25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

やりきれない事件は続く

2019年06月03日 | 文学 思想
元農水省事務次官の息子殺害は、証拠はないが、学童の列に切り刺し込んだ岩崎隆一の殺傷事件からの感染があったようにぼくは思う。
 この元事務次官は息子の自慢であった。ところが母親を「愚母」と呼ぶほど嫌っていた。愚母らしき育て方をしたのかもしれないが、母親だけが責められるのでは片手落ちだ。子に社会性を教えるのは主として父親である。基本的に母親は「慈愛」の象徴である。父親は「社会性」の象徴である。父親は子育ての肝腎なところを妻にまかせ、妻は肝腎な慈愛を偏狭な世界観を強要したのかもしれない。

 西洋風に、ヘンゼルとグレーテル風に言うならば、この夫婦は息子を外に放り出すのがよかった。社会という場所にいると、公園でも道端でもどこでもいいのだが、「妄想」は発生しないものである。宮沢賢治風に言えば、この夫婦は息子を残して出ていくこともできた。そしてコンサルタントにお願いすればよかった。

 日本的な言い方をすれば、一家無理心中を図りたいほどのことだったのだろう。「運動会の音がうるさい」と言い始めたとき父親の脳裡には学童に突っ込む我が子を想像してしまったのではないか。

 子供に自室を与えない方がいいというのは、家の中の自室では何を考えても、思ってもよく、裸になろうが、裸でサンマを焼こうが構わないのである。どんな妄想も自由である。しかも妄想ばかりが浮かんでくるようになる。「漫画を読んでいる自分が浮かぶ」も妄想である。「ラーメンが浮かぶ」も妄想である。居間にいると人がいるので妄想は浮かびにくい。玄関に座っていればもっと浮かびにくい。
 この元事務次官夫婦が間違えたのは、「個室」への理解のなさと、「個室」から出さなかったことである。
 これもなんだかやりきれない事件である。