自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆福沢諭吉と「トラスト」

2012年11月25日 | ⇒トレンド探査

 先月(10月)の連休を利用して九州・大分と阿蘇を訪れた。別府から湯布院に入り、ここで2泊して、阿蘇、そして耶馬渓(やばいけい)、中津市の福沢諭吉旧居など巡った。溶岩台地の浸食によってできた奇岩の連なる耶馬渓の絶景で、足を止めたのが「青の洞門」=写真・上=だった。

 断崖絶壁の難所に342㍍の隧道を掘り抜かれたのは寛延年間(1750年代)。観光案内の立札の説明によると、諸国遍歴の途中に立ち寄った禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て、托鉢勧進によって資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけてトンネルを完成させたと伝えられている。能登半島にも同じような逸話がある。かつて「能登の親不知」と言われた輪島市曽々木海岸の絶壁に、禅僧の麒山和尚が安永年間(1772-1780)前後に13年かけて隧道を完成させた。いまでも、地元の人たちは麒山祭を営み、遺徳をしのんでいる。

 禅海和尚の「青の洞門」は、大正8年(1919)に発表された菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』で一躍有名になった。麒山和尚の能登の隧道も、菊田一夫作のNHK連続ドラマでヒットし、昭和32年(1957)公開された東宝映画『忘却の花びら』のロケ地となった。主人公(小泉博)とヒロイン(司葉子)による洞窟でのキスシンーンが有名となり、「接吻トンネル」と呼ばれ、能登半島の観光ブームの火付け役となった。本来なら話はここで終わりだが、「青の洞門」の場合、ここに福沢諭吉が絡んでさらに話が膨らむ。

 「青の洞門」の上には「大黒岩」や「恵比須岩」といった8つの奇岩が寄り添い、競い合うように連なる「競秀峰(きょうしゅうほう)」=写真・下=と呼ばれる山がある。江戸時代からの名所で、中津藩の名勝でもあった。明治27年(1894)年2月、福沢諭吉は息子2人(長男、次男)を連れて、20年ぶりに墓参のため中津に帰郷した。当時の福沢は、私塾だった慶應義塾に大学部を発足させ、文学、理財、法律の3科を置き、ハーバード大学から教員を招くなど着々と大学としての体裁を整えていた。また、明治15年(1882)に創刊した日刊紙『時事新報』は経済や外交を重視する紙面づくりが定評を得ていた。

 墓参りに帰郷した福沢は耶馬溪を散策した。ここで、競秀峰付近の山地が売りに出されていることを耳にするのである。この絶景が心ない者の手に落ち、樹木が伐採されて景観が失われてしまうことを案じた福沢は、山地の購入を思い立つ。自分の名を表に出さず、旧中津藩の同僚で義兄にあたる人物の名義で目立たないように3年がかりで購入を進め、1.3㌶を買収する。知人に宛てた書簡で、福沢は「此方にては之を得て一銭の利する所も無之」(明治27年4月4日付、曽木円治宛書簡)=慶応義塾大学出版会ホームページより=と、私欲が一切ないことを強調している。

 その後、その土地は明治33年、福沢の意志を継ぐため、耶馬溪に同行した福沢の次男名義に移された。福沢は翌年の明治34年没する。昭和に入り、一帯の土地が景観保護の対象となる風致林に指定され、行政の目の行き届くところとなった。ここで福沢の目的は達成され、昭和3年(1928)に地元の人に譲渡された=同ホームページより=。優れた景観を守るために、私財をもってその土地を購入するという福沢の行動は、自然や景観保全のためのナショナルトラスト運動の日本の先駆けとして評価されよう。

 これは想像だが、禅海和尚がこの難所で通行人が命を落とすのを見て30年かがりで隧道をつくった物語を、福沢は息子たちに語って聞かせたはずである。「そのことを想えば、なんのこれしき」と、20歳そこそこの息子たちに「いい恰好」を見せたのかもしれない…。

⇒25日(日)午前・金沢の天気   はれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする