25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

死ぬと

2019年06月16日 | 文学 思想
 知り合いの人が亡くなったので、葬式に行った。
 こういうときに思う。
 ぼくが死んだときはお坊さんも呼ばず、お経も、位牌も要らず、墓に入ることも不要だと子供たちに言ってある。ぼくが生きた証はパソコンにファイル化してある。SDにでもコピーして子供、孫に残しておこうと思っている。子供たちは東京で暮らしている。うちの墓は尾鷲の寺の裏にあるが、それはもうそのままにしておくしかない。
 死ぬことは自分は経験できないわけで、近親の人にすべてを任せるしかない。せめて、自分の考えを言っておこうと思って、去年だったか、息子に言った。
 若返りの薬や老化抑制の酵素、iPS細胞の進展、ゲノム編集などと現在の医学、科学の様子を見ていると、うまくいけば95歳くらいまで生きることになるかもしれない。母親だって、あと2か月で94歳になる。元気な95歳というには十分あり得る話だ。

 ぼくとして、健康に気を使っていることは、自分が持つ酵素の数は限られているから、それを使い果たすときが死だと思っているにで、できるだけ、食べる物で酵素を取り、自分の酵素は使わないようにするよう心がけている。神経質にやっているわけではない。旬のものを食べればよいのである。先日、大根おろしの汁を豚肉につけて袋に30分入れておいたあと、料理をしたら、豚肉はなんとも柔らかい肉となっていたのを見て、ジアスターゼ酵素の力を目の当たりにした。
 秋刀魚を食べるとき、だし巻き卵を食べるとき、大根おろしを使う。料理の歴史には蓄積された経験的な勘がある。迷信は科学によって排除される。それが頼もしいと思う。拝んだり、祈ったりが正統だとは思えない。
 思えばぼくは仏教も神道も信じず、形骸化した正月や盆の行事や祭り、付き合い上の宗教的儀礼に怒ることもなく、慣習としてやっているだけで、我が身となれば、ぼくは自分の思想をだす。それしかない。
 
 

ダイエットは難しい

2019年06月15日 | 日記
 ダイエットに苦しんでいる。「測るだけダイエット」で順調よく体重を減らしてきたが、昨日から今日にかけて1キログラム増えている。同様に血圧も高くなっている。二夜連続して食べ過ぎたか。この前、飲みにいったとき、帰りにラーメンとピータンを食べてしまったにが祟ったか。この努力が難しい。
 今日は雨で気温も低く、寒い。
 運動というか、よく動いた日の翌日は体重も下がるが、雨ではどうしようもなく、家の中でエクササイズをするしかない。
 そんな中、サントリーから「AO」というブレンドウィスキーが新発売された。う~ん、飲んでみたい。でも買えば毎晩飲んでしまう。ウィスキーはカロリーも高い。我慢する。これも苦しい。

 魚の優等生「鯵」がどこのスーパーでも出ている。まるまるとしているので、脂ものっているだろう、と思い、尾鷲産か長崎五島列島産か迷ったが、長崎産を買ってみた。先日の尾鷲産は脂はそれほどなかったが、旨かった。今日のは脂もあるだろうことを期待している。しかも匹数を増やそうと思っているのだが・・・。
 内蔵脂肪を減らす、というサプリの宣伝をよく目にするが、効き目があるのだろうか。今日は1キロ増えていたので、ショックを受け、我慢することのイライラさにも不快である。
 朝日新聞では日本の高山の会社が老化を抑制する70種の野菜や海藻から作ったと言われる酵素がアメリカで特許を取得したとあった。昨日は若返りの物質の紹介があった。
 
 
 

歴史観

2019年06月14日 | 社会・経済・政治
櫻井良子、百田尚樹、金美齢、八木秀次、百地章、中西輝政、杉田水脈、ケントギルバートなどの考え方をなんと言えばいいのだろう。ここに安倍晋三、稲田朋美らの元生長の家原理主義者、産経新聞らを入れてもよいだろう。歴史修正主義者、大日本帝国主義者、自国愛史観主義者、トリック派、などなど浮かぶが、ひどいのは、彼らの文、主張はそれらしきことを言っているようで、実は、嘘の誘導をしていることだ。
 明治期から昭和の終戦時期までの大日本帝国。戦後の日本国。歴史上それらを超えてある日本列島。彼らは日本、日本国、大日本帝国をごっちゃに使ってまやかす。それはもうムチャクチャである。なぜに戦前の大日本帝国がいいのだろうか。それがぼくにはわからない。生まれ、生い立ちにあるのだろうか。

 例えば、
  朝日新聞が誤りであると認めたのは、「済州島で朝鮮人の若い女性200人を強制連行した」という告白を含む、吉田清治の証言であり、慰安婦に関して朝日新聞が掲載した記事のすべてが「間違いであった」と認めたわけではありません。(「歴史戦と思想戦」 山崎雅弘)

 ここでわかるように慰安婦問題はあったのに、吉田証言は間違っていた、それでなかったことにするという飛躍した手法である。南京虐殺はあったのに、なかったことにする。殺すのを見なかった、という証言で、全部なかったことにしてしまう。

 韓国が問題にする慰安婦問題は大日本帝国の時代に起こした問題である。中国が批判する南京問題も同様である。日本を批判すると、現在の日本が批判されていると思ってしまう。冷静に考えればわかることを逆に被害者のように日本列島人は思ってしまい、「反日」と呼び、韓国や中国の意見に同調しようものなら「反日「のレッテルを貼られる。
 歴史問題は過去に日本軍が犯した誤りであるから、歴史戦を話し合いによって解決できるはずである、というのがぼくの意見である。 

 満州事変、盧溝橋事件からの日中戦争、そして太平洋戦争(日本では大東亜戦争と呼んだ)
もしかたのなかった戦争だったと言って憚らない。東京裁判は間違った裁判だ、勝者の裁判だと言って憚らない。

 ドイツは自国の恥部から逃げず、「なかったことにする」論法は使わず、これを禁止し、ナチスの幹部が逃亡しても徹底的に追った。ドイツ国民がやったことを反省し、謝罪した。戦後復帰し、のちに東ドイツを吸収し、現在はその東ドイツ出身のメルケル首相がリーダーとしてドイツを牽引している。日本はその点は中途半端であった。戦争犯罪人は徹底して罪を問うべきであった。朝鮮戦争の勃発でアメリカの態度がにわかに変わった。岸信介のような当時内閣の商務大臣をしていた官僚が刑務所を出て政治家となって復帰してきた。そして日本国の首相となった。日本はスイスのような中立国になれなかった。日米安保条約を結んでしまったからである。おかげで経済まっしぐらで成長できたのだ、という意見もある。しかしそれは本当かどうかわからない。

 日本は政府、社会ともに、歴史観大論争を一度するべきである。上智大学の大学院生だったと思うがこの歴史観についてのドキュメント映画を作った。歴史修正主義者たちは出演に合意していて、上映となると「そんなことは合意してない」と言い始めた。しかしこれは完全に監督の勝ちであり、証拠書類もすべて細部にわたってまで合意の契約書を作っていた。この映画は歴史修正主義者とそうでないものを対等に取材し、若い監督が監督的結論を出すものである。
 また「歴史戦と思想戦」で山崎雅弘は完膚なきまでに歴史修正主義者の主張、大日本帝国賛美を論破している。こういう若い人が出てくることに嬉しさを感じる。

支給停止額

2019年06月13日 | 社会・経済・政治
  母親の年金案内が来て、目を通していると不可解な文字がある。基本額 の隣に数字があって、基本額の下に「支給停止額」とありその隣に支給停止額の数字が載っているのである。
 同時に「日本年金機構から封書の案内もきていて、こちらには「支給停止額 0 」とある。理解不能なので、午後に年金事務所に行って、聞いてみようと思う。このような作ったものだけがわかがわかり、読む側が理解できないものはたびたびある。民泊の申請をするときもそうだった。
 支給停止額の額が大きいので、これがなくなれば少々は困る。

 団塊ジュニアは老後3600万円不足するという。ぼくの息子ならば3600万円以上になるだろう。これをどのように解決するのだろう。生活の水準を維持するため、子供を産むのも調整し、女性も働き、定年年齢も増やす。働き方改革だという。
 政府は消費を刺激したいのに、消費欲を抑えることばかりしているように見えるから、どうなっているのか、と思う。日銀を大株主になり、引くにも引けず、年金機構も株式運用利益をあてにしている。

 マイクロソフトの日本支社は週休3日制を導入するために一部実行している。この会社においてはすでにマルクスが言った「共産社会」に入っているような感じだ。働く時間は週30時間である。

 政府のお金の使い方は医療費はさておき、土木工事、公共工事費が突出している。教育費や研究開発費は抑制され、武器購入も増えている。アメリカの経済学者がMMT(現代貨幣理論)を唱え、日本はそのモデルであると称賛し、安倍政権顧問の経済学者もMMTを唱え始めている。自国通貨を発行している国はどれだけ国債を発行してもいいのだそうである。インフレになるまでどんどん金を出せばいいんだ、ということである。
 そしたら年金も大丈夫か。などと安心しておれるのだろうか。日本に資産が多くあるから大丈夫ならばその資産を売って、若い人を救った方がよい。払った年金用のお金よりももらう金が減ったら、ぜひそうするべきだ。
 こういう説明がない。マスコミもやらない。

