新約聖書ではローマ帝国に支配された様々な民族の不平不満の様子がわかり、いかにしたら心と体の平安を保てるか書いてある。

 他の書物からキリスト教のことを聞いてもピンと来ないので、直に読んでみることにした。縁はこうである。「竹取物語」が図書館での「よもやま話」の次回テーマとなった。ぼくの中ではかぐや姫物語は「物語の日本での始まりは貴種流離譚である」ということを意見として言いたいと思い、この貴種流離譚でつまづくイエスの話を、他の書物で知ったからだった。「預言者は故郷、家族、親族には受け入れらない」という言葉を実際にぼくは聖書の中で探したのだった。そのうちに聖書を読み続けてみようと思う気持ちになった。その聖書は大型判で、キリスト教者だった女性の家の遺品処理w頼まれた時に、ぼくは捨てずに持っていたのだった。
 「よもやま話」で意見交換をすることは楽しいことだろうと参加した。参加するには時間が必要だが、今のぼくにはそれがある。
 聖書を読むにも時間が必要であの紙の薄い、分厚い書物もちょっとずつでも読んでいけばいずれは終わるものだということはわかっている。聖書を長編小説のように読んでいるわけだ。
 すると妻がたまたま宗教画の本を読んでいた。中世に描かれた絵画のシーンは新約聖書の名場面ばかりである。これまでなら、気にも留めなかった宗教画である。絵を見て、これはどの場面だとすぐにわかるようになった。
 当面、聖書全部を読んでみて、それから仏教の原典(というのがあるのかどうかしらないけれど)を読み、孔子の「論語」を読んでみようと思っている。

 昨日、新聞の広告欄で「文學界」「すばる」「群像」「新潮」の文芸月刊誌の広告が載っていて、急に読みたいという感情が湧いた。文学を好むものはどんな考えでいるのだろうかと強い好奇心に駆られたのである。現在の自分には大過去から大未来、たんぱく質からDNAや生物、身体の構造や骨や筋肉の働きや連動、認知に関することなど専門家ほどではないがある程度のことは知っている生身である。そんな自分を土台にして、新たに文学を考えてみたいという気分が湧いたのだった。聖書のおかげかもしれない。