自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆阪神淡路大震災から30年、能登地震1年 被災地との心のギャップどう埋める

2025年01月14日 | ⇒トピック往来

  「1995年1月17日」、いまから30年前のことだ。午前5時46分、金沢の自宅で睡眠中だったが、グラグラと揺れたので飛び起きた。テレビをつけると最大震度7に見舞われた神戸の悲惨な映像が映し出されていた。当時民放テレビ局の報道デスクで、着の身着のままで出勤した。テレビ朝日の系列局だったので、同じ系列のABC朝日放送(大阪)に記者とカメラマンを応援に出すことを決め、取材クルーを現地に向かわせた。見送りながら、無事を祈ると同時に、日本の安全神話が崩壊したような無念さが込み上げてきたことを今でも覚えている。「いよいよ日本沈没か」と。

  この阪神淡路大震災をきっかけにテレビ局系列の研修会や仲間内での勉強会で災害報道の在り様について議論するようになった。キーワードは2つ、「風化」と「既視感」だった。テレビ局の役割として、この震災を風化させてはならない。ニュース特集やドキュメンタリー番組などを通じて、復興の問題点など含めて取り上げて行こうという主旨の発言が相次ぎ、研修会は熱くなった。(※写真は、黒煙が上がる阪神淡路大震災の災害の様子=写真提供・神戸市役所)

  一方で既視感という、視聴者や読者が有するハードルについても議論になった。「いつもいつも同じ映像シーンを流している」「以前に視聴した番組と同じ」「以前どこかで読んだ記事」などと、視聴者や読者から指摘されることをメディアは嫌がる。なので、新たな映像や、これまでとは別の視点でのニュース特集や番組に取り組むことになり、ディレクターや記者、カメラマンは懸命になった。が、時間の経過とともにネタ切れとなり限界も見えてきた。

  この風化と既視感は情報化社会の特性のようにも指摘されることがあるが、むしろ人間の特性だとの指摘は昔からあった。266年も前にイギリスの経済学者アダム・スミスは著書『道徳感情論』で、災害に対する人々の思いは一時的な道徳的感情であり、人々の心の風化は確実にやってくる、と述べている。日本人に限らず、災害に対する人々の心の風化や記憶の風化は人としての自然な心の営みと説いている。18世紀中ごろのイギリスはまさに産業革命のただなかで、都市部への人口集中や資本家と労働者の対立など激動の世紀の中で、平静さを求める人々の心情を読み解いたのだろうか。

  ただ、被災地の人々の心情は変わらない。「忘れてほしくない」という言葉に尽きるだろう。被災地の復旧や復興は一般に思われているほど簡単には進まない。最近では、被災者への「共感」、あるいは「意識の共有」という言葉がよく使われるようになってきた。また、クラウドファンディングというネットを通じた支援もあるが、被災地の人々と一般の人々の意識のギャップをどうしたら埋めることができるのか。阪神淡路大震災から30年、能登半島地震から1年、いろいろと考えさせられる。

⇒14日(火)夜・金沢の天気     あめ

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★能登・二重被災地の冬景色~下~

2025年01月11日 | ⇒トピック往来

  輪島市を巡ると去年元日の能登地震(同市で最大震度7)、そして9月の奥能登豪雨(同48時間で499㍉)の爪痕がいたるところで見えてくる。輪島漁港に近い丘の中腹にある住宅街では、倒壊した民家が駐車場の車に覆いかぶさっている現場があった=写真・上=。周辺の家々も軒並み全半壊の状態だった。現場とすぐ横の同市鳳至町では震度6強が観測されている。震度7の地区を含め同市全体では181人が亡くなり(関連死80人含む)、住家6237棟が全半壊となった(2025年1月7日時点・県危機対策課調べ)。

  復旧道半ばも復興プロジェクト始動へ 雪と波と雲の白さが醸す風景 

  240棟が焼け、東京ドームの広さに匹敵すると広さといわれる4万9000平方㍍が焼失した朝市通りの周辺地域。ここは公費解体による撤去作業がほとんど終わっていた。復旧・復興に向けて動きも始まっている。地元メディアの報道によると、震災からの復興計画を進めている行政の復興まちづくり計画検討委員会は先月20日に計画案をとりまとめ、市長に提出した。目玉となるプロジェクトに「朝市通り周辺再生」を掲げ、商店街や住まいの共生を目指して市街地整備を行う。行政は市民から意見を求め、ことし2月中に正式決定する。復興は10年計画で、上下水道などのインフラ整備などを進める「復旧期」、朝市通り周辺の新たな街づくりを進める「再生期」、地域資源を活用した新たな観光や産業を創出する「創造期」を段階的に定め、復興プロジェクトを推進していくという。

  この検討委員会には地元の若手経営者らも出席し、朝市通りの「にぎわい創出」の提案を行っている。市内外の新たな事業者を受け入れる賃貸型店舗を整備することや、建物の高さや色に制限を設け朝市通りの外観を統一すること、海産物の共同加工場を併設した公設市場を整備することなどを要望している。じつに具体的なプランではないだろうか。

  朝市通りをめぐって、海岸線に向かった。袖ヶ浜は例年夏になるとキャンパーでにぎわうところだ。今回、面白い景色に気が付いた。雪が積もった砂浜は白く、そこに打ち寄せる冬の波は白波だ。そして、海の向こうには白雲が覆っている。陸と海と空が 一体となった「白銀の風景」のように感じた。

⇒11日(土)夕・金沢の天気    くもり

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☆能登・二重被災地の冬景色~中~

2025年01月10日 | ⇒トピック往来

  強い冬型の気圧配置の影響できょうも北陸など日本海側で雪が積もりそうだ。午後6時までに予想される降雪量は多いところで石川県加賀地方で20-30㌢、能登地方30-40㌢となっている(気象庁)。前回ブログで取り上げた金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」の大雪では、道路を管理する国交省が昨夜午後9時から一部26㌔を通行止めとして集中除雪を行うようだ(地元メディアの報道)。ただ、地震で損壊した道路は車が通れるようになったものの、左右や上下の蛇行状態になっていて除雪もそう簡単ではないかもしれない。

   降雪の中で進む「豪雨仮設」の建築作業 テント村でくつろぎ 

  きのう見て回った二重被災地・輪島市の積雪の様子の続き。雪のため住宅などの公費解体の現場では作業を中止しているところが多くあった。逆に、作業があわただしく行われている現場もあった。同市杉平町でアパートのような木造2階建ての建築が進められていた。数えると12棟ある。工事看板を見ると、「西ノ草仮設住宅」とある。西ノ草はこのあたりの地名だ。そこで、現場を見守っていた作業スタッフに「雪の中たいへんですね」とさりげなく尋ねると、「能登豪雨の仮設住宅です」と答えてくれた。工事看板をさらに見ると、完成が「2月下旬」とあるので、あと50日ほどだ。着手したばかりの現場もあり、作業をはやく進めなければとの緊張感が現場に漂っていた。

  石川県危機対策課のまとめによると、9月の奥能登豪雨で輪島市、珠洲市、能登町を中心に1600棟余りの住宅が全半壊や床下・床上浸水の被害を受け、現在も140人が避難所での生活を送っている(10月7日時点)。さらに、豪雨で金沢などへ移った家族なども多くいるとみられることから、輪島市と珠洲市では「豪雨仮設」の設置を進めている。県の資料によると、輪島市では上記の西ノ草仮設住宅を含め4ヵ所で264戸、珠洲市では1ヵ所22戸、合わせて286戸の設置を準備している。

  輪島の市街地を抜けて千枚田の方向に向けて走行すると、「テント村」のようなものが見えてきた。旧「深見小学校」の校庭にインスタントハウスが8棟=写真・下=。中をちらりとのぞくと、畳が敷かれ、ダンボールベッドがあった。公費解体の作業員やボランティアらしき人たちが出入りしていた。地域の人たちが旧小学校と校庭のインスタントハウスを使って宿泊施設としていて、夕朝食もあるのようだ。テント村の近くには仮設の「居酒屋」もあった。近くにある「ねぶた温泉」という民間施設もことし7月から日帰り入浴を再開している。車の気温計に目をやると外気温は1度だ。体を温める方法はいくつかありそうだ。

⇒10日(金)午後・金沢の天気   くもり

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★能登・二重被災地の冬景色~上~

2025年01月09日 | ⇒トピック往来

  積雪は5㌢ほどだったが、けさ今季初めての「雪すかし」をした。水分を含んだザラザラの雪だったのでスコップを地面にあててそのまま側溝に持っていく。「雪すかし」は「雪かき」のことで、同じ北陸でもいろいろな言い方がある。そして、雪の状態によって、「すかし」方が異なる。これは雪文化なのだろうか。

