25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

死ぬと

2019年06月16日 | 文学 思想
 知り合いの人が亡くなったので、葬式に行った。
 こういうときに思う。
 ぼくが死んだときはお坊さんも呼ばず、お経も、位牌も要らず、墓に入ることも不要だと子供たちに言ってある。ぼくが生きた証はパソコンにファイル化してある。SDにでもコピーして子供、孫に残しておこうと思っている。子供たちは東京で暮らしている。うちの墓は尾鷲の寺の裏にあるが、それはもうそのままにしておくしかない。
 死ぬことは自分は経験できないわけで、近親の人にすべてを任せるしかない。せめて、自分の考えを言っておこうと思って、去年だったか、息子に言った。
 若返りの薬や老化抑制の酵素、iPS細胞の進展、ゲノム編集などと現在の医学、科学の様子を見ていると、うまくいけば95歳くらいまで生きることになるかもしれない。母親だって、あと2か月で94歳になる。元気な95歳というには十分あり得る話だ。

 ぼくとして、健康に気を使っていることは、自分が持つ酵素の数は限られているから、それを使い果たすときが死だと思っているにで、できるだけ、食べる物で酵素を取り、自分の酵素は使わないようにするよう心がけている。神経質にやっているわけではない。旬のものを食べればよいのである。先日、大根おろしの汁を豚肉につけて袋に30分入れておいたあと、料理をしたら、豚肉はなんとも柔らかい肉となっていたのを見て、ジアスターゼ酵素の力を目の当たりにした。
 秋刀魚を食べるとき、だし巻き卵を食べるとき、大根おろしを使う。料理の歴史には蓄積された経験的な勘がある。迷信は科学によって排除される。それが頼もしいと思う。拝んだり、祈ったりが正統だとは思えない。
 思えばぼくは仏教も神道も信じず、形骸化した正月や盆の行事や祭り、付き合い上の宗教的儀礼に怒ることもなく、慣習としてやっているだけで、我が身となれば、ぼくは自分の思想をだす。それしかない。