自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆文明論としての里山2

2009年12月29日 | ⇒トレンド探査

 先回述べた国際スローフード協会設立大会が1989年にはパリで開かれ、スローフード宣言を出して国際運動となった。活動には3つの指針がある。「守る:消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワイン(酒)を守る」「教える:子供たちを含め、消費者に味の教育を進める」「支える:質のよい素材を提供する小生産者を守る」 である。伝統的な食材、地域の食の教育、小生産者、これらは、市場原理主義のグローバルマーケットの渦の中で無視されてきたアイテムである。市場では競争を前提として、経済主体の多数性、財の同質性(一物一価)、情報の完全性、企業の参入退出の自由性という4つの条件が担保されないと相手にされない。つまり、市場では「死ね」と宣告されたも同然なのである。こうした地域のアイテムを必死に守ろうというのがヨーロッパにおけるスローフード運動なのである。

             混沌とした状況の中から

  日本でも食の問題が起きた。どこの国で生産されたのかも不明な食材や加工食品を、安全性を二の次にして安価というだけで市場に流す。そのため価格では太刀打ちできない国内の小生産者は生産を止め、地域そのものが疲弊していく。地域の労働の担い手は都会に出て行く。土地を離れた労働者は現金収入によって生活をする非熟練労働者になる。彼らを待ち受けているのは結局、失業と貧困である。  これまで、「国民の経済」に歪みや偏りが起こると政府は、税金や補助金や社会保障給付というカタチで所得の再配分を行ってきた。ところが、一部を除いて世界的な不況となると自動車産業などグローバル企業でさえ赤字決算に陥る。日本を始め欧米は軒並み巨額な国債発行で財政をしのいでいが遅かれ早かれ国家自体が破綻する。民主党政権が、郵貯の民営化にストップをかけたのも、再び郵貯を「国債消化機関」として復活させようとしているからだとの見方もある。資本主義だけではなく、政治も国家も疲弊している。

  混沌とした中である現象が起きている。その現象の先陣を切っているのは芸術家たちだ。「大地の芸術祭」は3年に1度、越後妻有地域(新潟県十日町市・津南町)の里山で開催される。越後妻有は1500年にわたって棚田など農業にかかわってきた。市場原理主義の流れの中で、農業は切り捨てられ、広い大地は見捨てられ過疎地となった。しかし、そこが今や芸術の舞台となった。760平方㌔の里山に330を超えるアートを仕込む作業。一人の女学生が各戸を訪問して、手ぬぐいを何枚か集めて縫って、刺繍を描く作業。最終的に4500人のおばあさんと子供たちの協力で1万2000枚の手ぬぐい刺繍が完成した。また、廃校になった分校に残されていた卒業式の送辞、答辞、スナップ写真、あるいはいろいろな文集を再構成した。校舎に入ると、ここで過ごしたであろう子供たちのざわめきが聞こえて、子供たちが走っているような錯覚に陥る。美術が時間を形象化したと高い評価を受けた。「大地の芸術祭」は8万人そこそこの地域に50日間に数十万人の人が訪れる一大芸術祭の様相を呈してきた。

  「大地の芸術祭」の総合ディレクターである北川フラム氏は昨年(08年)9月の金沢での講演でこう述べた。「私たちは都市の時代で20世紀を生きてきた。都市がすべてを解決してくれると思っていた。けれども都市が傷み、病むにつれて、美術も病み、傷んできた。そのときにもう一度、美術が持っている場所を発見する力、人と人をつなぐ力、場所と人をつなぐ力というものが越後妻有で起きだしたということ」「ちなみに、イギリス、オランダ、フランス、オーストラリア、フィンランドは、もう大地の芸術祭はベニスのビエンナーレを超えたランクでいろいろ手伝ってくれている。もしかしたら21世紀の美術というのはそこで、つまり里山、そういう生活の中で生き返るのではないだろうか」と。そして最後に「芸術は里山に救われた」とも。

 ⇒29日(火)夜・金沢の天気   くもり

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