エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

吉里吉里人を語る

2011年10月23日 | 日記
井上ひさし氏の小説「吉里吉里人」について少し語ろうと思う。
実にタイミングが良いからである。



(吉里吉里人の梗概)
ある日、三文小説家の古橋は編集者・佐藤を伴い、奥州藤原氏が隠匿した黄金に詳しい人物に取材するために夜行急行列車『十和田3号』に乗車した。
ところが、一ノ関駅手前にて不思議な出来事が起きた。
列車は公用語吉里吉里語、通貨単位「イエン」を導入した人口約4200人の国家・吉里吉里国に入国。
日本政府から数々の悪政を受けた吉里吉里村の、村を挙げての独立騒動である。
古橋と佐藤はこの騒動に否応無く巻き込まれてしまう。

と言った内容である。



大槌町、吉里吉里国の海は綺麗である。
だがしかし、海は牙を剥いた。

海に育まれた人々が、海から牙を突きつけられた。
だが人々は、やはり海を愛しているのである。



瓦礫の向こうは、綺麗な海である。

いま改めて読み返してみようと思っている。

東北地方の一寒村が日本政府に愛想を尽かし、突如「吉里吉里国」を名乗り独立を宣言する。
当然日本政府は反発、これを阻止すべく策を講じるが吉里吉里側は食料やエネルギーの自給自足で足元を固め、高度な医学(当時日本で認められていなかった脳死による臓器移植を含む)や独自の金本位制、タックス・ヘイヴンといった切り札を世界各国にアピールすることで存続をはかる。
その攻防を含む1日半の出来事を、全28章にわたって描写しているのである。



井上ひさし氏の先見性に憧目するのである。
また、言語への敬意(方言の美しさへの敬意を含む)も明確である。

独立により国語となった「吉里吉里語」 (東北弁、いわゆる「ズーズー弁」)の会話をルビを駆使して表記するほか、作中『吉里吉里語四時間・吉日、日吉辞典つき』という「小冊子」に「三時間目」まで紙幅を割くなど、方言・方言論が重要な役割を占めている作品でもあるのである。



ここまで破壊され、その絶望と怒りは凄まじいと思うけれど、被災者は耐えて自己努力を尽くしている。
被災地が、吉里吉里国として独立を宣言しないと誰が確信を持てようか。

政治の無作為は極まっている。
管前総理と政権与党、及び綺麗事と党利党略の国会にしてしまった野党(とりわけ自民・公明)の無作為を弾劾し、その罪を問わなければならないではないか。

国会議員は、現地視察をしているはずだ。
それにも関らず、国会での決定が遅れに遅れている。
海外視察に行ったり、お休みを取ったり、四国へお遍路に行ったり、のんびり、かつ無為に時間を過ごしている。
こんな人たちには、税金を使ってもらいたくない。

瓦礫処理も終わっていない。
発災から7カ月を無為に過ごしてしまった。
こんな国会議員は要らないではないか。

議員が駄目なら、秘書団の視察を計画して、もっと永田町に緊張と焦燥を与えるべきである。
悲しい。
やはりこうした内容を語る事になってしまった。

文学の香りや可能性について語ろうと思っていたのに・・・。




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