「3・11」の東日本大震災はきょうで発生から14年を迎えた。2011年3月11日午後2時46分、いまもその時のことは鮮明に覚えている。金沢大学の公開講座で社会人を対象に講義をしていた。すると、事務室で震災の様子をテレビを見た主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。金沢では揺れを感じなかったが、受講生にはそのまま伝えた。講義室は一瞬ざわめいたが、講義はそのまま続けた。それ以降、被災地をこの目で確認したいとの思いが募った。
2ヵ月後の5月11日に気仙沼市を訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船(330㌧)があった=写真=。津波のすさまじさを思い知らされた。気仙沼市を訪れたのは、NPO法人「森は海の恋人」代表の畠山重篤氏に有志から集めたお見舞いを届ける目的もあった。ただ、アポイントは取っていなかった。昼過ぎにご自宅を訪れると、家人から本人はすれ違いで東京に向かったとのことだった。そこで、翌日12日に東京・八重洲で畠山氏と会うことができた。
畠山氏と知り合いになったきっかけは、前年の2010年8月に金沢大学の社会人人材育成事業「能登里山マイスター養成プログラム」で講義をいただいたことだった。畠山氏らカキ養殖業者が気仙沼湾に注ぐ大川の上流の山で植林活動を1989年から20年余り続け、5万本の広葉樹(40種類)を植えた。同湾の赤潮でカキの身が赤くなったのがきっかけに、畠山氏の提唱で山に大漁旗を掲げ、漁師たちが植林する「森は海の恋人」運動は全国で知られる活動となった。
畠山氏は地震当時のことを語ってくれた。自宅は湾の中の海抜20㍍ほどの高台にあるが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。「津波は海底から水面までが全部動く」と。養殖のカキ棚などは全壊した。高校2年生の時にチリ地震の津波(1960年5月24日)を経験していて、当初は「チリ地震津波くらいのものが来るのかな」と感じていた。チリ地震津波がきっかけで高さ3㍍ほどの防潮堤を造るなど津波対策は施されたが、ところが東日本大震災の津波はチリ地震津波をはるかに超えるものだった。
同じ年の9月2日に能登で開催したシンポジウムの基調講演を畠山氏にお願いした。テーマは、人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか。その中で、前日泊まったに輪島の海辺のホテルでの話が出た。窓を開けるとオーシャンビューだったが、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。「あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる」と語っておられたのが印象的だった。
⇒11日(火)午前・金沢の天気 くもり
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