自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★兼六園スター物語

2011年01月01日 | ⇒トピック往来
 2011年元旦、兼六園と同じ敷地にある金沢神社に初詣に出かけた。午前中の氷雨で人出は例年より少なく、列をなすほどではなかった。金沢神社の鳥居の近くにある木造の金沢城・兼六園管理事務所分室を立ち寄った。この建物そのものが文化財級の武家屋敷(旧・津田玄蕃邸)で、武家書院造りは風格がある。初詣もそこそこに立ち寄ったのは、ふとした思い付きだった。300年、400年後の「兼六園のスター」を見たい、と。

 国の特別名勝である兼六園。最近では、ミシュラン仏語ガイド『ボワイヤジェ・プラティック・ジャポン』(2007)で「三つ星」の最高ランクを得た。広さ約3万坪、170年もの歳月をかけて作庭された兼六園の名木のスターと言えば、唐崎松(からさきのまつ)である。高さ9㍍、20㍍も伸びた枝ぶり。冬場の湿った重い雪から名木を守るために施される雪吊りはまず唐崎松から始まる。このプライオリティ(優先度)の高さがスターたるゆえんでもある。唐崎松は、加賀藩の第13代藩主・前田斉泰(1811~84)が琵琶湖の唐崎神社境内(大津市)の「唐崎の松」から種子を取り寄せて植えたもので、樹齢180年と推定される。近江の唐崎の松は、松尾芭蕉(1644-94)の「辛崎( からさき )の松は花より朧(おぼろ)にて」という句でも有名だ。

 いくらスターであって、保護が行き届いていても、植物はいつかは枯れる。あるいは、枯れなくても、台風で折れたり、倒れば、そのときにスターの寿命は終わる。名園の美観上、傷ついた名木を人目にさらすわけにはいかないのだ。その処理は粛々と行われ、跡地には次なる唐崎松が植えられることになる。そこで、話は冒頭に戻る。金沢城・兼六園管理事務所分室の隣地には唐崎松の「2世」がすでにスタンバイしている=写真=。事務所では「後継木(こうけいぼく)」と呼ぶ。すでに高さ3㍍余りあるだろうか。幹の根の辺りがくねって、すでに名木の片鱗を感じさせている。お世継ぎとあって保護され、雪吊りも施されている。この松は「実子」ではなく、かつて加賀藩主がそうしたように、大津市の唐崎の松の実生である。つまり「本家」からの世継なのだ。

 ただ、名園の世界にあっては「2世」だからと言って、スターの座を確保できるというわけではない。その時代に、園を訪れる人たちが「枝ぶりがいい」「樹勢(オーラ)を感じる」と評価するかどうか、だ。現在の唐崎松も脇役の時代があり、戦後のスターである。それ以前は、桜の2大スターが人気を競っていた。旭桜(あさひざくら)は、白い大きな花を付け、樹齢500年ともいわれた園内随一の老大木だった。明治の中頃から樹勢が衰え、昭和12年(1937)に枯死した。泉鏡花が大正4年(1915)に発表した小説『櫻心中』で、名木から飛び出した桜の精の悲恋物語を描いているが、その中で出てくる男役「富士見桜」が旭桜だ。小説のモチーフにもなっていたのだ。その旭桜と競っていたのが、兼六園では旭桜に次ぐ老木とされた塩釜桜(しおがまざくら)だった。こちらは、昭和32年(1957)に枯死してしまった。唐崎松がスターダムにのし上がったのはそれ以降だ。

 しかし、唐崎松のスターの座も不動ではない。かつてのスター、旭桜のひこばえが成長し、今や2代目の大樹となっている。さらに、塩釜桜も2001年に宮城・塩釜神社から苗を取り寄せ、その若木が見事な花を付けている。100年、200年後に唐崎松の樹勢が衰え、これら桜木が競って兼六園を彩る時代を予感させる。唐崎松の「2世」をじっと眺め、兼六園の300、400年後に、この2世はスターの座を確保できるだろうか。人の世とだぶらせて思いをめぐらせると、それだけでも楽しい。そして、その時代になっても、樹木を愛でる人々の気持ちは変わらないで欲しいと願う。

⇒1日(元旦)夜・金沢の天気 くもり
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