エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

モンゴル草原の詩

2013年02月23日 | ポエム
本箱の整理をしたのである。
なんと、まだ誰にも見せていない詩が一篇出てきたのである。

モンゴルを旅した時の詩である。
1994年とあるから、今から30年前の詩である。
タイトルは「草原のイマージュ」となっていて、副題は「94年夏・内蒙古の草原を旅して」となっている。

残念ながら、その時の写真は殆ど失せている。
今日は、トリップアドバイザーさんの写真をお借りした。

モンゴル草原
テレルジ国立公園 (トリップアドバイザー提供)



  草原のイマージュ
     (94年夏・内モンゴルの草原を旅して)


    賽漢塔拉・Ⅰ

 草原の夏は秋の天の下にあって
 秋の風がささやく

 草原の夏は秋の草花が萌え
 そこで私はつつましやかなフローラと出会った

 地平線は緑で蜃気楼が生まれた

 草原には匂いがある
 私は自然に還り自然は私に浸み
 私の肉体は羊飼いになった
 理性はゲルから草原に漂白をはじめる

 草原に蹲ると
 肉体も理性も喪失されただ本能が
 本能のままに奔騰し草原を駆け回った

 ディオニソスが私に横に蜃気楼のようにたたずみ
 酒のささやきを告げる
 私は銀の盃を飲み干してバッカスと遊んだ

    賽漢塔拉・Ⅱ

 賽漢塔拉は夏でそこで私はコスモスを作ったことがあった
 コスモスは完結せずブルーの空に破綻が走り
 破綻からパンドラの箱が」落下して蓋が開いた

 私は草原に自分を投影し涙を滴らせた

    賽漢塔拉・Ⅲ

 草原には緑の波がうねっていて
 緑のうんこと井戸が実在した

 牧民はその二つと
 自分を信ずる

 羊を屠り自然に戻すのを生業としている
 


ゲル内部
テレルジ国立公園 (トリップアドバイザー提供)

広大な草原
テレルジ国立公園 (トリップアドバイザー提供)

若い日のメモリアルである。
回顧主義でもなければ、それほど進取の気鋭を持っている訳でもないけれど、やはり懐かしい若狭さである。

賽漢塔拉のⅣからⅦ、さらに草原燦歌のⅠからⅩ、最後に心象風景のⅠからⅥについてはおいおいアップする予定である。
長い抒情詩である。
4百字詰め原稿用紙で15枚以上あるのである。

なお、賽漢塔拉はサイハンタラと読む、モンゴルの地名である。




     荒 野人

秩父・宝登山の蝋梅

2013年02月22日 | ポエム
秩父路を走る。
ここは武州である。



宝登山は、秩父三大神社の一つ「宝登三神社」の奥宮が置かれている聖なる山である。
この山には、神話が残されている。

昔この山には山犬が多く棲息していたのである。
東国平定に向かう途次の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がこの山に登り始めたところ、山火事に遭遇した。
その際、山犬が山火事を消し無事に日本武尊を山頂に導いた、というのである。

従って、この宮を守るのは山犬である。
山犬・・・この時代の山犬であるから狼であろうと推測できるのである。



シリウスが降臨したのであろう。
神話の裏側は常に、そうした真実が隠される。
シリウスは日本語では「天狼星」である。







「蝋梅や従える空雲もなく」



「蝋梅の咲くほど時を留めたる」







誠に見事な蝋梅であった。
この程度の咲き具合こそ、芳香が強く放たれるのである。



青空の下、蝋梅鑑賞にはもってこいの一日であった。
山の中腹の、奥宮の横・・・西側園は、今満開の様相である。



疎らに咲く蝋梅も緑を背景に、点描のように美しく匂い立つのである。



      荒 野人

葛西臨海公園の海

2013年02月21日 | ポエム
風は冷たい。
けれども、日差しはうらうらの一日であった。



ぼくは、下萌えの上をゆっくりと歩いた。
日差しが暖かく、セーターを脱いだのであった。

でもコート姿だと、お地蔵様みたいに見えて膨らんでいる。
ふくら雀・・・いやふくら烏か?



葛西臨海公園の波打ち際は「人工なぎさ」である。
そうであっても、月日がなぎさを渚にしてくれている。

自然に力は大きい。
大きいし、素直だ。
寄せては返す波が、自然のままの姿を再現し、やがてそれが当然のように自然になっているのである。







「なぎさにも海原続く春を載せ」







波がキラキラとして美しい。
天候に恵まれつつも、だがしかし俳句は詠めなかった。







「春の海魚鱗輝く波の来る」







葛西臨海公園のシンボルは、観覧車である。



昨日は、御休みであって観覧車は静かに停まっていた。
なぎさに遊んだ一日。
吟行になりえたかどうか・・・。

今夜中に俳句を産みだしたいのであるけれど。



     荒 野人

風花の一日

2013年02月20日 | ポエム
昨日は一日風花が舞った。
ときに、あえかに。
ときに、激しく。

けれど、いくら舞っても積もることはなかった。
風花たる所以である。



昨日は、出かける時にコンデジ(コンパクト・デジカメ)一代だけ持って出かけたのであった。
従って、風花の風景しか撮れなかった。
風花の正体を捉えられなかったのである。
残念としか言いようがない。

しかし、風花の句は詠めたのであった。
ぼくが捉えたのは「風花の風景」である。







「風花や脈拍早く息を吐き」

「風花や頬にあたれば溶け入りぬ」

「途切れ無く素早く走る雲の群れ」

「風花や舞いつつ乾くトタン屋根」

「風花の過ぎる窓辺の昏き空」

「時に舞い時に現の風の花」







川の面は、あくまでも清らかに在って流れるのであった。
風が止み、風花も止み・・・静謐の時間となった。



空を見上げると、多聞に洩れず奥行きのある雲が漂っている。
雲を見て歩くと、雲はズンズン遠のいていって、なかなか近づけない。
映画スターウォーズのエンディングのようである。
あるいは、炎天下でのアスファルトでの体験のようでもある。
そう、逃げ水の感覚である。



不思議な感覚であった。
とまれ、冬の雲である。

この雲から風花は落ちて来たのだ。
どんよりとした色彩だけれど、邪まな気持ちは無い、澄んだ灰色であった。



      荒 野人

ひたすら雲

2013年02月19日 | ポエム
ひたすら雲を眺めた。
冬の雲は存在感がある。

言い換えれば「奥行きがある」のである。
けれどもこの日、一部の雲は晩秋の雲のようであった。



そう・・・薄っぺらいけれど筆で描いたように繊細な雲である。
右下の裸木が荒涼としていて、かろうじて冬と察知できるのである。







「来る春の心構えや雲流る」



「先行きの融けいる空の春霞」







雲の流れ行く先は雲にしか分からない。
それは詩人の感慨。

大気の流れと共にどこかに逢着する。
その生々流転に人は、涙する。



この雲の曖昧にして、変わり行くさまが雲の天才たる所以である。



雲が追いかけっこをしている。
ぼくも飛天になって空を泳いでみたい。
中東に行けば、飛天になれるだろうか?



       荒 野人