エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

追悼詩

2011年06月20日 | ポエム
追悼するために、より前を向き進むために。
人は創造することで前向きになれるはずである。

いまは、苦しいのかもしれない。
だがしかし、そっと自分の殻を破って覗いてみよう!

新たなステージが用意されているのに気づくはずだ。






        創造する


      無から有
      有から形
      形から心
      心から愛

      その神聖なる儀式よ

      ぼくは
      清祓するという
      厳かな行為に
      おののき
      畏怖する

      神が生誕すると同時に
      創造したのは
      ヒトの感性である
      神は
      感性を生命の糧にしたと重い給え
      神は
      ビーナスを
      美しき姿に生まれさせた
      女性の美は
      だから神秘なのだと知れ

      女性は
      神の創った
      最大の傑作である

      フローラは
      神の創った
      最大の嗜好であると知れ
      フローラはおしなべて
      あらゆる生物に恵みを賜う
      フローラは女性の欲望を
      しとやかに包み
      おだやかに抱きすくめるのだ

      創造する厳かな行為は
      次元を超え
      音曲を産み出す
      空間を超越し
      四次元の物体を産み出す
      遙かな
      大海原を出現せしめるのだ
      ドルフィンが泳ぎ
      時間が滑っていく
      哺乳類とぼくの声がこだまとなって
      水底へと
      沈殿する

      光も届かぬ深い海溝だ
      漆黒の闇に
      創造神がうずくまった






アジサイの粗野な印象は美しいのである。
かくありたい!

   アラクサのように逞しくあれ。
   アラクサのように大地に根を張れ。
   アラクサのように硬き土を突き破れ。
   アラクサのように薄き養分であっても育てよ。
   アラクサのように次世代にその種を残せよ。
   アラクサのように自らの分を知ることだ。
   アラクサのように声高らかに謳え。
   アラクサのように豊かに実を結べよ。
   アラクサのように自らアラクサであれ。

花弁を透して光を捧げるアジサイのひたむきな美しさに、ぼくは明日を見たいのである。




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 荒野人

額アジサイの宴

2011年06月19日 | 
山アジサイは、紫陽花の原種である。



額アジサイと変身し、やがてあの丸玉のアジサイへと進化した。



額アジサイ




美しいし「粗」でありかつ「野」の匂いが漂う。



粗野とは、素朴で野性的な略語であって決して蔑む表現では無いのである。
また、野に在って粗々しいのであるから、間違いなく自然のままなのである。



今日は、ゆっくりと山アジサイの姿を楽しんで頂きたいのである。




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 荒野人

死を選択した老夫婦へ

2011年06月18日 | ポエム
ぼくは今、老夫婦の無理心中という深く暗い悲しみに沈潜している。
今日のニュースの最大の悲しみは、80代老夫婦の避難先での無理心中である。



気仙沼市の避難先は、親せき宅であった。
遺書も置かれ、親戚への感謝の言葉が書かれてあったとのことである。

遺書を認(したた)める気持ちは、辛い。



その報道に触れたとき、ぼくは胸が潰されるような痛みを感じた。
その痛みは、滂沱として涙を溢れさせた。

政府が無為無策だったとは言わない。
既に、発災から3ヶ月が過ぎ去ったからである。



被災者の心の痛みにどう向き合ったら良いのか。
どう寄り添ったら良いのか。

誰かを批判するのでは無く、ぼくの心が問われ始めている。
そう、もっと自分の問題として捉えることが今のテーゼであるのだ。

妻の首を括って息を止め、自らは自殺した。
その年老いた夫の怒りが、ぼくの胸を潰すのだ。



悲しみは怒りに容易に転化する。
怒りは絶望に容易に転化する。
絶望は死に容易に転化する。

死ぬることが安易に選択できてしまう。
それは辛く痛いのである。

この老夫婦は痛哭しただろうか?
いや、それを超える凄まじい疾風怒涛の中であったのだと思う。






        死ぬるべし


      絶望の淵は深かったのだ
      寄する波の底が
      海溝であればあるほど
      波は
      ゆったりと寄せてくる
      齢を重ねた人生に
      終止符を打つのも
      同様だ
      メトロノームが確実にリズムを刻むように
      二人の合意は穏やかで
      確実だったはずだ

      死ぬるべし

      合意の後も
      メトロノームは
      リズムを刻んでいたのだろうか
      刻んでいたとしたら
      それは
      実行を迫るリズムではなく
      豊かな人生の追憶を
      ゆったりと
      穏やかに
      確実に
      走馬燈を回すリズムであったに違いない

      死ぬるべし
      深い絶望が
      ゆったりと老夫婦を抱きすくめたのだろうか

      死ぬるべし
      二人は微笑んでいったと
      信じたい

      誰かを批判したり
      誰かを恨んだり
      誰かを揶揄するために
      二人は死を選択したのだと

      だから
      この出来事は
      あまりにも
      重い
      重すぎる

      老夫婦の選択が
      老夫婦の重く暗い選択が
      ぼくを苛む

      死ぬるべし
      しかして
      悠久の未来に生きるべし

      と・・・






ぼくは、嗚咽を重ねた。
胸が潰れ、声を押し殺した。



再び、この悲劇を繰り返してはならない。
管さんの居直りはこの悲劇の温床である、と言わざるをえない。
市民運動とはなんと身勝手なものなのだろうか、と戦慄するのである。
管さんの原点は、市民運動であった。

実は、ぼくも市民運動に共感した世代であるだけに、恐ろしい。
ナチズムが市民運動であったように・・・。



とまれ、老夫婦の安らかな眠りを祈念する。
来世での転生をも合わせ祈るのである。



ささやかな野辺の送りをしようと思う。



黙祷を捧げ、哀悼の誠を捧げる。

写真はお二人を追悼するために雨の中で探し歩いた。
悼む気持ちを表現出来ると良いと思う。


合 掌





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 荒野人


アジサイは咲き誇る

2011年06月17日 | 
アジサイの競演は見ごたえあり!
と言いたいのである。

今日は額アジサイでは無いけれど、楽しめる。



アジサイが花本来の見せ方をするのなら、ぼくたちはそれに敬意を表すべきだ。
然るべきして見せて頂くのである。



全きガクの鮮やかさは発展途上にある。
それが雨に煙るアジサイの哀れを誘うのである。



アジサイはまた、平地にあるよりも斜面に咲く方が心地良いと見える。

曰く、築山への植栽。
曰く、登山電車のその道すがら。
曰く、寺院の奥殿の小道。

などである。

これらの場所は決して平地では無く、修行への道であり、人が喘ぐ行為そのものである。



今日のアジサイは豊島園である。
一部には木道が設えてあって、快適に歩けるのである。



額アジサイに無い華やかさがあって、この毬のような「花玉」は心を華やがせてくれるのである。
しとどに濡れた花は哀れを誘うけれど、ピンっと張った花は華やかである。

夢が詰まっている花玉である。



雪国だと、民話の中で「夢こ玉」が出てくる。
アジサイは、まさしく夢の玉である。



白、ピンク、青。
夫々の色が楽しめるし、時には夫々の色のグラデーションも楽しめるのである。



ひそひそと話し合っているかのようではないか。
ひょっとすると、観に来ている人のマナーを評価しているのかもしれない。

こうした花園では、マナーを守って歩きたいものである。



目にも優しいアジサイである。




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 荒野人

山アジサイを愛でる・・・その2

2011年06月16日 | 
高幡不動の山アジサイである。
額アジサイの原点ともいうべき素朴であって、かつ豊かな花である。



静かな時間が創られていく。
その時間の蓄積が、この不動様の全体を形創っているのである。

黒い玉石を敷き詰め、石の手水鉢(ちょうずばち)に密生する青い苔が色彩のコントラストを描く。
静かで鮮やかな時間である。



山アジサイの「しちだんか」である。
線香花火のように咲き乱れている。

下手な花が着いていない分鮮明な印象である。



「瀬戸の夕紅」である。
艶やかな衣裳を纏い、凛として咲いている。



「伊予白」である。
全体として毬のように花が咲くのである。



「楊貴妃」である。
色のグラデーションが綺麗である。



「土佐美鈴」である。
あえかなアジサイ色である。

こうした慎み深い色合いが、好きである。

高幡不動の山アジサイは、今が見ごろである。
高幡不動は、アジサイだけでなく処々にある建物も一見の価値ありだ。

折角だから、本堂の裏手の墓地にも行ってみると良い。
立派な墓が点在し、山全体が追悼の聖地になっているのである。




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