自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆メディアのツボ-30-

2006年11月21日 | ⇒メディア時評

 朝日新聞大阪本社の社会部記者(41)が和歌山県発注工事をめぐる談合事件で、ゴルフ場経営者(56)から、餞別名目などで15万円を受け取っていたとされるニュースがいろいろと憶測を呼んでいる。

     臆すること、マイナス思考の螺旋

  記事によると、記者はゴルフ場に生息してたオオタカの取材をきっかけにゴルフ経営者と知り合った。そして、02年8月に記者が異動する際、餞別として封筒を受け取り、04年9月に大阪本社に戻った時にも、出産祝いとして封筒を渡された。記者は「いつか返そう」と思い、封筒の封を切らずにカンバに入れていた。ところが、今月15日に一部の情報誌が「ゴルフ場経営者が大手紙記者に現金百万円」とする記事を掲載したことから、記者が上司に報告した。そして、未開封だった封筒を弁護士立ち合いで開けて、異動祝いが10万円、出産祝いが5万円だったことが分かったという。

  私はこの記者の心境が理解できない。なぜ4年間も封を開けずに、いつか返そうと思っていたのか。そんな思いが募っていたのであれば、即返せばいい。この記者は41歳である。ジャーナリズムの世界に浸っていたのであれば、その良し悪しが瞬間的についたはずである。それをわざわざ弁護士立ち合いのもとで封を切るいうのは狡猾である。もらったのは事実で、「うかつでした」と釈明すればいい。それをわざわざ弁護士立ち合いで封を切る必要性と意味合いがどこにあるのか。

  私も新聞記者時代に同じような経験がある。駆け出しのころだ。金沢市の郊外のお祭りの取材に出かけた。すると、顔見知りの世話役の人が、「記者さん、ご苦労さま」と封筒を差し出した。私は新人だったが、それが何であるかピンときた。30年も前、そのころはおおらかな時代で、ご祝儀は断るものではないという風潮だった。でも、私は後ろめたい気がして、一計を案じた。そして、そのまま「ありがとうございます。では、お祭りの寄付金にさせてください」と封筒の宛名を町会にして返した。すると、その世話役の人は「お祭りの寄付だったら受け取らない訳にはいかないね」と言って、受け取ってくれた。

  いったん手にしたご祝儀をいつまでもカバンに入れて、「いつか返そう」という心理に何か不自然さを感じる。「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」ということわざがあり、記者仲間でもよく論議になる。自ら血まみれになる覚悟で現場に入り、そこでしか知りえない事実を仕入れる。そんな気構えがなければ記者はつとまらない。ところが誤解を招くということに過敏になっている記者はそんな場に躊躇する。そして発表文だけで書いている記者のなんと多いことか。そのことこそが問題なのだ。

  この記者は虎穴に入って取材を重ねた。それは記者の本分であり原点である。返さなかったのはミステイクである。だから弁護士立ち合いということを「免罪符」にせず、受け取りましたと正直に言って社内の処分を粛々と受ければいいのである。いまさら弁護士を立ち合わせるような小細工をする必要がどこにあるのか。消防士が火の粉を払うように、記者は取材先のワナにはまらないようにとっさの判断をするのは当然である。それが出来なかったのであれば謝るしかない。それが記者という職業ではないのか。ここで沈黙して、マイナス思考の螺旋に陥る必要はない。

 もし「それ以上のこと」を会社が言ってきたら、「それじゃ、先輩記者を含めてここ10年以内に取材先から祝儀をもらったすべての記者に自己申告をさせてください」と凄めばいい。堂々としていればいいのである。

 ⇒21日(火)夜・金沢の天気 くもり

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