わが母校

2019年06月12日 | 社会・経済・政治
 地元新聞の投稿コラムによると、ぼくの母校である県立尾鷲高校は県下6校中評価ランキングが69位だそうで筆者は嘆き、愚痴を書いていた。読む側は何の評価なのか具体的にわからないし、調査根拠も書いてなく、嘆くだけでどうすればよいのか提案もなかった。筆者は元予備校講師と書いてある。
 ぼくの頃は尾鷲高校と尾鷲工業高校があり、選択肢とすれば尾鷲高校しかなかった。とても他所の学校にいくということは考えられないことで、尾鷲幼稚園、尾鷲小学校、尾鷲中学校、尾鷲高校というコースは当然の進むべきコースであった。で、ぼくは普通科に進んだ。まあ、高校時代は勉強しなかった。試験前にちょこちょことやるくらいで授業中はよそ事ばかり妄想していた。授業の教室ほど気分の悪い空間はなかった。
 朝はよく遅刻をしたし、ときどさぼって中村山なんかに行ったものだ。音楽仲間の同級生の友人がひとつ年下の女子高生と失踪した。(その彼と去年偶然熊野古道センターで会ったのだった)
 ようするに、尾鷲高校は寛大で、うるさくなくのびのびとして、なんとなく勉強せずとも卒業できたのだった。
 学力レベルは低いかもしれないが、高校と言えばそこしか知らないので、よい学校だったと思っている。勉強というには叩き込まれておぼ、励むということもあるだろうが、いずれ必要に迫られてするものでもある。社会に生きていたら勉強を余儀なくされるものだ。
 普通科も定員割れしているようだ。そばに中学3年生の女子2人がいたので、訊いてみた。来年は尾鷲高校に行くとという。それは当然のようだった。
 本当は高校生のときは受験でガリ勉などしなくてよいのだ。日本の制度が悪いのである。大学はいつでも勉強したい学生を受け入れればいいのだ。そのための受験資格チャンスを年に4回くらい用意すればいいのだ。教育は下層部から変革していくより、大学、その上の企業から変えていくいがスムースなのだ。新卒採用、バカバカしい。東大一直線、バカバカしい。ぼくはそう思っている。
 

水プラズマ

2019年06月11日 | 社会・経済・政治
年金問題は日本がどのような社会を目指すか、決めなければならない時期にきていることを示唆している。金融庁の投資、貯蓄奨励パンフは政権の意思と違うことを言ってしまい、それに麻生財務大臣が人相悪く、この説明書を読んでないと言い、安倍首相は不適切である、という。国民に明らかになってしまった年金問題にきちんと真剣に向かわないといけない。とくに現在の40代は黙っていてはいけない。
 イージスアショア配置にも呆れる。凡ミスなどというが、いざのとき、この武器基地が狙われるのは明らかである。自衛隊もこんなもの要らないと実は思っているのだ。守るのであればイージス艦の方が移動ができてよい。

 今朝の「モーニングバード」でびっくりしたことがあった。
水プラズマである。600度とか1000度の熱というのではない。1万度である。あらゆるゴミは消えてなくなってしまう。蒸発物までも燃やしてのしまうのだ。有毒ガスなし。二酸化炭素なし。水素ができる。
 コストは現在のゴミ焼却炉の10分の1らしい。
 尾鷲にもゴミ焼却炉とバイオマス発電所ができるのだから、ゴミ焼却炉を水プラズマにして、できた水素で水素発電所ができないものか。バイオマスでできる電気を種火にして水素発電所が中電の跡地利用にできないものか。
 ぼくは日本はこんな技術にお金を出し、世界のゴミ焼却炉で利用されれば素晴らしい。こういう戦略こそが必要で、三周遅れのITは他国のものを使わせていただくしかない。日本が稼げる分野はまだまだある。iPS細胞もそうだし、新薬もそうである。養殖技術などもそうである。成長戦略に水プラズマを入れればよいと思う。日本は付加価値で生きる列島なのだ。
 

2005年の光高校爆弾投げ込み事件

2019年06月10日 | 文学 思想
 2005年に以下の文をブログで書いた。今日校正しているところで出くわしたのだ。ぼくはすっかり忘れている。あれから14年。事態は年齢層を広げている。8050問題である。
 うすら寒い発表を金融庁が先立ってした。厚生労働省が言いたいことを金融庁が先取りして言ってくれたということだろうか。人生100年安心と年金制度を作ったのではなかったか。年金は800兆円すでに足りないというではないか。老後を生きるのに2000万円貯めろ、と言う。グリーンピアだなんだと不要なものを多く作っておいて、失敗し、今は株を購入している年金機構。この責任はだれがとってくれるのか。自民党だろう。
 こうなることはわかっていた。ぼくがわかるくらいだから専門家はもっとわかっていた。
 この財政ではやれることはなくなってくる。ITは三周遅れ。実質賃金は減り続ける。それで経済政策はうまく言っているとのたまう。ばかな。


光高校爆弾投げ込み事件・2005年06月13日(月)

