自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆賛美歌をうたう

2018年03月17日 | ⇒ドキュメント回廊

    きのう(16日)高校時代の恩師が逝去され、葬儀に参列した。日本基督教団若草教会(金沢市)で営まれ、賛美歌「いつくしみ深い」など歌い、故人を偲んだ。心に残る感動深い葬儀だった。

   恩師は関丕(せき・ひろ)さん、享年86歳。7年前から循環器系の病気を患っていた。高校1年のときのクラス担任で英語の女性教師、カウンセリングでもよく相談に乗っていただいた。高校を卒業して20年後、テレビ局で番組づくりに携わっていたとき取材でインタビューする機会に恵まれた。1992年10月公開のアニメ映画『パッチンして!おばあちゃん』の原作者であり、そして主人公としてだった。

   関さんは、脳血栓で自宅療養中の母ヤスエさんと2人暮らしだった。母が発作で倒れ入院。教壇に立ちながら親の看護を続けた関さん自身も過労で倒れた。病院の事務員に関さんの教え子がいて、仲間や友人に呼びかけて、また関さんの友人たちも加わってヤスエさんの付き添いをするグループの輪ができた。

   ヤスエさんは視覚と聴覚を除いて全身が麻痺していた。介護を通じて、まばたきで「イエス」「ノー」のコミュニケーションで「会話」を交わすようになった。このまばたき会話のことをグループでは「パッチン」と称していた。ヤスエさんは熱心なクリスチャンだった。クリスマスの夜、キャンドルを持ったグループの人たちが集まった病室で、ヤスエさんは力をふり絞るようにして声を発した。それは「ありがとう」の「あ」という一語だった。関さんは母親の死後、その実話を単行本『光のなかの生と死』(朝日新聞社)として出版。その著書を読んで感動した、朝日新聞社の向平羑(むかひら・すすむ)氏が脚本を担当して映画化が進められた。

   まばたき以外にコミュニケーションの手立てがない寝たきりの母をめぐる関さん、そして周囲の人々との交流がリアルに描かれたアニメーションとなった。当時、親の介護と言えば子どもたちや親族が面倒をみるものという固定観念があった。それを覆すように、周囲の人々も支える介護のカタチとして描かれ、当時とても新鮮な感動を呼んだ。

   関さんは持病を抱えながらも英会話教室を主宰し、時には欧米に出向き、多様な人々とのコミュニケーションを何よりも大切にしていた。まっすぐに生き、教育に捧げた人生だった。「真理を行う者は光の方に乗る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネによる福音書)

⇒17日(土)夜・金沢の天気    はれ

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