   大雪で雪崩が懸念の土砂崩れ現場 仮設住宅も通路が確保できるか

  奥能登では平地で20㌢余り積もっているとニュースで知って、去年元日の能登地震、そして9月の奥能登豪雨の被災地はどうなっているのかと思い、きょう現地の様子を見に、二重被害が大きかった輪島市に向かった。金沢と能登を結ぶ自動車専用道路「のと里山海道」は多いところで30㌢ほどの積雪だった。路面は除雪されていたが、道路の両サイドが雪で覆われていて=写真・上=、時折吹く強風でその雪が車のフロントガラスに吹き付ける。

  輪島市街地の入り口に当たる熊野トンネル周辺では地震による土砂崩れが起きた。このため、落石から通行する車を守る屋根「プロテクター」が設置されている。プロテクターの上をよく見ると、土砂崩れの跡がスコップの底のようにわん曲になっていて=写真・中=、今後さらに雪が積もると雪崩が発生し、道路を塞ぐのではないだろうかと案じた。

  さらに進み、市街地の手前にある河原田小学校グラウンドの仮設住宅(44戸)に行くと、20㌢ほどの積雪だった=写真・下=。住宅と住宅の間隔が2.5㍍ほどあり、この程度の雪だったら住宅の出入りに問題はなさそうだ。が、1㍍くらいの大雪になるとどのように除雪すればよいのか。小型除雪車は入れるかどうか。さらに雪捨て場をどこに設定すればよいか。他人事ながら心配になる。

  金沢地方気象台によると、あす10日にかけて警報級の大雪となる恐れもあるとして交通障害などへの警戒を求めている。輪島市内をめぐったが、積雪による二次災害を案じてか、全半壊の住宅などの公費解体の作業がストップしているところもあった。

⇒9日(木)夜・金沢の天気    くもり  

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☆2025能登レジリエンス元年~⑦

2025年01月08日 | ⇒トピック往来

  去年元日の能登地震の被災地にさまざまな復興支援の手が差し伸べられている。地元メディアの報道をチェックしていて、「これは効果がありそう」と思ったのが、東京国立博物館が都内の博物館や美術館に呼びかけて企画している展覧会「ひと、能登、アート」=写真・上=。この企画に賛同する20余りの各館が文化財などを自ら選んで展示する。雪舟の水墨画「秋冬山水図」(国宝)や黒田清輝の洋画「湖畔」(重文)、菱川師宣の肉筆画「見返り美人図」などそうそうたる名品100点余りが展示されるようだ。

   美術・文化財で復興支援 等伯「松林図屏風」も能登に里帰り

  展覧会場は石川県立美術館(11月15日-12月21日)、金沢21世紀美術館(12月13日-来年3月1日)、国立工芸館(12月9日-来年3月1日)で、金沢での3ヵ所となる。展示品はそれぞれの会場で異なるので、一定期間(12月13-21日)では3ヵ所を見て回れる。収益の一部は被災者へ義援金として寄付される。東京国立博物館では「所蔵する文化財に復興への祈りを込めたメッセージを託す事業を実施します」と述べている(同館公式サイト「プレスリリース」より)。

  能登支援展の記事やプレスリリースを読んで気になったのは、東京国立博物館が所蔵している国宝、長谷川等伯の水墨画「松林図屏風」のことだ。織田信長や豊臣秀吉が名をはせた安土桃山時代の絵師、長谷川等伯(1539-1610)は能登半島の七尾で生まれ育ち、33歳の時に妻子を連れて上洛。京都の本延寺本山のお抱え絵師となり創作活動に磨きをかけた。妻子を亡くし、等伯56歳のときに松林図屏風を描いたとされる。靄(もや)の中に浮かび上がるクロマツ林はいまも能登の浜辺でよく見かける風景だ。(※写真・下は国宝「松林図屏風」=国立文化財機構所蔵品統合検索システムより)

  記事によると、松林図屏風は能登半島の中ほどにある県七尾美術館(七尾市)で開催される今秋の特別展で展示される、とある。しかし、特別展なのに開催期日が明記されていない。さらに、能登唯一の総合美術館であるにもかかわらず、なぜここで展覧会「ひと、能登、アート」が開催されないのかと疑問に思った。そこできょう午前中、県七尾美術館に特別展の開催期日について電話で問い合わせた。すると、以下の返事だった。「震災で建物と設備が被害を受けており、臨時休館がいまも続いています。秋までには修復が完了すると思いますので、めどが立ち次第、開催期日をホームページなどでお知らせします」と。被害がなければ、おそらく七尾美術館が展覧会の中心だったに違いない。

  自身が等伯の松林図屏風を初めて鑑賞したのは2005年の県七尾美術館開館10周年の特別展だった。あれから20年。等伯が心に残る能登の風景を描いた傑作が古里帰りしてくる。またぜひ見てみたい。

⇒8日(水)夜・金沢の天気    ゆき時々くもり

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★2025能登レジリエンス元年~⑥

2025年01月07日 | ⇒トピック往来

  石川県の馳知事はきのう(6日)の年頭会見=写真=で能登復興に向けた施策を発表した(石川県公式サイト)。「創造的復興の始動」をテーマに7つの項目を挙げている。「1. 能登駅伝の復活」「2. いしかわサテライトキャンパスの拡充」「3. 輪島塗の創造的復興に向けた官・民・産地共同プロジェクト」「4. 県内高校生を対象とした能登で学ぶ防災学習」「5. のとSDGsトレイル(仮称)」「6. 見附島のバーチャル復元」「7. 輪島港、飯田港の機能強化」。そのうちの「能登駅伝」と「輪島塗」を取り上げ、レジリエンスに資するものなのか検証してみる。

   「能登駅伝の復活」 「輪島塗の次世代育成」    馳知事が示す復興ビジョン

  能登生まれの自身は「能登駅伝」という言葉は脳裏に浮かんでくる。昭和39年(1964)9月に国鉄能登線が半島先端まで全線開通したことから、能登に観光ブームが盛り上がった。さらに、同43年(1968)に能登半島国定公園が指定され、これを記念して1968年に始まったのが能登駅伝だった。名勝地を走る駅伝として、箱根駅伝や伊勢駅伝と並ぶ「学生三大駅伝」の一つとされていた。富山県高岡市を出発し、半島の尖端の珠洲市や輪島市などの海沿いを通って金沢市に至る26区間、342㌔を3日間かけてたすきをつなぐ行程だった。ただ、リアス式海岸の能登の道路はアップダウンが続き、当時は「日本一過酷な駅伝」とも称されていた。観光ブームでバスや乗用車の台数が急激に増えことなどから、1977年の第10回で終えていた。

  会見で馳知事は、2025年度に駅伝の運営体制やコースの策定、準備委員会を発足させ、数年後の開催を目指すとし、「能登のすばらしさを国内外に発信するとともに、復興の過程を知ってもらい、参加する学生が能登に関心を持ち続けるよう工夫を凝らしながら、記録より記憶に残る大会にしていきたい」と述べていた。問題は迂回路となっていたり、片側一車線となっている道路インフラの復旧だろう。さらに、震災で廃業が相次いでいるとされる宿泊施設をどう確保するのか。こうした課題を復興プロセスととらえてぜひ能登駅伝を実現してほしい。

  もう一つ注目したいのが輪島塗の復興プロジェクトだ。去年元日の震災で輪島市では多くの工房が被害に遭った。このため次世代を担う若手人材の流出が懸念されている。会見で馳知事は「輪島塗の伝統をつないでいくプロフェッショナルを養成したい」と述べ、2027年度の開設を目指して人材養成施設を同市に設置すると明言。40歳以下の若手を年間5人程度受け入れ、2年かけて輪島塗の制作に必要な技術を習得してもらう。修了生を雇用する輪島塗事業者には奨励金を3年間交付することも検討する。

  馳知事は「輪島塗の新たな世界を切り開いていきたい」とも述べ、漆芸技術に加え、工芸デザイナーらの講義をカリキュラムに組み込み、新商品の開発や販路開拓、そして海外発信のノウハウも学ぶ。輪島塗の新たな時代を担う人材育成に期待したい。

⇒7日(火)午後・金沢の天気   くもり時々あめ

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☆2025能登レジリエンス元年~⑤

2025年01月06日 | ⇒トピック往来

  北朝鮮はきょう午後0時1分ごろ、少なくとも1発の弾道ミサイルを北東方向の日本海に向けて発射した。弾道ミサイルは最高高度100㌔、およそ1100㌔飛翔し、日本の排他的経済水域(EEZ)の外に落下した(6日付・防衛省公式サイト)。北朝鮮が弾道ミサイルを発射したのは2025年に入って初めて、去年11月5日以来となる。日本海側に住む者にとって、きな臭さが漂う1年の始まりとなった。

    被災した金沢美大生が新聞をつくり発信した地震1年の記憶                  

  震災と豪雨に見舞われた能登の復興に向けて新聞を創刊した若者がいる。金沢に住む知人が「アートとしても読み物としても、迫力があり、また被災者としての実感も生々しく表現されていて、とても印象に残る」と新聞を届けてくれた。紙面を読ませてもうらと、新聞のタイトルは「MEDIUM(FOR NOTO)」(2024年12月12日発行)=写真・上=、発行人は「坂口歩(さかぐち・あゆむ)」、金沢美術工芸大学でデザインを学ぶ女子学生だ。プロフィルには「能登町白丸出身」とある。去年元日、白丸地区は震度6強の揺れ、そして海岸沿いには4.7㍍の津波が押し寄せ、火災も発生した=写真・下、4月16日撮影=。面識はないが、「坂口さん」と呼ばせていただき、以下、20ページにまとめられた紙面を拾い読みした感想を。

  新聞を広げると、見出し「あの日から1ヶ月」の見開きページに震災当時の様子がリアルにイラストと記事で描かれている。「午後4時10分」の地震発生当時、坂口さんは実家にいた。「地震がきて家から飛び出して裏の畑道に逃げた後、20分ほどしてから、林の向こうからバキバキと木が倒れるような音が聞こえてきました。車の盗難防止のプープーという音、ゴゴゴという地響き、津波だろうと近所の人は言ってました」「スマホのライトで真っ暗な道を照らしながら避難所までの道を歩きました」「津波にのまれて髪がびっしょりぬれている子や頭に切り傷がある子が毛布にくるまりながら泣いていて、これからどうなるのだろうと思った瞬間、緊張の糸がプツンと切れたように涙が出てきました」

  坂口さんは6日間、避難所生活を送り、金沢に戻る。「2日目の夜には狭い公民館が150人以上もの人で溢れる『避難所』となり、このままでは水も食料も尽きてしまような状態でした。500mlのペットボトルの水を少しずつ大事に飲みました」「道路も寸断されていて、隣の地区の状況すら何も分からず、自分達の地区が1番酷いのでは・・・と不安に感じていました」。上記のようなメモ書きとは別にSNSで情報を発信していた。「”まだ余震つづいてます・・・。体は疲れて寝なきゃなのは分かってるのに、心がずっと威嚇モードで眠れない”」(1月3日付)、「避難所どんどん人が増え、大雪が来ないうちに、近所のお姉さんに乗せてもらって私だけ金沢に戻ることになりました。帰り道、自衛隊や支援物資のトラック、県外からのパトカー等、たくさん見ました、本当にありがとうございます、、、」(1月7日付)

  ページを進めると、見出し「解体を待つ家」では家を解体することになった想いが綴られている。「家というものに対して、そこまで愛着はなったのだけれど、いざなくなると意識した途端、家で過ごした時間が全部なくなってしまうような気がして、自分自身の足がつかないような、存在が浮いてしまうような感覚になった。しばらくすると壊れてなくなってしまうこの空間に対して、どうやったら思いを残すことなくお別れができるのか」(10月12日付)

  記事では、9月の奥能登豪雨についても書かれていて、この1年間の心情がドキュメンタリータッチで綴られている。「創刊にあたって」のコーナーでこう述べている。「能登にいないくせに何様だよと思う人もいるかもしれない。けれど、それでも私がなかったことにしたくないこと、忘れたくないと思うことをだけでも、私の地元で起きていることやその時私が感じたことを残しておきたい。残さないと消えてしまうから」

  大学4年の坂口さんにとってこの新聞が卒業制作となった。新聞を知人に配っているほか、一部は書店でも販売している。第2号は「帰る」をテーマにことし12月に発刊する予定という。編集後記でこう述べている。「発信する行為は記録し発散する行為とも言えるのかもしれません。現代社会の新聞は誰かのために何かを伝えることがほとんどですが、自分のためにこのような新聞があることも一種の豊かさなのではないかと思います」と。確かに、SNSでは新聞の見開きのようなダイナミックなスペースでイラストや写真、記事を同時に掲載して発信することはできない。SNS情報は瞬時に流れていくが、新聞は手元に置け、発信したい人に手渡すことができる。坂口さんは地震を体感して、情報の新たな発信スタイルをつかみ取ったのだろう。

⇒6日(月)夜・金沢の天気     くもり

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★2025能登レジリエンス元年~④

2025年01月05日 | ⇒トピック往来

  能登地震後のレジリエンスを象徴するのが「出張朝市」ではないだろうか。昨年元日の火災で輪島の朝市通り周辺で商店など240棟が焼け、店を出す場がなくなった。それなら出先をつくって朝市を開こうと朝市組合が出張朝市を企画し、初めての出張朝市を3月23日に金沢市漁協の荷さばき場で開いた。震災から83日目の「初売り」でもあった。

   輪島の出張朝市に活気 「買うてくだぁー」は復興への叫び

  この日、現地に行くと朝市のいつもながらの活気があった。「一夜干し」「干物」などの海産物のテントが30ほど並び、土曜日ということもあり、家族連れなどで混雑していた。一夜干しなどは飲食スペースであぶって味わうこともできた。テントをのぞくと、一夜干しをめぐって売り子のおばさんと男性の客が交渉をしていた。一夜干しセット6000円(送料込み)をめぐる駆け引きのようだった。客「さっき、あぶって食べたノドグロがうまかった。東京の知人に送りたい。ちょっとおまけして5000円にならないか」、売り子「輪島から出張して久しぶりの店なんやけど、出張経費がかってるんで、5800円でどうかね」、客「そうか、出張経費がかさんでいるんだね。では、ありがたく5800円で」。この客は2セット購入していた。

  出張朝市はこの1年で金沢のほか全国90ヵ所で開催してきた。一方で、「カムバック朝市」を目指し、7月10日からは輪島市内の商業施設「ワイプラザ輪島店」の通路でテント営業を再開。さらに、そもそも朝市は屋外店舗なので、朝市通りの近くにある同市マリンタウンで1日限定の野外開催を行うなど地元での催しを増やしている。

  今月3日に輪島を訪れた折、ワイプラザ店の出張朝市を見てきた=写真=。朝市の初売りは慣例で4日とされてきたが、今年は商業施設の初売りに合わせて2日となった。このため休んでいる店もあったが、8つの店が開かれていた。これまで何度か蒸しサザエを買ったことがある店も開いていたのでのぞいた。「ことしもなんとか商いができて、ほっとしとるんやわ」とおばさんは常連客と笑顔で言葉を交わしていた。

  出張朝市とは言え、テントからは漁師町のおばさんたちのいつもながらの「買うてくだぁー」の元気な声が聞こえる。輪島の朝市は1400年の歴史があると言われている。この「買うてくだぁー」がレジリエンス、復興への叫びのようにも聞こえた。

⇒5日(日)夜・金沢の天気   くもり

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☆2025能登レジリエンス元年~③

2025年01月04日 | ⇒トピック往来

  昨年元日に震度6強の揺れに見舞われた被災地の正月の様子を見にきのう(3日)輪島市に日帰りで行ってきた。同市河井町の重蔵(じゅうぞう)神社へ初詣に。同神社は地震で本殿や鳥居などに大きな被害を受けた。拝殿は木柱で支えられ、壁にはブルーシートが掛けられていた。このため、境内ではテントの中に仮設の祭壇が設けられ、初詣客が訪れていた=写真・上=。

        輪島・テントの仮設祭壇で初詣  珠洲・全国から復興祈願の絵馬

  テントにいた氏子総代の人の話によると、ことし元日の午前9時からテントの中で地震と豪雨の犠牲者を悼む慰霊祭と復興祈願祭が営まれたという。「初詣に来られている地域のみなさんはことしの平穏無事を祈っておられます」。金沢大学の学生がボランティアで支援に入っていて、テントの中へ参拝客の誘導など行っていた。名古屋から帰省し初詣に訪れたという女性は「テントでの参拝は初めてですが、復興への祈りは同じなので気持ちを新たにすることができました」と話していた。

  先月27日に珠洲市三崎町にある須須(すず)神社に出かけた。この神社には全国から復興祈願の絵馬が届いているという。神社の入り口には「復興成就 開運祈願絵馬」の札掛け所が設けられ、ずらりと絵馬が並んでいた=写真・下=。読むと、「石川県の人たちに笑顔が戻ってきますように願っています」「能登半島が一日でも早く復興されることを祈ってます」と兵庫県や北海道など各地から届いていた。報道によると、須須神社の神職が去年10月に北海道から送られてきた絵馬を写真投稿サイトで紹介したところ、全国から絵馬が届くようになり、その数は280枚に上っているという。

  境内に地元の人がいたので尋ねると、震災前から須須神社には北海道から寄進などがあったという。今回の地震で損壊した鳥居は札幌市に住む人からの寄進だった。明治時代の初期から北前船でこの地から北海道へ開拓に行き、成功を収めた人たちも多くいた。「須須神社はふるさとみたいなもんだろう」とシニアの男性が解説してくれた。最初に北海道から届いた絵馬も能登にゆかりのある人だったのだろうか。時代を超え、地域を超え、復興を祈る気持ちが全国から寄せられている。

⇒4日(土)午後・金沢の天気    くもり

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★2025能登レジリエンス元年~②

2025年01月03日 | ⇒トピック往来

  それにしても不気味な逮捕劇だ。元日の1日午後、石破総理らが出席した能登半島地震と奥能登豪雨の追悼式会場の近くで果物ナイフやカッターナイフなど5本の刃物を所持していた兵庫県西宮市の大学生が銃刀法違反の疑いで逮捕された。逮捕の場所は式典会場の日本航空学園能登空港キャンパスに隣接する能登空港の駐車場。警備に当たっていた警察が、柱に姿を隠すような不審な動きをする容疑者に職務質問して発覚した。容疑者は「観光に来た」などと供述しているという(地元メディア各社の報道)。

     輪島・千枚田の歴史といまを支える「困難を乗り越える力」

  話は変わる。シリーズタイトルに使っている「レジリエンス(resilience)」という言葉を初めて耳にしたのは14年前だった。2011年6月に国連食糧農業機関(FAO)から能登半島の「能登の里山里海」が世界農業遺(GIAHS)に認定され、当時のGIAHS事務局長パルビス・クーハフカン氏が認定セレモニーのために能登を訪れた。そのとき、輪島市の棚田「千枚田」を見学した。案内役の輪島市長、梶文秋氏(当時)が千枚田の歴史について説明した。

  千枚田では1684年に大きな地滑り(深層崩壊)があり、山ごと崩れた。深層崩壊が起きた理由の一つが山からの地下水が地盤を軟弱化させたことだった。地域では棚田を再生するあたって、その地下水を田んぼに流し込み、その水がすべての田ぼに回るように水路設計が施された。つまり、用水からの分岐ではなく、田から田へ水が流れるような仕組みにした。この知恵と工夫で災害地を生産地として回復させた。この説明を受けたパルビス氏は「すばらしい景観と同時に農業への知恵と執念を感じる。千枚田は持続可能な水田開発の歴史的遺産、まさにレジリエンス(困難を乗り越える力)のシンボルだ」と感想を述べた。(※写真は、能登地震で多くの田んぼに亀裂が入ったものの、120枚が耕作され稲刈りを終えた輪島の千枚田=去年9月撮影)

  このときパルビス氏が語った「レジリエンス」はその後のFAOの公式サイトでも活かされている。「能登の里山里海」について以下のように紹介している。The communities of Noto are working together to sustainably maintain the satoyama and satoumi landscapes and the traditions that have sustained generations for centuries, aiming at building resilience to climate change impacts and to secure biodiversity on the peninsula for future generations.(意訳:能登の地域社会は、何世紀にもわたって何世代にもわたって受け継がれてきた里山と里海の景観と伝統を持続的に維持するために協力し、気候変動の影響に対するレジリエンスを構築し、将来の世代のために半島の生物多様性を確保しようとしている)

  千枚田のレジリエンスはいまも続いている。人手不足が生じたことから、棚田景観を守るために先駆けて2007年から「棚田のオーナー制度」を導入。また、昨年元旦の地震では多くの田に亀裂が入ったため、クラウドファンディングで資金を集めて修復作業を行い、1004枚の田んぼのうち120枚の耕作にこぎつけた。作業はその後も徐々に進められている。ひたむきなアイデアと地道な努力で千枚田の再生してきた。能登のレジリエンスの原点と言えるかもしれない。

⇒3日(金)夜・金沢の天気    あめ

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