25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

言語芸術家

2019年06月24日 | 文学 思想
2006年に文芸月刊誌「群像9月号」で吉本隆明と中沢新一の対談を読んだ。興味深いことを話し合っていた。その中で、中沢新一が
(チベット仏教は)心といわれているものが、潜在的な領域で働いている部分と、脳の働きや筋肉の動きを通して現実の世界にあらわれている部分とでできていて、そこには違う働きがあるということに気づかせて、それがわかってきたところで、現実化していない潜在的な心の働きそのものの探究に入っていくようにさせるんですね。若いときは難しいその切り分けが、老人になればだれでもできるんだというんです。

 脳=こころではないのだ、と納得。

 現在2019年。ぼくは当時より13年も年をとった。内臓は独自のあり方で何かを思っている。脳も独自の在り方で何かを思っている、ということが今はよく理解できる。肝臓が物を言うときがある。胃が叫ぶときもある。内臓全体のネットワークが脳ともつながって、大声を出すときもある。

 「潜在的な領域で働いている部分と脳の働きや筋肉の動きを通して現実の世界に現れる部分」をぼくなりに理解すると、
 内臓からの言葉と脳からの言葉があるということが言える。優れた言語芸術はこの2つの言葉で織りなされていて、脳だけからの小説は読後感がなく、すぐに忘れてしまう。
 文芸は強烈に内臓から発せられた言葉と脳からの論理性や、客観性を持ちえた言葉使いの匠が偉大な言語芸術家になるのだと思う。
 現在、ぼくは夏目漱石が偉大な言語芸術家だと考えている。三島由紀夫、中上健次、村上春樹も言語芸術家である。他にもいるし、作品もある。まだ出会っていない言語芸術家がいるはずだ。いつも楽しみにしている。