自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「多対1」のメディア

2009年12月15日 | ⇒ランダム書評
 戦後日本の民主主義を機能として支えてきたのは紛れもなくマスメディア(新聞やテレビなど)である。権力のチェック、世論調査による民意の反映など国民の知る権利に応えてきた。ところが、マスメディアを取り巻く環境は大きく変わりつつある。インターネットの普及で、誰でも情報を発信できる時代となり、社会の情報化が沸騰している。「情報の過剰」の時代なのである。

 その氾濫する情報の中にあって、逆にマスメディアの果たす役割が重要になっている。というのは、新聞やテレビのニュースや情報はある程度、品質が保証されるからである。情報源からたどり、客観的な判断を加え、あるいは情報の価値を見いだして文字表現や映像表現をする。そのようなプロセスを踏んでいるので信頼性が担保されている。では、マスメディアはどのように品質保証をしているのだろうか。端的に言えば、ニュースや情報の価値を見抜き、文字や映像で伝える専門家(記者、ディレクター)を養成しているからである。記者やディレクターの養成には実に手間隙がかかり、もちろんコストもかかる。逆ピラミッドの記事構成、形容詞を使わない文体、記事を書くスピード、記事用語の習得に時間と労力がかかる。新人記者がこなれた記事を書くまでには4、5年はかかるだろう。

 なにも記事を書くことや情報を発信するためには、記者やディレクターという専門家であらねばならいと言っている訳ではない。情報を発信することこそ表現の自由であり、万人の権利でもある。

 問題は、情報の過剰の時代に果たしてマスメディアは生き残ることができるのかという点である。『2030年 メディアのかたち』(坪田知己、講談社)は「マスメディアがデジタル化をすることで生き延びようとしていますが、デジタル化によっとビジネスモデルが構築できた、という実例はまだない…」と断言する。そして、既存のマスメディアとデジタルメディアは逆転する、と。

 著者は、その理由としてメディアは万人に向けた「1対多」から「多対多」へ、そして「多対1」へと進化と遂げ、その過程で「多対多」のマスメディアはその使命を終えると説く。従来、メディアのパワーは購読部数や視聴率で示され、不特定多数に情報を送るのがメディアと考えられてきた。これからは特定の個人に、そのニーズに応じた情報を「適時・適量で送れるかどうかがポイント」と指摘する。近未来に「マイメディア時代がやってくる」とも。そうした究極のメディアが生み出されるのが2030年ごろ、と。おそらくその時代になると、不特定多数を意識して記事を書く記者はいなくなり、ターゲットを絞り込んだ記事をデジタルメディアを通じて「個」に送る、そんな時代の「予言の書」のような本である。

⇒15日(火)朝・金沢の天気  くもり

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする