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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

よさこい in 光が丘公園

2009年07月20日 | 日記
午後3時の空。



午後の珈琲を飲みに出かけた。
場所は光が丘公園。
もちろん散歩がてらである。



なんと「よさこい」をやっていた。
たいした人出である。

聞けばもう十数年の歴史があるという。
二十年を越えてこの地域の居住していて、このイベントは知らなかった。

迂闊であった。



屋台の数も半端でない。

人混みを避けて自然観察のできる水場に!

今日もカワセミが来たという。
一歩違いであったらしい。
残念。

しかし始めて名前を知った木の花。
「クサギ」の花。



甘いクチナシ系の匂いがする。
大きな捕獲網を持っていた方の話によると「この花には揚羽蝶が良く来る」という。

しばらくその場にいると、来た来た!
黒揚羽だ。



捕獲網の件の方(くだんのかた)は「これは違う!」と吐き捨てた。

ぼくにはこの黒揚羽で充分だ。

帰りがてら、公園の大階段の「よさこい」は佳境に入っていた。

この後「坂本冬美」のショーがあるという。
十数分待って、この写真だけ撮って帰路についた。



帰路、空を見上げると夕焼けが始まっていた。



しかし、天気予報では明日朝までは雨模様のよう。
いったいどうなってるの?

最も、雷さんが鳴らないのに梅雨明け宣言してしまった気象庁は少し可笑しいよ!

昔の人はちゃんと知っている。
梅雨明けの感覚を。

でしょう?





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                         荒野人


へくそかずら

2009年07月20日 | 日記
午前中の散歩のことである。
手入れのされていない生垣に、つるを巻きつけながら「へくそかずら」が咲いている。



この花を手折ってはいけないのである。
花を指で潰そうものなら、臭くていけない。

その名前の通り「屁糞」の香りが立ち上がるのである。

へくそかずら(Paederia scandens) アカネ科ヘクソカズラ属である。
別名ヤイトバナ、サオトメバナ。
古名はクソカズラ(糞葛・屎葛)。

なんと、この臭いのが!万葉集に詠まれているのである。

万葉集 巻十六である。

  かわらふじに 延ひおほとれる屎葛(くそかづら) 絶ゆることなく宮仕えせむ
                          (高宮王)

この生垣の近くに江戸菊が咲いていた。
これは、ぼくの母が庭に種を蒔いて咲かせていた。

母が入院中も父が種を蒔き、ぼくは水やりをしていたものだった。
この花が咲けば母が帰ってくるのではないかと淡い期待を持っていたのだった。

思い出の花である。




              江戸菊

         モヤモヤと花弁を連ねて咲き誇り
         スックと立ちあがる
         気品あるその姿に
         ぼくはいつも母の面影を重ねた

         この花が咲くころ
         汗ばんだ母のからだを父が拭っていた姿
         妹が手拭いを固く絞っていた
         混濁した意識の中で
         母が笑った

         母の残した思いが
         いつも
         この花の傍らに
         立ち尽くしている




ご近所の花壇の風景。

今日は3連休の最後の休み。
曇天だけれど蒸し暑く、汗が滲んでくる。



ぼくはいま、たまらなく母が懐かしくなっている。






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中島敦という作家

2009年07月20日 | 日記
中島敦を読み返してみた。

書斎の中島敦である。




漢文の古典的教養とふくいくと香り立つ文体で読む者を圧倒する。
とりわけ「山月記」の序は秀逸である。

籠西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
(ろうせいのりちょうははくがくさいえい てんぽうのまつねん わかくしてなをこぼうにつらね ついでこうなんいにほせられたが せい けんかいみずからたのむところすこぶるあつく せんりにあまんずるをいさぎよしとしなかった。)

なんという文章の韻であろうか。

スラスラとリズミカルに読み下していける。

心地よい文体である。
少なくとも、ぼくはこの文体に憧れたものだった。


科挙・・・人材登用のシステムであるけれど、李徴はこの科挙に合格して、役人としてスタートをきったばかりである。

科挙の考試の模様が残されている。



しかし、李は官僚の腐敗堕落に愛想を尽かして、ある日忽然と姿を隠すのだが、数年の後、虎となってかつての友人の前に現れるのである。




山月記の最大の見せ場である。


いま、官僚の腐敗が言われる
官僚はもともとそうした性行なのであって、いかにコントロールし活用しきるのかが問われるのである。
官僚の無責任体質は、明治以来の官僚システム疲弊であって、その制度の金属疲労に他ならない。

そもそも政治が、その制度を容認して利用?してきたではないか。

反転!
もっとも政治が利用されてきたのだが・・・。

いま、明治維新以来最大のターニングポイントを迎えている!ということには異論を差し挟むつもりは無い。

だがしかし、自らの政治的意識を越える政治と政治家を望めないのも真実である。

背の丈に合った政治しか望めないのである。

自分が選ぶ政府であるのだから。
ぼくは、結構絶望している。


この絶望感は、暑い夏で区切りになるのだろうか?
この夏は、ある意味「決着の夏」になるのかもしれない。

あまり期待しないでいようと思う。
期待していて裏切られるのは、もうこの年になると辛いものがある。

中島敦を読み返して、そんな所感を強くしたのである。
この感慨は、果たして不幸だろうか・・・。

とまれ「中島 敦」は今に通用する。
今年は生誕100年。
団塊の世代のおじさんたちは、こんな作家を読んでいたのである。

そしてパトスをたぎらせていたのだ。
燃ゆる情熱は迸って(ほとばしって)あらゆる対象に遠慮会釈なく突き刺さっていたはずだ。



丸いロイド眼鏡がよく似合っている。


鎌倉の「鎌倉近代文芸館」に敦の部屋がある。
一度訪ねてみたらいかがだろうか?
老いも若きも、その価値はある。
ここが鎌倉近代文学館のホームページである。

http://www.kanabun.or.jp/index.html





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