お坊さんの話に初めて耳を傾けた。何かと相談に乗っていただいていた金沢大学のS教授が急逝し、昨夜通夜に参列した。57歳。急性心不全だった。
S教授はインド哲学が専門で、自ら僧籍にもあった。酒を飲み、タバコも手放さなかった。急逝する前夜も知人と楽しく酒を飲んでいた、という。遺族の話では「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」。社会貢献室の室長であり、大学教育開放センター長という学外に開かれたセクションの現場責任者だった。センター長室の机には花が飾られ、「未決」の決済箱には本人が印を押はずだった書類がたまっていた。
57歳という仕事盛りの年齢が悔やまれる。「人間ドックにひっかかるものは何もなかった」という健康状態でありながら、なぜ。「その死は理不尽ではないのか」と思ってしまうほどに悔やまれる。肉親ならなお強くそう思うに違いない。
通夜の読経の後、「身内」であるというお坊さんがあいさつした。誰しもが同じ思いの、割り切れなさに、そのお坊さんは応えようとしていた。話の中に小林一茶の句を紹介した。
「つゆの世は つゆの世ながら さりながら」
この句は一茶が幼い娘を亡くしたときに詠んだ句だという。人生を葉の上のつゆにたとえて、そのはかなさを詠むと同時に、それを受け入れることができない人間の本性を伝えていると、お坊さんは説いた。現代風に解釈すれば、「人生というのはね、はかないものなんだけど、わかっているんだけど、でもね…」という感じだろうか。別の言葉で言えば、「人は突然前触れもなく、こんなふうに逝ってしまうことがあるのはわかっているけど、でも…」ということだろうか。
もっと前向きの解釈もある。職場の同僚の尊父はこう意味付けしたそうだ。「人の人生は露のようにはかないけれども、それでもすばらしい」と。S教授の人生は人より短かったけれども、それでもすばらしい物を私たちに残してくれた。その事を忘れないでおこう。S教授の死を、次に生き抜く私たちへのメッセージとしてとらえたいと思う。
⇒15日(火)夜・金沢の天気 はれ