テレビメディアの話をしていて、最近よく問われることは「ワイドショーなどでよく顔にモザイクがかかったインタビュー映像が出てくるけど、あれって本当にモザイクが条件でしゃべっているのか」である。
インタビューとモザイク
確かに、CNNなど海外のニュース番組では顔にモザイクがかかったり、機械音に変換された音声というのはお目にかかったことがない。これは日本独特なのかと思ったりもする。おそらく制作する立場では、「とにかく後に問題が残らないようにインタビューにモザイクをかけろ、音声に変換をかけとけ」とディレクターが編集マンやカメラマンに指示しているはず。
事件や問題の核心に触れて、その微妙な内容のインタビューが後に法廷で証拠提出として提出を求めらる、あるいは取材源の提示を求められるといった内容であるならば、モザイク映像や変換音は一定理解できる気もする。ところが、いかにも近所のおばさんが「(犠牲になった)あの子は明るい、いい子でしたよ」といった内容の、さして匿名性が必要でもないような場合でもモザイクがかかることに問題があるように思える。
先日、金沢大学で自主的にマスコミを勉強する学生たちと「新聞記事と匿名」をテーマで論議した。学生たちが取材したロースクールの学生たちが、「個人情報を守るという立場から実名掲載は避けてほしい」と言い出し、学生記者と論議になった。学生記者は「報道の信頼を確保するためにもぜひ実名で」と要望した。そこで実名で了承してくれた何人かのロースクールの学生たちのインタビューを採用した。司法試験の合格を目指す学生たちで、実名インタビューを控えたいと思う学生もいるだろう。そこで、粘り腰で取材相手に対し報道の信頼性の確保について説明し、理解を得て実名報道をするということになった。これは実に正当な論議であり、取材手法なのである。
では、テレビの取材現場では報道の信頼性を確保ということを相手に説明する努力をしているだろうか。あるいは、「音が取れている」(インタビューができている)ということを持ってして、信頼性は担保されている、つくりごとではない。だから、モザイクや変換音(匿名)でも構わないと安易に考えてはいないだろうか。これは邪推だが、「むしろモザイクがかかっていたほうが、それとなく信頼性がある」と演出上の効果を狙ったりはしていないだろうか。
事件や事故現場の映像ニュースの場合、単独でインビューした場合はモザイクで、複数社でぶら下がった(共同インタビュー)はモザイクがかからない場合が多いという傾向はないだろうか。とすると、インタビューされた側がクレームをつけた場合のリスク分散をテレビ局が考えているに違いない、と視聴者は思ってしまう。「みんなで渡れば怖くない」の発想だ。これは取材の独自を貫くべき報道現場の姿勢ではないだろう。
言葉の内容もさることながら、事件について語る人々の表情こそが映像ジャーナリズムの原点だと考える。顔の表情、音声にもっとこだわってほしい。
⇒14日(火)夜・金沢の天気 雨