自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆続々・トクソウの落とし穴

2012年04月04日 | ⇒ランダム書評

 「戦後思想界の巨人」や「戦後最大の思想家」、「知のカリスマ」などと称された吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が87歳で死去した(3月16日)。私のイメージで言えば、ヨシモトリュウメイは詩人であり評論家であり、大学などに足場を置くことはなく、在野から国家や言語について考察する思想家だった。ただ、個人的な蔵書には『共同幻想論』(1968年・河出書房新社)と『最後の親鸞』(1976年・春秋社)の2冊しかない。学生時代を過ごした1970年代中ごろ、ヨシモトリュウメイにはそれほど強いシンパシーを抱いていなかったのかもしれない。

 本棚の『共同幻想論』=写真・表紙=を再び手に取ってページをめくってみると、ラインを入れたり、書き込みもあって当時はそれなりに読み込んだ形跡がある。思い出しながら、共同幻想を一言で表現すれば、社会は言葉で創った幻想の世界を共同で信じ、それを実体のものと思い込んで暮らしている、ということか。言葉で編み込まれた世界を「現実そのもの」といったん勘違いすると、そこから抜け出すのは困難だ。相対化、客観化が難しいのである。今の言葉でたとえれば、マインドコントロールの状態か。遠野物語や古事記の2つの文献の分析を通して、共同幻想、対幻想、自己幻想という3つの幻想領域を想定し、吉本隆明の考える幻想領域の意味を次第に明確化し、古代国家成立の考察に至る過程は当時新鮮だった。

 その時代、既存政党では前衛(知識人)が大衆を先導するマルクス主義が盛り上がっていた。このとき、ヨシモトリュウメイは「大衆の原像」というキーワードを掲げ、大衆を取り込め、大衆に寄り添えとダイナミズムを煽り、一時代の思想を築いた…。ここまで、書いて、ふと思った。共同幻想論はまだ生きているのでないか、と。地検特捜部の事件のことである。

  「正義の地検」「泣く子も黙る鬼の特捜」、そんな言葉の呪縛。判決文にあるように、「特捜部の威信や組織防衛を過度に重要視する風潮が検察庁内にあったことを否定できず、特捜部が逮捕した以上は有罪を得なければならいないとの偏った考え方が当時の特捜部内に根付いていたことも見てとれる。犯行は、組織の病弊ともいうべき当時の特捜部の体質が生み出したともいうことができ、被告両名ばかりを責めるのも酷ということができる」(3月31日付朝日新聞より)。これはトクソウ村の共同幻想、とたとえたら言い過ぎか。素朴に自らの使命をまっとうするプロ集団であれば、とくに不正も生まれないだろう。判決文が指摘するような「特捜部の威信」や「組織防衛」といった政治的文脈を隠し持つ組織に変容していたのであれば、組織はバランスを欠き一方向に傾く。検察の自浄作用があるのか、ないのか。

⇒4日(水)朝・金沢の天気  くもり

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