「いじめられていた」という高校三年生の男子生徒が釘を入れ込んだ手製爆弾を恨み返しに教室に投げ込んだ。いじめられる側が自殺をするというケースは報じられたことがあるがこのような報復手段に出るのは初めてのニュースではないかと思う。やっと「いじめ」もこういう時期がきたのか、と思い、これからいじめる側も命がけだな、と思った。
 インタビューに答えるのは相変わらず校長先生で、担任は逃げている。校長にわかるはずがない。校長の顔には「ひどいことをしてくれたもんだ、ちくしょうめが 」と書いてある。事件の核心に迫る力がないのだ。
 いじめられたら、命かけてやり返す、という迫力があれば、いじめからは脱出できるのである。それがなかなかできないので自殺してしまう。また不登校にもなる。
 いじめの現場を知っていて何知らぬ顔をしていた人も今度の事件でドキッとしたに違いない。関係のない生徒をも巻き込んだにちがいないが、やった生徒は反省などしていないと思う。むしろ「よくやったよオレ」と清々しているのではないか。
 結局親も助けてくれなかったのである。担任や校長はテレビでみればわかる。だれも助けてくれなかったのだ。自分がやるしかないではないか。
 ニュースリポーターがこれまた馬鹿な誘導質問を同級生などにする。すると馬鹿な同級生は「キレやすかった」だの「普段無口で、怒ると訳がわからなくなる」だの悪口のように言う。犯罪とわかるととたんに口が軽くなる。
 だれだって怒ると訳がわからなくなるのだ。キレやすいのはゴマンといるのだ。自分だってそうじゃないか、言いたくなる。
 リポーターなどは「悪人」だな、といつも思う。被害者側にも、少年側にも立つコメントがあってもいい。やったら、やりかえされることもあるんだということを。よくよく注意していじめの側に入ることにならないように。人はいじめる側に立たなければよいのである。
         


戦争を放棄した国の大衆

2019年06月09日 | 
 このごろ、ネトウヨ、パヨク、ネトウヨ系のマニュアル本、それらに対する批判本、感情論を抜いた歴史本を読んでいる。もうなんども読んできたような本だ。官制の慰安所はなく、政府・軍は慰安婦を募集したこともない、と主張するが、そんなことが問題なのではない。半官半民にせよ、民間の金稼ぎのためであれ、戦争を起こすから慰安所ができるのである。そこへ長い列をつくって兵隊たちが並ぶのである。 

 南京では兵隊ではなく、老若男女、幼いこどもまで殺されたのである。人数が違っているという問題ではない。このような事実が取材によってあきらかになっている。この事実を認めることが必要である。認めると「反日」というのだから、あきれるばかりだ。

 日本人は植民地でいいことをした。台湾では下水道を作り、お茶の作り方を教えた、という美談すらある。紳士的な軍人もいたことだろう。都市つくりを考えた軍人もいたことだろう。しかしながら、お国のためにと家族から万歳されて見送られた者の中で、一体どれだけの者が喜び、勇んで戦地に赴いたことだろう。家族のため、お国のため、天皇陛下のためとどれだけの人が遠い戦地で言えただろう。

 ほんの10年ほど前、十数人の男グループがバリ島にツアーでやってきた。添乗員に頼まれて宮殿でのパーティーを手配したことがある。その宮殿の元王様の娘とぼくは友達で、よくここに遊びに来ていた。それで頼んだのだ。ぼくは客とは一切同行しなかったが、年頃は40代、50代くらいか。添乗員に聞けばなんのことはない買春ツアーである。普通、その辺に生きている人たちである。故郷の家にいけば奥さんやこどもたちも待っていることだろう。夫(親父)は真面目な男だと思っているのかもしれない。男たちの中には買春したくない人もいるかもしれない。みな涼しい顔をして、嬉々としている。群衆心理、グループ心理、他所にいるという心理が働くのだろう。
 たぶん家に帰れば普通のおっちゃんだと思う。

 これが軍隊であればどうか。その模様も詳細に記録されている。それは一人の女性が何十人もの男を相手にする凄まじさも書いてある。小説ではない。残された日記や記録である。みな軍人は清廉潔白ではないし、徴収された兵隊員は素行や性格、学力、知性で選ばれているわけではない。チンピラみたいなのもいれば、どんな奴もいるのである。それに生きて帰れるかわからないのである。
 現代の者でも買春なのに、兵隊が性欲を抑えられるはずもない。

 日本は兵站も思うにならず、運ぶ船は鈍くて沈没し、この戦争で勝てると思った兵士は何人いたことだろう。感染症が蔓延する。マラリヤになる。軍部ファシズム体制によってがんじがらめにされ、逃げることもできず、異を唱えることもできない。戦争が起こる前の意気込みと1944年の意気込みはどれほどの差があったことだろう。
 無惨なものだった。こんな戦争するべきでなかったし、データを使えばできるはずもなかった。また圧倒的多数の兵士や民間人が殺されなくてすむチャンスがいくらでもあった。なのに決断できなかった。
 
 ぼくは戦後70数年経って、自衛隊員の精神がとても頑丈になっているとは思えない。自衛隊員にも家族がいる。戦争をしない。これだけには参加しない。世界は戦争が日常化している、などと言い、中国や北朝鮮がいつ攻めてくるかも知れないなどと煽る輩もいるが、そういう人は人間を知らなさすぎる。いや大衆というものを知らなさすぎるのかもしれない。
 大衆はどんな時代においても難しいことは考えず、食っていけることを第一として淡々と日を暮らしていくのだ。インテリのようにえらそうなことは言わないのだ。これも大衆の多面性のひとつで、しっかりと根を張った生き延び方である。

 

ひとり、つらつら考える

2019年06月08日 | 音楽
 ひとりのんびりと反町隆史と竹野内豊のずいぶんと前のDVD「Beach Boys」を見ている。画面サイズが昔のものだから相当昔なんだろう。どうしてこのDVDを見ようと思ったかと言えば、アメリカの音楽グループのビーチ・ボーイズのことを結構よく知っているからだ。それと同じ名で、日本の映画だ。反町隆史と竹野内豊に現在好感をもっているこよと、脚本が「おひさま」とか「ひよっこ」の岡田惠和ということも選ぶ切っ掛けになった。反町隆史も竹野内豊もまだ若く演技も下手で、広末涼子もまだ若い。しかたないか。
 15分ほど観て、止めた。気分が変わればまた見ればよいのだ。

 桑田佳祐の「ひとり紅白歌合戦」の第2部は次回にして、第3部を観た。2008年が第1回。5年後が第2回、それからまた5年の平成30年が第3回で完結だった。第3回ではカミロの「ハバナ」まで披露した。バックの音楽はとても細かいとことにまで気を配っていた。ここで鉄琴の音がほしいのだな、とか、コーラスに男性を入れたのも、当たりだな、と思わせた。この頃はサザンにプラスして、ギターの斉藤誠、SAX.FLUTE.PICCOROの山本拓夫、コーラスのTIGER.バイオリンの金原千恵子は常連メンバーだ。加えてダンスチームだ。
 歌とユーモア、ちょっと下ネタをやるが節度がかかり、歌を聴かせるのが主になっている。まさに舞台もNHK紅白並み。4時間、歌いどうしだった。 

 翌日、「サンデーモーニング」でメルケル首相が米ハーバード大学で演説するのを見た。一部であるが、「無知と偏狭は頭の中にあるものだ、その壁を取り除きましょう」と語り掛けていた。学生から大喝采を浴びた。思えばメルケル首相は旧東ドイツ、ヒトラーという怪物による荒廃があり、ソビエトによる支配が続き、ベルリンの壁の向こうには自由があるのだ、と思い焦がれたらしい。民主主義が生んだヒトラーによるファシズム。社会主義革命がもたらした一党独裁によるスターリンによるファシズムの構造を知り尽くしているだろう。

 山崎雅弘の「歴史戦と思想戦」は良書である。資料、取材、文もしっかりしている。こんな本が多く読まれてほしい。一部の安部政権を取り巻く櫻井良子だのはよく読めばいい。櫻井のような人言っていることテレビか週刊誌でまともに信じてしまったら、それこそ「無知」に脳が陥る。自分でもたの意見や本を読み、考えることだ。
 朝日新聞に載った吉田文書が間違っていたことだけをとって、「慰安婦問題などない」としてしまう。南京虐殺の証拠もない、人数が違うといって、南京虐殺はなかったとしてしまう。小さなひとつの誤りを言い立てることで、全部をなかったことにするこの、発想はどこからくるのだろうか。「しかたのなかった戦争だったのだ」 「日本が間違っていたなどと言えば、戦争で死んだ者たちが可哀想ではないか」
 「歴史戦」を宣言したのは産経新聞である。まず、歴史研究はあっても歴史戦はないだろう、と思う。
 ドイツのように徹底的に反省した国と、あの戦争は間違っていなかった、と言う人々がいる日本。だからいつも中国、韓国が首相が靖国神社を参ろうならば抗議してくる。
 そうであっても日本人は韓国や中国に旅行し、彼らもまた来て、インバウンドを成長戦略組み込んでいる。櫻井良子や金美齢がトランプ大統領にへつらう姿を大相撲観戦時にぼくははっきりみたぞ。今度櫻井良子の本でもあれば book off で買ってみようと思う。
 隣国と仲良くやっていくためにはこの歴史観の解決をしなければならない。日本には櫻井のような負の感情をもつ人が少なからずいて、地道な活動をしている。それが怖い。
 

桑田佳祐の「ひとり紅白歌合戦」

2019年06月07日 | 音楽
 6月5日に予約注文していた「桑田佳祐 ひとり紅白歌合戦 三部作コンプリートBOX」が届いた。生涯幾度となく観るのだろうと思うと、焦らず観なくてもよい。というわけで、細君が東京に出たので、7日、金曜日の夜、ひとりで観ている。第一回は61曲。桑田佳祐ワールド全開のチャリティーライブである。Act Against Aids のライブということだ。ギター、ダンス、ブラス、コーラス、ストリングス、パーカッションなどなどにも気をつけて観ている。
 例えばコーラスという役割はボッとしていられないのだ。なぜなら、「関ジャム」でコーラスの技術についてボーカリストたちによる詳細な説明を聞いたのだった。郷ひろみのように声を前に張り出してくる歌手やExile のボーカルのように声を奥に引っ込めて出してくる歌手とではコーラスのしかたも違うのだそうな。そんなことも気にしながら見ているいたら、突然、コーラスの女性二人が舞台中央に出てきてザ・ピーナツの「情熱の花」を主役となって歌い出した。やっぱ、上手である。ピーナツくらい上手い。
 知らない曲が2曲あった。スピッツの「ロビンソン」。スピッツと言えば今の朝ドラ「なつぞら」の主題歌を作って歌っている。あれ、まあ。もう一曲は倖田来未の「キューティーハニー」。

 まあ、なんと言っても、桑田佳祐、サザンオールスターズの愉快さは曲を脇に置き、第一に挙げたいのは、ダンスの面白みにある。下手か上手かよくわからない。EXILE のような型にカチッとはまったダンスではない。これが舞台(映像)の中をチョコチョコ動くいて面白い。次にコーラス。次はバイオリンの金原さんとギターの斉藤誠さん。サービス精神も旺盛。テレビでも必ず桑田佳祐ととも出てくる。そしてブラス。2015年くらいからは特によくなっている。

 かっこよさはめざしてないのが桑田佳祐。ひとり紅白も完結した。
 ぼくが生きた時代に、松任谷由実、中島みゆき、井上陽水、矢沢永吉、そして桑田佳祐や、竹内まりやや宇多田ヒカルが出ていて才能を発揮し、ぼくらを楽しませてくれた。同時代に存在し得たことをありがたいと思う。彼らをリスペクトする。そうそう、最近松任谷由実の「夕涼み」を覚えた。

まさか高速道路上でパンク

2019年06月06日 | 日記
 「前のタイヤそろそろ替えないとだめですよ」といつもガソリンスタンドで言われた。「オイルもずいぶん交換してないけど大丈夫?」と訊くと、調べてくれて「まだ大丈夫みたいです。ハイブリッドはエンジンオイルよく持ちますね」と言われた。しかしとっくに交換予定のキロ数を大きく超えていた。エンジンオイルを入れないと、と思いながら忘れてしまった。タイヤも替えないと思いながらつい日を遅らせてしまった。 昨日、伊勢に用事があり、高速道路を使った。尾鷲を出て45分。車がガタガタとおかしくなった。ぼくは何がなんだかわからなかった。一車線の高速道路で150センチほどの路肩がある。路肩に止めても、大型バスになるとスッと走れず、注意して走っていく。保険会社に電話して、救援がくるのを待った。ほどなく、高速道路をパトロールする車がきて、道路の安全をはかるため、車を移動させ、勢和多気の改札口を出て、そこの駐車場に止めた。一安心した。すると、車を運ぶキャリアカーが来て、「ああ、パンクですね」と言う。「えっ、パンク?」「ああ、左のも時間の問題ですよ。今日は気温も高いし、帰りもたないかも」と言ってくれて、どこへ運びますか、と言う。僕は伊勢で用事があるので、「近くにタイヤ交換できるガソリンスタンドはありますか」と訊くと、「5分くらい先にあります。そこまで運びましょうか」と言って、ぼくの車をキャリアカーに乗せた。孫の晃希がいたら喜ぶだろうになあ、と思いながらキャリアカーがロボットのように動いていき、若い係員はさっさと車を固定した。ぼくはキャリアカーの助手席に乗った。
 ガソリンスタンドに着くと、お金のことが気になる。タイヤ二つと交換作業でいくらするのか。17000円。よかった。財布にあった。「後ろのタイヤもあと2、3ヶ月ってとこですね」
 15分もするとシンピンのタイヤがつけられて、無事伊勢で用事を済ませたのだった。1時間半ほどの遅れとなったが、その日のうちに仕事は済ませられ、夜は長い時間、酒を飲んだ。また太る。

 車はお金がかかる。高齢者の踏み間違い事故のニュースが連日テレビで報道され、高齢者は脅迫されているようなものである。若者の事故は扱わず、高齢者の事故ばかりを取り上げる。
 尾鷲市内で一時間に一本でも主要な道路をミニバスが走ってくれるとありがたい。
 車を維持するには、車検、自動車税、ガソリン代、保険代、修理費、免許の更新代、それに次に車を買う、減価償却費として貯めておかなければならない。すると、車をもたない方が節約できるような気がする。市の施政方針には一切、交通のこと、高齢者の交通対策のことが載っていなかった。

根拠のない言葉

2019年06月05日 | 

  「日本アホバカ勘違い列伝」(北岡俊明  WAC)の新書を読んでいるのだが、これがまたなんというばからしさ。人の名を挙げ連ねて悪口をたたいているだけである。批評であれば、非難の論理も理解できるかもしれないが、とにかく冷静さがなく、ののしり、怒っている筆者である。ネトウヨの教材本くらいになるのかもしれない。

 例に挙げると、
  次に姜尚中(日本語読みでキョウショウチュウ)(*なんで日本語読みを紹介するのかぼくにはわからない。)である。テレビではカンサンジュンと韓国よみで紹介されている、。在日韓国人二世である。この男も半日である。日本で大学を卒業し、国立大学に職を得て、日本人の税金でメシを食っていながら。反日、親韓である。こういう男を使うのは、司会者の関口宏が反日の親韓だからである。見るからに、陰気な雰囲気をもっている。いつも陰気な顔をして、もったいぶって、したり顔で、もっともらしいコメントをするが、反日であるかぎり、そのコメントには反日親韓という限界がある。ゆえに陳腐な紋切り型のコメントとなる。

 

 一人一人の名を各界から上げてこきおろす。しかし、「反日」とは何かと一切説明はない。親韓とは何かの説明もなければリベラル、保守、左翼の定義、説明もない。要するに彼は姜尚中や関口宏を嫌いなのである。

 日本には書店にこの手の煽るような反韓、反中本や歴史修正主義者の本も増えてきた。

 話を飛ばすが、ぼくは昭和史をみるとき、半藤一利の「昭和史」と吉田裕の「日本軍兵士」をおさえておいて、吉本隆明の「戦争論」を読んでおけばよいのではないかと思っている。今度山崎雅弘の「歴史戦と思想戦」(集英社新書)が出たので、これも読もうと思っている。「自虐史観」という言葉などないと思うからだ。思想・信条の自由を僕らは戦後に与えられた。多くの犠牲の上で「とった」と言っていいかもしれない。

 「移民問題」で揺らぐEU、アメリカ。日本は外国人労働者受け入れ拡大を図り、失踪者問題も起きる中でスタートしたが、現在は8050問題と高齢者の危険運転のニュースばかりだ。

刑事フォイルから

2019年06月04日 | テレビ
 NHKがイギリスのテレビドラマである「刑事フォイル」をやっている。前々回は「エルサレム」というタイトルだった。第二次世界大戦後のイギリスは疲弊しきっている。特にドイツから空襲を受けたロンドンでは売るものも、食べる物にも事欠くあり様で、戦勝国であっても、ひどいものだ。ソビエトが東欧に影響力を増していく。イギリスにもソビエトの活動員やスピアや、テロ組織も入ってくる。戦後になってもなおユダヤ人排斥まで起こってくる。ユダヤ人にはシオニズム運動があり、放浪の民から自国を持ちたいと願うようになる。

 イギリスは一方でパレスチナでの国家建設を目指すユダヤ人に支援を約束し、他方でアラブ人にも独立の承認を約束するという、このイギリス政府の二重外交が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になったといわれる。このことには他の説もあり、他の解釈もあるが、ぼくは1973年にイギリスにいたとき、ほとんど無知であった。
 ぼくが入った語学学校にユダヤ人の大学生がアルバイトで講師としてやってきた。彼女はキャシーと言った。ぼくらはめちゃくちゃ気が合い、毎日が楽しみでしかたがなかった。彼女から「映画の見方を教えるわ」と言って、「2001年宇宙の旅」を見に行ったり、「007シリーズ」を見に行った。映画が佳境に入ったり、いいところがあると、ギュウと手を握ってくるのだった。1970年とか71年は日本では深刻な映画が多いように思えた。ぼくは娯楽映画は娯楽映画として十分楽しめばいいんだ、と思ったものだった。
 キャシーと舗道を歩きながら話しても、公園のベンチやカフェで話してもぼくは現在や未来、人間のこころのことしか話さず、キャシーの背景や家のことや、ユダヤ人であることなどについて話題にもしなかった。1973年と言えば、戦争が終わってからまだ28年である。フォイルの時代のすぐ近くである。反ユダヤ主義がドイツナチスと戦ったイギリスにもあった。なんとバカだったんだろう。僕の関心は自己にしか向かわず、キャシーに恋をしてもやはり自己にしか向かっていなかったように思う。
 先日、キャシーの住所が古いメモ帳から出てきたので、グーグルマップで検索してみた。キャシーが住んでいるのかどうかわからないが、家は昔のままにあった。キャシーの両親たち、キャシー当人はどのようにおもって戦後を生きてきたか、今だったら聞ける好奇心も、聞かない配慮もあると思う。その辺の機微はわかると思う。その住所あてに手紙を書いてみようかと思った。が止めた。
 イギリスはスエズ運河利権とイラクの石油に必死だったようだ。
 ぼくはイギリスの歴史より、母国日本の歴史をあまりにも知らないことを痛感していた。よくもキャシーは付き合ってくれたものだ。とてもつまらなかったのではないか。彼女はガルシ・マルケスの「百年の孤独」を読めと、持ってきて、ぼくは挑戦したのだが、とても系譜をたどっていくところですでに挫折していた。
 ユダヤの民の歴史は旧約聖書の神話にまでつながっていくほどに長い。キャシーがユダヤ教徒だったのか、強い信仰心があったのか、それもわからない。
 懐かしさではキャシーに会いたい。それでどうするというのだ。

 今のイギリスは覇権を捨て、より小さくなって、EUからも脱退しようとしている。トランプに来るなとデモも起こっている。イスラエルとイランの戦争が心配だ。


やりきれない事件は続く

2019年06月03日 | 文学 思想
元農水省事務次官の息子殺害は、証拠はないが、学童の列に切り刺し込んだ岩崎隆一の殺傷事件からの感染があったようにぼくは思う。
 この元事務次官は息子の自慢であった。ところが母親を「愚母」と呼ぶほど嫌っていた。愚母らしき育て方をしたのかもしれないが、母親だけが責められるのでは片手落ちだ。子に社会性を教えるのは主として父親である。基本的に母親は「慈愛」の象徴である。父親は「社会性」の象徴である。父親は子育ての肝腎なところを妻にまかせ、妻は肝腎な慈愛を偏狭な世界観を強要したのかもしれない。

 西洋風に、ヘンゼルとグレーテル風に言うならば、この夫婦は息子を外に放り出すのがよかった。社会という場所にいると、公園でも道端でもどこでもいいのだが、「妄想」は発生しないものである。宮沢賢治風に言えば、この夫婦は息子を残して出ていくこともできた。そしてコンサルタントにお願いすればよかった。

 日本的な言い方をすれば、一家無理心中を図りたいほどのことだったのだろう。「運動会の音がうるさい」と言い始めたとき父親の脳裡には学童に突っ込む我が子を想像してしまったのではないか。

 子供に自室を与えない方がいいというのは、家の中の自室では何を考えても、思ってもよく、裸になろうが、裸でサンマを焼こうが構わないのである。どんな妄想も自由である。しかも妄想ばかりが浮かんでくるようになる。「漫画を読んでいる自分が浮かぶ」も妄想である。「ラーメンが浮かぶ」も妄想である。居間にいると人がいるので妄想は浮かびにくい。玄関に座っていればもっと浮かびにくい。
 この元事務次官夫婦が間違えたのは、「個室」への理解のなさと、「個室」から出さなかったことである。
 これもなんだかやりきれない事件である。 

酒癖の悪い初老の刃物男

2019年06月02日 | テレビ
  酔っぱらって刃物を持ち、外にでた初老の男が包丁を落とし、道に倒れていた。通報があり、二十代の巡査部長と巡査が駆けつけた。初老男は気がつき、刃物を持って立ち上がった。
初老男に警察官2人が「刃物を置け」と興奮して言っている。説得というのではない。興奮しきった口調である。警察官はすでに威嚇射撃を一発している。それでも酔っぱらい男はフラフラしているが刃物を捨てない。警察官との距離は10メートルである。警察官は拳銃構えて必死で静止するよう、言っている。初老の刃物男はそれも聞かず、ヨロヨロと前に進み、距離を縮めようとした。その時、二人の警察官はそれぞれの拳銃を発泡した。一発が腹に当たり、酔っぱらい男は死んだ。警察は適当な対処だったと二人の警官を擁護するとともに、警察への批判から逃れた。

 一部始終のビデオかどうかわからないが、ぼくがみた限りでは警察官に殺さずともよい冷静な対処のしかたがあったように思う。警棒をもっていただろうから、なぜ、警棒で立ち向かわないのか。コテを打てば終わりではないか。逮捕術も学んできただろうに、あの及び腰は何だ、と言いたくなる。刃物を落とせばよいだけのことを拳銃で向かう。
 こういった始末のつけかたが安易に許されるようなら、気持ちが悪い。警察にはむかえば、バン、とは。

 これをマスコミがどう報じるか注目したが、ぼくが見た限り、このやり方にコメントしたり、批判することはなかった。

 日本には剣道という武道がある。警察官は習うはずである。武道は攻撃にも使えるが、守るために使うために学ぶのだろう。殺すためではない。酒癖の悪い初老の男も運が悪かったというしかない。警察もこの事件は重視し、このようなことが起こらないよう対策を練るべきである。僕が息子だったら、必ず告訴する。